幕末ヤ撃団

歴史同人サークル「幕末ヤ撃団」の活動とかの告知?


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 長いこと武士道というものを調べ続けているわけだが、そうなると、どうしても西欧の”騎士道”ど何が違うのか?。ということに興味が沸いてしまう。この点については、前々から興味があり、少ないながらも先行研究や文献をチョロチョロ読んでいた。

 まぁ、同人誌イベントがあるたびに新刊原稿に追われて中断しまくりではあったのだが(苦笑)。とりあえず、そこで得た知識をザックリではあるがまとめておきたいと思う。

 

 まず、騎士道と武士道という二つの精神は、騎士と武士の誕生とと共に始まり、衰退と共に消えていく。ま、そりゃそうだろうと思う人も多いかと思うが、それは”西洋人”も”日本人”も同じだったということを意味する。幕末日本に文明国たる欧米列強がやってきて、武士という存在に出会うわけだが、彼らにしてみれば”いつか来た道”だったんだろうなと。

 

 騎士がいつ頃登場したのか?。この点については現在も定説はない。ただし、騎士制度と呼ぶべき制度は8世紀頃に登場したという。日本だと平城京とかが完成頃で、飛鳥時代から奈良時代の初めぐらいだろうか。この頃の日本は、東北平定の為に多賀城を建設したりして、東北にいる蝦夷とやり合っていた。この東北蝦夷の存在が、武士の誕生に関わってくるのだが、それは後で説明しよう。また、墾田永年私財法も日本で行われている。これまでは、すべての土地は天皇(朝廷)のものだったのだが、この墾田永年私財法によって私有地が始まり、いわゆる荘園が日本に登場してくる。この荘園を守るために発生してくるのが兵(つわもの)だ。一種の私兵団である。大抵は、荘園領主の私兵だった。

 一方、朝廷側は全国から徴兵した人々を歩兵とした軍を持っていたが、これが衰退してくるとかわりに地方にいた兵を傭兵として取り込むようになる。彼らは、朝廷という公権力をバックにつけて武力を”公的”に行使できる武士へと成長していく。朝廷がバックにいない武装勢力は、単なる兵(つわもの)であり、私戦(私闘)しか行えない集団である。荘園が誰のものか承認する権限は朝廷にあったから、仮に実力で荘園を守っても、朝廷が認めなければ自分の荘園という保証がないも同然だった。いわば、兵(つわもの)たちは、この保証欲しさに、積極的に朝廷に取り入り、力を貸していったと言えるだろう。

 ちなみに、この武士が朝廷兵力の主兵力になると同時に、それまでの歩兵(剣を持って歩く兵)から馬上で弓を射る武士へと主兵力が転換されたと考えられる。なんで武士は馬に乗り、弓を射るのだ?。それまで通りの剣を持った歩兵じゃダメなのか?。と長いこと疑問に思っていたのだが、どうやらそこに東北の蝦夷が関わってくるらしい。

 簡単に言えば、大和朝廷は稲作中心の農耕民。この農耕民を連れてきて剣を持たせて兵隊にするのが手っ取り早い。これに対し、東北の蝦夷は狩猟採取の民と考えられ、狩猟をするのだから長距離移動のために馬に乗り、獲物を狩るために弓を射る……。この二つが戦えば、必ず蝦夷が勝つw。足の遅い歩兵が走っても馬に乗る蝦夷には追いつけないから、当然剣は届かない。一方、蝦夷の方は遠くから鍛え上げた弓を射るのだから、勝負は一方的だったと推測する。

 なので、大和朝廷は蝦夷を討伐する事は諦めて懐柔策をとり、その内臣従してきた蝦夷を俘囚として関東などに移住させた。この俘囚が坂東武者になっていくわけだな。だから坂東武士は野蛮だけど強い!。

 こうした日本の状況は8世紀から9世紀に起こっており、それは欧米での騎士制度の誕生とほぼ同時期と言って良いんじゃないかと思う。

 

 ただし、地方武装勢力が生まれるのは欧米の方が遙かに早くて5世紀頃らしい。ヨーロッパでは言葉も文化も違う民族勢力が戦争を繰り返していたらしい。その中から王が生まれ兵士が職業軍人化すると戦士と呼ばれる存在になる。まぁ、兵士に経験値を積ませると、戦士にクラスチェンジできるぞ的な感じか。乱暴な説明だがw。そして、戦士として功績を立て続けると、騎士という名誉称号を得たというわけ。

 でも、この頃の戦士は道徳もへったくれもない地方領主の私兵団でしかなかった。で、ここにキリスト教が入ってくるわけだ。

キリスト教布教のために、教会側はこの騎士制度を利用した。

 無論、キリスト教布教がスムーズに行われた訳では無いから、ここで色々な事が起こってくるわけだけども、最終的にヨーロッパはキリスト教を受け入れて国教化する。協会側は、騎士制度を利用して協会の権限を拡大させようという意図があったから、騎士に対して”信仰”を守ることが要請した。粗野な戦士に対して、騎士が道徳的であるのはこうした事情があるからだ。

 

 一方、日本の武士の方は、こうした道徳的な要請はほとんどない。主君と家臣という関係からの「忠」とお家存続のための「孝」は叫ばれたものの、例えば占領地から略奪するだの、敵の持ち物を分捕るだのは武士の権利として平然と行われている。中国から断片的な儒教道徳の影響は受けていたが、強制されていたわけではないだろう。

 上記のことから、日本の武士も西洋の騎士も”封建制と共に生まれた”と言える。領地を守るために戦う戦闘者の倫理として、武士道精神やら騎士道精神やらも同時に発生したと考えて良いんだろうと思う。

 そして彼らは両方とも”戦いの場”こそが働きの場であり、自己アピールの場であった。戦いにおいて、身を清め、着飾り、自己の強さを証明する場とするのは武士も騎士もまったく同じである。

 逆に言うと、この”戦いの場”が無くなると彼らは衰退に向かわざるを得ない。王侯が騎士団を率いて敵を倒し、王国が平和になると変わって王の一族や親戚たる貴族が権勢を握り、それまで頼りにされてきた騎士達は貴族制度に取り込まれていく。貴族が騎士を名乗るようになり、騎士も貴族になったりして貴族と騎士との境があやふやになっていく。

 王国が平和になれば、なおさら騎士貴族は官僚化していく。それこそ戦いを苦手とする騎士までが登場してくる。このあたりは、戦国時代に知能で働いた豊臣秀吉や石田三成の登場を彷彿とさせるんじゃないだろうか。

 キリスト教会が全ヨーロッパを席巻し、ヨーロッパ全土がキリスト教化されてしまうと、なおさら平和になっていく。ただ、平和になったとはいっても各地で戦いはあったのだけれども、それまでの異民族相手の殲滅戦じゃあないんでw。

 ほとんど防禦能力が無い単なる貴族の別荘と化した城がいっぱい作られた時代は、ヨーロッパは平和だったのだろうなと思う。

 

 早い話しが、平和になり戦場という働き場が無くなると騎士も衰退し、同時に騎士道も衰退していくことになったという。

 

 これを日本の場合で考えて見ると面白い事が解ってきた。

 

 まず、武士の発生と共に武士道も生まれてきた。当時は「弓馬の道」とか「武士(もののふ)の道」と呼ばれた戦闘者としての精神だ。この精神は”合戦こそが華”であった武士の時代の武士精神と言えるだろう。平安末期から戦国時代の終わりまでが全盛期だ。そして、江戸時代は天下太平の平和な世だった。ということは、江戸時代が始まると同時に、こうした戦闘者の精神=武士道は衰退期に入ったと考えられる。つまり、武士が闊歩した江戸時代はすでに武士道が廃れ始めていたと仮定できるのだ。江戸時代は武士が官僚化していったといわれる。武士の平和ボケ……などと言われることもあるが、このこと自体が武士道の衰退を意味している。そして、逆に江戸時代に台頭したのが儒教(朱子学)道徳を前面に押し出した”士道”精神だった。

 士道では、「忠」や「孝」を前面に押し出し、五常(仁・義・礼・知・信)といった徳目の実践と共に、世の人々の安寧を守る事が武士の務めと規定する。こうした精神は戦闘者の精神と言うよりは、公務員や官僚の精神だろうと私は思っている。世は平和なのだから、必要なのは戦闘者ではなく良き官僚だったのだから、善良な官僚の精神が台頭するのも納得できるのだ。

 だから、幕末に黒船が来航し、いざ戦闘者が必要だというとき、武士達はビックリして右往左往した。武士道の研究論文の中には、こうした武士の姿から「武士道が衰退していた」と結論するものも少なくないのだけれど、そりゃ納得できる話しになる。

 

 もちろん、武士道は衰退したといっても「仇討ち」といったことが江戸時代にも行われており、武士道精神の残滓的なものは明治維新後の武士階級解体まで残ってはいたのだけれども。

 

 ちなみに、広い意味での武士道(広義の武士道)は「武士精神のすべて」を意味するので、士道も武士道として扱い、武士道と士道は同義語になってしまう。幕末当時は、こうした武士道も士道も同じものとして語られている。でも、これだと何でもかんでも武士道だと言うことになり、中身を分析できないんで、ここでば便宜上”戦国時代以前の戦闘者としての精神”を(狭義の)武士道と呼び、”儒教(朱子学)道徳の影響を受けた武士精神”を士道と呼んでいますのでご注意下さい。

 

 さて、武士道では「忠孝の道」を重視するのに対し、早い段階でキリスト教の影響を受けた騎士道では「魂は神に、生命は国王に、名誉は余に」という三原則が重視されたという。この当たりの違いについても、面白いことがいくつか解ってきたので書いていきたいが、今日はちと長くなったので、またの機会としたい。

 

参考文献:

『西洋騎士道大全』(アンドレア・ホプキンス著・東京書林発行)

『騎士道』(Ph.デュ・ピュイ・ド・クランシャン著・白水社発行)

 

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 さて、我がサークルは数年前から『武士道の明治維新』という同人誌を同人誌即売会などで頒布している。これは、かつてブログなどで考察してきた武士道論の総集編というべきもので、私なりの武士道史観をまとめたものだ。

 それから数年が経ち、色々と不備な部分を見えてきた。また、去年は東京大学の某名誉教授さまにも読んで頂く機会が得られ、わざわざ感想などを郵送して貰える機会にも恵まれる。本当にありがたいことだった。

 そして、この『武士道の明治維新』の不備がハッキリした形で見えてきたこともあり、その改訂版を出さねばという気持ちも強くなった。とはいえ、その不備な部分に関する知識と考察とが完成しなければ本には書けない。いわば、今現在の私の宿題になっている。

 

 その不備部分にはどんなものがあるのか?。大小合わせるとかなり多くなるのだが、大きなテーマで見れば以下の通り。

 

①天皇の存在(天皇制)を、最初から公的なものとして記述しているが、なぜ天皇は公的な存在だと言えるのか?。または、なぜ天皇は日本に住む人々にとって公的な存在となったのか?。

 

 同人誌『武士道の明治維新』では、武士が武士という名を得るためには、天皇(朝廷)に仕える事、もしくは武士と認知されることが必要だったとしている。また、官軍という公の軍隊は天皇の軍隊でもあり、これに逆らえば賊軍となる。この官軍賊軍の名の効果がどれほどのものであったかは、鳥羽伏見の戦いで証明済みだろう。それらは、天皇が公を代表する存在であればこそだ。

 問題は、この天皇の存在は”本当に正当性を持つのか?。公を代表すると言うべき存在であるのか?”という点だ。思えば、別に天皇は民主的選挙によって選ばれた訳では無い。日本人は誰も天皇を日本の王様だと決めてはおらず、元々王様として天皇家が最初からあった。だから、それを受け入れたに過ぎない。古代、大王と天皇を言っていた時代には、天皇家と対立する豪族もおり、武力闘争も行われていたことは、古代史からも解る。むろん、この頃の天皇家は最強だった。だから日本の王になったのだろう。が、平安時代の後、鎌倉に武士政権が誕生して以降は、天皇家は最強ではない。ならば、天皇家は日本国の王の資格はないのではないのか?。

 そういった疑問が出てくるわけだ。しかし、天皇家が日本国の王で有り続けたことは歴史が証明している。なぜか?。その因果関係を明らかにしなければ、いくら「天皇は公を代表する存在だ」と言ってみたところで、正当性がないのだ。

 まず、これが一つ。

 

②室町時代および戦国時代の武士道精神についての考察がない。

 

 同人誌『武士道の明治維新』の中では、鎌倉武士道や南北朝争乱での武士の姿を紹介し、その中から武士の精神、なかでも卑怯か否かについて論じている。だが、そのまま徳川家康と江戸幕府に話しをつなげているため、室町時代や戦国時代の武士道精神の変化について論じていない。単に「下克上」という思想を論じたに過ぎず、論じるにしても、なぜ下克上ということが行われたのかについての考察がない。

 

③明治維新後、武士道精神が明治軍人精神や庶民思想に変化していくが、その過程の考察が甘い。

 

 武士のための精神が、明治軍人精神や新渡戸稲造などの言う武士道(庶民思想)へと取り込まれていくが、そこには葛藤や軋轢もあり、流血が伴う事件もあった。同人誌『武士道の明治維新』では、そうした部分の考察説明が抜けている。

 

という感じで、なんというか超巨大なテーマが宿題になっている。小さなテーマだと他にもいっぱいあり、煩雑になるのでここでは書かないが、つまり武士道論としては、まだこの同人誌には不備な点が何点かあり、完成形ではないとだけは言えようか。

 

 非常に厄介な事は、これらのテーマの多くが”調べれば解る”とか”史料があれば判明する”というような類いのものじゃないということ。つまり「論理と因果関係」を自分で考えなきゃならないんだな。

 このあたりが「芹沢鴨本家出身説問題」と大きく異なるところだ。かの芹沢鴨は本当に本家出身なのかどうか?という問題は、いわば史料が出てくれば白黒判明する。こういう”嘘かホントか”という史学的論争は、史料が有り調べれば解るのだ。むろん、史料が無ければ解らないけれども。だからこそ、こうした「嘘かホントか」という問題に対しては、実際に現地に行き調査する。史料を探して発見する。というような方法が取られる。なにしろ、嘘かホントかの二択しか答えがないのだから、正確性と確実性が求められ、その調査方法も妥協が許されない分野かと思う。

 結果的には、それが研究家を○○の専門家という形に導いていく。例えば坂本龍馬研究家だとか新選組研究家だとか、あるいは幕末会津戊辰戦争研究家みたいな感じかな。逆に私の様に”なぜそうなったのか?その因果関係は?”といった論理を明らかにすること、つまり「論」を扱ってしまうと、専門家になるわけにはいかない。先の3つ問題点だけでも古代史と天皇家、室町時代と戦国時代、江戸時代は当然ながら、明治時代までもその範囲納まってしまっている。

 また、新選組だけ調べればいいんだという訳にもいかない。新選組だけに詳しくなっても江戸時代の武士道全体が理解できるわけじゃない。新選組の武士精神専門家でいいじゃんという訳にはいかないのだ。そうなると大変だ。一人で坂本龍馬も土方歳三も西郷隆盛や桂小五郎も緻密にフィールドワークや文書といった史料を丹念に研究しなきゃならない。しかも、そうしなきゃならない歴史上の人物が古代史から近現代史にまで及ぶ。数百人におよぶ歴史上の人物を一人一人丹念に調査して……などといっていたら、間違いなく先に私の寿命が尽きてしまう。

 幸いな事に、こうした歴史上の有名な人物に関しては、すでに丹念な研究をなさっておられる先行研究者の人々がいるのだから、ぜひその研究を利用させて頂かねばならない。そうした先行研究や基礎研究を利用して、自分の論を考えて組み立てていく。そこで勝負しているのが私だったりする。

 もっとも、その先行研究者達の論文も数が多いから一朝一夕にはいかないんだが。目下の急務は、先に述べた三つの大テーマについて考えを進めていくこと。考えを進めるためには、基礎となる研究論文を読むこと。自分の知りたい事が書いてある論文に巡り会えばいいが、ないことも多いから、そこは仕方がないので自分で調べるしかない。まぁ、改訂版を出すには、まだまだ時間が掛かるかなぁと思っているところだったりする。

 

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 最近はブログに書くネタが無い(苦笑)。とはいえ、一ヶ月以上放置というのもなんなので、無理矢理ではあるが何か書こうと思う。

 

 私の故郷は静岡県は燒津市という港町だ。隣には藤枝市があり、江戸時代は東海道の宿場として栄えた。

これが戦国時代となると、何気に今川、武田、徳川の争乱地となっており、お城ファンなら知っている円形の駿州田中城などが史跡として残されている。

 で、今回はかなり昔の話しになるが、「花倉の乱」に関して記事を書いた時に取材した写真などを紹介したいと思う。

 

 史跡写真の紹介とはいうものの、実はブログなどで公開するのは今回が初めて。理由は”カメラを忘れてきてしまった”からだ(苦笑)。史跡調査にわざわざ行ったのに、カメラを忘れては如何ともし難い。が、この城が実家から自転車で行けるような場所にあるから、また写真撮影に来れば良いと気軽に考え、携帯電話の撮影機能だけを使った写真のみ撮った。それ以後、その機会に恵まれずにいるのだが(泣)。

 

 さて、「花倉の乱」について、ザックリ説明しておこう。

 

 戦国大名で有名な”今川義元”という武将がいる。駿河を本拠に三河を領有し、徳川家康(松平元康)を配下に加えていた武将だ。ゲーム「信長の野望」や大河ドラマなどでは”公家趣味のお歯黒大名”とか”信長のやられ役”で有名なんだが、史実では東海道一の弓取りと呼ばれ、戦国有数の強大勢力として東海道を制していた。この今川義元もまた、戦国大名らしく”血生臭い戦い”を経て、今川家当主となっている。この血生臭い事件、つまり今川家のお家騒動こそが「花倉の乱」と呼ばれる。

 

 今川義元の父、今川氏親には五人の息子達が有り、嫡男の氏輝が順当に今川家当主に就任していた。その他の兄弟は、お家騒動にならないように出家させている。1523年、京都にいた太原雪斎を招き、五男の栴岳承芳(後の今川義元)を出家および養育させたりしていた。この後、太原雪斎と栴岳承芳の二人は京都に行き、僧侶となるべく修業の日々を送っている。

 元々京都の高僧として名高い太原雪斎は、栴岳承芳を自分の後を継ぐべき逸材として育て上げようとしており、栴岳承芳の方も今川家は長男が継いだことから、自分も心置きなく高僧になる道を歩んでいた。仮に長男に何かが起こったとしても、彼は五人兄弟の末っ子なので、家督相続の可能性は低い。僧侶として身を立てる以外に生きる術はなかっただろう。

 つまり、徳川家康や織田信長を恐れさせた今川義元は、この時点では戦国大名になれる可能性は低かったのだ。

 

 ところが1536年、当主の氏輝と上位継承者の弟が同時に死去してしまう。つまり、今川家は当主とその後継者を同時に失ってしまった。この非常事態に氏親正室の寿桂尼は、栴岳承芳を今川家後継に選び、京都から駿河へ呼び寄せようとする。大河ドラマ「女城主 直虎」で、武田信玄に分した松平健に「あのババぁ、まだ生きてるのか…」と言わしめた女傑だ。この企みに太原雪斎も噛んでいたとも言われる。別説では、栴岳承芳はすでに高僧の域に到達するほど修業が進んでおり、このまま僧侶修業をやめて大名になるのはもったいないと反対したとも言われる。が、お家の一大事とあっては栴岳承芳も駿河に戻らざるを得ない。戦国大名として今川家の危機を乗り切ったら、再び僧侶にさせようと太原雪斎も一緒に駿府に下ってきてしまったとも言う。

 一方、寿桂尼はこれを契機に武田と和睦する方向で動いたが、これに有力家臣の福島氏が反対、氏親の側室が生んだ玄広恵探を擁立して対抗した。

 

 結局、恵探派は藤枝の花倉城、燒津の方ノ上城で挙兵し、今川家の内紛へと発展した。花倉城は、今川家が駿府に本拠を移す前に拠点とした場所で、今川家居館の詰城として築かれた室町初期の山城になる。この恵探派が籠もる花倉城を攻め落とし、当主の座を勝ち取ったのが栴岳承芳で、今川家家督を正式に継いで今川義元となった。

 

 この花倉城に行ったのは、2013年で丁度5年前になるかな。山城ということで、現在はハイキングコースになっている。そこをひたすら上に上に登っていくと、山頂近くで土橋の遺構に出っくわす。

 何気に保存状態が良くて、土橋の雰囲気を良く伝えておりますな。まぁ、何百年も経っているので、周りに木がいっぱい生えているが、花倉の乱の頃にはなかったはずだ。

 

他には空堀遺構もある。

 

 何気に見応え十分な遺構があちこちにあるのは、ここが開発されていないからなのだろうなぁと思う。

周りは茶畑とみかん畑だらけで、他には何も無い山である。静岡県だよねぇとは思うが(苦笑)。

ともかく、ずんずん登って山頂へ到達すると本丸だ。本丸の中に高台があり、そこが見張り櫓だったという。

 

 山頂付近は、急勾配で細い尾根が続き、その尾根を空堀で掘りきられている。土橋も尾根と尾根を結んでいるところにあり、戦いの際には土橋が崩されて空堀と化す。攻め手は尾根沿いに攻め上るのがセオリーだが、これらの空堀や土橋で尾根は途切れ途切れにされており、攻めにくかったろうということが良く解る遺構になっている。

 そして、何よりもこの場所こそが、今川義元を誕生させた場所でもあるということに思いを馳せながら登ったと記憶している。

 

 また近い内に行きたいなぁ。と、思っているうちに5年過ぎちゃったがなぁ。

なお、写真は携帯電話の撮影機能で撮影しているので、色相や画質が非常に悪いことはご容赦を。 

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昨日の事になりますが、研究家あさくらゆう先生と共に佐原の町をうろうろして参りました。

 

 

 小江戸として観光地になっている水郷佐原ですが、幕末時代に「佐原騒動」という事件の舞台になったところです。もともと小野川の水運で栄えた商業都市で、旗本津田英次郎の知行地でした。そして、まだ下村嗣次と名乗っていた芹沢鴨たち玉造党が”押し借り”をした地域となります。

 

 まずは、集合場所からレンタカーで香取神宮へ向かいました。

 

 

 さすが天下の香取神宮ということで、参拝客めっちゃ多い。並んで1時間待ちぐらいとのことで、拝殿での参拝は諦めて奥宮の方で参拝しました。ここでも下村嗣次(芹沢鴨)は、暴れて大太鼓を壊したというような逸話があります。また、楽人や神官に乱暴を働いていたとも言われています。

 

 さて、佐原騒動は二回起こっており、下村嗣次が関係したのは最初の万延二年一月の方。この頃、尊皇攘夷を掲げる玉造勢は、横浜に行き攘夷を決行しようと目論んでいたという。とはいえ、まず必要になるのは活動資金というもので、大きな商家が軒を連ねる水郷佐原がターゲットになったというわけ。

 

 潮来郷校を拠点とする天狗党浪士七人とその共4人が、佐原旅籠”江戸屋久左衛門”に宿泊した。

 

 

 上記写真が、旅籠「江戸久」のあった場所になります。ここに天狗党浪士の玉造勢が宿泊しました。翌日、彼らは組頭山崎庄左衛門に会い、攘夷決行の資金一千両を借用すべく、その案内を申し入れました。

 この時、江戸久に宿泊した尊攘浪士は、梅原斤五郎、兜左右助、新家久米太郎(新見錦)、服部豊二郎、下村嗣次(芹沢鴨)、田辺禎助、川又佐一郎らだという。彼らは佐原でも有数の大店、油屋四郎兵衛、油屋庄治郎、奈良屋新右衛門、天満屋仁兵衛、佐野屋長作、箕輪由兵衛、箕輪由右衛門の七商人を名指しして、一千両の借用を要請したわけです。手当たり次第に……というわけではなく、事前に「この店なら大金持っていそうだ」ということを調べて来ているわけですね。

 庄左衛門は、村役人一同と相談し、名指しされた七人の意向を聞いている。結局、伊能権之丞に間に入って貰い、二百両の借用なら応じられると玉造党に話しを持って行ったが、千両が二百両に減額されていることに彼らは激怒、特に下村嗣次が怒り、大惣代高橋善左衛門宅やその配下の道案内岡沢助左衛門、藤七の家に押し込み、散々に打ち壊したという。

 

 

 ”江戸久”の真向かいにあった伊能権之丞宅跡。

 

 

 上記写真は、借用を申し込まれた油屋庄治郎宅。現在は油屋から醤油屋にかわり「正上」として現在も営業中。建物は幕末当時のものが現存しており、「よろい戸」といった江戸時代の戸締まり戸が残っている。なので、この建物を下村嗣次(芹沢鴨)が見ているはずですね。

 

 

 上記写真も名指しされた七商人の内、油屋四郎兵衛宅跡です。

 

 

 二百両と言われ、怒った芹沢鴨が宿を飛び出し、道案内岡沢屋助左衛門宅に乱入、打ち壊しをはじめました。上記写真がその岡沢屋跡。

 

 

 敷地形状は当時のままっぽいので、下村嗣次は上記写真にあるような門を鉄扇でたたき壊したらしいです。さらに、下村は手にした鉄扇で伊能権之丞にも殴りかかり、膝と指に大怪我をさせているらしい。また、芹沢鴨といえば”鉄扇”だけども、この頃からもう使用していたことが伺えます。トドメに佐原を焼き討ちすると脅迫し、ついに佐原側がこの恫喝に屈する形で八百両を差し出して決着が付いている。

 

 最後にこの佐原出身の有名人、伊能忠敬生家跡を見てきました。

 

 

 上記写真が伊能忠敬生家跡ですね。

 

 こうした町並みを巡りつつ、下村嗣次(芹沢鴨)が関係した史跡を巡ってきました。他にも被害にあった佐原の人々のお墓なども確認して廻りましたが、お墓を見せびらかすのはポリシーに反しますので、ここでの公開はあえて控えます。

 

 さて、「芹沢鴨はちょい悪おやじ」だとか「本当は良い人」と言われたりしもしますが、私自身は「ちょっとどころか、かなりの乱暴者だ」という認識ですね。ただ、私利私欲のための強盗略奪ではなく、天下国家のための軍資金調達ですよという違いがあるため、現在の暴力団のような悪ではない。だからこそ、彼らは「借りる」という形態を取るのですね。決して「略奪」でも「強盗」でもない。商人の方からの献金あるいは借用という形態で、尊攘派浪士は活動資金を集めます。

 ここで、重要な点は彼らにしてみればこうした押し借りは、あくまでも「借用」であり「献金」を募ったのだという認識に立っている事。その一方で、商人の側に立てば「返済期限がない」のですから、それは不当に奪われたのであり「強盗」と同じ「略奪行為」として見ています。

 客観的には、確かに芹沢鴨らの押し借りは「略奪」に近い行為ではあるんですが、彼らはそういう認識はしていないんですね。あくまでも「借りた」という形にこだわる。だからこそ、借用証文もキチンと書く訳です。返済するアテはないのだけれども。

 

 私が、この尊攘派浪士の認識と商人たちの認識に齟齬があることを強調するのには理由がありまして、実はこの認識の違いが「赤報隊・偽官軍事件」につながっていくのです。

 相楽総三らも水戸天狗党に参加したことがある関東尊攘派浪士です。彼らが赤報隊を結成し、東山道を突き進んだ際、やはり各地で軍資金の強要を行っている。彼らの認識はあくまでも「借りた」あるいは「献金して貰った」です。しかし、金を取られた商人の側から見れば、彼らの強談による押し借りは、「略奪」と認識されました。

 相楽総三が、東山道軍の司令部に出頭したとき、相楽総三らは「略奪はしていない」と言っています。ところが、その後で東山道司令部には小諸藩からの報告が届き、その中に「赤報隊が略奪をしていた」と記されている。だからこそ、東山道軍は赤報隊を信用できなくなり、略奪をしていた相楽達を極刑にします。武士から奪えば「分捕り」で、これはまだ許されましたが、商人や農民から奪う「略奪」は、絶対にあってはならない行為で極刑に値します。

 結局、相楽総三たちはなぜ自分たちがこんな目に遭うのか理解できないまま処断されていく訳です。私自身は、これまで説明した通り、押し借りをする尊攘浪士側と金を出させられた商人側との認識の違い、齟齬が根底にあるのだろうと考えています。

 ちなみに、「年貢半減令をなかったことにするための謀略」という説は、現在の最新研究でほぼ否定されています。

 

 ということで、あさくら先生と共に佐原の町を巡ってきました。あさくら先生がいなかったら、どの店が押し借りされたのか解らなかったですから、非常に勉強になりました。ありがとうございました~。っていうか、現存している「正上」が、まさに押し借りをされた店だとか全然知りませんでしたよ~。

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 今日は朝から暇だったので、このまま寝正月というのもつまらんなぁと思い、前々から行ってみたかった史跡を巡りに行って来ました。まずは、「六浦陣屋」です。

 

 

 六浦陣屋は、江戸時代は(武州)金沢藩米倉家の陣屋でした。加賀の金沢藩と混同されてしまうため、明治頃に六浦藩に藩名を変更しています。ここでは”六浦藩”で統一して記述しますね。

 京急金沢八景駅を下車し、その裏山的なところに六浦藩の藩庁たる六浦陣屋はありました。幕末期の藩主は米倉昌言で、譜代一万二千石の小藩ながら、藩主が幕府大番頭の役だったので第一次、第二次長州征伐に参加しております。参加といっても藩兵を率いてというイメージではなく、大番頭として本営に詰めてたんじゃないかなと思う。

 現在の陣屋跡には民家が建ち並び、住宅地化が進んでしまって遺構というものはほとんどありません。ただ、この陣屋跡には現在もご子孫の米倉さんが住んでいるそうで、その家へと続く石段が唯一の遺構となっています(上記写真)。

 ノミの跡でもないかなと見てみましたが、もうすり減ってて何も無かったですねぇ。残念。

 

 

上記写真のあたりに、六浦陣屋の「やしき」があったと思われる場所で、道の奥側に長屋があったらしい。

残念ながら、江戸時代の面影は何も残っていない感じでした。

 

 

 陣屋の奥側にある「笠森稲荷神社」。六浦藩士達もお参りしたであろう稲荷社にお参りします。正月ですしね。

っていうか、私……今年は稲荷神社ばっかり行ってますわ(苦笑)。元旦は「試衛館稲荷神社」で、二日は新宿にある「皆中稲荷神社」。この神社は、今住んでるところから近く、江戸時代は「鉄砲組百人隊」の氏神さま。毎年お参りしているのです。そして、今日はこの「笠森稲荷神社」(苦笑)。

 

 

 上記写真は、六浦陣屋の全景です。六浦陣屋は、金沢八景にあることからも解る通り、江戸湾に入ってくる船の監視などを行っていました。地形的には面白い所にありまして、三方向を山に囲まれた”谷戸”形状の中にあります。ネットの情報の中には、三方を山に囲まれた天然の要害と紹介されている場合もあります。意味は解りますけども腑に落ちない。兵法の原則は”高地に陣取る”ことなのですから、高地ではなく低地に陣屋を構えるというのはどんなもんよ?と、思う訳です。お城ファンならご理解頂けるかと思うのだが。

 でもまぁ、時代は天下太平の江戸時代であり、陣屋の主たる任務は海の監視なのですから、陣屋の防禦は度外視していたのかもしれませんなぁ。

 

 以上、六浦陣屋の史跡は非常に少ない。あっという間に見終わってしまった(苦笑)。なので、このまま横浜方面に向かい、外国人居留地を見て回ることにします。

 

 横浜ベイスターズで有名な関内駅を降り、まずは「横浜町会所跡」を見ます。ぶっちゃけ「開港記念会館」のところにある碑ですw。

 

 

 開港記念会館は、お正月なのでお休みです。まぁ、解ってて来たんですけども(苦笑)。

他にも色々な、資料館や博物館があるんですが、お正月ですからね。当然全部お休みです。そんなわけで、今日は逆に割り切って”史跡だけ見てやる”という思いで横浜に来ました。それに、館内は大抵”撮影禁止”ですしね。

 

 

 

開港記念会館の外観です。そして「横浜町会所跡」ということになります。明治七年に2階建ての建物として作られ、横浜市政が始まるまでの間、行政機関の中心地でした。その後、一度消失し、大正時代に再建されたようです。

 

 

 このあと、「神奈川運上所跡」に行きました。日米修好通商条約によって日本は貿易を本格的に行うことになったわけですが、そのための関税と外交事務を行う場所として設置されました。のちに「横浜税関」に業務を引き継いでいます。

 

 

 なんか碑石ばっかりが続いています(苦笑)。気を取り直して、ココが「英一番館跡」になります。英国の「ジャーディン・マジソン商会」があったところですね。長州ファイブで有名な、伊藤博文や井上馨がジャーディン・マジソン商会を仲介役に英国に留学しています。また、坂本龍馬と深い関係がある「グラバー商会」は、ジャーディン・マジソン商会の長崎支店でもありました。そんな訳で、日本には”良いイメージ”なんですが、これが中国に行くと「アヘンを中国に売り、絹を英国本国へ」という貿易を行っており、当然アヘン戦争にも関わっている大企業です。機動戦士ガンダム世界における「アナハイム社」ですよ。怖い怖い……。

 

 

 はい。そしてここが「日米修好通商条約締結の地」です。

 

 

 現在は広場になっているこの場所に碑はたっているのですが、応接所は現在の「神奈川県庁」のある場所なんだそうです。

 

 

 上記写真が、「神奈川県庁」です。この場所で、米国公使タウンゼント・ハリスを応接し、日米修好通商条約を結んだのでしょう。不平等条約で有名な条約なんですが、この条約には「アヘン禁止」の条項が盛り込まれていました。英国やフランスも米国に準じてこの条約を日本と締結しましたので、必然的に「アヘン貿易は禁止」となり、日本は中国のようは「アヘン地獄」には陥らなかったんですね。先に紹介したジャーディン・マジソン商会あたりは、アヘンを売りたかっただろうけど、それは条約で禁止されているという訳です。

 あと、この広場には「発掘された大砲」も展示されていました。

 

 

 上記写真が、発掘された「旧居留地90番地の大砲」です。戊辰戦争中、武器の売買を行っていたスイスの商社「シーベル・ブレンワルド商会」の跡地から、昭和34年に基礎工事中に発見された鋳鉄製の11ポンドカノン砲。オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲だそうです。使わなくなった大砲を錨に作りかえ、横浜を往来する船舶に売ろうと持っていたものが、関東大震災の際に埋まってしまったのだろうと言われています。

 

 外国人貿易商人たちが往来した港を見ようと、海の方に行ってみました。

 

 

 横浜港を波から守る防波堤「象の鼻」です。遺構もあるということでした。

 

 

 上記写真は、たぶん幕府が作った「象の鼻防波堤」に使用されていたであろう石積みです。ノミの跡があるのでこれじゃないかなと。

あと、実際に今もそのままにしてある遺構もあるというので探したのですが見つからず、ふと海を覗いてみたら……

 

 

 あー、えーっと……干潮の時に見ないとダメっぽい?(汗)。まー、こんな感じで使用されていたということで(苦笑)。

 

 

 象の鼻防波堤から、横濱外国人居留地を見ます。上記写真の左側が居留地になります。そして、この場所こそ日本の国内経済を崩壊させた国際経済の震源地です。国内経済しか経験がない日本が、いきない国際経済に取り込まれたのですから、そりゃ大インフレや大不況にもなりましょう。

 

 

 次は「旧英国七番館」です。

 

 

 イギリスの貿易商社の支店として作られたそうです。関東大震災で全焼したものの、外観だけは残ったので再建したそうです。現在は「戸田平和記念館」になっており、創価学会が管理しています。関東大震災前に立てられた外国商館の中で、唯一現存しているものだそうです。

 

 そして次は、「旧横濱居留地48番館」です。

 

 

 明治十六年に建築されたものだそうで、大正15年から昭和元年までイギリス人貿易商人だったJ.P.モリソンが、日本茶やダイナマイト、外国商品の貿易を行っていたそうです。煉瓦の積み方に特徴がある珍しい洋館だったとのこと。フランス積みという煉瓦の積み方だったらしいです。さすがに建築技法には詳しくないんでw。説明看板の請け売りですけども(苦笑)。

 

 

 そんなわけで、外観は大正から昭和まで使われていたことから、補強されて現在に至っていると思います。ガラス越しに内部を見る事ができるようになっており、内部には特徴的な煉瓦積みを見る事が出来ます。展示されているのは「小屋組トラス」で、関東大震災後に作られたものだそうです。

 

 

 そして、これが創建当時から使い続けられた「キーストーン」。この建物の中で、一番古いものでしょうねぇ。

 

 以上、半日程度でしたが、六浦陣屋と横濱外国人居留地の史跡を見学してきました。さすがに横濱は見所が多いです。他にも「鉄道の遺構」や「マンホールの遺構」などが現存しており、ガラス越しに見えるようになっていました。ガラスが汚すぎて、写真で撮影しましたがどうも上手くいかない(苦笑)。そんなわけで、この場での紹介は致しませんが、是非みなさんも行った時には自分の目で見てください。

 資料館や博物館には一切入らなかったので、半日程度の見学で終わっちゃいましたが、入れる日だったら丸一日楽しめるかと思います。

 

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