• 27 Mar
    • 錦ケ丘ヒルサイドモール

      山形から48号線で仙台に向かうと、愛子付近で錦ケ丘ヒルサイドモールが見えてくる。ここに新しいキッズスペースが出来た。入口のカフェはずっと前から閉店したまま。ここが空いたままだと寂れた印象を与える。たまご舎は中央エスカレーター左に移転した。2階北側に出来たキッズスペース「感性の森」。見取り図木製の迷路、遊具があります。キャラクター、ゲームはありません。子供の創造性を引き出す空間だそうです。大人だけだと入れないので注意。大人はあくまでも「こどもの付き添い」で。開園したばかりで平日ということもあってか、入室しているのは1組だけだった。錦ケ丘は「子育てタウン」を唱っている。ようやく子供中心の店作りにしようと決めたのか。2階は子供服の店とか、駄菓子の店とか、広いおもちゃ売場とか、アンパンマン遊具コーナーとかが揃った。中途半端なブランドショップを誘致するよりはこの路線の方が良いかもしれない。

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  • 20 Mar
    • これが噂の「ダールラーメン」

      3月の286号線を山形に向かう。道路には全く雪がない。釜房湖を過ぎて右手にこの看板。20年ほど前からこの看板に気がついてはいたが、なかなか立ち寄るチャンスがなかった。これがドライブイン「みしま」。今日こそ「ダールラーメン」に挑戦するぞ。入り口に写真入りのメニュー。ボリュームがすごそう。店内は家族連れ、トラックドライバーなどのグループが多い。「ダールラーメン」は辛めのあんかけラーメンとある。ライスはとても食べられないので、単品780円を注文する。待つ間メニューを熟読。ここはラーメンと焼きそばの店なのだ。ベトコンラーメン(納豆入り)だって!さあ、来ました。この店の1番人気のダールラーメンです。確かにあんかけラーメンですが、その「あん」自体が辛い。ウズラの卵とエビが2個ずつ入っています。しょうゆ味の五目ラーメンに辛いあんをかけた、というのがダールラーメンの正体。熱いあんのおかげで麺が最後まで熱々。ボリュームたっぷり。辛くて熱くて、寒いのに汗びっしょりになります。夏なら大変だな。名前の由来はメニューに、「とろ~り、ダラー、ダール!!」とあったのでこういうことかなと納得。

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  • 13 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を ~悲しみの始まりの場所~

      春を恨んだりはしない -震災をめぐって考えたこと-  池澤夏樹2011年9月11日 中央公論社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本のメディアは死体を映さなかった。本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。しかし、遺体はそこにあったのだ。女川に「仮土葬場」という案内と標識があった。雨に濡れた地面の下に亡くなった人たちがいる。冷たい地面の中で、その地面と同じ温度になってしまっている。もう生き返ることはない。あの頃はよく泣いた。あの時に感じたことが本物である。薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。津波の映像を何度となく見直し、最初に見たときの衝撃を辿り直す。しかし背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。遺体の捜索に当たった消防隊員、自衛隊員、警察官、医療関係者、肉親を求めて遺体安置所を巡った家族。たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。死は祓えない。祓おうとすべきでない。さらに我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。撒き散らされた放射性の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがては誰かの身体に癌を引き起こす。こういう確率論的な死者を我々は抱え込んだわけで、その死者は我々自身であり、我々の子であり、孫である。この社会は市の因子を散布された。放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。震災以来ずっと頭の中で響いている詩がある。ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めとの別れ」。その最初のところはこんな風だ・・・またやって来たからといって春を恨んだりはしない例年のように自分の義務を果たしているからといって春を責めたりはしないわかっている わたしがいくら悲しくてもそのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないとこれはシンボルスカが夫を亡くした後で書かれた作品だという。この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。桜を見る視線がどこかうつろだった。古歌の「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」を思い出したのは当然の連想だったろう。桜の華やかさは弔意にそぐわない。春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話しかけることができる相手として遇する。それが人間のやり方であり、それによって無情な自然と対峙できるのだ。来年の春、我々はまた桜に話しかけるはずだ、もう春を恨んだりはしないと。今年はもう墨染めの色ではなくいつもの明るい色で咲いてもいいと。日本の国土は世界でも珍しい四枚のプレートの境界の真上にあり、世界の地震の2割は日本で起こる。こういう国土で暮らす我々は、自然と対立するよりも「受け流して再び築く」という姿勢を身に着けてきた。わたしたちは攻撃しない。わたしたちは執着しない。意識しないで生きてきたけれど、この姿勢は日本で暮らす必然の知恵、本能に近いものだったのかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池澤さんの文章は静かだ。私が訪れた被災地も静かすぎて、静寂の音が聞こえるようだった。3月11日の死。そして、それから累々と続く死と悲しみ。これらをすべて忘れないこと。今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。死をまっすぐに見つめる。眠りではなく二度と蘇ることのない死を受け入れる。忘れてはいけない。悲しみの始まりの場所のことを。2017年3月11日14時46分、仙台の街頭では鎮魂の鐘が鳴らされ、道行く人々は立ち止まり東に向かって黙祷した。辰つぁんは山形の駅前にいたが、鐘も鳴らなければ足を止める人も皆無だった。現在、震災による死者は1万5893人、行方不明者は2553人となっている。

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  • 06 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を ~自分は偶然に死ななかった~

      ・・・自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。自分は淋しい気持になって、暫く足もとの見える道を温泉宿の方に帰ってきた。遠く町端れの灯が見えだした。死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入って了ったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられていることだろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。然し実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした・・・ 志賀直哉「城の崎にて」万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。そこは水浸しの荒野だった。女川の中心部だった場所に車を停める。木造の建物は一軒も残っていない。破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられているだけである。海中に倒れたままのビルもある。生涯教育センターには窓から車が入り込んでいる。車が倒れないようにロープがかけられているが、車を撤去することは難しいのだろうか。4階建ての商工会館は屋上まで水没した。屋上に逃げた4人の職員がさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。駅舎もホームも、レールさえも。一切が何処かへ流失していた。鷲神浜は、Sさんの実家があった場所。浜は広い更地になっていた。Sさんの母親は実家から300mも離れた路上で発見された。マリンパルは敷地全体が水没し、海の中に悲しげに立つ。沈み行くベネツィアのようである。違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。6mの防波堤は何の役にも立たなかった。遠くの高台に女川町立病院が見える。町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。その高さは海抜20.3mに達し、海抜16mの病院駐車場を飲みこんだ。駐車場には多くの供花がある。はるか遠く、はるか下に海を見降ろす場所である。ここまで波が来たとは、とても想像がつかない。病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。女川原発で想定された津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。しかし地震で大地は1m地盤沈下。原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m。差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。それは3月3日午前3時に襲来した。深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。死者・行方不明者合計は3,064人に達した。このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。今度こそ高台移転は叶うだろうか。被災の記憶は一世代と持たないのである。陸(おか)を選んだ自分は助かり、海を選んだ友人は亡くなった。自分に「生かされる」理由などなかった。生死は偶然の結果である。女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。あの年の桜は悲しみを吸い上げて咲いた。春が来るたび、桜梅桃梨は海辺で繚乱せよ。死者を眠らせ 荒ぶる海を鎮めよ。

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プロフィール

辰つぁん

お住まいの地域:
宮城県
自己紹介:
山形市生まれ。仙台市在住。 ダックスフント2匹を連れて毎日広瀬川遊歩道を散歩してます。

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