昭和30年代。戦後の混乱期が終わり、山形の町並みも整ってきた頃。
世の中の景気が良くなり、食べるのでやっとだった時代から、テレビ、炊飯器、洗濯機、さらに自家用車さえ持てそうな気配になっていた。
山形駅前正面には「沖正宗」のアーチが堂々と聳え立ち、土産物と本を売る明月堂が店を構えた(地図には明月堂書店と載っている)。
その左には池内菓子屋、高級チョコアイス(ドリアン)で有名な江川食堂、大人数を入れる前田蕎麦屋。
明月堂の右側には、やがて元禄寿司「山形第1号店」に変わる武田食堂、パンのさのや、ヤンマーを扱う井関農機が軒を連ねた。当時は駅前から千歳山が眺望できた。
今の花笠通り、昔霊道小路と呼ばれた通りに入ると左側に文房具屋、一銭店屋、松田美容室、右側に八百屋、金澤屋旅館、武家屋敷(福島家)。
文房具屋の東隣の一銭店屋は一小の同級生のY君の家がやっているのだった。Y君一家は小学1年生の時に大阪から引っ越してきた。店番は主に70代のばあちゃんがやっていたが、たまに母親、もっとたまにはY君がやっていることもあった。
そのばあちゃんはいつも和服の上に割烹着を着ていた。年は70位だったろう。お釣りが5円の時は、「はい、5万両!」と言って渡してくれた。
当てくじはたいてい外れた。1cm×3cmほどの薄い紙をなめると、いつも「スカ」という文字が悲しく浮かび上がった。
ある時Y君が店番をしていたので、「当りくじおしぇろ」と言うと、「当りはまだ入れでねんだ、ほれ、こいずが当りだ」と平台の下から当りくじを出して来た。「1等の当りくじは50枚につき2枚あって、半分売れてから投入するんだ」と聞いて、世の中の仕組みが少し分かった気がした。
遊び物では、ぱった(=めんこ)、ベーゴマ、2B弾、巻紙鉄砲、パチンコ等を置いていた。
食べ物では、串カステラ、鈴カステラ、のしいか、パラソルチョコ、ペンシルチョコ、フィンガーチョコ、コインチョコ、すもも、さくら大根、フィリックスフーセンガム(こいづは粘着力強くて、気つけねど歯の詰め物よぐ取れるっけ)、オレンジフーセンガム、笛ガム(5円玉型、真ん中の穴ば吹ぐどピーピー鳴る)、シガレットガム、梅ジャムせんべい、フルーツ歯ブラシ(ウェハースの歯ブラシさジャムの歯磨きつけで喰うやづ)。
あの狭い平台によくこれだけのものが乗っていた。
右の棚には戦闘機と戦車のプラモデルが置いてあった。1つ300円ほどもして、子供の小遣いでは手が出なかった。売れないプラモデルの箱は陽を浴びて次第に変色して行った。乾電池は錆びて液漏れしていた。
ある大雪の夕方。私は父に手を引かれ、駅から家に向かって歩いていた。突然私は何かに躓いて転んだ。それは暗渠になった笹堰を塞ぐ鉄板であった。当時は積もった雪を堰に捨てるため、所々が鉄板になっていた。その日も誰かが鉄板を開けて雪を捨てた後、ちゃんと閉めないでおいたところに私が躓いたのである。
それがちょうどY君の家の前だった。
普段温厚な父ちゃんが急に怒り出し、Y君の家の戸をどんどん叩いた。出てきたばあちゃんは、「雪捨てたのはおらいでない・・・」と、もごもご言いかけたが、父ちゃんは 「開けたらちゃんと閉めて置け!子供が転んだぞ」と大声で怒鳴った。おれはちょっとおかなぐなたげんと、なんだが嬉しかった。
何か訳があったのだろう。Y君には父親がおらず、母親は前田蕎麦屋で働いていた。3年も経った頃、Y君は急に学校に来なくなった。一銭店屋は空家になっていた。小学校の先生に聞いても「わからないのよ」というばかりだった。Y君の家のあった場所は、「山形珍味ビル」という変てこな名前のビルになっている。
山形珍味ビル
昭和40年代に駅前周辺は区画整理され、駅正面にパーラー、パチンコ屋、さらにはビブレが建った。不思議なことに明月堂は跡地に再建されなかった。明月堂主人のIさんは失意のうちに亡くなったという。遺族が苦労して城南陸橋の下に「ブックスI」という書店を開いたが、人の流れの良い場所ではなかった。その店も今はない。息子は頭の良い子であった。東高から京大文学部へ進み、卒業後さらに東大工学部に入った。
今は駅前一帯も大きく様変わりしてしまい、霊道小路は花笠通りというつまらない飲み屋街に変貌した。金山君の焼き肉店がなければ用のない場所である。昔の店の場所を特定するのも困難なほどの変わり様だが、暗渠になった笹堰は当時のまま流れており、これと昭和の遺跡・山口魚屋をキーストーンにすれば、頭の中にあの頃の地図を描くことができる。
山口魚屋
昔の事を書くときは、頭の中に古い町並みを再現し、子供の自分を自由に彷徨わせる。
路地からは子供らの元気な声が聞こえる。
七輪でカド(鰊)を焼く匂いがする。
笹堰は昔のようにごうごうと流れている。
淡い海色の松田美容室の角を曲がると板木を積み重ねた下駄屋があり、豚の息使いがする。
当時は食用に豚とか鶏を飼っている家が多かった。
夕刻、懐かしい町並みに電気が灯る。
沈む夕陽に追われるように子供らは家路を急ぎ、空になった弁当箱を荷台に付けた自転車の大人たちとすれ違う。
目を閉じて故郷の町を彷徨する時間は至福である。
文章は本来読まれるために書かれるが、このブログは必ずしも読まれることを欲しない。
昔の山形を一人で徨い、思い出すまま自由に筆を走らすときの幸福感、それこそが私の求めるものである。
そこは山形夢横丁、セピアの町。私だけの山形。
昭和30年代の半ば、山形駅の北側の線路沿いに広場があり、少年たちは毎日毎日ここで野球をしていた。
広場の南側には石炭が野積みされていた。反対側にホームベースを置き、打球が石炭の山まで転がればホームランだった。
R旅館には息子が2人いて、長男のM君は私と同級で8歳。二男のE君は6歳だった。
その日、M君もE君も一緒に野球をしていた。
E君の打ったファウルボールが枕木で作った1mほどの柵を越え、線路に転がって行った。ルールでは、線路に落ちたボールは打った者が自分で取りに行くことになっていた。
ボールは線路を1本越えたところに止まった。線路に入ると駅員に怒られる。
E君は柵を乗り越え、土手を下りて一目散にボールに向かった。
その時、警報が鳴り出した。
カン、カン、カン、カン。
1番線に上り列車が入って来たのである。
E君はボールを持ったまま立ち尽くしている。
「E君!」子供らは一斉に柵に走り寄った。
大手門の所には煙を吐く蒸気機関車が見えている。
兄のM君は叫んだ。「E!動くな!そごさいろ!」
E君は「分かった」という風にうなづいた。
しかし列車が警笛を鳴らしながら近づいて来ると、E君はみんなと反対側にいることが怖くなった。
そこにいると怒られると思ったのかもしれない。
あと10mとなったところで、E君は泣きながらこちら側に走り出した。
最悪の直前横断になってしまった。
運転士は渾身の力でブレーキをかけた。
急ブレーキの金属音と子供たちの悲鳴が交錯した。
列車からは次々と大人たちが降りて来て、我々を「来るな」と制した。
城南陸橋を越えて救急車がやって来た。パトカーもやって来た。
E君は担架で運ばれて行った。
検証が終わると、保線区の係員が石灰を撒き始めた。
沈みかけた夕日が石灰を赤く染めた。
E君は命は無事だったが、左の足首から下を失った。
しばらくして義足で遊ぶE君を見た。
M君がいつもそばに付いていた。
私はなかなかE君に話しかけることができなかった。
兄のM君は運動神経が抜群で、中学では柔道部とサッカー部の両方に入っていた。
E君は中学に入ると、多少走るのは遅いものの卓球部で活躍した。
義足は今のように精巧なものではなく、金属がむき出しで靴も履けず、発条も付いていなかった。
E君が踏み込んでボールを打つたびに、床にコーン、コーンと金属音が響いた。
E君は中3のとき、中体連で3位になったと聞いた。
M君は高校を出ると建設会社に就職した。
R旅館はE君が継いだ。
線路沿いの広場は事故以降遊べなくなった。
駅前を歩いていると、たまにE君に会うことがある。
彼はいつも、「ようっ」と最高の笑顔を見せる。
事故があったのは6月だった。梅雨の最中なのにその日は晴れて夕焼けだった。
雨が降っていれば野球をすることもなく、あの事故は起きなかっただろう。
毎年この季節になるとE君のことを思い出す。
事故前のE君とM君
SLが近づいて来る!
あの広場は現在東口駐車場になった。線路には入れないようになっている。
よく見るとあの頃の柵が残っている。E君はこれを乗り越えたのだ。
そこに仙山線の電車が来た。こわいこわい。
スズラン街の万邦靴店と朝倉菓子屋の間を山形駅方向に入った路地
(昭和40年6月撮影)
最上屋旅館の裏。この道は今ない。
駅から2分の場所でも、40年前はこんなに道が細く、木造家屋が密集していた。
猫の額ほどながらも、各家に庭があり、そこに目一杯野菜と花を植え、採卵のために鶏を飼っていた。
休日には母親が庭に盥(たらい)を出して洗濯をした。
水道からホースで水を引くので、子供らは大喜び。ホースを振り回しては怒られた。
どの町内にも子供が溢れ、縦横無尽に走りまわっていた。
車が通れる道幅ではない。自転車がすれ違えるほど。
家を建てる際、資材をどうやって運んでいたのだろう。
辰つぁんたちはこの道の真ん中にミカン箱を置いてパッタをしていた。
通る人に邪魔だと言われたことはなかった。
山形駅の北側にあった国鉄官舎
(JRに変わるまで国鉄社員は公務員だったので、「官舎」と呼ばれた)
塀も壁も黒いコールタールで塗られていた。
この辺は一軒家で、風呂も庭も付いていた。国鉄でも比較的偉い人達が住んでいた。
偉くない人達は、線路の反対側の木造2階建ての国鉄アパートに住んでいた。
その建物は入口が一つで廊下は土足禁止。玄関で靴を脱ぎ、自分の部屋の靴箱まで持って行く。
トイレも風呂も共同だった。風呂は週2回、家族毎に入る曜日が決まっていた。
部屋を一歩出るとそこは公共の廊下で、会社の同僚、上司にばったり顔を合わせる。
同級生の子供がいれば、家でも学校でも一緒ということになる。
今では考えられない窮屈な暮らしだったが、人々は、そんなものだろう、と大らかだった。
辰つぁんはこの辺の官舎にも、国鉄アパートにも毎日遊びに行っていた。
右端の建物は道路をはさんで、かのや食堂の北隣の旅館である。
現在この官舎一帯は東口駐車場になっている。
あの頃を偲ぶものは何一つ残っていない。
この辺りは、駅長~鉄道病院医長クラスの官舎。
黒い板塀が家の中を完全に遮蔽している。
突きあたりの家の向うが線路である。
各家に車庫はないから、道も車が入ることを考えていない幅である。
左の家はよく遊びに行った同級生の優香ちゃんの家。
お父さんが鉄道病院の内科の先生だった。
優香ちゃんは仙台に引っ越して行った。
それまで飼っていたコロという犬を辰つぁんがもらった。
コロについては次回、「セピアの町4」 で。
昭和41年、官舎の取り壊しが始まり、駅前の風景が一変した。
優香ちゃんの住んでいた家も、子供らが野球をしていた広場もなくなり、微かに残っていた戦後の雰囲気は消えた。
私は泣きたい気持ちをこらえ、写真を撮りまくった。
この区画整理を決めたのは大久保伝蔵市長(昭和29年11月~41年10月在任)である。
当時この辺りは、家中衆の屋敷が軒を並べ、福島家のような立派な武家屋敷もあったが、ヴィジョンを欠いた破壊だったので、跡地は人も寄り付かない怖い呑屋街になった。
私は小さかったので、大久保伝蔵という人が市長としてどうだったのかわからない。ただ駅前の貴重な町並みを破壊し尽くしたことは許せないと思っている。
(文翔館として保存された旧県庁も、一時取り壊されて駐車場にされる危機があった!)この頃はまだSLが走っていた
このSLがE君の左足を奪った
路地から子供らの元気な声が聞こえてくる。
夕刻、懐かしい町並みに電気が灯る。
左足を失くした子供は、兄に手を引かれて家路を急ぐ。
夕映えは兄弟の顔を茜に染めて行く。
蒸気機関車は何事もなかったように警笛を鳴らして疾走する。
警笛は兄弟にどのように聞こえているのだろう。
昔、どのクラスにも一人くらいお嬢様がいた。「ちびまるこちゃん」でいえば城ケ崎さん。
辰つぁんが第一小学校3年のとき、同じクラスに優香ちゃんというとっても可愛い女の子がいた。いつも髪を長くしてリボンをつけ、山形では買えないきれいな服を着ていた。両親ともお医者さんで、1年生の時に仙台から転校して来た。言葉も上品で、周りに華やかな雰囲気を振りまいていた。
男子たちは皆、優香ちゃんと一緒に遊びたいと思っていたが、男子で優香ちゃんの友達はおれだけだった。
おれは優香ちゃんと家が近いのと、おとなしくて可愛かったので気に入られたのだ。
二家族で一緒に千葉の稲毛海岸まで夜行で潮干狩り行ったこともあるし、誕生パーティーに招待されたこともあった。
優香ちゃんの家にはテレビがあって、車があって、犬を飼っていて、お手伝いさんもいるということがわかった。
終戦から10年以上たち、世の中にだんだん上流階級というものが生まれて来ていた。おれの一族郎党をはるかに見渡しても、どこにも上流の生活を見ることはできなかったから、優香ちゃんの家で垣間見る贅沢さは夢のようだった。
その頃のおれは男子と遊ばず、優香ちゃんとその友達の女の子とだけ遊んでいた。誕生日に呼ばれたお返しに、豊烈神社のお祭りのときに、優香ちゃんをおれの家に招待することになった。おらいの母ちゃんが作ったものなの食べてくれるか心配したが、優香ちゃんは案外喜んでくれたようで安心した。
そういう幸せな生活は2年ほど続いた。
でも幸せというものはいつだって長く続かない。
小3の1学期の終わり頃、担任のI先生から、「優香ちゃんのお父さんは仙台で医院を開業することになったので、ご一家は仙台に引っ越します」と伝えられた。優香ちゃんは泣かずに気丈に挨拶したが、あとでお母さんから、行きたくない、と一晩泣いていたと聞いた。
突然のことでおれもびっくりしたが、「世の中はいづでもこだなもんだ」と変に覚めたところのあるやろこだったので、取り乱したりはしなかった。
夏休みに入って1週間目くらいに、優香ちゃん一家は山形駅から仙台行きの汽車に乗った。夏休みなのにちゃんと連絡網がまわって、先生もクラスのほとんどの子供らも見送りに来た。純子が北朝鮮に帰還したときとはずいぶん違うなと思った。
優香ちゃんは飼っていた犬をおれに置いて行った。それはオス犬で名前はコロといった。
芸は「お手」と「お座り」と「腹見せ」しかできなかったが、おれは可愛がって毎日散歩に連れて行った。
しかしコロは優香ちゃんのことを忘れなかった。
その頃はまだ野良犬が多くて、ある日散歩中にコロと野良犬がけんかになってしまった。おれは怖くなってリードば離したら、コロはどこかに走って行ってしまった。
父ちゃんに、「コロ逃げだ!」と泣きべそかいて言ったら、父ちゃんは、「優香ちゃんのうぢんねが?」と二人で行ってみた。
そしたら何とコロは優香ちゃんの元の家の玄関におとなしく座っていた。
コロはもらってから2回目の冬の日に死んだ。5歳くらいだった。あの頃はドッグフードなどなくて、朝だけ味噌汁かけご飯を喰っていたし、夏も冬も屋外で飼っていた。フィラリアの薬も予防注射もしなかったから、今みたいに10何年も生きなかった。
それから優香ちゃんとは音信不通になってしまった。
とごろが5年前、30何年かぶりに仙台で再会したのだった。
河北新報の死亡記事欄に、「○○医院 院長」の告別式案内が出て、家族欄に「女 ○○優香」と書いてあった。おれは電光が閃いたような気がして、思い切って書いてあった自宅の電話番号にかけてみた。
そしたら何と優香ちゃん本人が出て、「辰ちゃん!ほんとに辰ちゃんなの?」と昔の呼び方で呼ばれたのでびっくりした。次の日、お通夜に行って、30何年かぶりに再会を果たした。
聞いた話では、優香ちゃんは仙台の女子大を出た後フランスに留学、その後見合い結婚して、今では大病院の院長夫人なってるという話だった。おれが想像してた通りの人生を歩んでいるようだった。
優香ちゃんの父ちゃんも山形での生活を懐かしがっていたらしくて、「ずっと仙台にいたのに、どうして生きてるうちに来てくれなかったの」と残念がられた。
おれは昔撮ったコロの写真を渡して、優香ちゃんの家に逃げて行ったこと、死んだ冬の日のことを話したら、優香ちゃんは泣いてしまった。
優香ちゃんの誕生祝 (赤丸は辰つぁん、黄丸は優香ちゃんの父ちゃん、青丸は優香ちゃん)
桜満開の霞城公園
家の前で
セピアの写真は永遠に静止したままだが、少し揺すってみるといろんなことを語り出す。
写真には写っていない、シャッターを押した人のことも。
http://www.youtube.com/watch?v=fqw5snPFgG4
小学2年生、1学期の終業式の朝だった。
担任のI先生から突然、おれの隣の席の純子が外国さ行ってしまうんだと聞かされた。
「○山純子さんは今度北朝鮮という国に行くことになりました。ご両親は北朝鮮のご出身で、戦争中から日本に来ていましたが、このたび祖国に戻られることになったのです。みんなが純子さんと勉強できるのも今日だけになりました。」
挨拶した純子は途中で泣き始めで、行ぐだぐないどが、みんなさ毎月手紙書ぐがら、てやっとゆった。
おれもクラスのやろこだも、まだ事態ば理解でぎる年ではなかった。外人といえば、全部アメリカ人だと思っていた。
純子て外国人なんだが?、色白ぐないどれ、北朝鮮てどごだ?、日本語通じんのが?、アメリカよりとがいのが?、冬休みくらいだら遊び来るいのんねが、て騒いっだっけ。
第一小学校 2年3組 赤丸は純子
2学期最初の日、おれの隣の席さは確かにだれもいねくて、純子ほんて行ってしまたのがな、今頃何してるんだべなーて思たけげんと、席替えあったり運動会の練習あったりして忙がすぐなて来たら、みんなだんだん純子のことなて忘っでいってしまたんだっけは。
実は純子には盗癖があって、周りの席の子の鉛筆とか定規とか歌の栞ば盗むんだっけ。
んだがら何かなくなたどぎには純子のランドセルばあざぐど、たいてい見つかった。
「純子、おれの定規持てねが?」て聞ぐど、「ほれ」て返して寄ごすごどもあったし、「持てね」てゆうがら「ほんてんか」て追及すっど、「うぢさある」て言うごどもあっけな。
んだがら純子がいなぐなてほっとする子はいでも、悲しむ子はいねんだっけ。
純子が帰国したのは、日朝の赤十字による「北朝鮮帰還事業」だったこと、新潟港から万景峰号で海ば渡ったこと、この事業でS34年から59年までに計9万3千人が帰還したこと、朝日新聞が「この世の楽園」と持ち上げだ国が実は「極東の煉獄」だったこと、行った者は二度と戻らんねっけこと、山奥さ強制収容所(=コリアン・アウシュビッツ)があって、救援食料は市民まで届がずにどごがで消えでしまうこと・・・ばおれが知るまでには、その後20年近くを要したんだ。
「住所決またら手紙出すがら」てゆてだ純子がらはついに1通の手紙も届ぐごどはないっけな。
純子ー 今はスンジャが
生ぎでんのがー?
そっちがらイムジンガンは見えっかー?
腹減ってはいねがー?
新潟港を出る万景峰号
あの時担任だったI先生からは、毎年年賀状が届いていた。
しかし一昨年初めて来なかったので気になっていた。
昨年息子さんから葉書をいただいた。
先生は山形で一人暮らしをされていたが、認知症になり、今は東京の息子さんと一緒に生活されているのだそうだ。数えてみるともう八十路の半ばにある。「母がこれまで通りのお付き合いをするのは難しいと思います」、とあった。
私が第一小学校の頃、1学年下に金○忠男、上○哲雨という二人組がいた。
この二人はいつも一緒で、乱暴者だった。哲雨は「てつう」と読む珍しい名前だった。同級生との喧嘩はもちろん、箒を振り回してわがクラスに殴りこんできて上級生も泣かせるほどだった。どちらも、お下がりと思える擦り切れた学生服を着ていた。哲雨は右の切歯を欠いていて、喧嘩で折れたのだと自称していたから凄味があった。
二人の得意技はパッチギだった。相手の腕を押さえ、がぶって壁際に追い詰め、鼻っ柱に頭突きをくらわすのである。鼻血でも出れば相手はたちまち戦意を喪失した。
彼らは線路の西側から陸橋を越えて学校に来ていた。
昭和30年代、山形市の奥羽本線の東側は開発が進み、子供が一人で歩いても安心なほど開けていたが、西側エリアにはまだ戦前戦後が混在していた。
陸橋の西側には引揚者のバラックがあり、防空壕があり、バタ屋、屑(鉄)屋と呼ばれる商売の人達がリヤカーを引いて行き交っていた。野良犬も徘徊していた。「金○、上○は霊石のバタ屋の子」との噂があった。
西側は子供にとっては、「おかないげんと覗いで見っだい」魔境だった。すずらん街に来ていた爆弾屋(米粒に熱と圧力をかけてポン菓子にする)の後をついて行ったら、やっぱり陸橋を越え、バラックに続く路地に入って行った。
金○忠男、上○哲雨の二人組は卒業までは第一小学校にいなかった。私が6年生の頃にはいなくなっていた。知らないうちに転校して行ったのだと思っていた。
しかし、今考えると、「忠男」も「哲雨」も朝鮮系の名前ではないか。「忠男」は「チュンナム」、「哲雨」は「チョルウ」だ。二人一緒にいなくなったとすれば、純子に続いて両家族で北朝鮮に帰還したのではなかっただろうか。
日本で碌な仕事がなく、差別され、北朝鮮が「地上の楽園」と聞けば、船に乗りたくもなっただろう。
「喧嘩では日本人に負げんなよ、まずはパッチギくらわしぇでやれ!」と親に教えられた結果であれば、あの乱暴三昧もむべなるかなと思いあたる。
当時産経新聞は、「暖かい宿舎や出迎え/第二次帰国船雪の清津入港/細かい心づかいの受け入れ」、
読売新聞は、「北朝鮮へ帰った日本人妻たち/夢のような正月/ほんとうに来てよかった」と書いた。
朝日新聞朝に至っては、
「 帰還希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想を尽かしながらも、二度と戻れぬ日本を去って”未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎振りや、完備した受け入れ態勢、目覚しい復興振り、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ。」とまで書き、さらなる希望者を送り出した。
現在帰国事業は、生活保護支給が重荷になり、さらに治安問題を憂慮した日本政府と、結託したマスコミによる巧妙な朝鮮人追放政策だったと総括されている。
第一小学校には駅前~七日町の良家の子女が通っていたが、第三中学校に入ったら、南沼原~飯塚の鼻水垂らして腰手拭した汚い子供らが混ざって来た。東側の子供たちは相対的にこぎれいに見え、いきなり「シティボーイ、シティガール」と持ちあげられて戸惑った。
飯塚、南沼原の子供はたいてい農家の子供で、田植え、稲刈りの時期にはよく学校を休んだ。爪はいつも黒かった。
「おらだはざいごしゅだがらよ」と自らを卑下していた。
線路西側のエリアはここ10年でようやく再開発された。着手が遅れた分、そのスピードは恐ろしいほどだ。
鉄興社(東洋曹達)は移転、バラックは取り壊され、東横イン、マックスバリューが出来た。
あの頃、爆弾屋が帰って行った路地はマックスバリューの南側の辺りになる。
駅から三中が丸見えになった。「鍛えて育つ自主の力」と校歌がフェンスに大書してある。
これを見ると自然に校歌が口から出てしまうから恥ずかしい。
霞城公園整備計画により、お堀周辺の古い小住宅も一戸残らず取り壊された。
駅の隣のスペース(テルサの北側)に新県民会館ができるという計画があったが、資金難から暗礁に乗り上げているという。
忠男と哲雨の消息は誰に聞いても分からない。
リムジンガンを北から眺めているかもしれない二人。彼らのコンビは今も健在だろうか。
山形駅西部は、最近「駅西都(エキサイト)」などと煽てられているが、おれが想い出すのは爆弾屋のリヤカーがとぼとぼ帰って行く、貧しい錆色の風景だ。
テレビが来る前、夜は静かだった。
路地を通り抜ける風の音が怖かった。
蒸気機関車の悲しげな汽笛はスズラン街にまで聞こえた。
笹堰の瀬音は枕の下を流れて行った。
吹雪の夜には法華経の寒行が町内を練り歩く。
白装束に提灯を下げ、団扇太鼓を打ち鳴らす一行が雪の中から現れると、子供らは慌てて家に入った。。
「言うごど聞がね子はでんでんぼんぼんにちぇでってもらうぞ」と親に脅かされ、布団にもぐりこんだ。
隣の部屋で婆さんが仏壇を閉める音がしたら9時だった。
9時を過ぎると鬼が来るから早く寝ろと言われた。
長屋の壁は薄く、隣家の声が丸聞こえだった。
Oさん宅の爺さんは、「飯まだだが?今日は朝から喰ってねど」と毎晩夜中に暴れた。
鬼とは耄碌した年寄りのことだった。
自分が鬼になるのを恐れていた婆さんはその前に死ぬことが叶った。
認知症などと呼び方を変えてみても鬼は鬼。
幸か不幸か、わが家では昼夜が分からなくなるまで生きた者はない。
茄子と胡瓜の馬に乗り、盆に帰って来る者がいる。
日本一暑い夏に、火を焚いて迎える者がいる。
暑さのあまり、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなる。
昭和30年代
テレビはようやく月賦で買えても、マイカーを持っている家はなかった。
そもそも車を置く場所がなかった。
どの家も庭は猫の額ほどに狭く、少しでも隙間があれば野菜を植えた。
人は週に2回銭湯に通った。
昭和40年代まで銭湯はなくてならないものだった。
スズラン湯が休む毎月10日と20日は、近所でもらい湯をするか桜湯まで通った。
薪を燃やしての飯炊きは一仕事だ。
主婦は5時起きして一日分の飯を炊き、朝は生卵、昼は水ままと胡瓜の古漬け、夜は冷飯を塩引きと佃煮で食べた。
トンカツは肉屋で買うもの。肉の厚さはわずか1㎜。美味いものではなかった。
一番の御馳走は月1回のメリケン粉たっぷりの豚脂身入りカレーだった。
犬は日に一回味噌汁かけごはんをもらい、外で寝起きした。
人と犬は居住空間が厳しく分けられ、犬が座敷に上がることはなかった。
狂犬病の注射がようやく始まった頃で、フィラリアの薬もなければ、動物病院もなかった。
犬の寿命は5年ほどだった。
台風が来ると堰が流木で詰まり、溢れた水で何軒かは床下浸水した。
「辰つぁんどごだいじょぶだがー?」
風雨の中、大人たちは各戸の安否を確認して回った。
学校で誰かの持ち物がなくなれば、盗む子の鞄をみんなであざく。
たいていは見つかり、持ち主に戻って一件落着した。
子供らには自治が機能しており、教師の出る幕はなかった。
盗む子はスンジャのほかにもう一人いた。信ちゃんという。
信ちゃんは泥棒だけど正直で、「おれの消しゴム盗ったが?」と聞くと、「あるよ」とすぐに返して寄こした。
テレビは本当のことを伝えず、新聞は平気で嘘を書いた。
メディアも人の暮らしも犬の暮らしも、まだまだ貧しかった。
時が変えるのは外から見えるところだけ。
良い子は一生良い子を続け、自分を失くす。
盗む子は大人になってますます盗む。
お祈りを強制された子は生涯十字架を憎む。
何十年も昔のことを昨日のことのように書く子供がいる。
「三つ子の魂百まで」
婆さんが念仏のように呟いていた。
年寄りの言うことはたいてい本当だ。
あの頃は近所の人、親戚、友達が年中出入りしていた。
誰も彼も、みな同じくらいに貧乏で、お人好しで、お節介で、噂好きだった。
そんな時代がたまらなく懐かしい。
嫌なこともたくさんあったはずなのに、時のフィルターを通すと全てが美しい。
一日だけ戻れるならば、年若く逝った父母に、会えなかった孫のことを話したい。
記憶はいつも いくつかの過ちに満たされている
もし記憶が美しいものなら
それは記憶が犯す その過ちの美しさにほかならない
そして想い出がいつも 涙で終わるものなら
それは想い出がもともと 涙の棲家だからだ
目を閉じて故郷の町を彷徨する時間は至福である。
ときには白い鳥になって海を越え、リムジンガンを遡る。
スンジャ、チュンナム、チョルウを捜して収容所の上を旋回する。
スンジャは生きているのか、腹を減らしてはいないか。
チュンナムとチョルウのパッチギは本場で通用しているか。
粥の一椀を争ってはいないか。
쥰코, 타다오, 철우, 살아 있을까?
저것은 대포동이다.발사의 준비가 되어 있다!
昔の町並みを一人彷徨い、友のことを思う。
大空に舞い上がり、父母のおわす国に近づくときの幸福感。
それこそが私の求めるものである。
そこは山形夢横丁、セピアの町。私だけの山形。
~セピアの町 完~
今見ると、車はすれ違えない道幅である (左は紫苑寮、右は附中)
日が暮れると向こうから白装束の一団がやってくる
山形市の厳かな夕景 (駅から白鷹山方面を望む)
長井のあやめ公園に出かけてきました。
看板によると、
「明治42年頃から、国鉄長井線の敷設運動熱が高まり、その運動費捻出のために野川畔にあった町有林を伐採した。
遠藤安兵衛、工藤太兵衛、金田勝見の三氏は、伐採された跡がただ荒れはててゆく姿を見るにしのびなく、明治43年、あやめ数十株を集めて育て、茶店を開いたのが今日のあやめ公園に発展する始まりである。
その後、大正3年~昭和5年にかけて公園の拡張を行い、各方面から優良種のあやめを求め、現在株数3万株、面積4ヘクタール、その種類においても数百種に及んでいる。」
とあります。
6月10日からあやめまつりが開かれている。
公園前に無料駐車場も完備してある。
4分咲きといったところ。
そのせいか人はまばらで、ゆっくり歩けます。
一口にあやめといっても、実に多様です。
アジサイとあやめは梅雨空に似合う。
公園内は隅々まできれいで、この地域の人たちがここを大事にしていることがうかがえます。
晴れていたのに、突然雨が落ちてきた。
人は大慌てだが、池の鯉たちは関係ない。
先日秘密のケンミンshowで紹介された「玉コンの缶詰」を売っていた。
あやめまんじゅうというのもあったが、あやめ色の饅頭はちょっと・・・
売店からフラワー長井線の線路が見えた。
これが「あやめ公園駅」。
近くには温泉、川西ダリア苑もある。
今日は車で来たが、いつかフラワー長井線で来てみたい。
近くの「八寸」という蕎麦屋に寄った。
この辺りは蕎麦街道になっていてレベルが高い。
沿道ではさくらんぼ狩りもやっていました。
あやめまつりは7月10日まで。
心が薄紫色になります。
ぜひお出かけ下さい。
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