初市と近江商人    

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山形の一年は初市で始まる。

初市は江戸時代初期から続く正月の伝統行事である。


1月10日、十日町から旭銀座までの目抜き通りを歩行者天国にして、約270軒の露店が並ぶ。

紅白の蕪・白髭葱、臼と杵・梯子・雪へら・まな板などの木工品、団子木・船煎餅・小判などの縁起物が山と積まれ、新春の雰囲気を盛り上げる。


団子木はミズキの枝に繭玉を多数飾ったものである。

ミズキは名の通り水を吸い上げる力が強く、日照りでも枯れないことから、五穀豊穣を祈るのだという。

色とりどりの繭玉を見ていると本当に福が来るような気がする。

幸福に色があるとしたらこんな色だろう。

 

白髭葱は湯がいて酢味噌でいただく。山形名物どんどん焼き、大福まんじゅう、庄内名物どんがら汁の屋台には終日長い列ができる。


元来初市は物の売買よりも、商人が市神様(商売の神様)に一年の繁盛を願う行事だった。

蕪は商いの株が大きくなるよう、白髭葱は長生きできるよう縁起を担いだものである。


かつては初市で銭撒(ぜにまき)という行事が行われた。群集の中で自分の年の数の一文銭を撒けば、その年の厄落しになるといわれた。

しかしそれを拾う人の間に喧嘩や怪我人が出て、明治40年頃に禁止された。


十日町では近江商人が建てた巨大な蔵群が威容を競う。

歴史的にみると初市は紅花、近江商人と深く結び付いている。

近江商人の歴史は奈良時代に高麗からの帰化人を近江に配置した所から始まった。

 

彼らは農耕、定住を基本とする日本人と違い、移動を苦にせず、営利の観念に富んでいた。

近江地方から徐々に商売を広げ、各地に市場を形成していった。


山形藩では最上義光の死後、後継争いが勃発。

9年後の元和元年に改易となり、最上家は近江に移封された。

すると近江商人と山形との関係が強まり、山形へ移住するものが相当数に上った。


山形藩五十七万石は、改易後僅か五千石に減らされ、藩主が次々と替わった。

そのため商業への統制力は弱まり、外から来た近江商人にとっては都合が良かった。


近江商人が山形に進出した最大の目的は紅花である。

紅花は京都の西陣織の染料に使われた。

当時赤い染料は紅花以外になかった。


紅花は葉のふちに鋭い棘があるので、花摘みは朝露で棘が柔らかくなる朝方に行われた。

摘み取った花は水を張った盥(たらい)に入れて足で踏む。

水を切り、竹すだれに並べて2日ほど陰干す。

発酵して粘りが出たら薄く丸めて筵に並べ、天日で乾す。

これを紅餅と呼んだ。

 

紅餅は山形から荷駄で大石田に運ばれ、最上川水運で酒田港へ。

さらに北前船で敦賀に入って京都に送られた。

 

中継地として大石田も大いに栄えた。

芭蕉は紅花大尽といわれた鈴木清風宅に滞在し、「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花」の句を詠んだ。


京都では紅屋の手で、紅餅から真っ赤な紅が作られた。

紅は京女の唇と頬を妖しく彩り、反物を神秘的な色に染め上げた。

紅花から採れる口紅・頬紅は、重さにして生花の0.3%と微量で、「紅一匁、金一匁」と言われるほど高価だった。


肥沃な山形盆地では、紅花の他、米、果樹、桑、生糸、煙草、大豆、小豆、青苧(からむし)等の栽培が盛んであった。

青苧はイラクサ科の多年生植物で、蚊帳と上下(かみしも)の原料として重用された。

近江商人はこれらの物産を上方へ運び、帰り船に東北になかった木綿、古着、繰綿等の衣料品を乗せ、往復で巨利を得た。


 

ところが明治初年、上海経由で安価な洋紅(化学染料=アニリン)が輸入されると、紅花産業は一気に衰退に向かう。

明治10年にはほぼ壊滅したとされる。紅花は現在、山形市近郊高瀬地区で細々と栽培されているだけである。

それは品種の保存と、宮中の式典用衣装の染色のためだという。


紅花を失った商人達は売れる物を求め、古着、布団、油紙、合羽(かっぱ)、鞄、菓子など様々な方向に商売替えをして行ったが、往時の輝きは戻らなかった。

近江商人の経済活動は利潤を関西に吸い上げ、関西財閥の基礎を盤石にしたが、東北には資本の蓄積をもたらさなかった。


幼時祖母と十日町を歩くと、祖母は「ここは近江商人の店、ここも・・・」と蔵を指さして言った。

その語調には好意的とは言えない響きがあった。山形の庶民は、近江商人を「阿漕(あこぎ)、吝嗇」と反感を持って見ていたようだ。

 


最上川流域の旧家には、紅花商人が京都から持ち帰った江戸時代の雛人形が伝わる。

このあたりでは雛祭りが盛んに行われ、「雛のみち」と呼ばれている。

近江商人が常食した近江漬は「おみ漬け」として山形名物になっている。


昭和30年代、初市の日は必ず大雪になった。

小学生は防寒帽でしっかり耳を被い、ランドセルごと雪だるまになってどんどん焼きに並んだ。温暖化のせいか、近年山形も雪が少なくなった。初市に雪が降ったのはここ10年で2度しかない。


山形市の中心部には最上家ゆかりの史跡が数多く点在する。桜の美しい山形城址(霞城公園)、三の丸土塁、市内を網の目のように潤す御殿堰、小京都の雰囲気を残す寺町、秀吉に処刑された駒姫を弔う専称寺・・・。


三の丸土塁は現在立ち入れないが、かつては子供達の格好の遊び場だった。

土塁には鬱蒼と雑木が茂り、東側は深い空堀になっている。堀の底は昼でも陽が当たらず、蔓草が蛇のように足に絡みついた。

そこはいつもざわざわと風が巻き、風に混じって人の声が聞こえる気がした。

言葉は聞き取れないが、うぉ~ん、うぉ~んと、泣きながら人を呼ぶような声だった。
 

離れて40年以上になるが、生まれた町はいつまでも懐かしいものである。

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