• 31 Mar
  • 24 Mar
  • 17 Mar
  • 13 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を 3  

        「三月を愛さない」 ここ被災地では、私達は三月を愛さないし、 三月もまた私達を愛さない。三月は凄惨な記憶を蘇らせ、私達の心をずたずたに引き裂く。二月の後が、すぐに四月であったならと思う。            照井翠 「釜石の風」より釜石の津波動画http://www.youtube.com/watch?v=HR_6W7GdWPs http://www.youtube.com/watch?v=aQj2zn5Axmk 照井翠大震災を題材に俳句を詠む。1962年生れ。岩手県生れ。岩手県遠野市在住。高等学校教諭。俳歴17年。平成2年「寒雷」入会。以後加藤楸邨に師事。同年「草笛」入会。5年「草笛」同人。8年「草笛」新人賞、「寒雷」暖響会会員(同人)。10年第一句集「針の峰」上梓。13年「草笛賞」優秀賞受賞、第二句集「水恋宮」上梓。現代俳句協会会員。照井 翠 『龍 宮』 自選五十句  喪へばうしなふほどに降る雪よ  津波より生きて還るや黒き尿  泥の底繭のごとくに嬰と母  双子なら同じ死顔桃の花  春の星こんなに人が死んだのか  なぜ生きるこれだけ神に叱られて  毛布被り孤島となりて泣きにけり  津波引き女雛ばかりとなりにけり  朧夜の泥の封ぜし黒ピアノ  つばくらめ日に日に死臭濃くなりぬ  石楠花の蕾びつしり枯れにけり  気の狂れし人笑ひゐる春の橋  もう何処に立ちても見ゆる春の海  しら梅の泥を破りて咲きにけり  牡丹の死の始まりの蕾かな  春昼の冷蔵庫より黒き汁  三・一一神はゐないかとても小さい  唇を嚙み切りて咲く椿かな  漂着の函を開けば春の星  ありしことみな陽炎のうへのこと  花の屑母の指紋を探しをり  卒業す泉下にはいと返事して  骨壺を押せば骨哭く花の夜  屋根のみとなりたる家や菖蒲葺く  ほととぎす最後は空があるお前  蜉蝣の陽に透くままに交はりぬ  初螢やうやく逢ひに来てくれた  蟇千年待つよずつと待つよ  同じ日を刻める塔婆墓参  流灯にいま生きてゐる息入るる  大花火蘇りては果てにけり  人類の代受苦の枯向日葵  片脚の蟻くるくると回りをり  すすきに穂やうやく出でし涙かな  鰯雲声にならざるこゑのあり  柿ばかり灯れる村となりにけり  死にもせぬ芒の海に入りにけり  半身の沈みしままや十三夜  廃屋の影そのままに移る月  迷ひなく来る綿虫は君なのか  雪が降るここが何処かも分からずに  太々と無住の村の青氷柱  釜石は骨ばかりなり凧  寒昴たれも誰かのただひとり  春の海髪一本も見つからぬ  浜いまもふたつの時間つばくらめ  亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり  なぜみちのくなぜ三・一一なぜに君  ふるさとを取り戻しゆく桜かな  虹の骨泥の中より拾ひけり

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  • 12 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を 2  

      ・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。それは3月3日午前3時に襲来した。この辺りでは、「津波は夜来ない」と口伝されていた。深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。死者・行方不明者合計は3,064人に達した。このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。今度こそ高台移転は叶うだろうか。被災の記憶は一世代と持たないのである。海を選んだ友は亡くなり、陸(おか)に住んだ自分は助かった。友に「死ぬべき理由」はなかったし、自分に「生かされる理由」もなかった。女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。 あの日の朝、空は澄んで、微風は心地よく春の気配を運んでいた。早春の一日は平穏に過ぎて行くはずだった。その午後に自分が津波で死ぬと思った人はいなかっただろう。生と死は偶然の結果であるが、両極ではない。生と死はいつも薄紙を挟んで隣り合っている。あの年の桜は慟哭を吸い上げて咲いた。桜梅桃梨よ、春が来るたび海辺で繚乱せよ。死者を眠らせ 荒ぶる海を鎮めよ。

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  • 11 Mar
    • 忘れない、あの日を、あの人を 1

      3月某日、パン屋の行列に並んでいたらMさんが前にいた。行列は10m以上あり、店内に入れるまで、あと20分はかかりそうだった。私が、(地震は)大丈夫でしたか?、と声をかけると、あまり大丈夫でもなかったです、とMさんは話し始めた。女川に行って来ました。女川には母が一人でいるんです。 もう70です。津波が女川の町を通り抜けたと聞いて、いても立っても居られませんでした。でも45号線が多賀城から先、ずっと通れなかったんです。パソコンのPerson Finderで調べたけど、避難所の名簿に母の名前はありませんでした。ようやく道路が開通したと聞いて、車で女川まで行きました。太平洋と万石浦に挟まれた海辺の町は、色を失くしていました。一面が泥色です。道路の部分だけやっと瓦礫をどけてありました。マリンパルなんかじゃなくて、高い防波堤を造っておけばいくらか違ったのに、と思いました。町民運動場が遺体安置所になっていました。ほんとは先に避難所を探すんでしょうけど、家は鷲神浜で、一番外洋に近いところですから、多分だめだと思っていました。母は外出せず、一日家で過ごす人なんです。安置所には数え切れないほどの遺体がありました。床は泥だらけ。漂流物も片づけられてない中でマットに寝かされていました。この世に地獄というものがあるなら、ここだなと思いました。遺体は次々と運ばれて来ました。自衛隊員は丁寧に遺体を運んでくれていました。彼らは地震の翌日、山越えして女川に入ったのだそうです。泥にまみれているはずなのに、遺体の顔はきれいにされていました。外のテントでは、運ばれた遺体を検視し、水で洗っていました。身につけた時計とか免許証があればビニールの袋に入れていました。DNAを調べるため、血液なども採取していたんだと思います。私は母を探して何体もの遺体を見ました。遺体を見るのは父が死んだ時以来です。そんなにたくさんの遺体を見るのは初めてだったので、ずいぶん辛かったです。水に揉まれた遺体は、たいてい服が全部脱げて、真っ白になり、膨らんでいるのだそうです。母は運転免許も持ってないし、指輪もしません。身許が分かる物など身につけているはずがありません。100体目くらいの遺体のところに来た時です。この人は母に似ている、と思ったけど、ちょっと違うかなとも思いました。母よりは若く見えたのです。次に行こうとした時、もしかしたら、という気持ちがよぎり、もう一度よく顔を覗き込みました。すると、やっぱりこれは母だ、と直感しました。少しむくんで見えましたが、よくよく見ると、頬の長生き星がまさしく母でした。死因は溺死と書いてありました。胸を押して口から水が出れば溺死と判定するのだそうです。ほとんどの人が溺死で、まれに圧死の人がいました。番号札がつけてあったのが悲しかったです。ご遺体をどうされますか、と警察の人に聞かれました。こういう状況なので、遺族が引き取れない場合は墓標を立てて土葬し、後で掘り出して火葬します、との話でした。母を土の中に置いて帰れるわけがありません。掘り出した遺体を見る勇気はなおさらありません。私は、連れて帰ります、と言いました。黒い毛布とブルーシートに包まれた母を車の後席に乗せました。警察官はドライアイスを多めに入れてくれました。私は自衛隊も警察も、これまであまり好きではなかったけど、彼らは職務に忠実でした。私にはできない仕事を一生懸命やってくれました。涙を拭きながら仕事をしていた警察官もいました。彼らは敬礼して、母と私を送ってくれました。どこをどうやって帰ってきたのか、思い出せません。道路脇に瓦礫がなくなったと気付いたら、福田大橋まで来ていました。仙台の市街はいつもと同じように平和そうで、女川とは別世界のように見えました。自宅に着いて、県内の火葬場に電話しました。電話が通じるところはどこも手いっぱいとのことで断られました。沿岸部の火葬場は壊滅したのか、電話すら通じません。葬儀社に、順番が来るまで母を冷所に預かってもらえないかと聞いたら、保管料は1日5万円と言われました。値段以上に、冷たい言い方だったので、諦めました。山形県の火葬場に電話してみました。山形、天童、新庄、とかけて断られました。岩手、宮城からどんどん依頼が入っているのだということです。酒田の火葬場がやっと引き受けてくれました。「 ご愁傷さまです。着いたらすぐに火葬をさせていただきます。何時になってもいいですから、気をつけておいで下さい 」と言われて、私は久々の温かい言葉に泣きました。48号線はところどころで土砂が崩れ、アスファルトが盛り上がっていたけど、なんとか通れました。13号線沿いの天童の市街は、全く地震の被害がないようでした。「 お母さん、そこは狭いでしょう、ワゴン車だったらよかったね、もっと早く仙台に呼べば良かったね 」酒田への長い道、私はずっと母に謝っていました。初めて訪れた酒田の地で、母はお骨になりました。軽くなった母を抱いたら、ようやく私に悲しみと呼べる感情が湧いてきました。人間って突然いなくなるんですね、さよならも言わずに。お骨は洋服ダンスの上に置いてあります。父が死んだ時、母が、「 3日泣いたら4日目には笑え 」と言ったことを思い出しました。でも笑うのは4日じゃ無理ですよ。葬儀は桜が咲く頃に、と思っています。四十九日もその頃でしょうけど、今は先のことまで考えが回りません。最初の安置所で母を見つけられた自分は、幸運だと思うようにしています。岩手で流されて宮城で見つかったとか、見つけられずに何百もの遺体を見てしまった遺族もあると聞きます。大切な人が海にいるのか田んぼの中にいるのか分からない家族は、ほんとにお気の毒です。長話ししてごめんなさい。こんなときでも何だかパンが食べたくなって、ここに並んじゃったんです。おかしいですよね・・・・・ Mさんの話を聞いていたのだろう。私の後ろに並んでいた女性が急に嗚咽し始めた。

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プロフィール

辰つぁん

お住まいの地域:
宮城県
自己紹介:
山形市生まれ。仙台市在住。 ダックスフント2匹を連れて毎日広瀬川遊歩道を散歩してます。

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