俳誌 「鬼怒」の編集などを携わっていた石倉夏生さんが、句集『バビルーサの牙』を

刊行した。その各章の五句選は下記のとおり。


片片(昭和五十八年~昭和六十二年)

樹の上に次郎三郎夏の雲

いなびかり長女は怯え次女は跳ね

三鬼や不意にライオン起きあがる

野火の焔の奥に三鬼の水枕

ひろしま忌蛇口の一つ上を向き

点点(昭和六十三年~平成四年)

野火の焔に悟空沙悟浄猪八戒

自転車に葱を括りて極楽へ

大粒の室の八島のかたつむり

逃水や西行芭蕉山頭火

枯野にて省略されし二人かな


云云(平成五年~平成九年)

にんげんが縮んでゆくよ青葦原

何を書くか木曽の木橋の秋の暮

十二月犀の細部を見に行かむ

初夢や全身の朱の鱗かな

定年の爛々と見ゆ烏瓜

念念(平成十年~平成十三年)

すべて虚の中のできごと去年今年

人間を眺め厭きたる冬木かな

ゆびきりが嘘のはじまり遠霞

絵の具のやうに言葉押し出す枯木山

潤みたる眼をのこし冬没日

昏昏(平成十四年~平成十五年)

濃く昏く川現るる昼寝かな

羽抜鳥とろとろと基督の夢

五月わが精神にある暗渠かな

白鳥の一羽が寺山修司らし

昭和とは西日を浴びし景ばかり

現現(平成十六年~平成十七年)

人通るたび春泥の笑ひゐる

目に耳に口に桜の咲きはじむ

眼の乾き脳裏の乾き亀鳴けり

身のうちに鬱の点在へびいちご

しもやけのうすももいろの昭和かな

瞬瞬(平成十八年~平成十九年)

野に遊び海より来たる雨に遭う

噴水は永久に白髪且つ怒髪

竹馬の兄が昭和を跨ぎ来し

闇に降る雪の疾さの昭和かな

バリカンの昭和の痛み麦の秋

この夏生さんの句集に接して、

随分前にアップした高柳重信のものなどを思い起していた。


○ 泣癖の

  わが幼年の背を揺すり

  激しく尿る

  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。

これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。

 そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。

 この「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということについて、この夏生さんの句集の、山崎聡さんの「帯文」と、何かしら

重なるものを感じたのであった。

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本間睦美さんの『混沌日和』(メモ)

利休忌のきりきりと髪結ひにけり → この種の原点も忘れずに

胎の子にせかされて行くどんど焼き → 詩や俳句の生まれる背景のようなもの

相槌を打ちそこなひて東風強し → こういう俳諧味(滑稽味)は大切にしたい

かまつかや目をそらさずに生きてゆけ → 和語の面白さ

相聞歌降りそそぐほど栗の花 → この把握は感性のなせる技か

蛞蝓のぬらぬら疑心暗鬼なり → こういう句作りを得意技にしたい

不毛なる言葉を捨てよ紅き薔薇 → この「不毛なる言葉」で痩せる思い

落葉焚く炎に貌のありにけり → この種のものが見えるのは俳眼だろう

神ほとけほどほどにゐて苺食ふ → これも得意技としたい

さくらんぼ頬ばる心理入門編 → 下五の把握は他人は真似ができない

腰曲げしひよつとこもゐる盆踊り → 俳句の原点はこういうところにあった

好き嫌ひ決着つけし烏瓜 → この「いさぎよさ」も大切にしたい

雪女も乳を余しているだろうか → 「なでもござれ」というのも得意技か

何故といふ問ひ不要なり黴生うる → 人が見えない所に俳眼が行く

秋茄子の天才といふ不幸もある → 句よりも作句している作者が面白いか

何もせず死んでゆくなら十三夜 → 西行の末裔か

躁鬱の狭間苗代ぐみの花 → 俳句の句作りと絵画の絵作りは似ているか

くよくよとのうぜんかづら咲いて散る → 石橋の俳人・増山美島に見せたいね

台風や仮名の役割漢字の役割 → 俳句をやっていると惚けることはない

恋多き時もありけり斑雪 → 連句の恋の句の感じ。俳句としては素直過ぎるか

穴まどひどつちへころんでも自分 → 詩でも俳句でも「自分」が主題

鬼やらひグリムに多すぎる不可解 → 謎句の雰囲気 

シナプスの悪戯が過ぎ春暑し → これも謎句か

赤まんま我が体内にある狂気 → これも詩人の魂

返り花助詞多すぎる文の癖 → 助詞が使いこなせるようになったら一流か

淡々と妻病む枝垂れ桜かな → 「妻」とは「ロールプレィング」だね

音程の違はぬ不思議時鳥 → シャッターチャンスと耳が良い

穴まどひ運命・才能・ケセラセラ → この「穴まどひ」も勿論「自分」

どこまでが本物シクラメン真つ赤 → 増山美島の『分類』の花の句(続き)

梅の花嘘で固めてくたばつちまへ → 睦美調の開眼か

ほたるぶくろ無口ですます日曜日 → 周囲から難解句と言われないか

これが恋ならばアナナス厚く切る → アナナス ?

そらで言ふ電話番号百舌鳥の声 → 比喩の句か

藁塚や出会ひたくなき人多し → 木村三男の系譜か

膝ふるへるほど夕焼けを見てゐたり → こういう句は忘れずに

鈴虫の死に急ぐほど鳴いてをり → 究極の主題は「生と死」

非力てふ存在があり黄砂降る → 社会性の句か

牛の子の大きなる目に麦の秋 → これも睦美調か

馬鈴薯の花は弱気であるらしい → 人間以外のものと会話できるのは凄い

畦焼きの一人二人と現れぬ → 風土性というのは大切にしたい

新米やずしりと兄妹年老いぬ → 生活実感のある句は大切にしたい

名を呼ばれたやうな気がして花八ツ手 → 増山美島さんが喜ぶだろう

芒の穂事の始めはあいうえお → この「あいうえお」をご教示を

コチュジャンの加減結局台風圏 → この「コチュジャン」をご教示を

饒舌の庭師が咲かす山法師 → 巧い句

ちちははの墓に溢れし秋桜 → 句会用の句よりもこういう句を

枯野道泣きたい時も泣けぬ質 → 枯野道は俳諧の道

棉虫や私はいつも同じ位置 → 加藤朱さんが「棉虫」は独壇場

藁塚が息吹き返す日暮かな → 下野の俳人として「藁塚」は重要な季語

パン焼いて今日は枯野を歩かふか → 口語でいくか文語でいくか

クリスティそして誰もゐなくなる熱帯夜 → 雰囲気がある

怖いもの知らずコスモスの生き方 → 増山美島の系譜

ふらここに人の来ぬ日の空青し → 俳句愛好者にはこういう句も

蛇の衣疑心暗鬼といふ魔物 → やはり季語も魔物だ

冬うらら魔女の鏡にある本心 → 女性にだけつくれる句

小春日はそつとしておくさるとかに → これも好きな人は好きになるだろう

夕蛙もう一仕事始めけり → やはり具象性が決め手

小六月童話生まれる日和なり → 今後はこういう句が多くなるか

草摘んでをれば瀬の音高まりぬ → 虚子というのは何時も射程内に

ふつと消えふつと現る川蛍 → 俳句というのはマイナーであることの自覚

目覚めたる雪嶺すでに紅の色 → 自分を喜ばす句をつくる

畦焼きにまた背が伸びし息子かな → 生活記録は欠かさずに

梅雨じめりおだてられたき我がゐる → 詩人はナルシスト

おろおろと時雨る賢治思ひ出す → 賢治などを中心に据えること賛成

スルタンの宝冬晴れのボスポラス → 面白い句 句会用か

春の雲驕りと悔いと諦めと → 創作とは自己を責めること

梨の花爺が付き添ふ登校班 → 生活実感がある

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「新栃木集」派の俳人たち(その六)

〔武田美代・『私風景』〕

○薄着し〈て〉受身となりぬ山の蝶(松本文子・『きさらぎ』・「雨靴」)
○一日を絹着〈て〉病めり草紅葉(武田美代・『私風景』・「韮月夜」)

 現在、「響」の同人の武田美代もまた、前の松本文子らと同様に、「鷹」で俳句活動をしていた俳人である。そして、この二句、前の文子の句は、いわゆる、曖昧模糊とした「〈て〉切れ」の〈て〉で、主語が、「文子なのか山の蝶なのか」、どうにもぼやけているのに対して、後の美代の句は、同じ「〈て〉切れ」の〈て〉でも、主語は、「美代」という、非常に明快な句調のなのである。
 この両者の違いは何処から来るのであろうか。それは間違いなく「薄着〈て〉」・「受身となりぬ山の蝶」そして「一日を絹着〈て〉」・「病めり草紅葉」の、この〈て〉によって接続する前と後ろとの間の、その因果関係の強弱に起因するものと思われるのである。すなわち、文子の句調は、ここのところが、日本語の典型的なあいまいさに委ねているのに対して、美代の方は、この日本語の典型的なあいまいさを回避しているような句調となっているように思えるのである。

○春の夜の「孫の手」といふ孤独かな(美代・『私風景』・「私風景」)
○「寿」と書く手の冷えを見られをり(〃)

 この美代の句の「孫の手」・「寿」のカギ括弧は、これまた、美代の、日本語の典型的なあいまいさを回避する、その工夫であろう。「いひおほせて何かある」・「くまぐま迄謂つくす物にあらず」というのは、芭蕉の創見であり(『去来抄』)、この芭蕉の創見は、俳諧(連句・俳句・川柳)の最も重要な大原則であろう。
 この最も重要な俳諧の大原則は、それは、まさに、日本語の典型的なあいまいさに起因しており、そして、そのあいまいさを、美代は、ある領域において回避しようとするのである。これは、俳句に携わるものとして、なかなかできるものではない。これは、美代俳句の特性にもあげられようし、そしてまた、美代の一つの見識でもあるのだろう。
 石田よし宏の、美代の『私風景』の「跋」を見ると、美代が職業として英語の教師をしていてたということが記述されているが、これらの美代俳句の特性や美代の見識は、それらのことと大いに関係をしているのかも知れない。
 いずれにしろ、美代の俳句というのは、詠む人にストレートに、その作意というものを感じさせるだけのインパクトの強さが、その五七五の十七字に託されているということである。

○子を褒められ〈て〉曇天の栗の花(美代・『私風景』・「韮月夜」・昭和五十三年)
○梅干を入れ〈て〉魚煮る夏はじめ(美代・『私風景』・「昼鶏」・昭和五十七年)
○つまづき〈て〉寒の音立つ寺の中(〃・「私風景」・昭和五十七年)

 武田美代の句集の『私風景』は、「韮月夜」・「昼鶏」・「私風景」の三章に分かれている。そして、どの「〈て〉切れ」の〈て〉のある句をとっても、実に明快である。そして、それ以上に、美代の俳句というのは、実に、主語の「われ・わたし」が明確なのである。ほとんどの句が、その主語は「われ・わたし」といっても良いだろう。
 このことは、その句集の題名が、『私風景』ということに関連してのものだけではなく、もっと、美代の俳句というのは、俳諧の本来的に持つところの「あいまいさ」を回避することにも関連して、「私がいない俳句のあいまいさ」ということに対して、西洋的な「われ・わたし」という創作主体を明瞭にしたいという根本的な創作姿勢に起因しているとも思われるのである。
 すなわち、掲出の三句は、ことごとくが、その主語は美代その人であろう。

①私が「子を褒められ〈て〉」そして「曇天の」・「栗の花」が咲いていました。
②私が「梅干を入れ〈て〉」・「魚煮る」、それは「夏はじめ」の時でした。
③私が「つまづき〈て〉」そして「寒の音立つ」・「寺の中」でした。

○寒林の錆びたる色の私です(美代・『私風景』・「私風景」・昭和五十七年)
○微熱かな今寒林の私風景(〃)

 この二句ともその句集の『私風景』の最後の頃の作品である(後の句は句集の最後を飾っているものである)。ここに、明確に「私」そのものが登場してくる。このことは、「あいまいさ」を金科玉条にしている、俳諧の長い長い歴史に対する重大な警鐘であろうか。
 しかし、美代が、もし、このことを意識して作句しているとしたら、「響」の主宰者の中嶋秀子が「名人あやうきに遊ぶというような個性の強い作品も多い」と評したように、大変な危険な試みを敢行していることもまた事実であろう。
 そもそも、「あいまい」な俳句には「われ・わたし」という主語はボケていることは確かなことであろう。しかし、だからといって、それは「没個性」というのではなく、より「超個性」的に、「作り手」と「詠み手」とが、共同作業して、「作り手」が想像もしていなかったような、「いひおほせて何かある」の世界を現出させる、その原動力にもなっているということなのである。
 そして、美代が、「寒林の錆びたる色の私です」という世界だけで、その世界から一歩も引かないとしたら、それは、「いひおほせて何かある」の本当の俳諧の世界を知らないで、いたずらに、「己が世界の俳句」だけで終始してしまうのではないかという懸念を抱かざるを得ないのである。

○岩鼻やここにもひとり月の客(去来)

 この自作の句に対して、去来は、この句の主題(主語)を「月の客」置いて作句し、そして、その意味での鑑賞をしていたが、芭蕉は、「自称の句となすべし」(『去来抄』)とし、主題(主語)は、この句には出てこないが、その背後の、作者(去来)」その人とし、そのように鑑賞すべしとしたのである。すなわち、ここにおいては、主題(主語)が、他人から自分に、「主客転倒」してしまったのである。
 こういうことは、武田美代がその職業としていた英語の英詩の解釈においては、絶対に考えもつかない世界のものであろう。
 俳諧(連句・俳句・川柳)というのは、こういう世界のものであり、いわば、いかに、「われ・わたし」を消去していくかという、美代の今の努力の反対方向に、そのエネルギーが費やされるものであった。
 例えば、平畑静塔の「俳人格」論というのは、俳句(五七五の創作作品)のために、従来の「われ・わたし」という日常の世間的人格を消去し、いわば、「俳人格」という俳句上の人格ともいうべきものを確立し、作句しなければ、良い俳句は生まれないという、美代の今の努力と反対方向での代表的な俳論の一つであろう。
 そして、もし、俳諧が、美代が良しとする西洋的な「われ・わたし」の世界のものであったとしたら、それは、その作者が意図したように解釈し、鑑賞しなければならないだろうし、いわゆる、現在俳句の特質でもある「斧正(ふせい)」(添削)という行為も許されないことにもなってしまうだろう。俳諧・俳句というものは、何通りものの解釈が許される世界のものだし、そして、「斧正(ふせい)」(添削)するという共同作業を通して、その俳諧・俳句が、芭蕉のいう〈不易〉(永遠に変わらない、そのものの本質ともいうべきもの)のものに近づくのであろう。そして、その〈不易〉なるものを獲得するということは、たったひとりの単独作業では、なかなか成し難く、ここに、「斧正(ふせい)」(添削)するという他人との共同作業と、句会のような集団の作業が要請される所以もあるのであろう。

○面売りのしぐるる昼のくぬぎかな(美代・『私風景』・「韮月夜」)
  中嶋秀子のいう「感覚のみずみずしい」句。
○さびしさに満つるものあり篝火草(美代・『私風景』・「韮月夜」)
 中嶋秀子のいう「季語を配することの絶妙」・「二句一章のお手本」のような句。
○鳳仙花高みに鶏の吹かれをり(美代・『私風景』・「昼鶏」)
  中嶋秀子が、新しい美代の俳諧の誕生を示唆した、「飄逸味」のする句。
○花冷えの絹びかりする魚のわた(美代・『私風景』・「私風景」)
  中嶋秀子のいう「機先の鋭い」・「一句一章のお手本」のような句。
○毛虫焼く火に色出たる恋ごころ(美代・『私風景』・「私風景」)
  美代の「毛虫焼く火を青天にささげゆく」(平畑静塔)のような句
○水ぽつく蜻蛉の来る吉備郡(美代・『私風景』・「私風景」)
  美代の「他国にも川岸はあり雛祭り」(寺内幸子)のような句
○ぶらんこや軽きめまひの青世界(美代・『私風景』・「私風景」)
  美代の「ぶらんこに遊女もゐたり夢明り」(中井洋子)のような句
○七月の硝子くだけて竜飛崎(美代・『私風景』・「私風景」)
  美代の「硝子切る音の間を置く棗の実」(山岸義郎)のような句
○桐の実や倉の間に川見えて(美代・『私風景』・「私風景」)
  美代の「盛装や藤房に蜂もつれゐて」(松本文子)のような句

 これらの美代の九句、その句集の『私風景』を総括するような気持ちで選句し、「響」の主宰者の中嶋秀子の、その「序」の美代に対する評と、これまで見てきた、静塔・幸子・洋子・義郎・文子の一句と対比させながら、それらを「俳句におけるモンタージュ」的な、横に並置するような形で、記述してみた。
 そして、これらの作業を通しながら、つくづく、美代の俳句というのは、中嶋秀子のいう「単一の世界に安住していない」ということを実感したのであった。そして、このことは、これまでの、幸子・洋子・義郎・文子の、この四人にも等しくいえることであって、もし、美代も入れて、これらの五人が、もし、今までと同じように、それぞれが、それぞれに、切磋琢磨をするならば、必ずや、平畑静塔の、下野(栃木県・栃木市)を題材にして、その「こころの風土」を詠んだ、その「栃木集」と、そして、その続編のような、阿部完市の、下野の伝説にまつわる『雨月物語』を重ねあわせての、独特の「下野の風土詠」との、その二者の上に立っての、いわば、「新栃木集」というような世界が、拓かれてくるような、そんな思いがしてならないのである。と同時に、次の、平畑静塔の含蓄のある予測は、もはや予測でも何でもなく、それこそ、現実になったという思いを実感したのである。

「戦後俳壇の今日、そして、今日以降、婦人の進出という特異な現象がある。ほとんど俳誌の作品欄には、それこそ男女肩を並べている。そして女性の進出度の低い程、その団体は、絶対価値の指導がいくらかのこっているようだ。ところが、女性はむしろそうした窮屈な門をくぐることを悦ぶ。教祖にひかれもするし、体当たりで教導されるに足る人を求めるもの、一見女性進出困難な旧套依然の権威主義の雑誌に、闘志を燃やすのは、今では主に女性である。将来の俳壇は、男性より女性によって復古され、革新(命?)される希望が持たれると、予測するのである」(『俳諧と俳句』所収「昭和の俳句(戦後)」)。
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「新栃木集」派の俳人たち(その五)

〔松本文子・『きさらぎ』〕

○短日の男二人が外で会ふ(松本文子)
○一月の倉の匂ひのからだかな(〃)

 この松本文子の二句は、石田よし宏の『栃木句会報」(昭和六十三年五月)からのものである。ここで、石田は、「掲句は去る一月三十一日、栃木市において開催された第三回山本有三忌俳句大会の講師、沢好摩氏が兼題、席題共に特選に推した作品で、しかも二句とも同一作者という珍事、作者にとっては正に快哉ものであったと思う」との一文を寄せている。
 そして、この石田の説明によると、沢好摩氏は、進歩的俳論を展開した故高柳重信の門下で、現在「俳句空間」を発行している気鋭の俳人ということである。そして、その日、「近代俳句表現の推移と鑑賞の変遷」という演題で講演し、「〈松尾芭蕉の発句は俳句ではない〉というショッキングな提言をしている。連句の中で平句の持つ豊かな文芸性挽歌・相聞・羇旅の心は、発句の持つ有季・滑稽・即興の心と比べて少しも見劣りのしないタイトルであって、この平句の心を切除してしまったら、発句は誠にみすぼらしい存在でしかあり得ない。従って正岡子規が称えた〈俳句〉が単に連句から発句を切り放したものであったとしたら、子規はとんでもない過ちを犯してしまったと言っていい」と石田は沢好摩の話しを要約している。
 およそ、沢好摩の師にあたる高柳重信の俳論の中で、この要約につながるような連句論というのは皆無であろう。そして、この沢好摩の主張と同じような主張は、高柳重信の、やや先輩にあたる、川柳人の本県の前田雀郎の「平句としてのは川柳」論ということになろう。そして、川柳界においては、この前田雀郎の考え方を支持するものが多数を占めているのに対して、俳句界においては、高柳重信を始め多くの俳人は、これらの川柳人の考え方に一顧だにしなかった。
 ここにきて、進歩的な気鋭の俳人の沢好摩の、これらの主張したということは遅きに失したの感すら抱かせるものがあり、必ずや、これらの沢好摩的な考え方は、今後、俳句界においても大きな声になってくるような予感がするのである。

○宿酔風波しきりに秋の川(中井洋子・半歌仙の裏の一句目)
○薬袋に書きし伝言(松本文子・〃二句目)
○遮断機の向うの視線熱ぽっく(石田よし宏・〃三句目)
○女は女灰になるまで(中井洋子・〃四句目)

 これらの連句の平句(発句・脇・第三・挙句を除いた句、あるいは、発句を除いた句)ば、平成七年に本県で開催された国民文化祭の連句大会の『入選作品集』の半歌仙「春田中の巻」(神奈川県・土屋実郎捌)のものであるが、これらでも推察されるように、実に多様な多面的な世界を見せてくれる。そして、発句は主として景物(景色)の世界の句が多いが、この平句の世界になると人事句の世界となってくる。
 そして、この松本文子は、石田が、その句集の「跋」で、「彼女(松本文子)には人事句が多い。特に、人間心理の機微に触れる作品は追随を許さぬひらめきがある」と評しているように、人事句の妙手でもある。
 このことと関連するのかどうか、冒頭の二句は、いわゆる、文子の一句一章の形の人事句ということになる。そして、連句の平句に関心のある沢好摩が、この文子の句を、あらかじめ提出されていた兼題でも、当日の即席の席題でも、偶然に特選に選んだということは、連句の平句の持つ千変万化する人事句の世界を嗅ぎとったということなのかも知れない。すなわち、これらの二句の人事句については、実に、雰囲気が明瞭で付け易いという印象を受けるのである。

○短日の男二人が外で会ふ(文子)
○手順通りに完全犯罪(よし宏・半歌仙の裏の八句目)
○一月の倉の匂ひのからだかな(文子)
○ほかほか弁当俺もお前も(土屋実郎・半歌仙の表の四句目)

 土台、この「よし宏・半歌仙の裏の八句目」・「土屋実郎・半歌仙の表の四句目」は、冒頭の松本文子の俳句とは、何の関係もない、半歌仙「春田中の巻」(神奈川県・土屋実郎捌)のものでありながら、これらの付句も、それほど文子の俳句を立句としても、その付句として遊離したものとは思えないような、付句を誘うような雰囲気を有しているのである。

○待つことに慣れ〈て〉挽歌の白地着る(「匙」昭和四十七年~五十年)
○一目にはうれひ顔し〈て〉枇杷の花(〃)
○隣人の薬くさく〈て〉彼岸かな(〃)
○部屋一つ使ひ余し〈て〉豆の花(〃)
○リラ明りし〈て〉次女のこと忘れゐる(〃)
○新潟の女に負け〈て〉蓼の花(「男物」昭和五十一年~五十四年)
○男に〈て〉男につくす合歓の花(〃)
○薬に〈て〉やまひをふやす花柘榴(〃)
○白湯足し〈て〉屋根の人呼ぶ春の昼(「雨靴」昭和五十五年~五十七年)
○薄着し〈て〉受身となりぬ山の蝶(〃)
○西行忌紙重なり〈て〉色となる(「雨靴」昭和五十五年~五十七年)
○大粒となり〈て〉雨止む青目刺(〃)
○一面の雪に〈て〉舞台終りけり(〃)
○山尽き〈て〉村終りけり榛の花(「裏山」昭和五十八年~五十九年)
○目を閉じ〈て〉長くはをれず虻の昼(〃)
○湯を足し〈て〉隔て心や一位の実(「裏山」昭和五十八年~五十九年)
○眼鏡とり〈て〉死顔となる花柊(〃)

 松本文子の句集の『きさらぎ』(昭和六十年)で、いわゆる、「〈て〉切れ」らしきものを、無造作に拾っていくと、これらの例句となる。見落としの句もあるし、更に、「下五の〈て〉切れ」などを入れると更に多くなる。また、切れ字でない〈て〉の多様も目につく。一読、松本文子は、〈や・かな・けり〉の俳人ではなく、間違いなく、〈て〉の俳人ということになる。
 それと同時に、冒頭の、沢好摩が特選にした二句のように、一句一章の形ではなく、「隣人の薬くさく〈て〉彼岸かな」などの二句一章の形が圧倒的に多く、そして、「男に〈て〉男につく〈す〉合歓の花」のような三段切れも見られる。
 そして、この二句一章、あるいは、三段切れの、この〈て〉の解釈というのは、古来、難解なものということに定評があり、どうにもこうにも、詠み手には困った代物という感じなのである。

○田一枚植ゑ〈て〉立ち去る柳かな(芭蕉・『おくのほそ道』・芦野の遊行柳での句)

 本県に馴染みの深いこの芭蕉の句の、この〈て〉に関連しての批評というのは悪評の方が多いと思われるほどに、詠む人を困らせてきたところの、〈て〉である。そして、その解釈は大体、次の四通りに分かれるようなのである。

①早乙女が「田一枚植ゑ〈て〉」それを見終わって「遊行柳」の所を「芭蕉は立ち去った」。
②芭蕉が、「田一枚植ゑ〈て〉」それが終わって「遊行柳」の所を「芭蕉は立ち去った」。
③遊行柳の精が「田一枚植ゑ〈て〉」それを見終わって「遊行柳」の所を「芭蕉は立ち去った」。
④遊行柳の精が「田一枚植ゑ〈て〉」それが終わって「遊行柳の精が立ち去り」・「芭蕉も立ち去った」。

 とにもかくにも、この〈て〉によって接続する前と後ろとの間に、どのような因果関係を認めるかという微妙な問題が常につきまとい、作り手と詠み手との間に意識のズレを生じさせることが確実であるのが、この〈て〉の特性なのである。そして、その意識のズレを巡って、詠み手には、素晴らしい佳句にも、あるいは、悪評さくさくの駄句にもなるという厄介なものであることは間違いないところであろう。すなわち、この〈て〉は実に曖昧模糊(あいまいもこ)とした日本語の典型ということになろう。そして、更に厄介なことは、俳人は、はるか芭蕉の時代の以前から、この曖昧模糊の〈て〉を逆手にとってきたという長い俳諧の歴史を有しているということである。
 石田よし宏は、松本文子について、その句集『きさらぎ』の「跋」で「一途の不器用」ということを逆説的に指摘していたが、たしかに、この厄介な代物の〈て〉に執拗に食い下がる、その姿勢は尋常ならざる「一途さ」をひしひしと感じさせるのは確かなところである。
 とすると、松本文子という俳人は、俳句の持つ固有の曖昧模糊さを熟知している、最も、俳人らしい俳人ということになるのであろうか。どうもそんな感じがしてくるのである。そして、松本文子もまた、これまでの、寺内幸子・中井洋子・山岸義郎の三人と同じように、「鷹」を中心として俳句活動をし、同じような雰囲気の中に居りながら、それぞれが、それぞれに個性を出し合って、お互いに一線を画しているというのは驚くばかりである。

「新栃木集」派の俳人たち(その四)

〔山岸義郎・『十字路』〕

 「栃木の街を南北に流れる巴波川(うずまがわ)が、舟運による江戸との交易で栃木の経済を支えてきたことは周知の通り。その巴波川が商家の蔵屋敷の間を過ぎて中ノ島と呼ぶ中州のあたり、その川沿いに昔の郡役所があった。谷中村事件の田中正造が直接談判に押し掛けた郡長官舎は、中ノ島から百米ほど南にあって、今もその当時の面影を残す建物がある。」
 山岸義郎の句集『十字路』の「跋」(石田よし宏)は、この文章から始まる。今も、栃木市は蔵の街で知られ、江戸・明治・大正の情緒が偲ばれる古都の印象のする街である。そして、下野の最も著名な歌枕の「室の八嶋」の土地でもあり、古来から、歌人・連歌師の旅情を誘ってきた所でもある。
 また、石田の「跋」には、「また栃木は江戸との交易によって芸術文化の流入が激しく、浮世絵の喜多川歌麿が栃木の旦那衆を頼って頻繁に来栃し、長逗留を重ねて、ついには栃木出生説が流布されるなど、文化度の高さを象徴する一件だと思う」との一節もあり、昔から伝統的にこの旦那衆と俳句との結びつきも強いものがあった。
 そして、その伝統は、例えば、高浜虚子の「ホトトギス」よりも、芭蕉以来の俳諧の伝統を固守しているような、松根東洋城創刊の「渋柿」とも栃木市は深い関係にあり、更には、明治・大正・昭和・平成と俳句一筋の人生を完うした桑原月穂の「紺」(現在桑原まさ子主宰)や、全国でも珍しい結社を問わない俳句研究誌「鬼怒」(増山美島編集・石田よし宏発刊)、そして、この平成八年に刊行される、「蘭」を主宰した野沢節子亡き後その継承を目指しての「輝(かがやき)」(火村卓造主宰)など、全て、この栃木市(地方)と深い関係にあり、この俳誌とのかかわりだけを見ても、この栃木市(地方)と俳諧(連句・俳句)のつながりは驚くべきものがあると思われるのである。

○工機とまり麦の穂の穂ののびるのみ(水上夜視桜)
○麦扱機の歯車に追はれている(飯島稲の門)
○黒牛のうしろ通れり麦の秋(新村青幹)
○そんなとき来よと掴みし麦一と穂(寺内幸子)
○としよりが靴を見せ合ふ麦の秋(松本文子)
○麦秋の鋳物にのこる夕明かり(山岸義郎)

 これらの句は『下野俳句歳時記』の「麦秋」の項のものである。これらの俳人は全て栃木市と関係の深い方々で、そして、結社的にも多岐にわたっているが、いわゆる大結社の「ホトトギス」・「馬酔木」系の流れではない。そして、学者・教員・官吏などを職とするよりも、自営の、石田よし宏流の言葉でいえば、「旦那衆」との深いかかわりのあるというニュアンスに近いものであろう。
 そして、この自営の、「旦那衆」と深いかかわりがあるということは、「人に見せて、そして、人の喝采を狙う」ような俳諧とは最も無縁なところにあり、「自分がこれで良しとする、自分の心を十分に充足する」ということを、その俳句信条ともしているように思われるのである。
 そして、「風」・「鷹」を経て「海程」(金子兜太主宰)等の同人の、山岸義郎も、石田よし宏の「跋」の中でも触れられているが、正真正銘の、この栃木の「旦那衆」の流れを組む俳人の一人ということになろう。

○桐の実や腕(かひな)の喪章ずれたがる(「硝子」昭和六十年~昭和六十二年・「海程」等)
○いたどりや鉄は反身(そりみ)に焼かれをり(〃)
○煙草吸ふこころの洞(ほら)に蝉鳴かせ(〃)
○目ナ裏(まなうら)に白き手袋終電車(〃)
○十字路の一路(ひとろ)は海へ春祭(〃)
○靴堤げつ病廓(びようかく)曲がる梅雨の夜(「紙紐」昭和四十二年~昭和四十四年・「風」)
○セータに雨のぬくもり鳩翔(た)たす(「鳩翔たす」昭和四十五年・「鷹」)
○翔(と)ぶ音をためてただよふ九月の藻(「雨の櫂」昭和四十八年)
○月明(げつめい)に周囲広がる猪(いの)の檻(おり)(「鞭のやうに」昭和五十二年)
○庖丁に青紫蘇のこる夜(よ)の羽音(はおと)(「石採る町」昭和五十六年)

 石田よし宏は、この「桐の実や腕の喪章ずれたがる」について、「彼(山岸義郎)は〈腕〉を〈かひな〉と詠む。雅語をつかうのである。私(石田よし宏)なら〈うで〉と詠ませる。〈かひな〉とは絶対にしない」という指摘をしている。
 この山岸義郎の、一種独特の雅語(詩語)の選択は、義郎の俳句の一つの特色を形成しているものであろう。試みに、第一章にあたる「硝子」から五句、その他の章からは一句ずつ抜き出してみたのが、これらの十の例句である。
 反身は(はんみ・はんしん)ではなく(そりみ)、洞は(どう・とう)ではなく(ほら)、目ナ裏の「目」は(め)ではなく(まな)と来れば、一路は(いちろ・いちじ)ではなく(ひとろ)と詠みたい。「病廓」は病院の一つの囲いの意味で「びょうかく」の詠みならば、その廊下は「病廊(びょうろう)」ということになるのであろうか。「翔(た)たす」と「翔(と)ぶ音」も言葉に細かい神経を配る義郎的ということになろう。「月明(げつめい)」・「猪(いの)」・檻(おり)」も色々
な詠みがあるのだろうけど、五七五の定型感覚でいくとこの詠みになる。「夜の羽音」は「よるのはね」と「よのはおと」の両方素晴らしい詠みも可能であるが、義郎はどちらの詠みをしているのであろうか。

○千羽鶴(せんばづる)病舎の外に天の川
○千羽鶴(ちはつる)や病舎の外に天の川

 かって、「千羽鶴(せんばづる)病舎の外に天の川」という私の句に、必ず、「や・かな・けり」の切れ字をつける友人が「千羽鶴(ちはつる)や病舎の外に天の川」と濁らないで詠み、更に、「や」の切れ字を入れたのである。その時に、「造語」というジャンルがあるならば「造詠」というジャンルもあるのかという感慨を、まざまざと、山岸義郎の、この『十字路』を見ながら思い出した次第なのである。
 というのは、この山岸義郎の『十字路』には、どんな難解と思われる言葉にも一切ルビはふっていないのである。ということは、この義郎の句に接する人が、主体的に、自分で工夫してその独自の詠みをしても良いですよという、いわば、「造語」の面白さにも通ずるような「造詠」の面白さということを、義郎の頭の片隅にあるのではなかろうかと独断推量をしたわけなのである。

○指呼の山昼なまけして庭ざくら(増山美島)

 この句について、石田よし宏は、「先月例会で好評を得た作品である。〈昼なまけ〉という造語が味があるというのだ。しかし私(石田)にはこの作品の全体像が把み切れなかった。指呼の山があって、昼なまけしている人物がいて、庭桜が咲いているというお膳立ては三段切れでサマにならないと思った。ところが、よくよく聞いてみると「指呼している山が昼なまけしている」というのである。
「山眠る」とか「山笑う」と同じ擬人化で〈山の昼なまけ〉という途轍もない造語を考えついたのだ」と指摘している(『栃木句会報』昭和六十二年五月)。
 「海程」俳句にも理解の深い増山美島は、ことほど左様に造語の名手である。その増山らと座を同じくしている山岸義郎も、〈病廓(びようかく)〉という造語らしきものと共に、その詠みの雅語(詩語)の徹底ぶりは、一歩進めると、これまた、途轍もない「造詠」というジャンルに突入していくのかとも思われるのである。
 しかし、山岸義郎は、多分に、そのようなスタンドプレイは演じないで、その十字路で、違う道筋を歩むのではないかと思われるのである。
 というのは、石田よし宏の、この『十字路』の「跋」で、義郎俳句を、「〈俳句は名利を離れてこそ存在する〉との信条を貫く今どき希有な律義俳人である」と、その本質を見抜いており、義郎には「造語」とか「造詠」とかという、俳諧(連句・俳句・川柳)の「俳諧味(滑稽味)」ということよりも、自分が今身を置いている現代俳句は、詩的な言葉の探究(俳句に現代詩的な要素を注入する)をする必要があるとし、現代詩人や現代歌人の色々な成果を、「海程」に学び「摩天楼」に遊泳しながら、独自の俳境を切り開いていくと思われるのである。

○鞭いつも遠き音もつ養火天(ようかてん・〈養火雨に由来のある造語か?養火雨=花曇りのころに降る雨のこと。すると、「はなぐもり」の詠みもあるか?〉)
(義郎・「硝子」昭和六十年~昭和六十二年・「海程」等)
「新栃木集」派の俳人たち(その三)

〔中井洋子・『十二時』〕

○遅れ来て案山子の前に落合へり(木村三男)
○はらからや案山子の布に雨の粒(増山美島)
○その後一指も触れぬ案山子の袖袂(石田よし宏)
○白布をあてて案山子の胸弱る(中井洋子)

 これらの句は『下野歳時記』のものである。この三男・美島・よし宏のラインにつながるものの一人として、洋子が上げられるのであろう。この案山子の四句、実に面白い組み合わせであるが、それにしても、この美島の抒情的なリズムの美しい句はどうであろう。
 守旧派と自称する俳人から前衛派と目されている美島の、その根っこにある、最も大事な美島の一面なのだろう。この句を除いて、三男もよし宏も、この案山子の句は、それぞれの持ち味が出ているということであろうか。そして、洋子の俳句は、この案山子の句に見られるような、「(こころの)優しさ」と「(そのこころの)ウエーブ(波)をキャッチする巧みさ」と「(そのウエーブをキャッチする)作句の新鮮さ(ニューウェーブ的な句作り)」ということを、その句作りの基調においてい
るように思われるのである。

○新米や誰も見ぬ雲通るなり(寺内幸子)
○新米をはこぶ檪の除々にあり(洋子)

 この句も『下野歳時記』のものである(なお、洋子のこの句は、その句集『十二時』の「村(昭和五十年~昭和五十四年)に収録されている)。そして、その歳時記で幸子と洋子とが肩を並べている面白い句柄である。そして、この句柄の「新米」は、大野州の思川水系の大米所の、栃木の郊外の一面の黄金の稲田を想像させる。
 長く関西に居て、宇都宮に移住してきた平畑静塔は、栃木市から宇都宮への東武沿線の一面の黄金の稲田に肝を抜かしたという。「入国の足は落穂を避けゐたり」とは、その頃の静塔の、自然の豊穣な恵みの、この大野州の稲穂に対する、敬虔な祈りにも似た静塔の独白であろう。

○除々に除々に月下の俘虜として歩む(平畑静塔)

 この戦時中の静塔の「除々に除々に」と前の洋子の「除々に」とでは、これが戦時中の異常な時代と平時の安定の時代との落差でなのであろうか。そして、静塔と洋子の、この「除々に」の句を比して見た時に、「人生そのものが異常な黒沢明的なドラマのような生きざま」と「人生そのものは平凡だが渋味のある小津安二郎的なドラマのような生きざま」との対比をも感じさせるのである。
 そして、前者の「黒沢明的なドラマのような生きざま」を俳句にする時には、手法も技巧も、何も必要ないほどの、句にしたいという句心が先行することであろう。そして、後者の「小津安二郎的なドラマのような生きざま」を句にしようとする時には、前者と違い、その淡々とした生きざまを、じっくりと見せるだけの、手法や技巧が要求されるということであろう。
 そして、まさに、静塔の、この「除々に除々に」の句は、当時の静塔の境涯性が、この句の生命であるのに対して、洋子の、この、「除々に」の句では、洋子の境涯性ということ以上に、洋子が関心を持つその句材・句柄を、いかに、その時の自分の心にピッタリに表現するかという、いわば、句心よりも、手法や技巧が優先されるような句作りということになろうか。
 そして、この洋子の手法や技巧の優先さということもまた、静塔俳句が具象的世界に身を置いているのに対して、より、抽象的世界の身を置いているとも換言できるし、と同時に、郷土の先輩の俳友・寺内幸子の俳句の世界に近い位置にあるとも思えるのである。

○一茶の墓枯れて学校囲ひなし(「風」・昭和四十四年以前)
○だんだんと子守唄なり太宰の忌(「入口」・昭和四十五年~昭和四十七年)
○十二時や何処より来し葱作り(「十二時」・昭和四十八年~昭和四十九年)
○日盛りの毬受けとめて海の村(「村」・昭和五十年~昭和五十四年)
○尼寺の桜の脂も荷風の忌(「公園」・昭和五十五年~昭和五十九年)

 洋子の『十二時』(昭和六十一年)の、それぞれの章の中の一句である。この章立ては「(八時)・〈風〉の時代」・「(十時)・〈鷹・入会〉の時代」・「十二時・〈鷹・同人〉の時代」・「(十四時)・〈結婚〉の時代」・「(十四時)・〈鷹・退会〉の時代」という時・時間の推移などを意識しての、洋子の機知の隠された章立てなのかも知れない。
 この、それぞれの章の中の選句は、まず、洋子の師系にあたる「風」の主要同人であった木村三男の独特の口語俳句に思いを寄せながら、同じ口語俳句の典型の一茶の名が見える一句を選び、次の時代と最後の時代は、静塔の『栃木集』の中にも見られる「忌詠」の句として、そして、後の二句は、それぞれの章名の由来となっているよう句を、それぞれビックアップしたのである。
これらの五句を並列してみて、ここで、「だんだんと子守唄なり太宰の忌」と「尼寺の桜の脂も荷風の忌」の、この「忌詠」の巧みさには目を奪われるものがある。その観点から句集を見ていくと、これまた、実に少なく、後は、「多佳子忌の少年の耳ぽつちりと」(昭和五十八年)の句以外、見当たらないのである。そして、この多佳子忌の句も、増山美島が、その「跋」で佳句の一つとして取りあげており、すなわち、洋子の忌詠は、ことごとく佳句の部類に入るものと思われるのである。
 そして、俳句における「忌詠」こそ、長い俳諧(連句・俳句)の歴史において、「挨拶・滑稽・即興」(山本健吉『純粋俳句』)の、その俳諧の特性の第一番目に上げられる「挨拶性」を具備している典型的なものといえるであろう。
「昔は必ず客より挨拶第一に発句をなす」(『三冊子』)とし、この「発句」こそ現在の「俳句」の原形をなすものであろう。そして、その俳句の典型的な見本ともいえる虚子俳句は、「日常の存問(そんもん)が即ち俳句である」(『虚子俳話』)とし、独特の花鳥諷詠の世界を創出したのであった。そして、このアンチ花鳥諷詠が、洋子の師系にあたる木村三男らであろう。
 洋子は、若くして、このアンチ花鳥諷詠的な所から出発し、そして、終始一貫してそのアンチ花鳥諷詠的な立場を微動だにさせていない。しかし、洋子の別な一面は、これらの古典から現代に至る俳諧の最も中枢的のものに、非常に敏なるものを有しているように思えてならないのである。

○ぶらんこに遊女もゐたり夢明り(洋子・「公園」)


「新栃木集」派の俳人たち(その二)

〔寺内幸子・『永野川』〕

○他国にも川岸はあり雛祭り(昭和五十三年~五十四年)
○葬後いくにちコート来て川越に居り(〃)
○ひとの云ふ足尾のもみぢ桑も見ゆ(〃)
○引き続き秩父へ行けり太宰の忌(昭和五十五年~五十六年)
○はるか来て伊万里・鍋島夏至暗し(〃)
○きりぎりす鞍馬寺へは橋いくつ(〃)
○蜩を今年はじめて近江なり(〃)
○百日草京都へ行くと子がひとり(〃)
○恋ぎつね永野川原に一目きり(〃)
○昼前を大津へ急ぐ夾竹桃(〃)

 その年譜を見ると、昭和四十六年「鷹」入会、昭和四十九年「鷹新人賞」、そして、昭和四十九年「鷹」同人ということで、静塔俳句にも、完市俳句にも、関係のない世界での句作りということになる。しかし、この『永野川』(昭和五十七年)の題名の由来とも思われる「恋ぎつね永野川に一目きり」の、この寓話性は、静塔の『栃木集』の一句、「炉話は忍ぶ狐によく聞え」の、その鹿沼板荷(木村勝二家)での、この炉話と、その根っこは同じものであろう。
 そして、幸子と静塔の、これらの句作りにおいて共通するものは、それは、その句作りの母胎となっている、その〈大地〉を、秋成の言葉でいえば、「肉を吸(す)ひ骨をなめて、はた喫(くら)ひつくしぬ」というような所作をとおして、一個の作品としていくその創作姿勢ということになろう。
 これらの幸子の句は、その『永野川』の四一五句の中からの、僅かに、十句の地名のある句というに過ぎない。そして、幸子の句の中で、これらの地名の入った句というのは、けっして多いということではなく、たまたま、その句集の名が、栃木市の幸子の家の西の方に流れている川の名に由来し、そのことに関連させての偶然の選句ということに他ならない。
 しかし、今、幸子のこれらの句と、何らかの意味で、幸子が住んでいる栃木(市)との関連での静塔と完市との、冒頭の二句とを比較してみると、静塔のそれというよりも、より多く、完市の句に近いというのが、その第一感である。

○栃木(とちぎ)にいろいろ雨のたましいもいたり(完市)
○恋ぎつね永野川原に一目きり(幸子)

 かって、完市のこの句について、幸子をよく知る石田よし宏は、「地名の中に現地と対比して読むことよりも、一つの言葉として呪術的なはたらきを誘い出す役割に相応しいものが存在する」との評を下している(『栃木句会報』・昭和六十二・四)。
そして、更に、石田は、完市の第六句集『軽(かる)のやまめ』(平成三年)の、「市場すぎて軽のやまめにあいにゆく」について、平凡社の『世界大百科事典』を引きながら、この「軽」について「柿本人麿が亡き妻を忍んでの軽市(現在の橿原市大軽町にあったという古代の市場)」の「軽」ということをつきとめている(『栃木俳句会報』・平成三・十一)。
 更に続けて、「句集『軽のやまめ』には土地の名前が溢れるように現れる。ひたち・安達ケ原・会津・漓江・北京・上海・飛騨・滋賀県・福島県・どいつ・ねぱーる・にゅーおりんず・しもつけ・あるぜんちん・五所川原町などなど、世界中のあらゆる土地の名前が実にさりげなく一句の中に織り込まれている。地名に対する完市氏の異常なほどの執着は、その土地との交合の瞬間に燃焼する喜びにあるのではなかろうかと思ってしまう。そして、この時空を越えた世界に遊ぶことが阿部完市の俳句なのかもしれぬ」と結んでいる。
 この石田よし宏の完市俳句の正統派的な評に対して、増山美島は、一流のブラック・ユーモアのように、「完市俳句は無色・無思想・無重力・無季、そして無節操と手に負えるものではない」と評しているようである(『栃木俳句会報』平成三・十一)。
 この異色の、石田と増山との完市俳句の評をを合成すると、「完市俳句は、無色・無思想・無重力・無季・無節操の空(カラ)の無が基調であり、されば、その句は呪文的なイメージ性(非意味的映像性)と時空を越え虚空に遊泳するシュール性(超現実性)を具備し、得体の知れない世界を形作る」とでもなるのであろうか。
 しかし、ここで、完市のその作句の原点を知る必要がある。彼が、人に、「無色・無思想・無重力・無季・無節操」と見られるのは、そうすることによってだけ、自己の悲願の心象風景をスケッチすることができるという、切ないまでの確信なのであろう。そして、この得体の知れない、切ないまでの完市の作句方法は、別な言葉で置き変えるならば、次の佐藤鬼房の言葉に近いものになるのではなかろうか。
「風土を歴史的にとらえるということは人間の悲願であるといってよい。俳句の取材旅行が非難されるのは、多くは現象描写にとどまって、人間悲願の陰影を描き切れない場合なのではないか。私の心のなかには常に山河がすんでいる。私は『わたしの風土記』を綴っていく」(『風の樹』・『栃木句会報』平成五・五)。
 完市は、間違いなく、誰のものでもない、完市の、完市自身の、「わたしの風土記」を綴っているのであろう。
 そして、幸子もまた、完市や鬼房と、そして、静塔までも含めて、それぞれが、それぞれ自身の「わたしの風土記」を綴っているのであろう。
 ただ、完市俳句と静塔俳句とを比して、絵画の世界に模して表現するならば、前者は、より抽象的手法であるのに対して、後者はより具象的手法ということになろうか。そして、幸子俳句は、より静塔俳句よりも完市俳句へと比重を増しているということがいえるような思いがするのである。
 そして、それ以上に、それが抽象的手法であればあるほど、何か、朧な、もやもやとした得体の知れない、佐藤鬼房のいう、「幸子の、その心のなかの山河、その心の風土記」の、その作り手の像の影が、いろいろな形を変え、遠い川岸から、詠み手の方に長い影を投げかけてくるような思いにとらわれるのである。

○川岸ごらん郡上八幡小駄良(おだら)川岸(完市)
○他国にも川岸はあり雛祭り(幸子)

「新栃木集」派の俳人たち(その一)

○毛虫焼く火を青天にささげゆく(平畑静塔)

平畑静塔の第三句集『栃木集』(昭和四十六年)の中の「栃木」と題する句の一句である。その『栃木集』の後記で、静塔は「三十七年宇都宮に移住して私の考える俳句観が変化すると共に、作品もやや在来の知性中心の面が次第に野趣を帯びてきたようである」と述懐した。この「野趣を帯びてきた」とは、静塔俳論的な表現でいえば、それまでの、現代的・知識人的な理性に比重を置いていた静塔俳句から、縄文時代の狩猟人の狩猟する(句)心をもって獲物(句材)に狙いをつける、縄文的・狩猟人的な俳人格に比重を置いた静塔俳句への脱皮を意味するものということにもなるであろう。
それは、丁度、縄文人が「毛虫焼く火を青天にささげゆく」という所作に象徴されるような、そんなニュアンスに近いものであろうか。そして、〔「新栃木集」派の俳人たち〕とは、この「毛虫焼く火を青天にささげゆく」の、この得体の知れない俳諧の魔性のような「火」を「青天にささげゆく」、栃木市在住の俳人達の一つの流れ
を象徴するような、一種の象徴語として理解をしていただきたいのである。

○栃木(とちぎ)にいろいろ雨のたましいもいたり(阿部完市)

阿部完市の第二句集『にもつは絵馬』(昭和四十九年)の中の「栃木」という固有名詞を伴う一句である。この句の背後には、蕪村と同時代の俳諧作家でもあった上田秋成(うえだあきなり・俳号は無腸)の『雨月物語』の、広い意味で昔の栃木地方(市)の一角の(下都賀郡大平町)富田の大中寺での物語「青頭巾」を意識しているように思えるのである。

「(愛した童を失った僧は、発狂し、その死体を、)火に焼き、土に葬(ほうむ)る事もせで、(中略)、その肉の腐(くさ)り爛(ただ)るるを惜しみて、肉を吸(す)ひ骨をなめて、はた喫(くら)ひつくしぬ。」

凄まじい『雨月物語』の一節である。そして、この『雨月物語』の一節に想いを馳せながら、完市の句を「栃木(とちぎ)には、愛する者の死体の、〈肉を吸(す)ひ骨をなめて、はた喫(くら)ひつくしぬ〉鬼の魂の存在を嗅ぎとる」と、そんな妄想に想いを馳せたいのである。そして〔「新栃木集」派の俳人たち〕とは、この凄まじい『雨月物語』の一節を連想させるような、完市の「栃木(とちぎ)にいろいろ雨のたましいもいたり」のような、これまた、得体の知れない俳諧の魔性のような「鬼」の「魂」を凝視し続ける、栃木市在住の俳人達の一つの流れを象徴するような、一種の象徴語として理解をしていただきたいのである。