最東峰第二句集『百壽』のことなど

 最東峰第二句集『百壽』は、「初景色」・「種芋」・「箱眼鏡」・「百壽」・「みそさざい」の五編から成っている。その第一句集『ひむがし』は、平成十年に刊行されており、それ以降の、平成二十一年までの、およそ十年間の作品(今井剛一選の二百余句と自選の百余句)が収載されている。

 第一句集『ひむがし』の口絵(写真)に、昭和四十三年の「歌会始預選歌」入選作が紹介されていた。その「預選歌」と同じ主題と思われる「風土詠」を、今回の第二句集『百壽』の各編から一句を拾い、それらを「預選歌」の一首と並列して見ると次のとおりである。

 川すでに光りそめたり果樹園の

  ゆきばれに来て妻とはたらく  (第一句集『ひむがし』所収「預選歌」)

  

  見馴れたる山河まぶしき初詣    (第二句集『百壽』「初景色」)

  川上へ風のさざなみ芦の角     (第二句集『百壽』「種芋」)

川はいま海への途中麦の秋 (第二句集『百壽』「箱眼鏡」)

那珂川に青瀞いくつ下り鮎     (第二句集『百壽』「百壽」)

生み立ての牛に産気のやうな雪   (第二句集『百壽』「みそさざい」)

これらの作品に接して、その第一句集『ひむがし』の「序」(今瀬剛一)の「栃木県のその東を背負って立つ」俳人という思いを実感とする。そして、それは、那珂川と八溝と、そして、遠くの那須の連峰との、その山河から、その風土から「生まれ出る」、珠玉のような十七音字という思いでもある。そして、その背景には、「預選歌」の「和歌優美」の「やまとことば」の美しい調べが、「雪晴れ」ではなく「ゆきばれ」が、「働く」ではなく「はたらく」が、「既に」ではなく「すでに」が、「染めたり」では「そめたり」が、その「和歌優美」に対する「俳諧滑稽」が、今回の第二句集『百壽』に接して、その躍動している様を、「初詣」・「芦の角」・「麦の秋」・「下り鮎」・「産気のやうな雪」の、その俳諧の発句の骨法の「季の詞」の「思い入れ」に、歌人・斉藤穂とは別な、俳人・最東峰の雄姿を垣間見る思いがするのである。

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最東峰第二句集『百壽』鑑賞(その一)

一 唵阿毘羅吽欠蘇婆詞四月尽(おんあびらうんけそわかしがつじん)

「序に代えて」の前書きのある一句である。「あとがき」を読むと、「おんあびらうんけそわか」の詠みで、「真言で功徳あれ、成就あれ」の意とのことである。最東さんの家が真言宗なのかどうかは知る由もないが、「歌会始」の預選歌に輝いたこともある最東さんは、「和歌優美、俳諧滑稽」ということを、他の俳人の誰よりも、熟知し、それを実践し続けている方である。第二句集『百壽』の上梓(発行年月日=平成二十一年四月二十八日)にあたって、その「四月尽」(季語)に、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)、「功徳あれ、成就あれ」と祈願する…、そんな「序に代えて」の一句なのであろう。何とも、意表をつく、最東さんらしい、「序に代えて」の一句である。しかし、「俳諧滑稽」を地で行く最東さんは、そんな、大上段の鑑賞だけではなく、例えば、テレビドラマの「風林火山」の上杉謙信が、護摩を焚いて、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)、「唵阿毘羅吽欠蘇婆詞」(おんあびらうんけんそわ)と、一心不乱に唱えている、そんなことが、この句に潜んでいるような、そんな「軽み」の一句という雰囲気もするのである。

二 死ぬ勇気生まれる元気年新た (初景色)

 「死ぬ勇気」「生まれる元気」とは、最東さんの発見であろう。余命幾ばくもない亡き伯母が、「お産も大変だが、死ぬのはもっと大変だ」と言ったのを記憶しているが、どういう死であれ、「死は勇気」の世界のものであろう。そして、「生まれる」、生の誕生は、「元気」の世界のものであろう。こういうことを、ずばり、新年の「年新た」に、「死ぬ勇気」「生まれる元気」と喝破する、俳人・最東峰さんは、やはり、「和歌優美」に対して、「俳諧滑稽」の何たるかを知り尽くした方という思いがするのである。

三 月の兎山の兎と年迎ふ    (初景色)

 最東さんの句はどれも平明な表現のものに徹しているが、どの一句をとっても、「そうなのか」と思うような、いわゆる、言外の隠された世界というものが、何とも魅力的なのである。この句は、「月の兎」「山の兎」「と」「年迎ふ」で、この「と」が絶妙なのである。「月の兎と」また「山の兎と」、この新しい「年(を)迎ふ」なのである。「月の兎」とは、子どもの頃によく聞かされた、「月に兎がいる」という伝説(『今昔物語』)や、『枕の草子』などに出てくる、「雪月花ノ時最モ君ヲ憶フ」(『白氏文集』)というようなこと、そして、「山の兎」は、文部省唱歌の「故郷」の「兎追いし彼の山」の、あの「山の兎」が思い出されてくるのである。最東さんは、月を見ては、「亡き友ら」を思い、そして、眼前の八溝の山々を見るたびに、「兎追いし彼の山」の、なつかしい「旧友」を偲びつつ、それらの「友垣」と「新しい年を迎える」というのであろう。

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二十二のアフォリズム(警句)(その五)   
--最東峰句集『ひむがし」・大島邦子句集『俯瞰図』鑑賞--

21 長、短、長短、合計三十六本の線が春夏秋冬神祇釈教恋無常を座標とする多次元空間に、一つの曲折線を描き出す。此れが連句の幾何学的表示である。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その二十一〕

  ○ ばん阿寺の二月のこゑ澄む鴉かな(大島邦子・「地芝居」)
  ○ 山彦の国のぜんまい峠かな(最東峰・「百千鳥」)
  ○ 此の国の山皆まろき朧哉(かな)(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 寺田寅彦こと牛頓先生の、このアフォリズムは全文連句に関することであり、直接的には、大島さんと最東さんの、この掲出句の鑑賞に示唆を与えるようなものではない。しかし、大島さんと最東さんの、その句集の集中から、「季語・切字・挨拶句」の要素を持っているもの、即ち、連句の一番最初の句(発句・五七五の長句)のようなものを抽出したものが掲出の二句なのである。
 大島さんの句は、遠く室町時代に逆上る歴史的に由緒のある「ばん阿寺」の足利の土地への挨拶句であろう。そして、最東さんのこの句は、自分の住んでいる烏山の地続きの福島・茨城の県境を南北に連なる広大な「八溝地方」の挨拶の句であろうか。このお二人には、このような発句的な挨拶句というのは極めて数える位しか目にすることはできない。いや、発句的挨拶句などというよりも、定型(五七五)・季語はともかくとして、「や・かな・けり」などの典型的な切字のある句が極端に少ないのである。
 このことに関して、強調と省略という観点から切字を重視する高浜虚子流の俳句や散文化に対抗しての韻文化を目指しての切字重視の石田波郷流の俳句を除いて、近代・現代の俳人の多くは、定型・季語の重要視に比して、この切字は疎んじられており、大島さんも最東さんも、こと切字に関しては、「四十八字皆(みな)切字也」(芭蕉)の趣(おもむき)なのである。しかし、連句における発句と平句(発句以外の句:川柳の母胎というのは本県出身の柳人・前田雀郎の説)との決定的な違いは、この切字にあり、定型・季語を重要視する俳人ならば、この切字についても再評価をして欲しいと思うのである。
 さて、牛頓(ニュートン)先生の切字の素晴らしい掲出の「此の国の」句に多分に共感を寄せるであろうところの、牛一頓(ニューイットン)先生こと最東さんが、同年代の下野という風土を同じくする大島さんをお誘いして、この、新しい土着の切字重視の、新しい世界に鋤をふるっては下さらないであろうか。もし、それが万分の一でも叶うとしたら、この寺田寅彦こと牛頓先生の「二十二のアフォリズム」との関連で、大島さんと最東さんとの句の幾つかについて鑑賞してきたことが、結果として恵まれるということになるのであるが、ことはそのように単純にはいかないであろう。即ち、この冒頭の21のアフォリズムのとおり、連句の多次元空間と同じように、それぞれが、それぞれに、「己の俳諧・俳句」の道を模索しており、そうたやすく、今まで納得しなかった空間に入り込んでくるとは考える余地もないということなのであろう。「しかし、それでも、なお、おねがいしておこう」とこれを結びとして、このまことに風変わりな、大島さんと最東さんの句集の管見の結びとすることが、極めて妥当のようにも思えるのだけれども、寺田寅彦こと牛頓先生のアフォリズムは、何の因果かもう一つあるので、それを全文掲載しながら、牛頓先生閣下が喜ぶような、大島さんと最東さんの「切字の効いた」句を牛頓閣下のそれと並列して、それを結びとすることといたしたい。

22 芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。或る学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞の句を作るのは野糞をたれる事である。叙景の句はどういう事になるか。それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、其の景色の中へ自分が飛び込んで其の中でダンスを踊らなくては、此の定義に添わないことになる。此れも一説である。少なくとも、古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一つの重要な差別の一面を暗示するもののようである。

  ○ 客観のコヒー主観の新酒哉(かな)(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)
  ○ 春寒や土着の鴉土着の吾(大島邦子・「湖の蝶」)
  ○ 寒鯉の重さに水の沈みけり(最東峰・「空は子に」)


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二十二のアフォリズム(警句)(その四)   
--最東峰句集『ひむがし」・大島邦子句集『俯瞰図』鑑賞--

⑯ 「三から五ひくといくつになる」と聞いて見ると、小学校一年生は「零になる」と答える。中学生が傍らで笑って居る。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十六〕

  ○ らくがきの掛け算引き算銀杏散る(大島邦子・「湖の蝶」)
  ○ 十二支に濁音一つ年の市(最東峰・「空は子に」)

 「銀杏散る」を見ながら、大島さんは栃木市の秋の真っ青なキャンバスに「らくがきの掛け算引き算」を描いている。最東さんは歳末大売り出しの烏山町で、「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」と十二支を手で勘定しながら、濁点は「ひつじ」の一つかと呟いているのである。
 このお二人に、寺田寅彦流の、この、「三から五ひくといくつになる」と聞いて見たら、これは、この、傍らで笑っている中学生のように、「マイナス2」という代数学的な解答はせず、さぞかし寺田寅彦こと牛頓先生が満足するような回答を寄せることであろう。 そして、この、牛頓先生の⑯のアフォリズムは、次のような文章が続くのである。
「物事は約束から始まる。俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。のみならず、それは立派な詩であり得る。しかし、それは、もう決して俳句ではない。」
 そうなのである。大島さんも最東さんも、いろいろな俳句の世界に遭遇しながら、自分の信ずるままに、「自分の俳句を作っている」。しかし、この牛頓先生の⑯のアフォリズムの、「俳句の約束事」については、決して踏み外さないことは、これまた、このお二人は、決して否定することはないであろう。

⑰ 鰻をとる方法がいろいろある。筌(うけ)を用いるのは、人間の方から言っても最も受動的な方法である。(略) 次には鰻の穴を捜して泥の中へ手を突込んでつかまえる。此れは純粋に主動的な方法である。最後に鰻掻(か)きという方法がある。此の場合の成行きを支配するのは「偶然」である。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十七〕


  ○ 錆鮎を噛りて薄き血が動く(大島邦子・「湖の蝶」)
  ○ 縄を噛みしめ塩鮭の面がまへ(最東峰・「空は子に」)

 大島さんの句集『俯瞰図』には魚の句はこの一句のみである。この句も生きた錆鮎ではなく、塩焼きになった錆鮎であるから、主題は歳時記の動物の中の錆鮎ではなかろう。とすると、大島さんの句集『俯瞰図』には魚の句は一句もないということになる。     最東さんの句集『ひむがし』には「どじょう・寒鯉・鮎」などの句が見られるが、これらは、所謂、川魚の類で、海の魚の句は一句も見つからない。掲出句も、海で取れた鮭ではなく、川に回遊してきた秋鮭の、その塩鮭であり、大島さんの句と同じように、主題は歳時記の動物の中の鮭の句ではなかろう。即ち、お二人とも、海なし県の下野の俳人という共通項のなせる技なのであろうか。
 寺田寅彦流のアフォリズムでいくと、もの(鰻)を自分のものにするには、主動的・受動的の他に「偶然」のなせる技があるという。こと、魚に関しては、大島さんと最東さんは、このアフォリズムの、主動的・受動的もまた「偶然」をも余り遭遇していないということなのであろう。と同時に、このお二人の句作りは、この掲出句のとおり、寺田寅彦流のアフォリズムの、主動的・受動的・偶然という観点からすると、主動的な句作りがその主流を占めているという共通項を有しているのである。およそ、「果報は寝て待て」主義の「受動的・偶然的」句作りという領域がどのようなものか定かではないのだが、より多く「俳諧自在」的な境地が、今後のお二人の目指す方向なのであろう。とすれば、もっともっと、広大無辺に、いろいろな素材に、その得意とする主動的な句作りを押し進めるということなのであろう。とすれば、こと、魚の句に関しても、寺田寅彦こと牛頓先生程度の魚の数程度の句を目に見せて欲しいのである。
 ちなみに、牛頓先生の句に見られる魚は次のようなものである。「鮎・河鹿・鱸(すずき)・鰯(いわし)・沙魚(はぜ)・鮟鱇(あんこう)・河豚(ふぐ)・海鼠(なまこ)--」。何と、お二人が食指を動かすような顔ぶれであることか。

⑱ 古典物理学の自然観はすべての現象を広義における物質と其の運動との二つの観念によって表現するものである。しかし、物質をはなれて運動はなく、運動を離れて物質は存在しないのである。自分の近頃学んだ芭蕉の所謂「不易(ふいき)流行」の説には、自ずからこれに相通ずるものがある。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十八〕

  ○ 愚を通しけり人日の川の照り(大島邦子・「湖の蝶」)
  ○ 俵積む如く雪降り懐胎す(最東峰・「空は子に」)

 これらの掲出句は、大島さんと最東さんの句集の末尾を飾っている句である。この二句とも、お二人の自信作でもあろうし、そして、この二句ともお二人の句作りの特徴を端的に物語るものと受け取って差し支えないものであろう。
 さて、寺田寅彦のこのアフォリズムも、芭蕉の「不易流行」に関するもので、甚だ、その「不易流行」を考える場合の一つの示唆を与えるものとして、重要なアフォリズムでもある。即ち、このアフォリズムの考え方は、芭蕉の「不易流行」の「不易」が、「物質」とするならば、その物質の「運動」が「流行」であり、この「不易流行」というものは、「物質」と「運動」が表裏一体のものであるように「不易」と「流行」とも表裏一体のものであるというのである。    
 いま、この「不易(物質)流行(運動)」を「不易(重み)流行(軽み)」と置き換えて見ると、掲出句の大島さんの句は「重み」の句ということができるし、最東さんの句は「軽み」の句ということができよう。そして、このことは、より多く、大島さんの句が、「詩性」重視の句作りなのに比して、最東さんのそれは「俳味」重視のものと理解することもできよう。そして、重要なことは、「詩性」といい「俳味」といい、実はそれらは表裏一体のものであり、丁度、コインの表と裏のようなものなのである。ともすると、「詩性」重視の人は「俳味」重視の人を別世界の人と見て、また、「俳味」重視の人は「詩性」重視の人を排斥るという傾向が無きにしもあらずのようなのである。
 そんなことを念頭に置きながら、掲出の二句を見ていると、「愚を通しけり」・「懐胎す」というこれらの句の主題が、実に、近い距離にあるということを教示してくれるようなのである。

⑲ 俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものは唯だ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限の「面」の世界が広がる。(「連句」が多次元の世界であるということについては省略)。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十九〕

  ○ 逆光の石に腰かけ広島忌(大島邦子・「青い壜」)
  ○ こんなにも陽炎こんなにも戦死(最東峰・「百千鳥」)

 「戦後派」・「戦前派」という分け方でいけば、大島さんも最東さんもこの二者には入らず「戦中派」という世代であろう。そして、この「戦中派」の世代が最も戦前と戦後との価値観の狭間に翻弄された世代でもあった。そして、それを裏返せば、人間を支えている価値観の「虚実」ということを、嫌というほど体験した世代でもあったろう。このことを、寺田寅彦流のアフォリズムでいくと、虚数と実数とが組み合わさり無限の「面」の世界の広がりに敏感の世代であるというようにもいえるであろう。この掲出の句は「戦中派」世代のお二人の戦争詠ということになる。この二句とも、「虚実」相半ばする絶妙な句作りであり、この句に接する人に鮮烈な「実」と「虚」とを感じせしめる。  
 そして、この寺田寅彦流のアフォリズムも、俳諧・俳句の最も重要な「虚実」いう二面で作句することの定石について教示してくれる。この掲出句の二句でいえば「逆光の石に腰かけ」・「こんなにも陽炎」が「実」の世界であり、「広島忌」・「こんなにも戦死」が「虚」の世界ということになろう。この「実」と「虚」との結びつきが、何と無限の反戦句となっていることか。大島さんも最東さんも、相互に、これらの句に接して、真に、心の会話のできることの実感を味わうことであろう。

⑳ 「如何(いか)に速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に」・「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島へ横切って延び拡がる」〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その二十〕

  ○ 初蝶が純白にして意を決す(大島邦子・「青い壜」)
  ○ 出稼ぎにゆく太陽に肩をのせ(最東峰・「星合」)

「如何に速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に」は、芭蕉の『おくのほそ道』での作の「五月雨を集めて早し最上川」の英訳したものを牛頓先生が日本語に再翻訳したものである。そして、「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島へ横切って延び拡がる」は、同じく、芭蕉の『おくのほそ道』での作の「荒海や佐渡によこたふ天の川」の英訳したものの日本語に再翻訳したものである。こうした実験をして、寺田寅彦こと牛頓先生は、「滑稽を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを感じた」というのである。このアフォリズムは直接的には「西洋人に日本人の短詩型文学の俳句をどの程度理解させることがきるのか」という問題なのでるが、これを、「俳句鑑賞者に俳句創作者の短詩型文学の俳句を(具体的・個別的に)どの程度理解させることがきるのか」と置き換えてみると、全く同じように、「滑稽を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを感じる」のではなかろうか。
 さて、この掲出の二句は、大島さんと最東さんの句集の冒頭を飾っている、お二人にとっては、思い出の忘れざる一句ということになろう。この二句を牛頓先生にならって、別な言葉で意味を翻訳する形のように置き換えて見ると次のようになる。        「今年初めての真っ白な紋白蝶が、その純白といっても良いその白さの故であろうか、何か、ある種のこと決行する意思の表明のようにも見えてくる」。           「仕事がないので出稼ぎに行く。その出稼ぎに行く姿に太陽の日差しが差し込め、まるで太陽に肩をのせているように見えてくる」。
 このような実験をすると、五七五の十七字の省略の文学に、その省略を補うような意味論的な鑑賞はやや無理があるということを実感する。しかし、その無理を承知の上で、意識的にしろ無意識的にしろ一句を鑑賞しようとする時には、その五七五の十七字を読み取ろうとする作業を強いているということも紛れもない事実なのである。そして、曲解か誤解かはともかく、この一句(実)を作っている作者(虚)を、この句に挿入して鑑賞して見ると、やや輪郭がはっきりするような錯覚に陥るのである。この錯覚はその作者の詐術なのかも知れないが、この詐術こそその人の技量ともいえるようなのであろう。
 とにもかくにも、俳句創作者はなかなか自分が意図したようには俳句鑑賞者にその意図を理解して貰うことは甚だ困難なことなのだということは、このアフォリズムの一つとして熟知して置く必要があろう。とした上で、この掲出の二句を鑑賞してみて、大島さんの句作りの出発点は、ある種の象徴的な世界を目指したものであったのに対して、最東さんのそれは、ある種の労働讃歌のような写実的な世界を出発点としている点で好対象となっているということは、それぞれの句集の冒頭の掲出句よりして指摘して置く必要があると思えるのである。

二十二のアフォリズム(警句)(その三)   
--最東峰句集『ひむがし」・大島邦子句集『俯瞰図』鑑賞--

⑪ 眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることが出来るように出来て居る。しかし、耳の方は、自分では自分を閉じることが出来ないように出来て居る。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十一〕

  ○ 花火師を走らす秋の百発目(最東峰・「星合」)
  ○ 春の雲乱打乱打の村太鼓(大島邦子・「地芝居」)
  ○ やゝありてぽんと鳴りけり遠花火(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 最東さんには、耳(聴覚)や鼻(臭覚)よりの句は少なく、ほとんどが目(視覚)より来る句である。それに比して、大島さんのは、目(視覚)のものは勿論、耳(聴覚)・鼻(臭覚)よりの句もあり、その意味ではバラエテイに富んでいる。最東さんの掲出句も花火の音の句というよりも、花火の音の下で操作をしている花火師を目で追っている句であろう。それに比して、大島さんのこの句は村太鼓を「乱打乱打」と耳でとらえている句ということになる。そもそも、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」も、「歌よむ蛙(蛙の鳴き声)」より「歌なき蛙(飛び込む蛙)」への、「姿」の獲得で、芭蕉は俳句の何たるを知ったのだという。ことほど左様に、俳句、即、耳よりも目による、姿の描写こそ俳句の本流たるものなのであろう。そして、芭蕉のみならず、芭蕉の俳諧(連句)を俳句(発句)一辺倒にしてしまった「俳句革新」の偉業を成し遂げた正岡子規もまた、写生の権化で、芭蕉以上に、俳句、即、耳よりも目による、「姿」の獲得に奔走したのである。この伝統は、今もなお、俳句界にしっかりと根を下ろしており、微動だにしない。そして、最東さんも大島さんも、この伝統をしっかりと守旧していることはいうまでもない。 
 それに比して、寺田寅彦こと牛頓先生の句には、この掲出句のように耳による句を少なからず目にすることができる。そして、牛頓(ニュートン)先生は、俳句一辺倒の風潮の中で、こつこつと「連句と音楽」などというものをものにしていたのであった。とすれば、「目よりももっと抑制のきかない耳」に注意を注ぐことも、芭蕉の俳句開眼と同様に、大切なアフォリズムが含んでいるように思えるのである。

⑫ 虱(しらみ)を這わせると北へ向く、ということが言い伝えられて居る。(省略) 若し、これが事実とすれば此の動物の背光性によって説明されるであろう。(省略) 此の説明が仮に正しいとしても、此の事実の不思議さは少しも減りはしない。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十二〕

  ○ 蟻一つ二つ三つ四つ遂に列(最東峰・「麦の秋」)
  ○ 五頁の二行目栗の花にほふ(大島邦子・「地芝居」)
  ○ 一寸の水三寸の落葉哉(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 最東さんのこの句を、最東さんのお子さんに見せたら、多分「ウーン」と余り良い返答がないことであろう。また、大島さんのこの句をご主人様に見せたら、これまた、「ウーン」と首を傾げられてしまうであろう。と同様に、牛頓先生のこの句もまた、「物理学者の寺田寅彦の句はこの程度のもの」と、これまた、こと俳句の専門・非専門を問わず、それほどの色好いものは得られないのではなかろうか。しかし、この掲出の三句は、寺田寅彦流のアフォリズムの、「虱(しらみ)を這わせると北へ向く」という不可思議さ、その理由ががたとえ科学的に証明されたとしても、それでもなお、その虱の生の不可思議さがどうにも気になるように、言葉では説明できない、俳句にして始めて可能のような、そんな世界のもののように思えるのである。 
 いや、これは、よりもっともらしく、「春雨の柳は全体連歌也。田にし取る烏は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見にゆかんといふ句(芭蕉の句)は、詞にはひかひ(俳諧)なし。浮巣を見に行かんと云ふ所、俳(俳諧精神・俳人格)也」(『三冊子』)の例を出すべきなのであろう。そして、この「俳(俳諧精神・俳人格)也」の(俳人格)は、最東さんも大島さんも私淑したであろう『栃木集』という名の句集を持つ亡き平畑静塔の最後に到達した境地であった。

⑬ 鳥や魚のように、自分の眼が頭の両方について居て、右の眼で見る景色と、左の眼で見る景色と別々に丸でちがって居たら、此の世界がどんなに見えるか、そうして、吾々の世界観人生観がどうなるか。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十三〕

  ○ 海山の仲むつまじくしもつかれ(最東峰・「百千鳥」)
  ○ 古草のまま俯瞰図の現在地(大島邦子・「男坂」)
  ○ 蝸牛の角がなければ長閑(のどか)哉(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)
  ○ 蝸牛は角があつても長閑哉(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 最東さんのこの「しもつかれ」の句は傑作句。海のもの(鮭の頭)と山のもの(大根その他)とこれが「仲むつまじく」下野料理の傑作「しもつかれ」を作り出すのである。最東さんは視力(目ききのする)のある俳人であり、さしずめ、寺田寅彦流の「鳥眼・魚眼」の具有者といっても良いであろう。大島さんのこの句も、大島さんのこの句集の由来ともなっている自信作。しかし、大島さんは最東さんほどの視力(目きき)重視の俳人ではない。さしずめ、「俯瞰図」(鳥瞰図)に照らしていえば、寺田寅彦流の「鳥眼」の具有者ということになるのであろうか。
 とした上で、寺田寅彦こと牛頓先生のこの二句を見ると、どう見ても、牛頓先生は「鳥眼・魚眼」の具有者ではなく、さしずめ、その雅号に由来させて、「牛眼」程度のものであろう。だから、こんなアフォリズムを二十二も綴ったのであろう。だから、この二句のように、「蝸牛の角がなければ長閑哉」、そして、続けて「蝸牛は角があつても長閑哉」とうそぶいたのである。これに付句をするとしたら、さしずめ、「モウーモウーと鳴く牛頓長閑哉」とでもなるのであろう。

⑭ 「ダンテはいつ迄も大詩人として尊敬されるだろう。--誰も読む人がいないから」と、意地の悪いヴォルテーアが云った。ゴーホやゴーガンも何時迄も崇拝されるだろう。---誰にも彼等の絵がわかる筈はないからである。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十四〕

  ○ 雪国の牛一頓の姫はじめ(最東峰・「初暦」)
  ○ 大つごもり押絵の将に恋をして(大島邦子・「青い壜」)
  ○ 後朝や髪撫で上ぐる笹の露(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 この掲出の三句、「姫はじめ」・「恋をして」・「後朝や」と、これは連句でいう恋の句ということになる。大島さんの句や牛頓先生のそれは源氏物語などの王朝文化の借り物という感じであるが、最東さんのは、これはスケールの大きい度肝を抜くような恋の句である。最東さんが所属する「対岸」の主宰者の今瀬剛一さんは、最東さんの、この句集の「序」で、「こうした表現は決して嘘でも、誇張でもない」と述べられているから、全くの牛に関するプロ中のプロの最東さんの実景句ということなのであろう。それにしても、この最東さんの句を寺田寅彦こと牛頓(ニュウートン)先生に見せたかったと思うのである。まさしく、これこそ、牛一頓(ニュウ・ー・トン)のそのものの句なのだ。物理学者で俳諧師の牛頓先生は、ダンテやゴッホやゴーガン以上に最東さんを崇拝することであろう。それにしても、これらの恋の句を三句並べて最東さんの句がずば抜けていると思うのは、これまた、寺田寅彦流の「(その実景が)わかる筈はない」ということに大きく起因しているようにも思えるのである。これも大切なアフォリズムの一つとして記憶しておくべきことであろう。

⑮ 寝入り際の夢現(うつつ)の境に、眼の前に長い梯子のようなものが現れる。梯子の下に自分が居て、此れから登ろうとして見上げて居るのか、それとも、梯子の上に居て、此れから降りようとして居るのか、どう考えても分からない。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十五〕

  ○ あなにやしえをとこの春のどぜう掘(最東峰・「百千鳥」)
  ○ これよりは毛の国さるとりいばら咲く(大島邦子・「地芝居」)
  ○ 晴れんとしてなゐふるひけり春の雨(寺田寅彦・「牛頓先生俳句集」)

 最東さんの句、「あな/に/やしえ/をとこの/春の/どぜう掘」か、それとも、「あなにやしえ/をとこの春の/どぜう掘」なのか、夢うつつの寝ぼこまなこでは、「どう考えても分からない」。大島さんの句、「これよりは/毛の国/さるとり/いばら/咲く」なのか、それとも、「これよりは毛の国/さるとりいばら咲く」なのか、これも甚だ訳が分からない。牛頓先生の句、「晴れんとして/なゐ/ふるひけり/春の雨」なのか、「晴れんとし/てなゐふるひけり/春の雨」なのか、最東さんと、大島さんの句の後にもってくると、この句も、頭が混乱してくる。
 そもそもこれらの句は、読み手にその種の混乱させることを狙っての句作りのようなのでもある。最東さんのこの句、牛飼いの人の句ではなく古事記・万葉人の句なのである。「あなに(ああ!ほんとうに)」・「やし(美哉:美しい)」・「えをとこ(可愛少男:りっぱな男)」・「の」・「春の」・「どぜう掘」というのが正解であった。この一句のみを抽出しても、最東さんという人は、寺田寅彦こと牛一頓(ニュウ・ー・トン)先生に崇拝されること間違いなしの凄い俳人なのである。
 大島さんの句の正解は、「これよりは/毛の国/さるとりいばら/咲く」で、季語は「さるとりいばら(の花)」(別称:「山帰来の花」)ということになる。最東さんから石田よし弘さんと共に革新派(非守旧派)と名指しされた「鬼怒」編集長・増山美島さんの句に「としよりの早読みさるとりいばらの花」という最東さんの掲出句に極めて近い名句があり、増山さんと句座を同じくすることもある大島さんにとっては、この「さるとりいばらの花」は「故郷・下毛野の花」という認識なのであろう。この句も傑作句であろう。 さて、最後の物理学者の牛頓先生の句は、地球物理学者らしく、この「なゐ・ふる」が「な(土地)ゐ(居)・ふる(振る):地震)というのが正解なのであろう。これらの三句を並列して見てこのお三方の共通項は「俳句を楽しんでいる」ということなのである。しかし、このお三方は、このことを言下に否定することであろう。しかし、この寺田寅彦流のアフォリズムの世界において「俳句を楽しんでいる」ということについては、最東さんと大島さんは、決して否定することはないであろう。
        
二十二のアフォリズム(警句)(その二)   
--最東峰句集『ひむがし」・大島邦子句集『俯瞰図』鑑賞--

⑤ ロンドンの動物園へ印度から一匹の傘蛇(コブラ)が届いた。蛇にはダニが一面に取り付いて居た。健全な蛇には此の虫が余り取り付かないものである。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その五〕

 ○ 西東忌人間に骨五萬本(最東峰・「百千鳥」)
 ○ 貝食べし後の手枕河童の忌(大島邦子・「地芝居」)

 「西東忌」は「西東三鬼忌」(四月一日)のこと。「河童の忌」は「芥川龍之介忌」(七月二十四日)のこと。新興俳句の旗手・西東三鬼も、芥川賞の張本人の純文学の象徴のような芥川龍之介も、寺田寅彦流に言えば、「ダニが一面に取り付いて居る不健全な蛇」ということになろう。しかし、かかるが故に、これまた、寅彦流に言えば、「多くのモラールと多くの詩」を考えさせられる一方の雄でもあった。そして、「俳味」重視の最東さんが「西東忌」の句をものにして、「詩性」重視の大島さんが「河童の忌」をものにしていることも、これまた、お二人の好みということになろう。
 本当に「人間に骨(が)五萬本」あるのかどうか--、そんなことはどうでも良いのであろう。これは四月一日のエープリル・フール(四月馬鹿)と、そんなことを最東さんは念頭に置いているのだろう。七月二十四日(大暑の頃)の河童の忌に「貝食べし、(そして、その)後の手枕」をしたのかどうか--、そんなことはどうでも良いのであろう。大島さんは、龍之介の句の、「兎も片耳垂るる大暑かな」などを念頭に置いているのかもしれない。いや、それ以上に、「西東忌」や「河童の忌」の、それらの本体に取りついている、無数の不気味なダニのような不可思議のものに目がいっているということであろう。健全な、健康な、これ見よがしの「孫礼賛」のようなものは、句にならないといわれるけれども、このお二人には、実に素敵な「赤ん坊」の句などを見ることができて、その面に焦点を絞って鑑賞しても、十分に鑑賞に耐える句集という類似項があることも特記しておくことなのかもしれない。

⑥ 夜更けの汽車で、一人の紳士が夕刊を見て居た。其の夕刊の紙面に、犬の欠伸(あくび)をして居る写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。其の紳士は微笑みしながら其の写真を眺めて居たが、やがて、一つの大きな欠伸をした。丁度向かい合わせに乗って居た男もやはり同じ新聞を見て居たが、犬の写真のある頁へ来ると、口のまわりに微笑みが浮かんで、そうして、---一つの欠伸をした。やがて、二人は顔を見合わせて、互いに微笑を交換した。そうして、殆ど同時に二人が大きく長くのびやかな欠伸をした。あらゆる「同情」の中の至純なものである。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その六〕

 これは、寺田寅彦の「二十二のアフォリズム」の六番目の全文である。この一人の紳士を最東さんとして、もう一人の向かい合わせの乗車の人を大島さんとしたら、次の句に接したら、最東さんも大島さんも、「口のまわりに微笑みが浮かべて」、「やがて、二人は顔を見合わせて、互いに微笑を交換し」、そして、「殆ど同時に二人が大きく長くのびやかな欠伸を」するのではなかろうか。

  ○ 掛軸へ孫の漂着夏座敷(最東峰・「麦の秋」)
  ○ 百千鳥雲の軽さの赤ん坊(大島邦子「青い壜」)

 最東さんと大島さんと、その取り巻く俳句環境は全然異にしている。かって、最東さんは、俳誌「鬼怒」の紙上で、大島さんに近い石田よし宏さんらに対して、自分らは「守旧派」の旨の主張したことがあるが、その革新派の多い栃木市在住の俳人の中では、大島さんは、より多く「守旧派」の方に位置するのであろう。しかし、同じ最東さん流の「守旧派」に位置するとしても、かたや、大島さんは「畦」(故上田五千石主宰)流のものに比して、最東さんは「対岸」(今瀬剛一主宰)流のものであり、それは凡そ交差することはないけれども、お二人の句柄・句材はお二人はまだ意識はしていないだろうが、想像以上に寺田寅彦流の「<同情>の中の至純」の関係にあるように思えるのである。最東さんが大島さんの句集『俯瞰図』を鑑賞し、そして、大島さんが最東さんの句集『ひむがし』を鑑賞したら、是非ともその鑑賞文を見せて欲しいと切望したい衝動にかられるのである。


⑦ 足を切断してしまった人が、時々、なくなって居る足の先の痒みや痛みを感じることがあるそうである。総入歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じることもあるそうである。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その七〕

  ○ 猟期来る根をおほらかに八溝山(最東峰・「空は子に」)
  ○ 刈田より刈田を眺む八溝晴(大島邦子「地芝居」)

 最東さんと大島さんの八溝の句である。八溝は最東さんの土地であり、最東さんの句の全てにその八溝の風土の匂いがする。大島さんは最東さんのその農山村の八溝の土地に比べると、江戸時代の船の交通要所でもあった商人の旦那衆の蔵の街・栃木市の在住で、八溝的な風土の正反対の中でのものであろうが、時として、この掲出句のように八溝憧憬的な、原始憧憬的な句が散逸している。それらの句に接すると、蝦夷地に近い大野州の下野人の血の匂いというものに思いが馳せてくるのである。
 今瀬剛一さんは、最東さんの句集『ひむがし』のその「序文」で、「氏(最東さん)は風土に対する真摯の姿勢がある。己れが住む栃木の風土というものに極めて真面目に対している。言葉を換えると、風土というものを信頼仕切っていると言ってもいいかもしれない。風土に真面目に向かうので風土の方でも真面目に本当の姿を見せてくれるのである」との一文を寄せている。この風土に寄せる最東さんの真摯さは、即、大島さんのそれと実に瓜二つのものであった。そして、それは、即、寺田寅彦流のアフォリズムの表現でいくと、「足を切断してしまった人がなくなって居る足の先の痒みや痛みを感じ」るような、「総入歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずきうずくように感じること」があるような、そんな得体の知れないなにものかに起因しているように思えるのである。

⑧ 「庭の植え込みの中で、しゃがんで草をむしって居ると、不思議な性的な衝動を感じることがある」と一人が言う。(もう一人の対話省略。) 此の対話を聞いた時に、私は何だか非常に恐ろしい事実に逢着したような気がした。自然界と人間との間の関係には、未だわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その八〕

  ○ 水盗む八方に敵あるごとし(最東峰・「星合」)
  ○ からだぢゆう落葉の記憶梳(くしけず)る(大島邦子「地芝居」)

 最東さんの住む八溝地方は那珂川水系である。大島さんの住む栃木地方は思川水系である。その水系を母なる水として縦横に田畑が連なる。そして、その自然の恵みを日々の糧にしている最東さんにとっては、この掲出句のようなことは、即ち、「八方に敵あるごとく/水盗む」ことも、田植え時の現実的な日常の風景であったのかもしれない。しかし、それらの日常の農作業の風景の、その根っこの所には、生きとして生けるものの性(さが)のようなものが横たわっているように思えるのである。そして、それは、人間が土地に土着する前の、遙か以前の狩猟時代の悲しい性(さが)にも繋がっているようにも思えてくるのである。そして、この大島さんの、この句の「からだぢゆう落葉の記憶」というのも、大島さんの個人の記憶というよりも、これまた、最東さんの句と同じように、生きとして生けるものの性(さが)のような、より生あるものの実存と深いかかわりのある記憶なのではなかろうか。
 これらの句は決して難解な句ではないけれども、何か、寺田寅彦流の「自然界と人間との間の関係には、未だわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか」というアフォリズムと何処かで関係しているような思いにとらわれるのである。

⑨ 気象学者がcirusと名づける雲がある。白い羽毛のようなのや、刷毛で引いたようなのがある。通例巻雲(けんうん)と訳されて居る。私の子供はそんなことを無視してしまって、勝手にスウスウ雲と命名してしまった。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その九〕

  ○ いわし雲空に水位のあるやうに(最東峰・「雁渡し」)
  ○ 吾なりの病名をつけ鰯雲(大島邦子・「男坂」)

 最東さんと大島さんの鰯雲の句である。鰯雲は秋の雲の代表的なものであるが、それは夏の雲の典型の入道雲(雲の峰)の後の、秋の到来を告げ、その秋の爽やかな青空に鰯が群れているような白い群雲が飛びきり秋の風情を醸し出すが故に、詩歌人に古来から珍重されてきたのであった。斑雲・鯖雲などとも呼ばれる。その鰯雲を見ていると、本当に、青い青い大海原に、最東さんの句のように、「水位のあるやうに」思われてくる、そんな錯覚に遭遇した人は多いことであろう。実に平明な、それでいて実に的確無比な句という感じなのである。それは丁度寺田寅彦流のアフォリズムの「スウスウ雲」の命名のようでもある。それに比して、大島さんの鰯雲の句は、寺田寅彦流のアフォリズムの「スウスウ雲」の命名というよりは、斑雲・鯖雲などの鰯雲の多義的な語源により関係しているような雰囲気の句である。どちらも平明な句であるけれども、より「スウスウ雲」のように映像的かというと、それは最東さんの句ということになるし、より「巻雲」という意味深長なドラマ的な句ということになると大島さんの句ということになるであろうか。
 そんなことを夢想していると、最東さんの句のそれは「いわし雲」とリズム重視の平仮名で、そして、大島さんのそれは病名に出てくるような漢字(意味を考えさせる)の「鰯雲」というのも面白い。ちなみに、「スウスウ雲」・「巻雲」の学術記号はCiで、「鰯雲」・「いわし雲」・「巻積雲」の学術記号はCcという。こんなことに触れてくると、最東さんも大島さんも「お前のはアフォリズムならずアホカイナ」と呵々大笑されるのであろうか。

⑩ 親類のTが八つになる男の子を連れて年始に来た。(略) 挨拶がすんで、屠蘇が出て、しばらく話して居る内に、其の子はつかつかと縁側に立って行った。と思うといきなり其処の柱へ抱き付いて、見る間に頂上迄よじのぼってしまった。(略) しきりに言い訳をするTを気の毒とは思いながら、私は愉快な、心からの笑い声が咽喉(のど)からせり上げて来るのを防ぎかねた。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その十〕

  ○ 花嫁の父もつともな花粉症(最東峰・「百千鳥」)
  ○ 「お袋」と呼ばれてふり向く木の芽風(大島邦子・「湖の蝶」)

 最東さんの句は、花嫁に出す男親の「花粉症」の如き「クションクション」の心境の句なのであろう。寺田寅彦流の「心からの笑い声が咽喉(のど)からせり上げて」は来ないが、それに似たしみじみとしたユーモア(おかしみ)とペーソス(一抹のさびしさ)とを感じさせてくれる。大島さんの句は、まもなく独り立ちする男の子から「お袋さん」と呼ばれたときの、そんな女親の心境の句なのであろう。この句もまた、最東さんの句ほど直接的ではないけれども、どこかで共通する、しみじみとしたユーモアとペーソスとを感じさせてくれる。この二句の根底に位置するもの、これは、「とりとめのない日常茶飯事のことに、ふと角度を変えて見ると実に新鮮に映る、その驚き」を、この句に接する人に与えるということなのであろう。
 そして、それは、寺田寅彦が、縁側の柱を猿のようによじのぼっていた、普段は行儀の良い、虎彦の親類の八つの男の子のその姿を見た時の、その驚きと、全く、共通するものであろう。この虎彦のアフォリズムは、そんなことを教示して呉れているようである。
二十二のアフォリズム(警句)(その一)   
--最東峰句集『ひむがし」・大島邦子句集『俯瞰図』鑑賞--      
                           
                                       
① 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、唯一枚の硝子(がらす)板で仕切られて居る。 〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その一〕
                                        
 ○ 初めての雪初めての赤ん坊(最東峰・「空は子に」)
 ○ 雪降る川緩く曲がりて雪に消ゆ(大島邦子・「地芝居」)

 最東さんの句集『ひむがし』には雪の句は少ない。それに比して、大島さんの句集『俯瞰図』には雪の句が多い。最東さんは烏山の人。大島さんは栃木市の人。それほど、お二人の雪に接する多寡に変わりはない。しかし、最東さんは殆ど雪そのものを句にすることはない。掲出句のように何時も雪(自然)は従でその主題は他(この句では「赤ん坊」・「初孫(?)」)にある。それに比して、大島さんの雪の句は、この掲出句のように「雪の川」(自然)と川が主題の句であっても、下五の「雪に消ゆ」と雪そのものがよりメインとなっているものが多い。 
 さて、昭和一桁時代の最東さんと大島さんの日常生活の世界と作句歴三十年に達するお二人の詩歌の世界とを遮っているその唯一枚の硝子(がらす)板は、最東さんの場合は、雪の景を写す直接的な働きはせず、大島さんのそれは雪そのものの景を直接的に描写するフイルターの役割を担っている。この違いは、二人の句風の特徴を端的に物語るものであって、もし、一番大雑把な分け方が許されるならば、最東さんのそれは、「俳味」(生活実感を通してのペーソスに満ちた滑稽味)重視の「人事諷詠句」を得意とするのに比して、大島さんのそれは「詩性」(生活実感周辺のより審美的な遙かなるものへの憧憬)重視の「自然諷詠句」に、その「唯一枚の硝子(がらす)板」を仕切りにしているようなのである。いずれにしろ、これらの俳句を鑑賞するにしても、また、作句するにしても、この日常生活の世界と詩歌の世界の境界となっている、その人の硝子板がいかがなものか、それを知ることが、まずもって寺田寅彦流の大切なアフォリズム(警句)の一つであることは間違いない。

② 宇宙の秘密が知りたくなった、と思うと、いつの間にか自分の手は一塊の土くれをつかんで居た。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その二〕
                                        
 ○ 目ん玉を残して逃げし雪兎(最東峰・「空は子に」)
 ○ 眼を入れて徐々に悲しき雪兎(大島邦子「湖の蝶」)

 最東さんと大島さんの雪兎の句である。雪兎の目は真っ赤な南天の実でする。雪兎は最東さんと大島さんの幼少時代につながる懐かしい子供遊びの一つであったろう。そして、それらの子供遊びから、さまざまな宇宙の秘密が知ったことであろう。同時に、それらの子供遊びは、その当時の社会のさまざまな残影を色濃く宿すものでもあった。この雪兎の二句、最東さんのは曲球の滑稽句、大島さんのは直球の主情句、しかし、この二句の背景には、昭和一桁時代の戦争との関連の日々の残影が見え隠れしているように思えてくる。 最東さんは和歌という宇宙の秘密から俳句の宇宙の世界と移り、この句などは俳句という非情な土塊にどっぷりと浸かっている感じのものである。それに比して、大島さんのこの句は、省略という俳句の宇宙の世界にいながら、より多く見知らぬ情の世界に飛翔するような、そんな雰囲気の句でもある。ともあれ、和歌の世界も俳句の世界も、宇宙の神秘なベールと繋がっており、その宇宙の秘密を知らんとする、言わば、子供遊びの雪兎に戯れるようなものであろう。これまた、知っておくべきアフォリズムと心得たい。
                                  

③ 過去と未来を通じて、すっぽんが梟のように鳴くことはないという事が科学的に立証されたとしても、少なくとも、其の日の其の晩の根津権現境内では、たしかにすっぽんが鳴いたのである。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その三〕

  ○ 胎内のゆるき発酵養花天(最東峰・「百千鳥」)
  ○ 表紙絵に童画を選ぶ養花天(大島邦子「男坂」)
                                         最東さんと大島さんの養花天(ようかてん)の句である。養花天というと漢語の雰囲気であるが、より和語の雰囲気のある花曇(はなぐもり)の異称でもある。古来、「花開くとき風雨多し」と局所的な不順の陽気で、この頃、分けの分からない頭痛やめまいに悩まされる人も出てくる。「すっぽんが梟のように鳴く」ことがあるのかどうか、これは大変にミステリーなことではあるが、最東さんの句のように、「胎内のゆるき発酵」をするのかどうかも、これまた大変にミステリーなことなのである。また、大島さんの句のように養花天なるが故に「表紙絵に童画を選ぶ」のも、これまた、わけのわからないミステリーの世界そのものなのである。
 しかし、考えてみると、詩人・歌人・俳人は、ことごとく、梟が鳴くよりも、それが、すっぽんの鳴き声のように聞こえる特殊の感覚器を備えていることが必須のようでもあるのである。そして、普通人には見えないもの、聞こえないものを、言葉で表現するということが、そもそも、詩・歌・俳句の第一歩であろう。「すっぽんが鳴く」ということを言下に否定しないことが、これまたアフォリズムであることは言うまでもない。この養花天の二句、それぞれお二人の句作りの特徴をいかんなく発揮しているものでもある。
                                        

④ 霊山の岩の中に閉じ込められて、無数の宝石が光り輝いて居た。試みに其の中の唯一つを掘り出して此の世の空気に曝すと、忽ちに色も光りも消え褪せた一片の土塊に変わってしまった。〔寺田寅彦・「二十二のアフォリズム」その四〕

  ○ 牛の名の片仮名が読め雛まつり(最東峰・「百千鳥」)
  ○ 渡ささる赤子の弾み山眠る(大島邦子・「男坂」)
                                         最東さんの句には牛の句が多い。伊藤左千夫の「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」を、地のままに行くような風姿なのである。それに比すると、大島さんの風姿は多岐にわたり、最東さんのようには「これ」というものはない。しかし、最東さんと大島さんのこの二句は、赤子や幼な子のもので、これらの句でも察知できるように「やさしさ」というものをその根底に宿している風姿には全くの共通点といっても良いであろう。それにしても、この二句は、「雛まつり」と「山眠る」の季語が抜群の働きをしている。「初孫が片仮名牛の名を読めり」では、これでは、寺田寅彦流の「色も光りも消え褪せた一片の土塊」に過ぎない。「渡ささる赤子の弾み冬の山」では、これでは、「色も光りも消え褪せた一片の土塊」にもならない。 
 「霊山の岩の中に閉じ込められている無数の宝石(句想)」も、それを自分の手ではっきりと握ってみると(句作りをすると)、これが何故「宝石に見えたのかと」(句にしたいと思ったのかと)、そんな思いはとらわれることは、これは句作りをする人にとっては日常茶飯事のことでもあるであろう。そんなときに、季語の選択をあれこれとしていると実に座り心地の良いものに遭遇する。ことほど左様に、季語は「霊山の岩の中に閉じ込められている無数の宝石」そのものであるというアフォリズムも忘れてはならないものであろう。