烏山八景句碑(その一)

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蕪村(ぶそん)の師巴人(はじん)(たん)(ぽく)そして烏山八景句碑

         

(1)蕪村と巴人と潭北と烏山八景句碑とを結びつけるキィワードは何か?→ 赤穂義士・大高源吾(俳号=子葉)

(情報1)『新花摘』(蕪村)→(前略)常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余(注・蕪村)にゆづりたり。(後略



(情報2)『大田原史前編』(大田原市編集委員会編)』→「佐久山の実相院に四十七士で有名な大高源吾とその弟の小野寺幸右衛門(小野寺十内の養子)そして実母の三人の墓・位牌・過去帳が実在している。」



(情報3)『栃木県史(通史編四・近世一)』→「元文元年(一七三六)、潭北は病を得て佐久山に居住する弟の所に身を寄せていたことがわかり、また願書を出した弟渡辺嘉兵衛は烏山藩にあって士分格の身分を持った人物であったことが知られる。」→(烏山町中央「若林昌徳家文書」)→ 私兄常磐潭北儀永々相煩、野州佐久山町弟渡辺次左衛門方ニ罷在候間罷越度願  渡辺嘉兵衛



(情報4)蕪村の初撰集『寛保四年宇都宮歳旦帖』(寛保四年・延享元年・一七四四)に、「佐久山 潭北」として、「梅がゝ(か)や隣の娘嫁(か)せし後」の句を寄せており、この年の七月三日に没している。



(情報5)『烏山町史』(常磐潭北=小口芳夫稿)→晩年の潭北の遊説区域は、次第に関東から奥羽地方へ拡大し、白河に一泊したときの作に、次の詩句が残っている。(漢詩省略)この七言絶句の一篇のあとに、「道聞(きき)て一ト夜とまらん関の夜 渡辺潭北拝」、珍しく「常磐」姓を用いず、彼の署名にあまり見られない「渡辺」姓を用いている。



(情報6)「栃木県史しおり」(史料編近世8月報「俳諧と農民教化―常磐潭北雑感―」=村上喜彦稿)→ 元禄十六年(一七〇三)其角同門で潭北と交遊のあった大高子葉(赤穂義士)切腹、子葉三十三歳、潭北二十六歳。



(情報7)『からすやま文学の碑散歩道』(皆川晃著)の「落石地内41早野巴人句碑」→元禄十六年(一七〇三)二十七歳 二月四日、赤穂浪士自刃、「類柑子」に「孤芳を探る  かうばしき骨や新茶の雲の色」が入集。(注:「類柑子」にこの句が入集したのは、其角が没した宝永四年=一七〇八で、この句は其角追悼句で子葉追悼句ではない。)



(情報8)『烏山町史』(近世・転封=小口芳夫稿)→ 元禄十四(一七〇一)年三月、赤穂城主浅野長矩が、吉良良央を江戸城中において斬りつけ、切腹の上浅野家は断絶したいわゆる赤穂事件が起こった。このため赤穂城はしばらく幕府の管理下にあったが、元禄十五年九月、烏山城主永井伊賀守直敬が、三千石の加増を受けて、三万三千石をもって赤穂へ転封となった。永井氏の去った後の烏山城は、新城主の着任までの間、空城となって幕府代官の管理下にあった。



(管見1)赤穂義士の一人の大高源吾(俳号・子葉)は、烏山出身の俳人、早野巴人と常磐潭北の其角門の兄弟子に当たる。その兄弟子の子葉が、元禄十六年(一七〇三)に自刃し、泉岳寺に葬られ、その後、子葉の遺族が、佐久山大高家の菩提寺、実相院に遺髪などを埋葬し、その墓を建立する時に、当時、江戸在住の巴人と烏山在住の潭北とは相互に連絡を取り合いながら、その遺族の片腕になったのではなかろうか?(その時の形見分けのようなものが、蕪村回想録の『新花摘』の「大高源吾秘蔵の高麗の茶碗」で、それを、潭北が所蔵していて、それを蕪村に伝授したということなのではなかろうか?)

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