「季語」と「詩語」とをめぐっての謎                       

「前略、石田よし宏先生に選者(朝日新聞栃木俳壇)が代わられたことが何とも不満である一人です。絵で云えばピカソ・マチス等の素晴らしさを理解しない者、時代を知らぬ者とお笑いになるでしょうけれど、老人には何とも馴染めぬ句ばかりです。季語は一応あるようですが、選者吟は勿論、選ばれた句がほとんど首を傾げてしまうような句ばかりで、この頃は投句も嫌になりました。現代俳句でなく昔からあるような表現をして下さる方が望ましいと思います。早々」(平成元・八)。                   

この匿名子の石田への投書の、「現代俳句でなく昔からあるような表現」ということについて、いささか考えさせられてしまった。およそ、現代に生を置き、現代の生活を踏まえて、現代の用語で、現代の問題意識を、五七五(俳句)に仕立てる場合、それは、すべからく、近世や近代の「昔の俳句」ではなく「現代の俳句」ということになろう。    

この匿名子の「昔からあるような表現」というのは、石田の前の選者である増渕一穂(ホトトギス系の「夏草」の同人)的な俳句の世界を指すのかも知れない。石田は、この増渕の世界を、自分の「人間諷詠(?)」に対して「花鳥諷詠」と規定しているが(平成元・四)、この「花鳥諷詠」とは、いわずと知れた、「ホトトギス」の高浜虚子の俳句の世界である。      

「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に言へば春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するものであります」(『虚子句集』自序)。続けて、虚子の継承者の稲畑汀子は「虚子が人事界の現象を花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは人間もまた造化の一つであるという日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛みあっていないように思われる」(『俳文学大辞典』)というのである。                   

さしづめ、このアンチ花鳥諷詠論の代表者が、前衛俳句・造形俳句を経た金子兜太ということになるのであろう。しかし、この兜太が、石田が指摘するように、「成熟した言葉として歴史性豊かな『季語』を無視してはいけない」と、それまでの「『季語』に代わる『詩語』を強行した兜太先生の雄姿を、今なつかしく思いだす」(昭和六三・一)と、「古き良きものに現代を生かす」(「海程」創刊二五周年記念大会)へと、やや軌道修正に入ったのである。    

そして、石田は、この兜太の影響を色濃く甘受している俳人の一人ではあり、「現在只今の自己表白のために季語を如何にかかわらせるか、日夜腐心している」(昭和六三・一)のとおり、有季定型派の作句活動であり、匿名子が指摘するように、「季語は一応あるようですが」どころではなく、その「季語」の新しい再発見に、凄まじい実験を試みている俳人の一人であろう。          

しかし、石田と匿名子とでは、この「季語」に係わる認識が天と地ほどに相違するのである。石田にとって、「季語は、現在只今の自己表白のための、いわゆる『詩語』の一つ」なのであろう。それに比して、匿名子のそれは、長い俳諧(連句)の歴史で今日まで守りとおされてきた「発句(連句の巻頭句)」の「季語と切れ字の定石」の、その絶対必要な「季語」のこととして理解しており、その「季語」は、何時の間にやら、虚子の「花鳥諷詠論」と結びつき、「虚子俳句にあらざるものは俳句にあらず」・「虚子俳句には季語が必要欠くべからざるもの」というドグマ(極説・閉鎖説・絶対説・金科玉状説など)が樹立されたのである。    
 そして、この虚子と、その継承者(長男)の高浜年尾は、いわゆる、虚子俳句の基になっている俳諧(連句)に精通し、その重要性を知り抜いているのであるが、その手間・暇のかかる俳諧(連句)には蓋をして、その俳諧(連句)と切り離して、「花鳥諷詠的発句」のみを、「伝統俳句」という名のもとに、「俳句」として位置づけ、今日、「ホトトギス俳句」としてその隆盛を極めているのである。そして、「ホトトギス俳句」の今日の代表者が、年尾の娘さんの稲畑汀子その人なのである。
 ここは、稲畑は、虚子・年尾の俳諧(連句)の伝統を生かし、その「ホトトギス俳句」を「ホトトギス連句」にまで、拡充していただきたいと思うのである。そして、兜太は兜太で「『季語』は「詩語」の一つである」ということで、「季語」の再発見に務め、その「ふたりごころ(情)」(『流れゆくものの俳諧』)という観点からの、これまた、「海程俳句」から「海程連句」へと、その土俵を拡げて頂きたいと思うのである。    
 やや、脱線気味であるが、いよいよ、「季語」と「詩語」という、とんでもない泥沼のミステリー・ゾーンに進入したようである。                    

「俳句」と「連句」とに係わる謎                         

石田の平成五・一に次のような連句についての記載がある。             

「第一位の入選句を立句(発句)にしようということになっていて、その第一位の作品が掲句(注・「老けまいと茶の花は薄紙の暗さ(田浪富布)」である」。        

「ところが連句の指導者である富田昌宏(注・渋柿)や大豆生田伴子(注・あした)から『連句は挨拶ということを特に重んじるので、スタートの発句は遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうがよい』ということで、当たり障りのない第三位の次の句(注・「日光連山火種のやうに初明かり(中山久子)」が採用されることになった」。     

「脇句以下、切字を使わないのが鉄則という。一句独立した形で表現することに全てを賭けてきた俳人にとって、これは衝撃であった。今から百年前、正岡子規が連句の発句を独立させて『俳句』という名称を与え、近代文学としての俳句革新を実現せねばならなかった心情が僅かながら理解できたように思えた」。                  さて、この「連句」という名称は、あの「花鳥諷詠」の高浜虚子が名付け親なのである。それは、明治三十七年九月の「ホトトギス」誌上であって、虚子は「新連句論」を掲載して、これが今に伝わっている。  
 芭蕉・蕪村・一茶の時代は、「俳諧(俳諧之連歌)」という名で呼ばれていた。そして、明治二十年代に、正岡子規の俳句革新により、その「発句」が「俳句」と命名され、「俳諧」という語句は、「連俳」・「連句」などと呼ばれ、そして、虚子の「新連句論」の登場となるのである。そして、「俳句」と「連句」とに係わる謎は、この子規の俳句革新運動からスタートとするのである。              

その俳句革新運動の第一声は、明治二十五年の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』、そして、翌年の『芭蕉雑談』と続き、その『芭蕉雑談』の読者の「或問」に答えるという形で、子規は「連俳非文学論」を展開するのである。             

その主張は、「連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども文学以外の分子をも併有りするなり。而して、其の文学の分子のみを論ぜんには発句を以て足れとなす」というのである。ところが、子規は、その言葉が乾かないうちに、明治二十八年の『俳諧大要』で、「俳諧連歌」という項目の下に、詳細に連句について触れ、蕪村の連句の鑑賞記事すら載せているのである。              

そして、その四年後の、明治三十一年に『俳諧三佳書序』で、子規は、子規自身、本格的に連句と取り組んでいなかったことを告白し、次のとおり、「連句がこんなに面白いものなのか」ということを吐露しているのである。                  

「自分(注・子規)は連句という者余り好まねば古俳書を見て連句を読みし事無く、又、自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集(注・『猿蓑』・『続明烏』・『五車反古』)にある連句を読めばいたく興に入り、感に堪ふるので、終には、これ程面白い者ならば自分も連句をやつて見たいという念が起つてくる」(注・原文は句読点などなし)。  

要するに、子規は、余り、連句についての知識がないままに、「連句非文学論」を唱えて、後で後悔しているようにも思えるのである。このことは、後に、虚子が、その『子規と漱石と私』の中で、「連句の研究は子規がのちの人に残した大きな宿題の一つと考えます」と、はっきりと明言しているのである。  

さて、現在の「俳句」と、芭蕉・蕪村・一茶等の江戸時代の「俳諧(連句)の発句」とは同じものなのだろうか。これについては、諸説が分かれていて、これまた、ミステリーのミステリーの分野なのであるが、余り、詮索しないで、「現在の俳句は、連句の一番目の発句と同じである」と理解をいたしたい。  

しかし、連句関係者は、冒頭のように、「連句は挨拶ということを特に重んじるので、スタートの発句は遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうがよい」というと、石田が感じているように、自己の魂の切実な表白である「俳句」と他人への挨拶の自己の魂の中途半端な表白の「発句」とは、全然異質のものと思われてくるのである。
 とすれば、これまた余り詮索をしないで、「俳句的傾向の発句と非俳句的傾向の発句とがあるが、概ね、俳句と発句とは同じである」という位の理解で我慢をしたい。そして、一番大切なことは、自分の俳句観を確立する上において、芭蕉・蕪村・一茶等の江戸時代の作品と理論を参考とする俳人ならば、とにもかくにも、「俳諧(連句)に精通しなければならない」ということなのである。即ち、「俳諧(連句)に精通しないで」、すぐに、「芭蕉・蕪村・一茶等」の俳諧(連句・発句)の世界を、自分の俳句観に応用することは、それは、前提となる世界が違い、とんだ誤りを冒すこととなるということである。                      

これもまた、いささか、脱線気味になってきたが、「俳句」と「連句」とに係わる謎も、ことほど左様に、底無し沼のような趣である。                                      

「連句」それ自体に係わる謎                           

石田の平成五・四に次のような記載が見られる。       
「最近、私の身辺では連句に対する動きが活発で、話を聞く機会をもっているが、発句や初六句までは遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうが奥ゆかしくて良いとされている。百年前に正岡子規が堕落した俳壇に見切りをつけ、連句から発句だけを独立させ『俳句』と命名したことは周知の通りだが、松尾芭蕉以前または以後の俳壇は、歌仙すなわち連句が盛んで、芭蕉も百二十余の歌仙を巻いているそうだ。その連句が序々にブームになりつつある現在、私(注・石田)などが強く押した第二句の心象俳句(注・「まだ決めかねて散る花に吸われそう(武田美代)」)は発句の条件に合わず、永久に採用されぬ運命にあるということになるのだろうか。そうなると、現代連句の在り様に首を突っ込んでみなくてはと言った気持ちになる」。
 そうなのである。連句自体が式目(規則)などで窮屈この上ないので、いくら集団創作という代物であっても、その創作自体に、やや懸念せざるを得ない、そんな感じすら抱いてくるのである。 
 季語一つとっても、俳句の世界では、「新年・春・夏・秋・冬・歳末」程度なのであるが、連句の世界では、「初春・仲春・晩春・初夏・仲夏・晩夏・初秋・仲秋・晩秋・初冬・仲冬・晩冬」と細分化される。土台、この連句の世界で使える歳時記は、山本健吉編の『最新俳句歳時記』(文芸春秋)位のようなのである。これでは、連句をやろうとしても、その最初から「連句というのは、敬遠した方が良い」ということになる。            

発句・脇句の作法、第三の転じ、恋の句・月の句の作法、一番最後の挙句の作法、そして、それらを除いた平句の展開など、一般には「連句というのは、敬遠した方が良い」という雰囲気を有している。しかし、それらは、所詮、規則であり作法の問題であり、石田連句も武田連句も、そういう、その連句に参加する人達(連衆)の共通理解の下に、どしどし、新連句の世界を展開しても、これは推奨されることはあれ、非難される筋合いのものではないと思われるのである。                 

勿論、連歌・連句の伝統に忠実なものが、その主流にあって、正岡子規以降の俳句の成果を存分に取り入れた、新しい息吹のある新連句の世界が、その傍流にあって、そして、それらが、重ね合わさりながら、日本独特の連句文学という大河に発展していくと・・・、誰しもが、このような考え方を持っているのではなかろうか。       
 ところが、連句人というのは、その連句に精通すればするほど、俳人以上に、規則・作法を重要視し、その大きな枠に抑えこもうとする。こんなことが底流にあって、「連句をやると俳句が下手になる」という妄言が、実しやかに流布されているのである。そして、「座」という集団の中にあって、その一員としての個人の自由な創作意欲が発揮できないような連句の世界であるならば、それは、本当に、「連句をやると俳句が下手になる」ということは明らかであり、連句の衰微は明らかであろう。          

今や、静かな連句ブームから、賑やかな連句ブームとの趨勢にあるが、この時にあたって、二度と、子規のような「連句非文学論」などでノックアウトを食わないように、幾重にも幾重にも理論武装をする必要があると思われるのである。しかし、それにしては、余りにも、連句それ自体が恐ろしいほどのミステリー部分を擁しており、日暮れて道遠しという感じなのである。      
     

⑮「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎                     

草加市で開催された「奥の細道国際シンポジュウム」の中での、西独デュイスブルグ大学のラファエル・ベアマンの興味ある発言が、石田の昭和六三・一二に紹介されていた。「西独の研究者の間では、芭蕉は李白や杜甫をはじめ古今集・新古今集などの多く文献に精通していて、それらのことばを全面的に引用して表現している。自分のことばで文学を作っていない。文学は創作なのだ。だから芭蕉は偉大な教養人ではあるが芸術家ではない・・・との説がある」。          

このラファエル・ベアマンの芭蕉観は、極めて、俳句革新の遂行者・正岡子規の考え方に類似している。いや、日本人の子規が、西洋人のベアマンの考え方に類似しているといった方が良いのであろう。西洋文学の思想は、個人主義的文学観であり、個人の独創性を基礎に置き、個人の独創性=創作という考え方である。それに比して、日本古来の文学の思想というのは、この個人主義的文学観の、個人の独創性=(個人的)創作という分野よりも、集団主義的文学観の、集団の相互の連想性=(共同的)創作という分野を大切にしたのであった。    

 古歌の一部を取り入れ余情を豊かにする「本歌取り」は、『新古今』時代に最も盛行し、この「本歌取り」は、まさに、連想性=創作という分野の代表的なものなのである。そして、俳諧(連句・発句・川柳)でも、この「本歌取り」は持て囃された。芭蕉の蕉門では「本歌を一段すり上げ」ることが、その『去来抄』などで強調されている(『俳文学大辞典』)。              

冒頭のベアマンの芭蕉観は、「和服姿(日本的な文学観)の芭蕉は、洋服(西洋的文学観)を着てないから、文学者(西洋的)でない」というような主張なのであろう。そして、このベアマンの論法が、子規の「連句非文学論」にそのまま当て嵌めることができるのである。             

子規の『芭蕉雑談』の「或問」の答えの「連句非文学論」は次のとおりである。  

「答へて曰く、発句は文学なり、連俳(注・連句)は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども、文学以外の分子をも併有するなり」。「答へて曰く、連俳にと貴ぶ所は変化なり。変化は即ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして、全く前後相串連せざる急遽條忽の変化なればなり」(原文に句読点などを挿入している)。          

即ち、子規は、「連句は、個人の感情を本としていないので、西洋的な新しい文学とはいえない。しかし、その連句の発端となる発句については、個人の感情が本となっており、これは、西洋的な新しい文学と近いものがある。また、連句の生命は、偶発的な変化であり、この偶発的な変化などは、いわゆる、新しい文学においては認めがたい」というのであろう。                

明治維新というのは、江戸が東京になり、ちょんまげがざんぎり頭となり、和服が洋服となる大きな革命であった。子規の「俳句革新」というのは、この革命と同じで、それまでの宗匠俳諧を否定し、強いては、その宗匠俳諧の基礎となっている芭蕉を否定することから始まった。この結果、芭蕉の神聖化は否定され、連句は「連句非文学論」で死刑を宣告され、わずかに、発句のみが「俳句」と名を変更され、当時の新しく勃興してきた書生(アマチュア)達が、その主役となっていったのである。 そして、その書生達の考え方の基礎には、西洋近代主義的な個人主義的思想(文学観 )が据えられたのである。         

しかし、こと、連句に限っていえば、連句は一人の個人の創作ではなく、二人以上の人々によって創作されるところの集団(座)の創作といえるもので、その西洋的な文学観とは全然異質の世界のものであった。そして、それは、一句一句は独立していて、そして、全体としても総合され、一つの詩的な世界を創造している、いわば、日本美術における「絵巻物」のような世界で、日本的な独特の世界のものなのである。 
 子規の「連句非文学論」は先に見てきたが、その芭蕉否定は、次のとおり、見事に、冒頭のラファエル・ベアマンの芭蕉観とその軌を一にするのである。          

「芭蕉は発句よりも連俳に長じたる事、真実なりと雖も、是れ芭蕉に智識多き事を証するのみ。其門人中、発句に勝れて、連俳は遠く之に及ばざる者多きも、則ち、其文学的感情に於て、芭蕉より発達したるも、智識的変化に於て、芭蕉に劣りたるが為なり」(注・『芭蕉雑談』の原文に句読点などを適宜挿入している)。
 子規は、ラファエル・ベアマンと同じように、「芭蕉は知識の人であって、感情の人ではなく、従って、文学人でない」というニュアンスなのである。しかし、芭蕉こそ、日本が生んだ、世界に冠たる文学人・詩人なのである。このことを証明するには、子規以後の日本文学上の鬼才・芥川龍之介の、次の『芭蕉雑記』からの引用(要約)で十分であろう。       「詩人としては、彼(注・芭蕉、以下同じ)の偉大さは一に漢語や雅語にも新しい生命をふきこんだ上に、俗語を正していること、霊活に語感をとらえて、俗語に魂を与えていることである。二つには目に訴える美と耳に訴える美との微妙にとけ合った美しさをそなえていること、とりわけ『調べ』を駆使する手腕に大自在をきわめていることである。画趣をあらわすにも、彼は非凡であった。三つには、彼の詩は切実に時代をとらえ、大胆に時代を描いた。恋を扱った連句には、女や若衆の美しさに鋭い感受性を震わしていた多情な元禄びとが現れているし、また鬼趣をろうした巧妙な諸作や、いうべからざる鬼気に富む作品を残している点は、怪奇小説の流行にふさわしい。芭蕉の俳諧は、その用語と内容の上で、当時最もモダーンな性格であった。」 

子規やラファエル・ベアマンに見せたいような、芥川龍之介の芭蕉礼賛である。さて、最後に、ともすると、ひとりよがりの個人のモノローグ(独白)的な文学(俳句・川柳)が横行している今日にあって、共感し、共有し合う集団のダイアローグ(対話)的な文学(特に、連句の再興がクローズアップされる)が、今こそ求められているのではなかろうか。この「『集団創作』と『個人創作』とをめぐる謎」において、子規や龍之介の原文を長々と引用したのも、それらの先達(他人)の創作と自分の創作とが、あたかも「集団創作」のようなダイアローグ(対話)的な記述になることを意図したためである。      

そして、この「集団創作」と「個人創作」とをめぐるミステリーについては、今後、精力的に検討されて然るべき分野であるということを声を大にして指摘をしておこう。 

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「虚」と「実」とに係わる謎                           

石田と宇多喜代子との手紙のやりとりは、これは圧巻というところなのだが、その中に次のようなものがある。         

「『俳句空間』に掲載された熊野大学のことでいろいろ聞かれるのですが、結局のところ、うまく口では言えないので困ります。大学という名がついているので、多くの方は普通の学校を想像なさいますが、そうではありません。一言でいいますなら、観念の大学、観念の熊野、非在ということであります。どうぞよろしくご理解ください」(平成三・五)。   

この「観念の大学、観念の熊野、非在」ということは、即、「虚(きょ)の熊野」ということになろう。そして、この「虚」と「実」とをめぐっての「虚実論」というのが、蕉風俳論の中でも最も厄介なものの一つであろう。      

『俳文学大辞典』の堀切実の解説は次のとおりである。              

「俳諧表現の本質が『虚』と『実』との融合した世界を理想としたものであること。またそのためには方法として『実』よりも『虚』に重点を置くべきことを説いた俳論」とある。 まさに、先ほどの阿部完市などは、この「虚実論」を地でいくような俳人ということが理解できるであろう。    
 更に、その解説は次のとおりに続くのである。               
「芭蕉が直接『虚実』に言及しているのは初期の『田舎句合』などに限られ、それもほとんど談林的虚実観の域を出ていないが、支考によれば『言語は虚にて実をおこなふべし」(「陳情ノ表」)との教えがあったという。虚実論を本格的に体系化したのは、支考であり、一つには眼前の事実よりも文芸的真実を優先する立場から、表現における『虚』を尊重すべきこと、すなわち『上手に嘘をつくこと」の大切さを説き、二つには対象に向かう作者の心のもち方として、心を『虚』に預けるべきこと、すなわち『私意を排すること』の重要性を説いて、これを『虚先実後』の説として提唱した」とするのである。     

この「虚実論」を展開した各務支考は、蕉門随一の俳論家で、その「姿情論」(姿先情後の説)と併せ、この「虚実論」は、支考の独壇場であり、今日まで、延々と、この支考の影響は尾を引いているのである。   
 そして、まさに、宇多喜代子の、「熊野詣」も「熊野大学参加」も、この支考の「虚実論」を自分のものとするための、宇多にとっては、俳人としてのバックボーン得ることにも匹敵するものとして理解できるものであろう。
 それは、「自分と熊野」であり、「自分と文芸的真実との出会い」であり、「実としての自分と虚としての熊野との葛藤」であり、「結局のところ、うまく口では言えないので困ります」というのは、宇多の嘘偽らざる心境であろう。               

宇多の「暴飲のものら驟雨にめぐまれて」(平成二・三)は、まさに、「実としての自分と虚としての熊野との葛藤」における、宇多の願望だろう。宇多は「虚」(「暴飲のものら驟雨にめぐまれて」いる)を羨んでいるのだ。自分も、その「虚」を得て安住したいのだが、どうにも、「虚先実後」を自分のものに出来ないのであろう。      
 この「暴飲のものら」とは「パトス(情念・激情)」なのだ。そして、宇多その人は「エトス(規範・道徳・理性)」なのであろう。そして、宇多は、俳人として、このパトスの血(驟雨)を得たいのであろう。それがままならぬこの句は、実に、不安定そのもので、宇多の、この危ない不安定さが、この句の生命線なのであろう。
 ここにおける、石田の宇多の「わが俳まくら」(朝日日曜版)の紹介は印象的である。「『熊野大斎原(おおゆのはら)』は掲句誕生のいきさつを如実に語っていた。古来、熊野は鎮魂再生の地、本宮跡の大斎原の草地に佇つと、地に鎮む累々たる魂の回生願望の気息が肌身を刺すように伝わってくるという。そしてある夏、ここに芸人の一団がやって来て、粘りつく闇の中で火を焚き天につつ抜ける芝居を見せてくれた」というのである。  

宇多は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)の葬られたというこの熊野にて、「虚」の世界を見てしまったのだろう。      
 そして、「実」なる自分の魂を、その「虚」の世界に遊泳させたいという願望に浸ったのであろう。しかし、その「実」なる自分の魂を、その「虚」の世界に遊泳させたいという願望に身を置いている以上は、その五七五の世界は、絶えず不安定な状態に放置されるような、そんな予感がしてくるのである。       

長い一文となってしまったが、ことほど、さように、この「虚」と「実」とをめぐるミステリーは、ミステリー中のミステリーということになろう。                                

「常識」と「非常識」とに係わる謎                        

「百千鳥ほんとうは来ぬ朝もある」(宇多喜代子)の句について、石田は「俳句は常識とのたたかいだと、つねづね自分に言いきかせ、また仲間の合言葉にもしてきたが、しかしこの常識という化物、油断も隙もない、完全に私の体内に巣食って大あぐらをかいていると認識せざるを得ない現状だ。だから『ほんとうは来ぬ朝もある』と胸元に匕口(あいくち)を突きつけられたら私は呆然と立ちすくんでしまう」との評を寄せている(平成二・五)。 
 石田は、この句は「非常識(常識にあらざる)」なものと理解したのである。「朝はいつだってそこにあると当然のように信じていた(石田の)常識」を打ち破るような、強烈な「非常識」の警句となったというのである。   
 しかし、石田にとって、一見、強烈な「非常識」の警句とも受け取られるものも、その受け取り方で、この句は、典型的な「常識」的な作句と思われる場合もあるであろう。  

例えば、この「百千鳥」というのは、万葉集や古今和歌集の本歌取り(百千鳥さえずる春・百鳥の声なつかしき)の詞(ことば)と理解できるものであろう。そして、その春を謳歌しているいろいろな鳥たちも、何時かは「ほんとうは来ぬ朝もある(死ぬ)」という、極めて、「常識」そのものの作句で、ただ、面白いのは、「ほんとうは来ぬ朝もある」という表現方法だけなのだ、という理解も成立しよう。これを前の掲出句と並列してみると、その前の句よりも、更に、その「常識」さが明瞭になってこよう。            

○ 暴飲のものら驟雨にめぐまれて    

○ 百千鳥ほんとうは来ぬ朝もある     

やはり、宇多喜代子は、「エトス(規範・道徳・理性)」の俳人であって、「パトス(情念・激情)」の俳人ではないのだ。そして、そのエトスに足を踏み入れている俳人の句は、どうしても、ある一定の枠があり、真の「非常識」という、「パトス」の世界には踏みこめないというジレンマがあるのだろう。 
 そして、宇多は、そのことを十分に承知しており、その句集『半島』のあとがきの「本体から外れた意志で反情緒的に外洋へ突出している半島こそ、私の内なる者らの肉体を引き受けてくれる地上浄土であるように思われる」という表現は、これまた、その「熊野詣」と同じように、エトスたる俳人・宇多の、切ないまでのパトスたるものへの願望、そのものの表明なのであろう。      
 宇多が、本当に、そのパトスたるものへの願望を満たしたいのならば、それは、現在の宇多の二兎を追っているような一切の「評論・編集・etc」的活動というエトス的なるものとの訣別が必要となって来るのではなかろうか(しかし、宇多は多分にそこまでは踏みこめないと思われる)。         

これらのことに想いをめぐらす時に、「虚」と「実」とをめぐるミステリーが、ミステリー中のミステリーと同じように、「常識」と「非常識」とに係わることも、これまた、大変なミステリー・ゾーンということになろう。   
                    

⑪ 「常識」(旧)と「非常識」(新)とに係 わる謎                                     

石田の、この「栃木会報」で一番陰鬱のものは、石田の朝日新聞栃木俳壇の選句にかかわる非難中傷に係わる投書に関してのものであろう。                

「・・・難解俳句を至上とし、よく分からないのは読者の不熟な眼識の低さによるという、多くの読者を蔑み高慢な意見を吐く選者に驚きかつ嘔吐したくなる思いで・・・」(平成四・十一)。              

これより二年前のものにも、「増渕(一穂)先生の築かれた栃木俳壇を踏襲される方を選者にしてほしかったと思います。俳句はやはりリズムと心情の読みこまれたものこそ心を打つものであって、現代においても芭蕉の句が少しも古さを感じないではありませんか。それに人柄だと思いました。字あまり、漢字の句など感動いたしません」(平成二・一)。                   

これは、石田の「栃木俳壇回顧・・・新を求める心、大切に」に関連するものであった。                    この石田と匿名子との不調和は何に由来するのであろうか。これは、詮じつめていくと、石田の「非常識」(新)と匿名子との「常識」(旧)とのぶつかり合いに起因しているように思えてくる。                   

石田は、「凝り固まった『常識』(旧いもの)を破って、『非常識』(新しいもの)の世界を見せて欲しい」と願望し、匿名子は「『常識』(旧いもの)を破り、『非常識』(新しいもの)に方向転換するのは許さない」というのである。これはまた、「先を見るもの」(石田)と「後を見るもの」(匿名子)との不調和ともいえるもので、これは決して交差することなく、両者とも並行線に終わる悲劇的なものであろう。 
 こと、芭蕉に限っていえば、芭蕉の俳句人生というのは、「『常識』(旧いもの)を破り、『非常識』(新しいもの)の世界」を模索し続けた、五十一年の生涯であったということはいえよう。             

桃青時代の「談林新風」心酔の時代、芭蕉庵と号しての漢詩文調の「わび」詠出の時代、『野ざらし紀行』の歌枕巡礼をとおしての「風狂」を目指した時代、そして、『おくの細道』の辺土の旅をとおして風狂と道念を結びつけた「不易流行」樹立の時代、そして、晩年の日常庶民の哀感の世界を見据える「かるみ」の工夫と、その「新を求める」姿は、凄まじいものがあった。          

石田は、これらの一連の動態的の動きの中で、その作句活動をしようとする。そして、匿名子は、自分がこれで良しとする、ある静態的な断面において、その作句活動をしようとする。このすれ違いなのであろう。この石田と匿名子とのやり取りを見ながら、どちらが是で、どちらが否ということは、差し控えるべきものと思われるが、ただ、こと、朝日新聞栃木俳壇の選者の、増渕(旧派?)から石田(新派?)への交代は、「常に切磋琢磨する」という観点からは、いずれの俳句結社などにおいても、よく取られる常套手段的なものであって、これを否とすることは、余りにも、匿名子が自分の情にウェートを置き過ぎているとはいえるであろう。
 とにもかくにも、この石田と匿名子との不調和を見ながら、「常識」(旧)と「非常識」(新)との間には、大変な謎が存在するということを思い知ったのである。     

(なお、石田は、自分の立場は、「新を求める立場」であっても、そのことが、「非常識」的立場でも何でもなく、極めて、「常識」的立場と考えているであろうから、いよいよ謎は深まるばかりである。)           

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「吟行詠」と「俳枕」とに係わる謎                        

「俳句を作るために旅をするということは本筋ではないと思っている。日常生活に感動や感激が起こらないということは、やはり俳人として困ることだと思っている。」    

これは、能村登四郎の言葉として、石田の昭和六二・八に紹介されているものである。 この能村登四郎の立場を是とするものが、増山美島で、それを否とするのが石田よし宏ということで、この二人の興味ある姿勢を浮き彫りにしている。どうも、先ほどの「俳枕」と同じように、俳人というものは、「吟行」ということに血眼になっていて、その結果として、「歌枕」の他に「俳枕」まで樹立しないと、つじつまが合わないような結果をもたらしているように思えるのである。     
 かの『俳文学大辞典』には、「吟行」について「詩歌・俳句などを作るために野山などへ出歩くこと。特に近代の俳句では重要な作句手段。明治期の日本派にすでに郊外を遊吟する風があったが、大正期、『ホトトギス』の写生尊重主義により、その意義を高め、昭和初年の武蔵野探勝会に至って花鳥諷詠・客観写生の具体的な方法論として確立した」(本井英解説)とある。どうも、「吟行」して「花鳥諷詠」の句を作ることから、「吟行詠」という言葉も誕生しているようにも思えるのだが、この高浜虚子の師匠の正岡子規は、いわずと知れた「病牀六尺」とそこから垣間見える僅かな小庭のみでの作句活動で、近世の芭蕉の「俳諧」を、近代の子規の「俳句」へと百八十度転回させたのであった。             そして、子規は、「吟行」をしたくても、それが叶わないのだ。そして、そういう人達は、これまた、想像をはるかに超える数字となることだろう。             

そういう人達に、「作句をする」ことを拒否するのであろうか。この答えを考えれば、そこには自ずから一本の道筋が見えてくる。「その置かれた境遇にあって、その境遇の日常の生活にあって、作句しなければならない、刻一刻と変化する自分と他者(自然)との関係を如実に五・七・五の世界に嵌め込む、その所作」こそ、作句活動というのであろう。即ち、作句活動の基本は、「日常詠」にあり、「吟行詠」というのは、その補助的な作句活動以外の何ものでもないであろう。 
 とすれば、昭和初年の武蔵野探勝会以来、膨大に蓄積されてきた「吟行詠」の集大成のような、いわゆる、古来の「歌枕」とは全然異質の「俳枕」などという分野を拡大する必要は、さらさら、ないと思われるのである。 とにもかくにも、この「吟行詠」と「俳枕」とは密接な関係にあり、その両者とも、外面的には取りつき易い装いをしているのだが、その実は大変なミステリーを含んでいるということなのである。         
 そして、その実のミステリーの本質には迫ろうとせずに、その外面の安易な「吟行詠」とか「俳枕」とかの形にのみとらわれている風潮が、どうにも目についてならないということである。                         

「吟行詠」と「日常詠」とに係わる謎  

 「石田世間様(注・「びつしりの冬芽私が世間です」の石田の句から来ている)。きのうはありがとう。あれから六時四十五分の浅草行き鈍行に乗り、題詠十題、各人十句、車中で選句を済ませ、浅草の茶房で披披講、合評、反省会をして散会。何と言われようと俳句は足でかせぐ鍛練あるのみ。季題を詠むのが私の作句方法、人生観」(平成三・二)--、この手紙を頂いて、さすがの、増山美島に「吟行詠」を勧めている石田も、少し、首をかしげているようなのである。     
 凄まじいというよりも、これは、太平洋戦争時代の関東軍のような、つい一昔前の日本株式会社猛烈社員のような、そんな印象すら与えるのである。それよりも、本当に、「何と言われようと俳句は足でかせぐ鍛練あるのみ」ということなのであろうか。次の、「季題を詠むのが私の作句方法、人生観」というのは、かの武蔵野探勝会以来の伝統ということであれば、これはこれで理解できるところのものである。 しかし、「俳句は足でかせぐ」というのはどうにも、ユーモアにしても、悲しい商人根性の「俳句を銭と間違えている」ところの「拝金主義」の匂いがしてくるのである。   旅の詩人といわれる芭蕉にしても、スナップ写真のような「吟行詠」はひとかけらも存在しない。蕪村は「書斎派」の代表選手のような俳人である。一茶においては「俳句などを作るために野山などへ出歩くこと」などという余裕はさらさらなかったであろう。   

石田は随所に、「旅の句は土着の心で、日常の句は旅の心で詠う」(昭和六三・八)という作句信条を披露しているけれども、これまた、「土着の心と旅の心」とをそう器用に使い分けすることは、よほどの達人でないと出来ない境地であろう。そして、それ以上に、この石田の作句信条で大事なことは、「俳句は足で稼ぐものではなく、心(で稼ぐ)」という、ここに注目をする必要があろう。また、石田は、「吟行句というのは時としてその場に居合わせた者だけにしか分からないという作品が多い」とも、また、飯田龍太の「その土地(吟行地)に在るという緊迫した臨場感」ということにも触れている((昭和六三・八)。              

これらを総合すると、「吟行句というのは、絵画におけるスケッチのようなもので、そのスケッチを、自分の心にある主題に、どのように活かすかどうかの一素材にしか過ぎない。もし、そのスケッチをスケッチとして完成させようとしたら、よほどの僥倖と覚悟が必要である」というような手前勝手な理解をすることとしている。           そして、このことは、「『吟行詠』を『日常詠』にまで昇華させた時に、始めて、一個の作品となる」ということに結びつけたいのである。                 

即ち、「吟行詠」と「日常詠」という二元論的にとらえないで、「日常詠の中に吟行詠がある」と一元論的な理解をしたいのである。 石田も、「恐山ぶつちからかしの祭かな(相田風女)」の句について、当初賛意を表していて、後段になって「『ぶっちらかし』は他所者の目だ。土着の信仰を批判した目である。双手をあげて喜ぶわけにはいかなくなってしまった」と漏らしているのである(昭和六三・八)。               

この石田の呟きは、「旅の句は土着の心で、日常の句は旅の心で詠う」ということが、凡そ至難の技ということを告白をしてるといえないであろうか。         
 これらのことについて、平成五・五に紹介されている佐藤鬼房の次の発言は確かな手応えを与えてくれる。           

「風土を歴史的にとらえるということは人間の悲願であるといってよい。俳句の取材旅行が非難されるのは、多くは現象描写にとどまって、人間悲願の陰影を描き切れない場合なのではないか。・・・私の心のなかには常に山河がすんでいる。私は『わたしの風土記』を綴っていく」(『風の樹』)。       

この鬼房の言が、これらに関連する足掛かりとなろう。「その言や良し」である。それにしても、「吟行詠」と「日常詠」とに係わるミステリーも大変なもののようなのだ。  

「地名のある句」をめぐっての謎                         

「市場すぎて軽のやまめにあいにゆく(阿部完市)」の句について、石田は、平凡社の『世界大百科事典』を引いて、この「軽」について、「柿本人麿が亡き妻を忍んで軽市(現在の橿原市大軽町にあったという古代の市場)」をつきとめている(平成三・十一)。 更に、「句集『軽のやまめ』には土地の名前が溢れるように現れる。ひたち・安達ケ原・会津・漓江・北京・上海・飛騨・滋賀県・福島県・どいつ・ねぱーる・にゅーおりんず・しもつけ・あるぜんちん・五所川原町などなど、世界中のあらゆる土地の名前が実にさりげなく一句の中に織り込まれている。地名に対する完市氏の異常なほどの執着は、その土地との交合の瞬間に燃焼する喜びにあるのではなかろうかと思ってしまう。そして、この時空を越えた世界に遊ぶことが阿部完市の俳句なのかもしれぬ」と結んでいる。    

これに対して、増山美島は「完市俳句は無色・無思想・無重力・無季、そして無節操と手に負えるものではない」と評しているようである。              
 これらの石田の感想も面白いのだが、美島の、この感想には、当初、ブラック・ユーモアかという印象を受けるのだが、これは、大真面目な、それでいて、恐ろしく的を得たものだということに気がつくのである。 
 この美島の言葉と、同じ論法は、芭蕉の「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず」(『去来抄』)で、これと重ね合わせると、「無色・無思想・無重力・無季・無節操は、完市の句の色(内面的なもの)であって、その句自体(外面的なもの)は、無色・無思想・無重力・無季・無節操ではなく、逆に、その反語的な色彩すらも帯び、石田のいうように、『時空を越えた世界に遊ぶ』、そのようなニュアンスすら、詠み手に伝わってくる」ということになる。          

即ち、言葉をかえていえば、完市の句集『軽のやまめ』に出てくる地名は、ことごとくが、「虚」の世界のものであり、そして、それが、五七五の一句仕立てとなったものは、何かしらの「実」的なイメージを抱かせるということである。      
 その最たるものが、「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり(完市)」であって、完市は、完全に「虚」の世界で作句しており、この「虚」の「栃木」のイメージが、あの季題の本意の歳時記として名高い河出文庫の平井照敏編『新歳時記』の別巻の『俳枕』の「栃木」の本意について、「関東平野の北方、しだいに山岳となる下野は、雨の多い風土。そこに何かしら原始のたくましいエネルギーが宿る」という記述になって現れてくるのである。 
 「栃木は雨の多い風土」であろうか。栃木は雷様は多いが、とても雨が多いとは思われないのである。これは、まさに、阿部完市俳句の亡霊なのではなかろうか。 
 とにかく、これまた、「地名のある句」というのは、ミステリーのミステリーを含んでおり、心してかからなければならないと思われるのである

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奇想天外の「造語」をめぐる謎                          

「指呼の山昼なまけして山ざくら」(増山美島)の「昼なまけ」は、「山眠る」・「山笑う」と同じ擬人化の一つで、美島の造語という(昭和六二・五)。この造語について、石田は「途轍もない造語」・「奇想天外の造語」という感想をもらしている。                どうも、美島が所属している(いた)「鷹」という俳句結社は、この種の造語作りに得意な俳人が結集しているやに思えてくる。
 その「鷹」に所属していた信州の俳文学者でもある宮坂静生は、この度刊行された『俳文学大辞典』(角川書店)という、これまた途轍もない大辞典の中で、増山美島について、「土俗詠(者)」という造語を呈していたし、これまた、その「鷹」の編集を担当している小沢実が、その宮坂静生について、「(信州の)地貌(詠者)」という造語を呈している。これらの造語の氾濫に接すると、「俳諧の益は俗語を正す也」(『三冊子』)とした俳聖・芭蕉を思わざるを得ない。       

芭蕉は、その俳諧七部集などを見ても、凡そ造語や奇想天外の句語などは使用していない。それは見事なもので、その連句などを見ても、三百年余も経た今日においても、その句語自体は、意味不明というものは、皆無に等しいのである。             

勿論、芭蕉は漢詩や和歌などの当時の和漢のいずれの分野にも造詣が深く、そのための校注を見なくはならないものがあっても、実に、厳格な句語の選択に意を用いてるというのが、詠み手にも伝わってくる。しかし、その芭蕉は、中世の和歌(連歌)の「雅(よそいき)語」を近世の俳諧(連句・発句)の「俗(ふつう)語」に、方向転換させたその張本人でもあるのである。即ち、芭蕉は、当時の民衆の「俗なる考えとその俗語」に精通し、それを文学(俳諧)にまで高めた人であり、その意味では、その「通俗(俗に精通している)」の代表選手でもあったのだ。
 そして、その芭蕉より三百年余も経た今日において、美島・静生・実らが、その造語を駆使するということは、どうも、この「通俗(俗に精通している)」なるものを狙って、その俗なるエネルギーを我がものにしようという現れのように思えてならないのである。 しかし、これまた、芭蕉の「俳諧の益は俗語を正す也」をめぐっての「高悟帰俗」の、その実態は、藪の中であり、これもまた、聖域として、それはミステリーにしておくことこそ肝要のことと思わせるほどに、得体の知れないミステリーの世界なのだ。とにもかくにも、博覧強記でなる石田が「私の鑑賞力不足」と嘆いた、この美島の「山の昼なまけ」というようなものには、近寄らないのが無難なのかも知れない。       

④「俳枕」に関しての謎                             

○けぶりつつ栃木の藤も咲くころぞ                 (小浜杜子男)

○栃木にもいろいろ雨のたましいもいたり               (阿部完市)

○栃木にいたぞうれし酒焼日焼け顔                 (鈴木六林男)                     

平畑静塔の第三句集『栃木集』(昭和四六年刊行)の、栃木俳壇、いや、日本俳壇に与えた影響は大きい。この『栃木集』の前後にして公表された、その「狩猟論」について、石田は「農耕意識を根底にもつ俳句の世界を、狩猟民族の感覚でとらえようとする静塔氏の『狩猟論』は、下野人が無意識にもつ美意識を明文化したものと解釈して、私(石田)はむしろ喜びにふるえたことを記憶している」と記述している(昭和六一・一)。            これは、静塔の俳論の一つの「狩猟論」についての石田の記述であるが、その『栃木集』についても、これと、全く同じ記述が許されるであろう。           
 そもそも、それまでに、県名や市町村名のような題をつけた句集というのは皆無に等しいであろうから、この静塔の第三句集は、静塔の句集の中でも異色だし、日本俳壇の中を見渡しても、題、そして、内容とも、異色のものといえるであろう。          

掲出の三句、色々な鑑賞の仕方が可能であろうが、この三句とも、静塔の、その第三句集『栃木集』を意識しての作句と思えてならない。                
 なかでも、その二句目の、阿部完市の句について、石田は「地名の中に現地と対比して読むことよりも、一つの言葉として呪術的なはたらきを誘い出す役割に相応しいものが存在する」との評を下している。「栃木」という言葉に、石田のいう「呪術的」なものの誘発は、それこそが、静塔の第三句集『栃木集』が持つ魔力とも思えるのである。                
 しかし、「栃木」というのは「俳枕」であろうか。「俳枕」というのも、これまた、俳人特有の造語なのであろうが、その造語の意味する趣旨の範囲内においてでも、「栃木」というのは、「俳枕」なるものとして理解するには、まだ、成熟したものではなかろう。 栃木県関連の「俳枕」といえば、それは、「遊行柳」であり「室の八嶋」であり、それらの「歌枕」と重ね合わさって理解されるものであろう。               

そもそも、「歌枕」に対置して「俳枕」という言葉を、ことさらに、取り上げること自体、どうにも、俳人特有の「造語」気の臭気が匂ってならないのである。「歌枕」というのは、それこそが、狩猟時代・農耕時代にも連なる日本民族の「地魂」(これも造語かも知れない。反省が足りないか?)の言語的な表現ともいえるものであろう。「俳枕」などというものは、たかだか、芭蕉以後の、三百年程度の歴史で、悠久の歴史を有する「歌枕」と、肩を並べようとしても、これは、俳諧特有の「滑稽」の一具現化と思われるかも知れない。           

とまれ、季題の本意の歳時記として名高い河出文庫『新歳時記』(全五冊)の別巻の『俳枕』(全二冊)の編者である平井照敏の「俳枕」の解説が、その意を尽くしているとは思われるのだが、どう見ても、素人を十分に満足させるものではないのである。大体、「俳句を作る」ことを「句を作る」ということはあっても、「俳を作る」という人にお目にかかったことがない。それなのに「句枕」といわず「俳枕」というのは、土台何処かに無理があると思えてならないのである。                   

これは、ミステリー(謎)というよりも、クエスチョン(?)ともいう分野とも思われてくるのである。            


続けて「俳枕」に係るクエスチョン(?)                     

「いま『俳枕の時代』だという。耳馴れない言葉だが、和歌における歌枕と同じ、俳句に詠み込む名所旧跡--言うなれば詩的活力に富んだ地名と思えばいいようだ」と石田は記している(昭和六二・四)。俳句歴半世紀以上の石田が「耳馴れない」というように、何時の間にか「俳枕」という語呂の悪い言葉が認知されようとしている。 

あの『俳文学大辞典』には、この「俳枕」について、どうにも古今東西異論を唱えるのもはばかるような碩学者・尾形仂が担当しており、この尾形仂と平井照敏との強力コンビは、これは、「俳枕」という言葉を定着させようとする何ものでもないと思われるてくるのである。      
 その尾形仂の解説文は次のとおりである。「和歌名所としての歌枕に対し、俳諧の目で発見され、またとらえ直された地名をいう。俳枕の語は延宝八年(一六八〇)刊の幽山の撰集の書名に見え、幽山はこれを『能因歌枕』から得たものという。空想の地誌としての歌枕に対し、俳枕の特色は実地体験に基づき、その風土の本質的情感をとらえたものである点にある。季語が時間軸に即して日本人に共通の詩情を喚起する力をもつのに対し、俳枕は空間軸に即して作者の詩情に点火し、読者との共通理解を支える効力をもつ。」    

この尾形仂の解説と河出文庫『新歳時記』の別巻・『俳枕』の編者の平井照敏の「俳枕」の説明も、ニュアンスの違いはあれ、同一趣旨の解説と理解できるのであるが、それらの解説の後で、平井は次のような含蓄のある解説を続けるのである。         

「芭蕉は、とりわけ『おくのほそ道』の旅で、歌枕の地を訪ね、古歌を思い出しながら、実際の眼前の景を眺め、感動をあらたにした。そこには、まだ俳枕という名こそなかったが、歌枕をうまれかわらせ、一変させる新鮮な土地の情感が発見されたのである。そして、そこに、歌枕ではなく俳枕とこそとなえねばならぬ、あたらしい価値がうまれたのである。」                  

ここなのである。「歌枕ではなく俳枕とこそとなえねばならぬ、あたらしい価値がうまれたのである」とするのは、それは、「俳枕」を定着させようとする人達の、一方的な感慨ではなかろうか。           

 およそ、芭蕉は、『野ざらし紀行』・『鹿島詣』・『笈の小文』・『更級紀行』・『おくのほそ道』の、その歌枕巡礼の旅も、古来の歌枕の土地の、ほんの一部分を巡礼したに過ぎないのだ。その芭蕉の名を借りて、北は北海道から南は沖縄まで、更には、海外詠まで視野に入れた「俳枕」を設定するということは、そもそも、芭蕉の歌枕巡礼の生涯を曲解しているとも思われてくるのである。         

同じ、『俳文学大辞典』の「歌枕」には、「連歌師・俳諧師らの旅では、歌枕ゆかりの土地での詠作が多く、宗祇『白河紀行』、芭蕉『おくのほそ道』はその例。俳諧・俳句の名句で、記憶に残る地名を俳枕と称するのも一種の歌枕といえる」(両角倉一解説)との記述となっている。 
 どう見ても、「俳枕」は「歌枕」の中に包含されるべきものであって、芭蕉の出現により「俳枕」を独立させることは、現在の「吟行詠」花盛りの風潮を助長するために、芭蕉という権威を利用しているやにも思えてならないのである。              

そもそも、「俳枕」を堂々と名乗った出版物は、『俳枕(全七巻)』(朝日新聞社・昭和六二より)と、その二年後の『大歳時記』三巻「歌枕俳枕」(集英社・平成元年)と平井は指摘している。            

これらの三番目のものとして、平井照敏編の『俳枕』は、非常にコンパクトな形で登場し、大変に便利なものであるが、その平井が「まだ未熟の施行錯誤である」と表明しているとおり、短詩型文学に携わっている多くの人達(短歌・川柳の関係者も含めて)の協力を得て、今後、大いに論議して欲しいところのものなのである。 
 さもないと、ますます、短詩型文学の、それぞれが、それぞれの垣根をめぐらし、その交流こそ望まれるのに、ますます、離れていってしまうという結果すら、予想されるのである。言葉をかえていえば、「俳枕」は、短詩型文学の中で私生児になる恐れなきにしもあらずなのである。
 即ち、「俳枕」というゾーンは、ミステリー・ゾーンというよりも、どうにも、クエスチョン(?)・ゾーンに属していると思われるのである。                                  

石田よし宏『栃木俳句会・月々のことば』の謎

                     

俳句実作においては、まず、何かしらの心を動かすもの(感動)があって、始めて、それを句にしようとする意欲に駆られるのであろう。そして、俳論なり鑑賞論の最初は、まず、ある気にかかる関心事や疑問などが、心の中に拡がってきて、その思いを散逸しないように、一つの形にしておこうとすることから出発する場合が多いのではなかろうか。  
 石田よし宏の昭和六十年から平成七年までの、氏の、その時々の思いの、その吐露のような、その『栃木俳句会・月々のことば』も、いわゆる、俳論なり鑑賞論の、そのスタート点を提示するものであって、その結論とか、これからの発展方向とか、そのようなものは予定していない、その時々の、氏の生(なま)の思いそのものということができよう。  この、氏の、俳諧(連句・俳句・川柳、特に、俳句について)に係わる、その生の思いを目にする時、つくづく、俳諧の世界の未知なる不可思議な部分に自分自身が埋没してしまうような錯覚に襲われる。        

これは、疑問点などという生易しいものではなく、答えのない、いわば、「俳諧のさまざまなミステリー(謎)」のような、そんな世界という言葉が相応しいであろう。その氏が提示する「俳諧のさまざまなミステリー(謎)」について、これまた、その思いが散逸しないように、その一端を書き留めておきたい。                                  

「土着の心で詠う」ということの謎                        

「旅行吟はその土地の土着の心で詠う、日常吟は旅の心で詠う」(昭和六一・八)と、これと同一趣旨のものが、昭和六二・八にも見られる。この「土着の心で詠う」の、この「土着」というのは、はなはだミステリーな、意味のはっきりしない厄介な代物である。     

例えば、「芭蕉の土着性と蕪村の空想性」〔「文学(一九八〇・三)」所収「江戸俳諧を読む(尾形仂・大岡信・飯田龍太の座談会)〕というように、この「土着(性)」という言葉は使われる。         
 そして、飯田は「土着性は、日本人の詩精神のなかではたいへん大きな魅力で、ずっと新しい世代に引寄せてみれば、斎藤茂吉のような形にも変貌する。これに対して北原白秋は多分に蕪村的に思います」といい、尾形は「俳句の短い詩型で、時代によっていろいろな表現の仕方がありながら、なおかつドキッと感じさせられるのは、やはり日本の風土のなかに流れてきた時間が、その一句のなかにパッと吹き出していて、そこに触れることができるからじゃないかと思います。ですから、土着性の根に深く突き当たった句が名句として残るのじゃないかと思う」といい、更に、飯田が「萩原朔太郎がその土着性を嫌悪したところに、彼の詩境の鋭さがあると思う」と続けるのである。            

「土着」の本来の意味は、「その土地に根付く」ということであろうが、「芭蕉の句には土着性がある」という時には、「芭蕉の句にはリアリテイ(現実味)がある」というニュアンスに近いものとなるらしい。そして、そのリアリテイ(現実味)というものは、その芭蕉がその句を作句した時の、その土地の風土的なものが透視できるが故に、そのリアリテイ(現実味)を有するということを意味するらしい。          

ここで、「土着」と「風土」と「リアリテイ(現実味)」という三つの得たいの知れないものが、複雑に絡みあってくる。そして、何処までいっても、「土着」というものは、その外側での風姿しかその姿を見せず、その本性はつかめないような、そんな感じなのである。はなはだ、「土着の心で詠う」ということは、ミステリーな、深い霧の中で、もやもやと蠢いている、そんな得たいの知れない魔物のような存在に思われてくるのである。
                    

「土着詠」と「土俗詠」とをめぐる謎                       

「島にゐて島になじまず海桐(とべら)の実(松本文子)」、この句について、「土着の心でしっかりと佐渡を把えて揺るがない」と石田はいう(昭和六二・八)。さしずめ、この文子の句は「土着詠」というような世界のものなのかも知れない。一方、増山美島の俳句について、「巧妙な土俗詠に特色がある」(『俳文学大辞典』所収「増山美島」についての宮坂静生の解説)という指摘にも出合う。          

さて、またまた、「土着(詠)」に関連して、得たいの知れない「土俗(詠)」という厄介な謎めいたものが登場してくる。この「土俗(詠)」の意味するところのものは、「風土・風俗・風習(にかんする諷詠)」というようなニュアンスのものなのかも知れない。                

いや、この「土俗詠」という言葉の創始者の宮坂静生は、芭蕉・蕪村・一茶に精通する俳文学者でもあり、そして、増山美島については、その「鷹」で切磋琢磨した連衆の一人でもあったことからしても、この「土俗詠」というのは、いわゆる、「土着」と「通俗」と

諷詠」との合成語のように思われるのである。「土着」そのものがミステリーのままなのに、更に、これまた、ミステリーそのもののような「通俗」とか「諷詠」とかが来たら、これは、下手な詮索はしないで、ミステリーのミステリーとして、そのまま、その言葉を鵜呑みにする他は術がないのかも知れない。 ということで、石田が「土着詠」の典型とする一句と、宮坂が「土俗詠」の例句とする一句を並列して、それを味わう他には方法はないようなのである。          

○夫婦して餅が食べたく芒の穂(美島)  

○島にいて島になじまず海桐の実(文子)                     

(昭和五三・五四)

○ 炎天の幹に父居る普段かな

石田よし宏氏の処女句集『炎天の幹』の題名はこの句に由来があるのだろうか。とすれば、氏にとってはこの一句は忘れ得ざるものということになろう。氏の父の句は、昭和五十一年以降の後半の頃から多く出てくる。

○ 枯野にて眼鏡きれいに父来る  (昭和五一・五二)

○ 咲き終へし桃なり父の広額   ( 同 )

○ 冬樫の日向や父の世辞を聞く  (昭和五三・五四)

○ 旱なり父の声澄む蔵の中    ( 同 )

○ 藪椿父のをんなを敬へり    ( 同 )

○ 鳥帰る頃の教室父が居て    ( 同 )

どの句も、氏の句の中にあっては比較的取り付き易い句と言えるてあろう。氏の年譜から見ると、昭和五十三年には「鷹」俳句会功労賞を受賞した年で、年齢的にも五十歳半ばと油の乗り切った頃といえるのかも知れない。そして、ここで一つ気がつくことは、よし宏俳句においては、「父」の句が多く、「母」の句をほとんど目にしないという事実についてである。そして、これらのことは、氏の境涯性と深くかかわるものなのかも知れない。  しかし、氏の俳句は、これらの境涯性と関係することを拒否して、「作品の上に作者を置いて鑑賞する」ということを排斥して、いわゆる「境涯俳句がいよいよ閉鎖的な世界に逼塞させてしまう危険性を内包している」(藤田湘子)という立場を堅持しているように思えるのである。これらのことについては、この処女句集『炎天の幹』の三部構成から見てみると、昭和二十二年以降の初期作品が収載されている「石橋病院」においては、石田波郷氏らの「境涯俳句」的な世界での作品が多く、続いて、昭和三十一年の「風」(沢木欣一主宰)入会以降は「社会性俳句」的世界に移行して、昭和四十五年にそれらの「社会性俳句」とも訣別して、「鷹」(藤田湘子主宰)に入会して、「私詩からの脱出」・「ことばの自立性や俳句の抒情性・風土性の探求」(藤田湘子)や「『イメージ』の形象とそれらの『暗喩(メタファー)』としての強調」・「『創る自分』の設定」(金子兜太)などでの作句活動に転換しているように思えるのである。

これらのことを念頭において、掲出の「炎天の幹に父居る普段かな」という句の鑑賞に当たっては、「鷹」主宰の藤田湘子氏の、その「序」において、「巧まくて手強い俳人というのが、私の描いている石田よし宏像である。『炎天の幹』という題名には、私はそうした期待を受けとめた決意を感ずることができる」という指摘が一つの示唆を与えてくれるように思えるのである。即ち、「炎天の幹に父居る」とは一つの「暗喩」であって「何時も炎天下に晒されているような樹の幹、その樹の幹に逃げも隠れもせず、その幹のように居る手強い父としての存在(それは、とりもなおさず自分を含めての男性の存在)」というようなイメージであって、そして、それは、「何時の世においても、格別特別視されるものではなく、『普段』(日常・平素・平生)であることだ」というようなことが、この句の作意なのだろうと解したいのである。そして、その他の掲出の「父」も、作者個人の「父」という存在よりも、「暗喩」としての「父」として鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。

(昭和五五)

○ 隠亡の曇りに映えて山椿   

昭和五十三年に、石田よし宏氏を始めて俳句の世界へと導いた「風」の主要同人であり、個人的に主治医でもあった木村三男氏が世を去った。そして、その年に、よし宏氏は「鷹」俳句協会功労賞を受賞したということは、木村三男氏に匹敵する一人の「下毛野」(野州・栃木県)の俳人の誕生を意味するものであった。そして、その木村三男氏の句集『下毛野』にも、昭和四十六年作の、次の「隠亡」の句がある。

○ 隠亡がかくし持ちたる葱の束 (木村三男)

「隠亡」は死者の埋葬などの弔いの世話をする人のことで、三男氏の句はその隠亡が弔いの世話賃の代わりに頂いた葱束を目立たないように隠して持っている姿を医師を職としている人の冷静沈着な目でとらえ、それがシニカル的な「俳諧味」(滑稽感)の世界へと誘うような句作りである。それに対して、よし宏氏の掲出の句は、「隠亡」という語感の持つ「どんよりとした曇り」の陰鬱感に比して真っ赤な「山椿」を配置して、この句に接する人にさまざまなイメージを起こさせるという句作りなのである。そして、三男氏が、事実ありのままの即物的リアリズムの把握とそれをストレートに提示する手法に比して、よし宏氏のそれは事実ありのままの即物的なリアリズムを基礎として、それをそのまま提示せずに、例えば、この掲出の句ですれば、「隠亡の曇り」という暗喩的表現の非ストレートな手法を用いているのである。これらの句に接したときに、俳人・石田よし宏氏は、その俳人としてのスタートにおいて、俳人・木村三男氏の即仏的リアリズムの手法を学びとり、そして、

昭和四十五年から昭和五十五年の「鷹」所属の「鷹十一年」において、「鷹」主宰の藤田湘子氏の言葉でするならば、「巧まくて手強い俳人」への変貌を遂げたということになろう。

ここで、この「鷹十一年」のよし宏氏の歩みということを振り返りながら、氏の俳句の特質と心に残る句の幾つかについて提示しておきたい。

よし宏俳句の特質の第一は「身辺に発生する対人関係の機微を剔出(てきしゅつ)して一篇のドラマを構築」する、その「巧みさ」と「手強さ」にある。

○ 炎昼の辻の声聴く盲かな     (昭和四五・四六)

○ 一物を曇らせて拭く里神楽    (昭和四七・四八)

○ 梅雨呆けの髪ひめごとの匂ひかな (昭和四九・五〇)

○ 妻痩せて来し月明の杉菜原    (昭和五一・五二)

○ 竹百本僧がみてゐる野分かな   (昭和五三・五四)

○ 花種や問はねば言はぬ男にて   (昭和五五)

よし宏俳句の特質の第二は「誰もが見ていて感じ取ってる筈の日常の出来ごとを十七字に切り取る言葉遊び」の、その「巧みさ」と「手強さ」にある。

○ 足の裏ひらく昼寝の深みにて    (昭和四五・四六)

○ 写真顔良くて狐火を信ず      (昭和四七・四八)

○ 妻といふ手塩の一つ朴の花     (昭和四九・五〇)

○ 小説のうしろを隙間風の猫     (昭和五一・五二)

○ あきはばらかあきばがはらか夏痩せる(昭和五三・五四)

○ 腹八分にて立秋の墓地に居り    (昭和五五)

よし宏俳句の特質の第三は、「巧みさ」と「手強さ」に背後に潜んでいる「水の如く澄んでいる熱情」(横山白虹の『芝不器男句集』の「跋」)にある。

○ 干草に沈みて刃物めく少年      (昭和四五・四六)

○ 獣園にまぎるる寒さ一つ負ひ     (昭和四七・四八)

○ 水呑めば刈り場のほかの芦みえて   (昭和四九・五〇)

○ 秋の灯を夜中に点けて眠りをり    (昭和五一・五二)

○ しばらくは蕗畑に居り通夜のこと   (昭和五三・五四)

○ 山鳥を飼ひて寡食のこころざし    (昭和五五) 

(昭和四七・四八)

○ 白壁に殺意たのしむ大根吊り

農家の白壁の土蔵、そこの軒下に収穫した大根を吊るしていく。この作業は一人ではなく、二人・三人との協同作業でもある。洗う人、運ぶ人、吊るす人、そして、秋の陽だまりの中で、吊るされていく大根がいろいろな影絵を白壁に映していく。そして、その白壁に映し出されていく影絵を見ながら、何かしら「殺意」のようなものを感じとって、そして、さらに、その「殺意をたのしむ」というようにイメージが拡がっていくのである。こういう句は、氏の師である木村三男氏や氏の畏友の増山美島氏の「おかしみ」を誘うような「俳諧味」のする句作りとは、最も遠い、そして、最も冷めた、現代人のニヒルな眼すら感じられるのである。そういう意味では、三男氏や美島氏が「俳諧追求派」とするならば、「詩性追求派」ということがいえるのかも知れない。

○ 学問の灯と大根吊る灯が混じる

氏の俳句はしばしば「前衛俳句」の「難解俳句」ということで、特に、「ホトトギス」系の「花鳥諷詠派」からは異端視されがちなのであるが、掲出の句は「前衛俳句」とか「難解俳句」のレッテルを外して、俳句の常套手法の一つの「学問の灯」(人為的なもの)と「大根吊る灯」(非人為的なもの)との二物衝撃の句作りで、その二物衝撃に視点が行っている作者の姿勢を素直に理解すれば、こと足りることなのであろう。

○ 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ  (山口誓子)

この誓子の句は大正十三年の「ホトトギス」の高浜虚子氏の指導下の頃の作で、誓子氏の初期の頃の代表作の一つである。そして、よし宏氏の掲出の句の「学問の灯」という切り出しにも、この誓子氏の句がイメージ下にあることは明瞭なところであるが、その誓子流の自画像的な句作りと一歩距離を置いて、その「学問の灯」と「大根吊る灯」とを組合わせて、そこに、何かしらのドラマを感じさせるよう句作りなのである。そして、句意はということになると、誓子氏の句は自明のものであるが、よし宏氏のものは、それらのものを詠み手に全て委ねてしまうのである。ただ、よし宏氏の掲出の句は、誓子氏のそれを前提にしていることからして、やはり、人生の侘びしさ・淋しさ・厳しさということを主題にしていることは十分に詠み手に伝わってくるということであろう。

○ 水枕狐の細き背筋思ふ

平成元年十二月二十一日の朝日新聞の栃木版に、石田よし宏氏は「新を求むる心を大切にしたい」という題で、長文の「栃木俳壇」の回顧記事を載せている。その記事の中で一通の匿名の投書のことに触れられていた。

「『前略、石田よし宏先生に選者が代わられたことが何とも不満である一人です。絵でいえばビカソ、マチス等の素晴らしさを理解しない者、時代を知らぬ者とお笑いになるでしょうが、老人には何とも馴染めぬ句ばかりです。季語は一応あるようですが、選者吟はもちろん、選ばれた句がほとんど首を傾げてしまうような句ばかりで、この頃は投句も嫌になりました。現代俳句ではなく昔からあるような表現をして下さる方が望ましいと思います。早々』。この投書と前後して前任の故増渕一穂氏の夫人から電話があって、『投句者の顔ぶれが以前とあまり変わらないので喜んでいます』というのであった。花鳥諷詠の選者と人間諷詠の選者の選句が同じはずがないのは当然であって、この、投句者は同じ、選句が違うというところが何とも言えぬ妙味ではなかろうかと思う。たとえ伝統文芸であっても俳句は創作なのだ。奇をてらう必要は毛頭ないが、新を求むる心を大切にしたい。」

この氏の記事を読みながら、いろいろのことを考えさせられたのである。この記事の匿名の方の投書の趣旨も十分に理解できるし、また、それに対する、よし宏氏の考え方も十分にできるのである。

この匿名の方は「新を求むる心よりも、今まで守ってきたものを大切にし、その世界の中で創作活動をしょうとして、それを打破されることを極度に警戒し、反発している」ということのように思われる。一方、よし宏氏は「今まで守ってきた大切なものから、一歩踏み出して、新しいものに挑戦し、そして、その新しさの挑戦が、新しい自分の再発見に連なり、そのことが、いかに、自分の創作活動の枠を拡げることになるものか」ということを言いたかったのかも知れない。

さて、掲出のよし宏氏の句は、この匿名の投書の方には忌み嫌われる部類のものであろう。そして、もし、その匿名の方が、よし宏氏の「新を求むる心」に目覚め、新しい別の己の世界を再発見したならば、そして、その再発見した別次元での視点で、このよし宏氏の句を鑑賞したならば、また、別な世界が拡がってくるように思えたのである。

○ 水枕ガバリと寒い海がある (西東三鬼)

この三鬼氏の句は昭和十一年の「新興俳句運動」が最盛期にさしかかった頃の作である。この句について、三鬼氏は自伝の『俳愚伝』の中で「この句を得たことで、私は私なりに俳句の眼を開いた。同時に俳句のおそるべきことに思い到った」と述べ、自らこの一句を己の開眼の一句としたのであった。この三鬼氏の言う「俳句のおそるべきこと」とは、「水枕」という即物的な「物(モノ)」を通して、「日常」と「超日常」との関連性とその関連性を通して無限の時間と空間を、たった十七音字の俳句という世界の中で把握できるという「おそるべき」ことに思い到ったのであろう。そして、よし宏氏の「水枕」の句もこの三鬼氏が思い到った「おそるべき」こと、「日常」(実生活)と「超日常」(詩的空間)との関連性を探り当て、そこに無限の人間と自然との営みのようなものを表出したかったのではなかろうか。そして、よし宏氏の俳句は「前衛俳句」というよりは、この匿名の方が言われるように、まさしく「現代俳句」の「現代における己の生き様」を創作の主たる対照にしているということであろう。

(昭和四九・五〇)

○ 末黒野の雨にむらなき臼明り

「末黒野(すぐろの)」は初春の季語で野焼きしたあとの黒々とした焼き跡が残っている焼け野原のことである。「粟津野の末黒の薄(すすき)つのぐめば冬たちなづむ駒ぞ嘶ゆる」(『後拾遺集』)など遠く和歌の時代から題詠(「末黒の薄」)として取り上げられてい古典的なものの一つである。「むらなき」は「叢なき・群なき」などの「群生した草叢なき」とも、「斑なき」の「まばらのなき」とも、その両方の意が掛けられているようにも思われる。「臼明り」は「臼づく・春く、明り」で「夕日が山に入ろうとする、その明り」の意で、これまた「薄明り」の「薄(うす)」が掛けられているのかも知れない。この句は、よし宏氏の言葉でするならば、よし宏氏が目指す「人間諷詠」の句というよりも、自然との「存問」を基調としての「花鳥諷詠」の句に属するものとして鑑賞することもできよう。

○ 暁の雨やすぐろの薄はら (蕪村)


この蕪村の句は安永五年の六十一歳の作である。句意は「明け方春雨が降りしきる。明けるにつれ、昨日の野焼きに焦げた薄原が雨に洗われて黒々と一変した顔をのぞかせる」(『蕪村全集(一)』)。蕪村の句が「暁の朝の末黒野」の景であるならば、よし宏氏の句は「臼明りの夕方の末黒野」の景ということになる。そして、よし宏氏の関心事は何時も自分が生を享受している「現代」そのものにあって、「芭蕉・蕪村・一茶」などの俳諧の「古典」を追求しての痕跡というのは見受けられない。しかし、掲出のよし宏氏の「末黒野」の句を一つ取っても、氏が「芭蕉・一茶」流れよりもより多く「蕪村」の耽美主義的な流れの俳人であるということが察知されるように思われるのである。そして、氏の師の木村三男氏や畏友の増山美島氏は「耽美主義」的な傾向を極度に排斥して、「省略に省略を重ねた俳諧が本来的に有していた俳諧性・滑稽性」を重視して、どちらかというと、庶民生活の哀感を綴った「一茶」派とするならば、よし宏氏のそれは、「創造性・虚構性」を追求し、「俳諧性・滑稽性」よりも、より以上に高踏主義的な「詩性」を重視し、その意味では「蕪村」派の流れの俳人として、同じ、木村三男氏の門下の増山美島氏とは本質的に一線を画しているように思えるのである。

○ 枯山に鳥突きあたる夢の後 (藤田湘子)

「鷹」主宰の藤田湘子の俳句観については、「鷹」の論客家で代表的な作家の一人でもある宮坂静生氏の「湘子の自然」という俳論の中で、その一端が窺い知れる。

「桑原武夫の『第二芸術・・・現代俳句について(昭和二一・一一)』以来俳句の本質究明と相俟って論じられてきた『天狼』の根源俳句、戦前からの赤黄男や重信のモダニズムの運動、『風』や『寒雷』での社会性俳句、その発展としての造詣俳句論、前衛俳句まで、戦後の社会状況を大きく投影しながら、一途に、性急に論じられてきたのは、いかに俳句を近代の詩たらしめるかとい俳句近代詩論であったといえよう。湘子の主張や俳論も、そのかぎりを出るものではない。むしろ、誓子の写生構成説・・・想像力の問題、兜太の造形俳句論・・・創る自分の存在、など戦後のもっとも目ぼしい近代詩化の方法論をうちにとり入れようとした点、湘子には、自分のうちからつき動かされるようにして、求めた俳句を近代詩に近づけようとした積極さが目立っていた。もとより、この時期の湘子の句は、心情がよく具象化され、内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)を立たしめるという、初期の『途上』や『雲の流域』での情がまさった句作りを一歩ぬき出た、新しい地平を臨ませるものになっている。だからこれらの句は、現代詩とどこでその内質に異なる詩情をもっているのだろうかという、俳句存立への本質的疑いをいだかせるものでもあった。息をひきつめて、しずかに、美意識を純粋にし、抽象化していった、張りつめた思いが表された句の美しさに、やがて作者自身、『やせ』を感じるようになる。それは、私には、俳句を近代の詩たらしめようとした戦後の俳句界の舵取たちの新たな模索の出発と思われるのである。」

長い引用になったが、この宮坂静生氏の「湘子論」が、即、「石田よし宏論」にも通ずるように思われるのである。それが故に、昭和三十一年に「風」に入会して、昭和四十五年に、その「風」を退会して、藤田湘子氏が主宰する「鷹」に入会した、その理由のことごとくが、この宮坂氏の「湘子論」の中に存在するように思えるのである。石田よし宏俳句の根底には、「いかに俳句を近代の詩たらしめるかという近代詩論」が、その底流に流れている。

○ はりがねの柵の行先春まつり

石田よし宏氏の「はりがねの柵」の句である。「はりがね」は針金のことで、他の意のあるものは想像が及ばない。何故、「はりがね」と平仮名の表示にしたのかも容易に想像が及ばない。そもそも「はりがねの柵」ということに着眼しての他の俳人の句もまた全く想像も及ばない。その「はりがねの柵の行先」の「行先」は「向かって行く目的地」のような意で、ここでは「はりがねの柵」を擬人化している用例なのかどうかも、これまた容易に想像が及ばない。また、「春まつり」は春期に行われる祭礼の「春祭」で、この「春祭」を季語としての例句はよく目にするところのものであるが、何故、「春祭」ではなく「春まつり」の平仮名の用例にしたのかも、これまた、いろいろと考えさせられる。

○ 春祭鴉も鳶も山寄りに        (藤田湘子)

○ 永き日のにはとり柵を越えにけり   (芝不器男)

湘子氏の「春祭」の句は、その年の豊作などを願っての山村などで行われる春祭などがイメージとして浮かんできて、よし宏氏の句よりは違和感はない。そして、次の不器男氏の句は、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子氏に絶賛された「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」と共に、流れるような美しい韻律の句で、春になってめっきり日永になっていく「永き日」の句として忘れ得ざる一句ということができよう。そして、よし宏氏の掲出の句が、その用語の選択はひとまず置いて、そのリズム感は不器男氏のそれに近いように思われるのである。即ち、よし宏氏は、この掲出句については、そのリズム感の重視ということを念頭において作句しているように思えるのである。この不器男氏の句集の「跋」に、氏の友人であった俳人の横山白虹氏が次のような詩を寄せている。

「  焔はえんえんと燃えあがり

   水はれいろうと澄んでゐる

   水はえんえんと燃えあがり

   焔はれいろうと澄んでゐる

  

  あの絢爛たる句風にそして基底に

  水の如く澄んでゐる熱情に。   」

よし宏氏の俳句の特徴の一つとして、この横山白虹氏の「水の如く澄んでゐる熱情」というようなものを、それは「研ぎ澄まされた感性」という言葉に置き換えても差し支えないものと思われるのだが、句意そのものよりなどよりも、その種のものが思い起こされてくるのである。そして、それは、宮坂静生氏の言葉でするならば、「息をひきつめて、しずかに、美意識を純粋にし、抽象化していた、張りつめた思いが表された句」という言葉に置き換えてもよいのかも知れない。そして、何よりも、よし宏氏の掲出の句のような理解においては、氏の主題に対する「感性」ということと、その「感性」により具象的なものより抽象的なものを意図して作句しているということを念頭において、言葉それ自体よりも、氏のそのときの作句の「張りつめた思い」のようなものを感じ取るという姿勢が、氏の句の鑑賞には必須のように思えるのである。この掲出の氏の「張りつめた思い」というものは、イメージとしては、掲出の湘子・不器男両氏の句の延長線上に見出せるものであろう。

○ 晩年は合歓の眠りに耐うるかな

「俳句はなるべく調子の整うたのがよい。難解な句、晦渋な句は頭には這入りにくい。そればかりか明快な句、流暢な句は音調から来る快感が詩情を助ける。」(高浜虚子『虚子俳話』)

よし宏氏の俳句は、この虚子流の言葉でするならば、「流暢な句」ではあるが決して「明快な句」ではない。また、「晦渋な句」ではないが、決して安易な句ではなく、どちらかというと、一種の戸惑いを覚えるような「難解な句」が多いことも事実であろう。そして、「直喩」(シミリ)の比喩よりも「暗喩」(メタファー)の比喩の例が多いのも一つの傾向と言って差し支えなかろう。それは、この掲出の句でするならば、「合歓の眠り」という擬人化的な暗喩の表現がそれであり、その暗喩の表現が、いわゆる、作句するときの氏の「張りつめた思い」を表現するのに、より引き締まった作用をしていて、それが氏の句作りの得意とするということなのである。

○ 人消えしごとく薄暑の鉄置場   (直喩)

○ 梅雨呆けの髪ひめごとの匂ひかな (直喩)

○ 日盛りの紺とたたかふ鳥飼へり  (暗喩)

○ 青羊歯に日当る父と組むことなし (暗喩)

○ 蟇ときに平たく顎剃りぬ     (暗喩)

掲出の「合歓の眠り」の句に前後しての「直喩」の句と「比喩」の句の例であるが、直喩の句というのは、比較的にそのイメージが鮮明になるが、暗喩の句はどうしてもその句に接する人にその暗喩に対する共感性を強いることになり、その暗喩が何らの共感性を生じせしめないときには、「難解俳句」という名のもとに、拒絶されてしまう傾向にある。しかし、その拒絶の前に、「その暗喩に作者は何を託している」のかということを、いわば、

「拈華微笑(ねんげみしょう)」(以心伝心)的に探る必要があり、その探りを通して、作者の作意の意図が垣間見えたときに、そこに、宮坂静生氏のいう、その作者の「内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)」が垣間見え始めて来るということなのであろう。

よし宏氏の句の多くは、この「内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)」を立たしめるかという、その句に接する人には厄介な世界での句作りであるということは、まずもって念頭に置くべきことなのであろう。掲出の「合歓の眠り」の句は、よし宏氏の畏友・増山美島氏の処女句集『亜晩年』の次の句などが、その鑑賞の示唆を与えるものであろう。

○ 合歓の花ちるごわごわの兵の服 (増山美島・昭和一八~四四)

○ 秋耕の見えて眠しや亜晩年   (増山美島・昭和四八~五〇)

(昭和五一・五二)

○ 人ごゑのごとく雨ふる稲架明り

よし宏氏の代表句の一つである。昭和四十九年の俳句研究社主催の全国俳句大会で特選となった句である。なお、この句は、氏の処女句集『炎天の幹』の中心をなす「『鷹』十一年」の章の「昭和五一・五二」の中にも収載されている。この句は前述した「直喩と暗喩」の「直喩」の作例ということになろう。この句の主題は「雨降る稲架明り」であろうが、その前段の「人ごゑのごとく」という直喩が絶妙なのである。

○ 人声やこの道かへる秋のくれ  (芭蕉)

掲出のよし宏氏の「人ごゑの」には、晩年の芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」ま初案の句とされている掲出の句が思い起こされてくる。この芭蕉の「人声」の句について、加藤楸邨氏は「秋暮の道を帰ってくると人声がきこえる、寂しさの折柄であるから、人懐かしさがこみあげてきたといふやうな、寂寥に根を据ゑたほのかななつかしさを詠じたものと思はれる」(『芭蕉秀句』)と評釈している。よし宏氏には、とくに、芭蕉や蕪村や一茶などの古典ものを渉猟した足跡というものは感知されないが、刈田に稲架が架かる晩秋の頃の寂寥感と、それが故の「人懐かしさ」の表出としての「人ごゑのごとく」の比喩として、芭蕉の秀句すら連想されるような、強い響きを有している。

○ 遙かにて架けし晩稲の重さ見ゆ (木村三男)

「稲架」については、よし宏氏の師の木村三男氏の掲出の句のように、よし宏氏等が好んで用いる題材の一つでもある。そして、「稲刈」・「稲車」・「稲積む」・「稲干す」・「稲掛」・

「稲塚」・「藁塚」・「稲打」など一連の農作業関連のものは、特に、三男氏が執拗に追い求め続けた「俳句と風土」と深いかかわりあいを持つものであった。

○ 板橋や春もふけゆく水あかり  (芝不器男)

○ 樺の中くしくも明き夕立かな  ( 同 )

「明り」については、横山白虹氏が「水のごとく澄んでいる熱情」と評した『芝不器男句集』の不器男氏の掲出の句の「あかり」・「明き」などを思い起こさせるものがある。これまた、よし宏氏が、特段芝不器男氏の句を意識していたという足跡は寡聞にして耳にしていないが、資質的に非常に近似値のものを強く感じるのである。

この「人ごゑのごとく雨降る稲架明り」の句が収載されている「昭和五一・五二」には、この処女句集『炎天の幹』の中でも、よし宏氏の佳句ともいえるものを多く目にすることができる。

○ 風をきく空稲架の夜は酒弱し

○ 夕方のあやふき声の杉菜かな

○ 妻痩せて来し月明の杉菜原

○ 秋の灯を夜中に点けて眠りをり

○ 風花の水補ひし麒麟小舎

石田よし宏「鷹」十一年と『栃木俳句会・月々のことば』の謎(その一)

石田よし宏「鷹」十一年

石田よし宏氏は平成元年の二月に、増渕一穂氏の後を受けて、朝日新聞栃木版の「栃木」俳壇の選者とならえた。永らく栃木県の俳句研究誌「鬼怒」の編集に携わられ、本県俳壇のまとめ役の一人でもある。

○ 人ごゑのごとく雨降る稲架(はざ)明り

この句は、昭和四十九年に、俳句研究社主催の全国俳句大会の特選の栄誉を受けた氏の句である。氏はともすると前衛的な俳句の作者として知られ、伝統的な俳句作者からは、いわゆる難解俳句と敬遠されがちなのであるが、この句にはそのような色彩はない。「人ごえのごとく」という比喩が実に巧みで、それが、「稲架明りの中で雨が降っている」という、一つのドラマの一場面を見るようなイメージの鮮明の鮮明な句である。

氏は、「栃木俳句会」という例会をもっており、それらについては、平成八年の「栃木俳句会『月々のことば』」として、昭和六十年から平成七年に至るまでのものが一冊にまとめられ、刊行されている。この図書の中で氏の俳句観は縦横無尽に語られており、伝統的な「ホトトギス」の流れの俳句とは一線を画した、氏が所属している現代俳人協会の前衛俳句の新しい俳句の追求という姿勢を一貫して崩していない。

氏は「風」の主要俳人であった、木村三男氏のもとで、畏友・増山美島氏とともにその指導を受けながら俳句活動のスタートをするが、昭和四十五年にその「風」を退会して、「馬酔木」の編集長を永らく携わっていた藤田湘子氏の「鷹」に入会する。そして、氏の作風はこの「鷹」において磨きがかけられ、今日に至っているように思えるのである。氏の第一句集『炎天の幹』は「石橋病院」・「俳句結社『風』」・「鷹十一年」の三部構成となっている。この「鷹十一年」の足跡を追うことが、即、栃木県の主要俳人の一人である、石田よし広氏の「俳句」の中枢を抉ることになるように思えるのである。そのような観点から、氏の「鷹」十一年の歩みとその心に残った一句、一句の鑑賞を試みることとする。

(昭和四五・四六)

○ 癒えしあと何せん枯野足元より

「鷹十一年」の冒頭の句である。「鷹」の主宰者・藤田湘子氏にも氏の畏友の増山美島氏にも「枯野」の句がある。

○ 牛の顔枯野へ向けて曳き出す  (湘子)

○ 枯野にて腹へる母を失ひし   (美島)

この三氏の三句の共通点は「足下より」・「曳き出す」・「失ひし」という座五(下五)に安定した「切字」や「韻字留め」を用いず、「字余り」・「字足らず」の破調や「用言留め」などをしているところにある。そして、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の芭蕉の絶吟以来、この季語の「枯野」は「俳諧・俳句」と相通ずる世界のものでもある。これらのことを念頭において、掲出の三者の三句を鑑賞するとき、「季語」の重視と「現実的・事実的用語」の選択との絶妙な取り合わせいう共通項を見いだすことができる。これらの絶妙な取り合わせというのは、三氏とも計算しつくした巧みな句作りを得意とするということを意味するのかも知れない。このように解して、よし宏氏の掲出句を見るとき、「病が癒えて、原点に帰って、これからの創作活動に取り組まんとする」、その決意表明の句のように思えてくるのである。

○ 身につけしゴムの悲しみ秋耕す

平成元年二月二十四日の朝日新聞栃木版に「栃木俳壇新選者石田氏に決まる」との見出しで、次のような記事が掲載された。

「前任の故増渕(一穂)氏が伝統俳句だったのに対し、石田(よし宏)氏は前衛俳句だが、『自分の心象を具象化する方向で俳句を作ってほしい。栃木俳壇に新しい風を吹きこめれば幸いです』と話している」。

ここで言う「伝統俳句」・「前衛俳句」という表現は甚だ曖昧なものの一つなのであるが、「伝統を重視する俳句」と「伝統の殻を破って新しいものを志向する俳句」との違い程度の理解に止めておきたい。とするならば、よし宏氏の目指す俳句は紛れもなく「前衛俳句」ということになろう。そして、それは、氏の言葉でするならば「自分の心象を具象化する方向で俳句を作ってほしい」と同一のことなのかも知れない。と同時に、この種の俳句は句意を理解すねということよりも、その作者に作意に着眼して、その一句を鑑賞するということが望まれるのかも知れない。

○ 次の雲がまたかげらしぬ秋耕を (木村三男)

○ 秋耕の見えて眠しや亜晩年   (増山美島)

掲出の二句は、よし宏氏の師にあたる木村三男氏と同じ三男門下の畏友・増山美島氏の「秋耕」の句である。これらの「秋耕」の三句を鑑賞するとき、三男氏の句は「着眼点の面白さ」、美島氏の句は「亜晩年、ああ晩年」という「造語感覚的な面白さ」にあるとするならば、よし宏氏の句は「身につけしゴムの悲しみ」という「比喩的・主知的な感性の鋭さ」ということにあり、三男・美島両氏の「俳諧味」(滑稽味)との句作りとは一定の距離をおいているように思えるのである。いずれにしろ、この三者は相互に知り尽くした同一世界での俳句活動でありながら、それぞれが、それぞれに独自の道を歩んでいるということを、まずもって指摘をしておきたいのである。

本間睦美さんの『混沌日和』(メモ)

利休忌のきりきりと髪結ひにけり → この種の原点も忘れずに

胎の子にせかされて行くどんど焼き → 詩や俳句の生まれる背景のようなもの

相槌を打ちそこなひて東風強し → こういう俳諧味(滑稽味)は大切にしたい

かまつかや目をそらさずに生きてゆけ → 和語の面白さ

相聞歌降りそそぐほど栗の花 → この把握は感性のなせる技か

蛞蝓のぬらぬら疑心暗鬼なり → こういう句作りを得意技にしたい

不毛なる言葉を捨てよ紅き薔薇 → この「不毛なる言葉」で痩せる思い

落葉焚く炎に貌のありにけり → この種のものが見えるのは俳眼だろう

神ほとけほどほどにゐて苺食ふ → これも得意技としたい

さくらんぼ頬ばる心理入門編 → 下五の把握は他人は真似ができない

腰曲げしひよつとこもゐる盆踊り → 俳句の原点はこういうところにあった

好き嫌ひ決着つけし烏瓜 → この「いさぎよさ」も大切にしたい

雪女も乳を余しているだろうか → 「なでもござれ」というのも得意技か

何故といふ問ひ不要なり黴生うる → 人が見えない所に俳眼が行く

秋茄子の天才といふ不幸もある → 句よりも作句している作者が面白いか

何もせず死んでゆくなら十三夜 → 西行の末裔か

躁鬱の狭間苗代ぐみの花 → 俳句の句作りと絵画の絵作りは似ているか

くよくよとのうぜんかづら咲いて散る → 石橋の俳人・増山美島に見せたいね

台風や仮名の役割漢字の役割 → 俳句をやっていると惚けることはない

恋多き時もありけり斑雪 → 連句の恋の句の感じ。俳句としては素直過ぎるか

穴まどひどつちへころんでも自分 → 詩でも俳句でも「自分」が主題

鬼やらひグリムに多すぎる不可解 → 謎句の雰囲気 

シナプスの悪戯が過ぎ春暑し → これも謎句か

赤まんま我が体内にある狂気 → これも詩人の魂

返り花助詞多すぎる文の癖 → 助詞が使いこなせるようになったら一流か

淡々と妻病む枝垂れ桜かな → 「妻」とは「ロールプレィング」だね

音程の違はぬ不思議時鳥 → シャッターチャンスと耳が良い

穴まどひ運命・才能・ケセラセラ → この「穴まどひ」も勿論「自分」

どこまでが本物シクラメン真つ赤 → 増山美島の『分類』の花の句(続き)

梅の花嘘で固めてくたばつちまへ → 睦美調の開眼か

ほたるぶくろ無口ですます日曜日 → 周囲から難解句と言われないか

これが恋ならばアナナス厚く切る → アナナス ?

そらで言ふ電話番号百舌鳥の声 → 比喩の句か

藁塚や出会ひたくなき人多し → 木村三男の系譜か

膝ふるへるほど夕焼けを見てゐたり → こういう句は忘れずに

鈴虫の死に急ぐほど鳴いてをり → 究極の主題は「生と死」

非力てふ存在があり黄砂降る → 社会性の句か

牛の子の大きなる目に麦の秋 → これも睦美調か

馬鈴薯の花は弱気であるらしい → 人間以外のものと会話できるのは凄い

畦焼きの一人二人と現れぬ → 風土性というのは大切にしたい

新米やずしりと兄妹年老いぬ → 生活実感のある句は大切にしたい

名を呼ばれたやうな気がして花八ツ手 → 増山美島さんが喜ぶだろう

芒の穂事の始めはあいうえお → この「あいうえお」をご教示を

コチュジャンの加減結局台風圏 → この「コチュジャン」をご教示を

饒舌の庭師が咲かす山法師 → 巧い句

ちちははの墓に溢れし秋桜 → 句会用の句よりもこういう句を

枯野道泣きたい時も泣けぬ質 → 枯野道は俳諧の道

棉虫や私はいつも同じ位置 → 加藤朱さんが「棉虫」は独壇場

藁塚が息吹き返す日暮かな → 下野の俳人として「藁塚」は重要な季語

パン焼いて今日は枯野を歩かふか → 口語でいくか文語でいくか

クリスティそして誰もゐなくなる熱帯夜 → 雰囲気がある

怖いもの知らずコスモスの生き方 → 増山美島の系譜

ふらここに人の来ぬ日の空青し → 俳句愛好者にはこういう句も

蛇の衣疑心暗鬼といふ魔物 → やはり季語も魔物だ

冬うらら魔女の鏡にある本心 → 女性にだけつくれる句

小春日はそつとしておくさるとかに → これも好きな人は好きになるだろう

夕蛙もう一仕事始めけり → やはり具象性が決め手

小六月童話生まれる日和なり → 今後はこういう句が多くなるか

草摘んでをれば瀬の音高まりぬ → 虚子というのは何時も射程内に

ふつと消えふつと現る川蛍 → 俳句というのはマイナーであることの自覚

目覚めたる雪嶺すでに紅の色 → 自分を喜ばす句をつくる

畦焼きにまた背が伸びし息子かな → 生活記録は欠かさずに

梅雨じめりおだてられたき我がゐる → 詩人はナルシスト

おろおろと時雨る賢治思ひ出す → 賢治などを中心に据えること賛成

スルタンの宝冬晴れのボスポラス → 面白い句 句会用か

春の雲驕りと悔いと諦めと → 創作とは自己を責めること

梨の花爺が付き添ふ登校班 → 生活実感がある

虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」

  子守する大の男や秋の暮          凸迦

「子規による革新以後の俳句」

短日やうたふほかなき子守唄        甚一

「前衛俳句」

  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないん

 です。

ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと

って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。

(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、

是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」

  子守する大の男や秋の暮          凸迦

「子規による革新以後の俳句」

短日やうたふほかなき子守唄        甚一

「前衛俳句」

  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。

 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」

ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。

(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80