春を恨んだりはしない -震災をめぐって考えたこと- 池澤夏樹
2011年9月11日 中央公論社
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日本のメディアは死体を映さなかった。本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。
しかし、遺体はそこにあったのだ。
女川に「仮土葬場」という案内と標識があった。
雨に濡れた地面の下に亡くなった人たちがいる。冷たい地面の中で、その地面と同じ温度になってしまっている。もう生き返ることはない。
あの頃はよく泣いた。あの時に感じたことが本物である。薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。
津波の映像を何度となく見直し、最初に見たときの衝撃を辿り直す。
しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。
遺体の捜索に当たった消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、肉親を求めて遺体安置所を巡った家族。たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。
彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。
死は祓えない。祓おうとすべきでない。
さらに我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。
撒き散らされた放射性の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。
こういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々自身であり、我々の子であり、孫である。この社会は市の因子を散布された。
放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。
今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。
震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。
ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。
その最初のところはこんな風だ・・・
またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
これはシンボルスカが夫を亡くした後で書かれた作品だという。
この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。
我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった。
古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を思い出したのは当然の連想だったろう。桜の華やかさは弔意にそぐわない。
春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。
それが人間のやり方であり、それによって無情な自然と対峙できるのだ。
来年の春、我々はまた桜に話しかけるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。
今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。
日本の国土は世界でも珍しい四枚のプレートの境界の真上にあり、世界の地震の2割は日本で起こる。
こういう国土で暮らす我々は、自然と対立するよりも「受け流して再び築く」という姿勢を身に着けてきた。
わたしたちは攻撃しない。
わたしたちは執着しない。
意識しないで生きてきたけれど、この姿勢は日本で暮らす必然の知恵、本能に近いものだったのかもしれない。
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池澤さんの文章は静かだ。
私が訪れた被災地も静かすぎて、静寂の音が聞こえるようだった。
3月11日の死。
そして、それから累々と続く死と悲しみ。
これらをすべて忘れないこと。
今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。
死をまっすぐに見つめる。
眠りではなく二度と蘇ることのない死を受け入れる。
忘れてはいけない。
悲しみの始まりの場所のことを。
2017年3月11日14時46分、仙台の街頭では鎮魂の鐘が鳴らされ、道行く人々は立ち止まり東に向かって黙祷した。辰つぁんは山形の駅前にいたが、鐘も鳴らなければ足を止める人も皆無だった。
現在、震災による死者は1万5893人、行方不明者は2553人となっている。