2016年5月27日 やまコミ

 

 山形市で明治から続く料亭「のゝ村」が6月末で閉店する。華やかなりし時代の花柳界を支え、平成に入っても舞子の育成などに尽力してきた老舗だったが、料亭を利用した宴会の減少や後継者難もあり、140年余りの歴史に幕を下ろす。

 

山形市の料亭「のゝ村」140余年の歴史に幕/売上減と後継者不在で


 のゝ村の創業は明治6年(1873年)。最後の山形藩主・水野家に陪従(ばいじゅう)して浜松から移住してきた初代が、現在の山形地方裁判所のある場所で料亭「野々村屋」を開いたのが始まりとされる。
 明治9年に七日町2丁目に移転した野々村屋を内務卿だった伊藤博文が訪れ、四方の山々を見渡して「四山楼」と命名した話は人口に膾炙(かいしゃ)している。金銭トラブルで明治41年に四山楼(しさんろう)は人手に渡るが、現在地にのゝ村が再建されたのが大正12年(1923年)。
 戦時中は休業を強いられたが、戦後の高度成長期、バブル期にかけては料亭を利用する接待客で活況を呈したという。バブル崩壊後も県外の料亭が次々と姿を消す中、市内で存続する6料亭の主導的役割を果たしていたほか、やまがた舞子を育成する山形伝統芸能振興の設立に奔走するなど、山形の料亭文化を支える存在だった。
 閉店について野々村政昭社長は「接待客の落ち込みで売り上げの減少が続いており、(閉店は)1年半前から検討していた。この先も明るい見通しが立たず、事業継承もできていないことから決断した」と話す。
 のゝ村の建物は(株)のの村の保有で、敷地は借地。閉店後、約半年は後継テナントを探し、会社組織も存続させるが、それ以降の対応は白紙としている。