• 16 Oct
  • 09 Oct
  • 02 Oct
  • 25 Sep
  • 18 Sep
    • だらだら坂 4

      辺りに悪臭が広がると、周辺住民が出て来る。鼻をつまみながら、竹箒で黄金色の流体を側溝に掃き入れ、バケツで思いきり水を流す。何度も、何度も。放っておいたら臭いで窓を開けられなくなる。車が黄金を跳ね上げ、壁に、歩行者にしぶきがかかる。洗い流したとしても坂の悪臭はすぐに消えるわけではない。1週間は何があったのか通行人に分かったという。そのため陸橋は、「だらだら坂」とも呼ばれたそうである。これは当時陸橋の下に住んでいた叔父に聞いた話である。今では飯塚まで住宅地が広がり、肥溜めどころか田畑も見なくなった。臭い話でなんともすみませんでした。(「だらだら坂」 了)次回から「んだんだ山形弁方言掲示板」を連載します。

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  • 11 Sep
    • だらだら坂 3

      数軒を回って全ての桶を満杯にした荷馬車は、夕方、来た道を帰って行く。馬車には普通6つの桶が積まれていた。桶に蓋はなく、2枚の新聞紙で上を覆い、紐で括っただけである。陸橋を渡っているときに蒸気機関車がやって来たら悲劇(喜劇?)である。汽笛と煙に驚いた馬は急に走り出し、坂を駆け降りる。屎尿は馬車の上でどっぷんどっぷんと揺れ、新聞紙の蓋に黄色い染みが広がる。下りにかかってスピードが上がると、桶は馬車の上で飛び跳ね、傾き、ついには転がり落ちる。秋でもないのに、坂(陸橋)は突然黄金色に染まったそうだ。(続く)

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  • 04 Sep
    • だらだら坂 2

      広い農地に撒く屎尿は大量に必要だった。農家の「自家製」の分だけではとうてい足りず、定期的に旧市内まで汲みに行かねばならなかった。午前中、空(から)の肥え桶(だらおけ)を積んだ荷馬車が城南陸橋を西から東に越えて行く。その頃の陸橋は歩道と車道が分離されておらず、車も荷馬車も人も、並んで陸橋を渡っていた。車の数は今よりはるかに少なく、1時間に数台が通るだけだったという。西風が吹く。すると荷馬車が見えるより先に臭いが襲来する。陸橋下で遊んでいた子供らは臭いに気づくと、「ぎゃー、だら汲み来た~!」とあわてて四散した。民家でだらを汲んだ農民は、その家にお礼として野菜を置いて行く。今の感覚だと、汲んでもらった家がお礼を包むように思うが、当時屎尿は貴重なものであり、あくまでも「汲ませてもらう」ものだった。たまに便槽から言葉にできない物が出て来ることがあった。その場合は素知らぬ顔で、またそっと深みに沈めて帰ったそうだ。事を荒立てないのが汲み取りのルールだった。(続く)

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  • 31 Aug
    • 「十字屋山形店」が来年1月31日で閉店

      8/31(木)産経新聞JR山形駅前で昭和46年から営業している老舗百貨店「十字屋山形店」が来年1月31日で閉店する。同店の管理会社、中合(福島市)の黒崎浩一社長が30日、山形市内で記者会見し明らかにした。十字屋は最盛期全国に30店舗以上を構えた中堅百貨店だが、山形店の閉店で、百貨店十字屋の名前はなくなる。会見で黒崎社長は、閉店の理由として、商圏(村山地区55万人)内人口の減少と競争激化を挙げた。さらに、同店のビルが国の耐震基準を満たしていないため建物所有者と交渉してきたが、耐震改修工事の期間と費用も理由だと説明した。同店には正社員が33人、パート・アルバイトが56人いるが、中合の他店舗やイオングループで再雇用を確保していくという。同店は山形市内で3番目の百貨店として昭和46年に開店。昭和56年には最高の100億円を売り上げたが、近年は「売り上げが急速に悪化」(黒崎社長)。平成28年は31億円まで落ち込んだという。黒崎社長は「オープン以来、地域密着店として営業してきた。来年の1月31日まで従業員一丸となってサービスしていきたい」と述べた。山形市内では、昭和31年に大沼、丸久(後に山形松坂屋に社名変更)の2店が開店。その後、48年に山形ビブレが開店し市内では4つの百貨店が競い合ってきたが、平成12年に山形松坂屋、山形ビブレが閉店、今回の十字屋山形店の閉店で市内は大沼のみとなる。・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・かつて山形駅前には十字屋、ダイエー、ビブレ。七日町には大沼、松坂屋、ジャスコなど大型店舗があったが、ついに大沼だけとなった。山形市民は、お中元、お歳暮を大沼デパートから送る選択肢しかないのだろうか?

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  • 28 Aug
    • だらだら坂 1

      「だらだら坂」を辞書で引くと、「傾斜が緩やかで長く続く坂のこと」とある。向田邦子には「だらだら坂」という一編がある。しかしここでいうだらだら坂は全くそれらとは関係がないのである。               ★昭和30年代、城南陸橋の西側はほとんどが田んぼと畑だった。高い建物がひとつもなく、陸橋に立つと、飯塚、村木沢までがはるかに見渡せた。当時の農業は化学肥料を使わなかった。汲んだ屎尿(しにょう=山形弁で「だら」という)をしばらく肥え溜めに保存し、熟成してから肥料として農地に撒くのである。循環型有機農法と言える。屎尿を熟成させても中の寄生虫卵は生きており、「宿主→糞便→肥え→野菜→宿主」と寄生虫も循環することになる。この頃多くの子供が蟯虫陽性であり、まれにサナダ虫を持っている子供もいた。畑のところどころに肥溜めはあり、冬に凧揚げや野球をしていて(下を見ずに)そこに落ちる子供がたまにいた。その始末たるや惨憺たるものだった。(続く)

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  • 21 Aug
    • 第13回 みちのく阿波おどり in 山形

      毎年9月の第1土曜日、山形駅前周辺商店街において「みちのく阿波おどり」が行われる。今年で13回目になる。山形の祭りサークルや、福島・宮城の阿波おどり連、東京の阿波おどり連が中心になって毎年阿波おどりを披露してきた。他に阿波舞台おどりも開催される。  【 とき 】平成29年9月2日(土)  【 ところ 】市民会館大ホール  【 開 演 】14時 【入場料】無料皆さま、どうぞお出かけ下さい。一昨年のみちのく阿波おどりの様子。スズラン街商店組合も頑張っているが(このイベントだけ?)、ビルの古さがどうにも隠しきれなくなって来た。「横のデパート」などと煽てられ、小学校の教科書に載った時期もあったが、もう築50年以上が経つ。かつて蛇の目ミシンだったビルのコンクリート壁(3m×1m×20cm)が、高さ6mから目の前に突然落下してきたことがあった。冬には屋上の設備塔(4階)から氷の塊が加速度をもって降ってきて、わが家の物置を直撃破壊したこともあった。屋根に雪止めがないからだ。昼間に建物を見ると汚れが目立ち、余計もの悲しい。改装しようという意思も見えない。2階、3階の窓も外から丸見えなのに障子の破れくらい直せないものか。店主はもう未来を諦めたのだろうか?昭和40年代に山形駅前は大きく変わった。その変化は古い街並みを取り払うことだけを目的とし、再生へのビジョンと哲学を欠いていた。質素ながらも端正だった街並みは失われ、後にはファミリー層が寄りつかない恐ろしい飲み屋街ができた。いつのまにかアジア資本も入り込み、それはスズラン街にも浸潤を始めている。日曜の午後、外食目的で駅前を歩いてみるとよい。駅ナカの店しか開いてないことに驚くだろう。飲み屋はどこも夕方5時からで、あの五十番さえも日曜は休業している。(仙台駅前で日曜に休む店などない。)新しい山形市の地図はかつての横町南の区画を黒塗にして発行してはどうか。一方、かつて辰つぁんに「異界」、「魔界」と蔑称された駅西エリアは整然とした美しい街並みに変わった。これは霞城公園を核として観光客を呼び込むという明確なビジョンがあったからである。「阿波おどり」でスズラン街の賑わいが戻れば良いが、それは多分一日限りのことだろう。

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  • 15 Aug
    • まくわうり、見つけた!

      紅の蔵内の「おいしさ直売所」。姫とうがん。この大きさで150円とは・・・生産者も大変だと思う。夕顔です。そうめんカボチャ。茹でると中の繊維がほどけて「そうめん状」になる。これをそうめんのつゆにつけて食べる。珍しいが、あまりおいしいものではない。近頃仙台ではめったに見ないまくわうり。昔は夏のおやつの定番だったが、メロンの甘さに比べると・・・隣で山形メロンを650円で売っていた。その値段でまくわうりなら3つ買える。体積にしたら倍はある。でも手が伸びない・・・こうやってまくわうりは姿を消してきたのだ。

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  • 14 Aug
    • 山形市児童文化センター 閉館

      山形市の霞城公園の北門にある児童文化センター。(2017年4月20日撮影)小学生の時、毎日のように自転車で遊びに来た場所。50年以上も前に建てられた。さすがにどこも老朽化している。最後のセンターたよりが貼られてあった。今年3月末で閉館したそうだ。いずれ取り壊される運命だ。山形県出身の詩人・童話作家、結城よしを(1920〜1944)が19才で作った「ないしょ話」の碑がある(昭和41年建立)。これもなくなるのだろうか?結城は僅か24才で夭逝した。建物の遠景。入り口の側面。ホールの外観。この中で卓球をした。ここで上達して、中学校では卓球部に入った。今でも卓球には自信がある。カーテンの隙間からホールの内部が見えた。茣蓙、椅子などがまとめられてあった。卓球台が見える。これはまさか50年前のものではないだろう。こどもの頃の大切なモニュメントがまた一つ消えて行く。結城よしを結城よしをは、大正9年(1920年)歌人結城健三・えつの長男として宮内町に生まれ、芳夫と名付けられた。父の勤めの都合で庄内、山形市と移り、昭和9年小学校高等科を卒業すると八文字屋書店の店員になったが、その頃から童謡・童話を新聞・雑誌に盛んに投稿し、毎号推薦(すいせん)欄に作品が掲載された。 昭和13年、17歳で仲間と童謡誌「おてだま」を創刊したが、その頃のよしをは毎日2、3編の童謡を作り、「月に五、六〇編も作るのが普通だった」と父健三が語っている。 よしをは、なぜ童謡を作るのかという問いに、「私は子どもが好き、絵本が好きだ。絵本を見ていると夢の世界にいるようなほほえましい感情があふれて、すぐ童謡を作ってみたくなる」、「楽しいから、うれしいから、思い出があるから童謡を作るのだ」と話している。天性の童謡詩人だったのだろう。 昭和14年「ないしょ話」がレコード化された。これは日本童謡界の名作で、日本人に親しまれ、今なお歌われている。よしをの作品はほかにも30数点がレコード化されている。 昭和16年、軍隊に召集されたが、厳しい軍務のかたわら、ノートの切れはしや通信紙等に鉛筆で童謡を書いては父のもとに送っていた。遺稿は5000編ほどにもなる。 昭和19年、よしをは南方輸送船団護衛の任務についてニューギニアに転戦。パラチフスに罹患し、9月13日、24歳の若さで小倉陸軍病院で亡くなった。戦争は若き詩人の将来も奪ったのであった。 昭和22年、よしをの遺志を生かして、父健三により童謡集「野風呂」が発行され、同43年には軍隊時代の手記の一部が「月と兵隊と童謡―若き詩人の遺稿」として出版された。 平成2年、熊野大社境内の父健三の歌碑の側に「ないしょ話」の碑が建てられて親子文学碑となった。市内では他に、宮内駅前に「ないしょ話」と病床のよしをを悲しんだ父健三・母えつの短歌を刻んだ碑がある。赤湯駅西口通りには、よしをと弟ふじをの童謡碑6基があり、道行く人を童謡の世界に誘っている。

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  • 07 Aug
  • 31 Jul
    • 夏みかんの丸漬 1

      萩市の名物「夏みかんの丸漬」が届きました。去年ケンミンshowで紹介されてから注文が殺到し、しばらく売り切れになっていました。外観はこんな感じ。グラニュー糖が全体にまぶしてあります。切ってみます。外側は夏みかんの皮の砂糖漬けです。中身はくりぬいて、白い羊羹を詰めてあります。羊羹は夏みかんの香りがします。外側の苦みと羊羹の甘さが良いバランスを醸し出しています。(続く)

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  • 24 Jul
    • 泣き歌の貴公子

      今気になる同郷の歌手、林部智史。勝ち抜きの歌番組、ドラマの主題歌でよく彼の声を耳にしていたが、ようやくメジャーになってきた。「山形県出身」、「山形南高校卒」、「苦節10年」と聞くとなおさら応援したくなる。2107年7月2日の河北新報「河北春秋」から切ない歌詞と歌声が相まって、いつの頃からか「泣き歌の貴公子」と呼ばれる。新庄市出身の歌手林部智史さん(29)は、透明感のある歌声の持ち主だ。10万枚を販売したデビュー曲「あいたい」など、これまでシングル3枚を発表した。線が細い印象とは裏腹に、小学2年生からバスケットボールに打ち込み、一時はプロ選手を目指した体育会系だ。夢をかなえようと1浪までして全国大会準優勝の実績を持つ山形南高に入学。その後、ボールをマイクに持ち替えるまで多くの試練を味わった。高校では全国の舞台に立つ力を備えながら、けがを恐れ、こぼれ球に飛び込めない自分に限界を感じ競技者の道を断念。看護師を志して専門学校に進むも、実習で患者の死をきっかけにうつ病を患い、退学した次々と目標を失い、住み込みで働きながら全国を転々とする日々を送る。放浪先で歌声を絶賛され、歌手になろうと決意。上京後、新聞奨学生をして学費を稼ぎ、音楽専門学校を卒業した。アルバイトを経てテレビのカラオケ番組で脚光を浴び、2016年にデビューを飾った地声は若いのに、歌になると情感にあふれ、憂いを帯びる。「歌は人生経験が出る」と林部さん。実年齢以上に成熟した響きは、多感な時期の苦悩と挑戦のたまものだろう。(2017.7.2)Wikipediaによるとバスケットボールの強豪校への進学を考え高校受験をするものの失敗し、1浪の末山形県立山形南高等学校に合格するなど学生時代から挫折を経験している。バスケットボールでは、全国大会に出場し、山形県の国体選手になるなどの結果を残している。同高卒業後は鶴岡市荘内看護専門学校に入学した。しかし、うつ病を経験し看護師を目指すのが困難になり、引きこもり生活を経験する。その後、アルバイトをしながら放浪の旅を続けることになる。そして北海道の礼文島にあるホテルで働いている時、友人に「その声で歌手を目指さないのはおかしい」と言われたのがきっかけとなり、音楽活動に専念することを決めた。その後は新聞奨学生として懸命に働き、ESPミュージカルアカデミーヴォーカルコースを首席で卒業するなど、生活と歌の両立を図る努力を怠らなかった。しかし首席となるも、数あるオーディションに合格できず卒業後の歌手デビューは叶わないでいた。一度は歌手になることを諦め東京ディズニーシーでキャストとして働くが、THEカラオケ★バトルから出演のオファーがあり、そこからは仕事もボイストレーナーに就き、今一度歌手を目指し始める。同番組では、なかなか優勝できずにいたが、2015年1月には優勝しないと番組出演を辞退すると決意し、初優勝。その後も優勝を重ね、2015年の年間王者を決める大会で番組史上初となる予選、決勝連続100点満点をたたき出し完全優勝を決めた。2016年に歌手デビューを果たし、THEカラオケ★バトルの2016年年間王者にも輝き連覇している。その後、自身の音楽活動に専念するため、同番組は「殿堂入り」という形で卒業した。抱きしめたい https://www.youtube.com/watch?v=AsNBQECzZeUあいたい https://www.youtube.com/watch?v=WrevSkNHD7M晴れた日に、空を見上げて https://www.youtube.com/watch?v=rNA-4ecqn-I

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  • 17 Jul
    • 人さらいとサーカス 2

      当時、バタ屋と呼ばれる廃品回収業者がいた。彼らは毎日陸橋の西側からやって来た。背中に大きな籐の籠を背負い、古い機械、針金など金目の廃品を探して東側の街を徘徊した。そして籠をいっぱいにして、重そうな足取りで夕陽の中を帰って行った。子どもをさらうときはああいう籠に入れるんだと噂して子供らは怖がった。当時スズラン街の子供たちにとって、陸橋の西側は異界であった。サーカスも人さらいもバタ屋も、みな陸橋を越えてやってくると信じていた。

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  • 10 Jul
    • 人さらいとサーカス 1

      昔、暗くなっても外で遊んでいると祖母が「もう籠しょった人さらいが来る時間だ」と迎えに来た。「さらわっだらどうなるんだ?」「サーカスさ売られるんだ」「・・・・」「朝昼晩、茶碗一杯の酢飲まさっで、骨やっこぐして軽業(かるわざ)させられるんだ」「ご飯はないのか?」「ご飯なのない。酢だげだ」少年は「三食とも酢」という食生活に震え上がった。サーカスはお薬師様の境内で1か月ほど興行を行なうと、いつの間にかいなくなった。きれいな服を着て、旗を持って踊っていた女の子もいっしょに。後にはチラシ一枚、塵一つ残さなかった。今どこにいるかも、次にいつ来るのかも分からない。いったいあの女の子は学校に通っていたのだろうか。(続く)

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  • 03 Jul
    • 春の月岡公園(上山)

      上山のお城の隣にある月岡公園。桜の名所でもあります。訪れたのはゴールデンウィーク。桜はやや盛りを過ぎたがまだまだきれいだった。明治期に東北を旅した英国女性イザベラ・バードの碑。この上山の地でのもてなしを絶賛している。残雪少なくなった蔵王。この地の人は365日、蔵王を仰ぎ見て生きている。山を見て理想・憧憬を高く持ち続ける人と、常に山に見下ろされて卑屈、陰険に育つ人が出てくる。私は両方の上山人を知っている。

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  • 26 Jun
  • 19 Jun

プロフィール

辰つぁん

お住まいの地域:
宮城県
自己紹介:
山形市生まれ。仙台市在住。 ダックスフント2匹を連れて毎日広瀬川遊歩道を散歩してます。

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