先週の金曜日、恒例の首相官邸前でのデモに参加した。
原発に反対し、集まっている人達に元気づけられる。
主催団体の熱意にも感謝感謝である。
ただ、時々シュプレヒコールに違和感を覚えることがある。
「原発いらない」「原発反対」はいいのだ。
僕は原発はいらないし、僕が反対なのだから。
僕がデモに参加していて違和感を感じるのは、
強い命令形のシュプレヒコール。
「大飯を止めろ!」「原発やめろ!」「命を守れ!」「農業守れ!」などだ。
もちろん賛同するのだが、共感しにくいのだ。なぜだろうかと考えた。
それは、主体が自分ではなくなるからなのだと思う。
「原発いらない」「原発反対」は、
「僕は原発いらない」「僕は原発反対」というように、
「僕」が主体であり、僕の意志を表現している。
しかし、命令形になったとたん、「僕」がいなくなる。
強い命令形は、相手と自分をはっきり分ける。
「俺はそんなことしない」
「お前がやっている」
「お前は間違っているからやめろ」というように。
もちろん、首相官邸に向けてのメッセージなのだから、そうなるのは分かる。
でも、何となくなじめないのだ。
それよりも、「原発やめよう」「大飯を止めよう」というような、
レッツ形だとしっくりくる。
この感覚は、原発を進めてきた責任は僕にもあるのだという、
後ろめたさから来るのだろう。
僕もまた、許してきた当事者なのだ。
だから、当事者として、レッツで声を上げていきたい、と思う。
あのデモが始まった時、シュプレヒコールは、ただただ「再稼働反対」の一言だった。
さすがに、これを2時間言い続けるのは疲れるなぁと思ったことを覚えている。
でも、その最大公約数のもとに、あれだけの人が集まった。
最大公約数に近い声のもとには、多くの人が集まるのだと思う。
脱原発デモ、平和運動でも、輪を広げるためにはレッツの方がいいと思う。
そして、自分も当事者であるという痛みをどこかに持ち続けたいと思うのだ。
NHKのスタッフに取り囲まれた外国人の男性がいました。
誰かな~と思いながら見ていたんですが、イタリアの哲学者 アントニオ・ネグリさんでした。
すぐそばにいたんですが、恥ずかしながら誰だか知りませんでした。
youtubeに出てましたが、僕は映ってませんでした。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=hiHjkAHbQZ0 …
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