幕末ヤ撃団

歴史同人サークル「幕末ヤ撃団」の活動とかの告知?


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夏が来ましたので、久しぶりにハゼ釣りに行って来ました。

 

↑レインボーブリッジと屋台船の群れ

 

場所は、東京お台場の”お台場海浜公園”です。

 

この公園の「人工磯」という名の”ゴロタ石場”が釣り場になります。

 

↑まぁ、こんな感じの場所です。

 

 今日は、大潮でございまして、潮が動けば魚も動くということで”釣れる日”だったりします。が、まぁハゼの場合はさほど気にしなくても良いんじゃないかなとか思いもする。潮が止まってる時は釣れないけどな。

 それはともかく、普段であれば夕暮れ時に到着し、そのまま夜釣りまでやるというパターンなんですが、今日は満潮が夕方の5時30分ということで、普段通りにすると満潮と重なり、ゴロタ石の上に行くのに海の中をばちゃばちゃ行かなきゃいけない。それが嫌で、午後3時に現地に到着し、満潮になる前にさっさとゴロタ石の上に釣り座を構えました。

 

 仕掛けは、ベテランな釣り師は脈釣りなのでしょうが、私はウキ釣り派なので、ごく普通に”小鮒釣り”の仕掛けになります。餌は青イソメを持ち込みました。エビという餌も有効だとは聞いてますが、この釣り場には「磯カニ」が非常に多く、大抵こいつがエサ取化します。エビだとあっという間に取られますんで、餌持ちのよい青イソメ(虫餌)がお勧めですね。

 

 ということで、暑い中釣りをしていると、メインターゲットのマハゼが釣れます。

 

↑マハゼ

 

 午後4時頃が入れ食いでした。面白いように釣れます。満潮一歩手前の時合いだったらしい。午後5時頃になると満潮を迎えて潮が止まります。すると、食い渋りが始まりました。入れ食いではなくなったものの、コンスタントに釣れはする。といった感じですね。

 途中、外道の”ダボハゼ”も釣れてきます。

 

↑ダボハゼ(チチブ?)

 

 ダボハゼというのは、俗称でして正式名は「チチブ」だったっけ?。良く解りません。私らは良く「ダボハゼ」とよんで外道として扱っています。

 

 ちなみに、今日は大潮の満潮なので、もっとも潮が高くなります。すると徒歩で石の上に来れたのに、満潮時は石が陸から切り離されて孤立します。

 

 

 こうなると、陸に戻るためには膝下までまくり上げて、靴脱いでばしゃばしゃ行かなきゃいけない。まぁ、そうなると解っていたので、事前にトイレとかは済ませておきましたが(苦笑)。

 実は、この釣り場は天下の遊び場のお台場ですから、子供たちやらアベックやら観光客やらが沢山やってきます。厄介なのは子供さんたちで……

 

子供「おじちゃん、釣りしてるのぉ?」

俺「そう。釣りしてるの」

子供1「わーい!釣りだって~!。」

子供2「何かいる~?」

子供3「石投げちゃえー!」

だっぽーん!

俺「のえええええええっ!」

子供ズ「わーいわーい」

 

というのが日常茶飯事なんですわ(汗)

ちなみに……アベック編というのもあって……

彼女「ねぇねぇ海だよ。写メとってー!」

彼氏「はい。とるよー」

彼女→海の中でバシャバシャしてポーズを取る

俺「……そこ、足下に俺のウキがあるのだが……(困惑)」

 

まー、夏のデキハゼ釣りは、水深が30㎝以下の超浅場でやる釣りになるのでねぇ。でも、大抵そうやって海の中に入って遊ぶと膝下で済まずに膝上まで水しぶきは来るし、そうすると”他の海”とは違い、赤潮の東京湾奥では白い服は褐色に染まります。デート用の綺麗な服はその場で破棄され、お台場でおしゃれで高値の服を購入して帰る。ということになるんだが、まぁ、私の知ったことではないけれどな。

話しを戻そう。そんな邪魔者の多い釣り場だけに、満潮で陸の孤島化したゴロタ石の上ならば、こうした人達は来なくなる。そんなわけで、今日はか-なーりー快適に釣りができちゃったりしてましたな(苦笑)。

 

それでも満潮を過ぎ、潮が動き始めた午後6時過ぎ、あたりは夕暮れを迎えて暗くなってきた。そのままウキに発光体を付けて夜釣りに突入したものの、時合いが来ない。食いが渋いまま午後8時になり、ここで今日は竿納いたしました。

 

 

 釣果はマハゼ48匹。小さなマハゼは全部リリースし、食べられるサイズだけをお持ち帰りしました。

 まだ7月ですから、型は小さいですが沸き具合は上々かなと。8月、9月が楽しみです。

 

 

 ま、とりあえず晩ご飯のおかずは唐揚げで(苦笑)。

 

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さて、今日は先日お話しした相州荻野山中藩の陣屋跡のご紹介です。

 

 荻野山中藩は、神奈川県厚木のあたりにあった一万三千石の譜代藩で、小田原藩の支藩にあたります。藩主は、大久保教義でした。

 元々は、駿河(静岡県)に領地を持っていましたが、後に相模国(神奈川県)にも領地を得ます。そして、藩庁である陣屋を愛甲郡荻野に移し、荻野山中藩となりました。

 

 

 上記写真は、現在は公園として整備された荻野山中陣屋跡に建てられた碑です。陣屋は、荻野台地から半島状に突き出た要害に作られています。『日本城郭大系・千葉・神奈川の城郭(新人物往来社発行)』によれば、「関東への陣屋移設という、通常では許可されない条件下では、これが要害地取りの限界であったと思われる」とあります。

 ザックリ地形を見渡すと、確かにこの陣屋の片側だけは低地であり、水田が広がっていました。逆に荻野台地の上からは普通に平地でつながっているので、そこから見れば要害とも思えないような地形です。

 もっとも、戦国時代とは違い、天下太平の世の中で出来た陣屋ですし、その目的も参勤交代の費用を軽減したいという思惑もあり、戦闘を目的とした砦では無いというのも大きいのかなと。

 

 

 上記写真は、陣屋跡である荻野台地と低地の境目です。石垣と平場のような造形がありますが、この地形が遺構なのか違うのか解らない。たぶん、公園へ整備する際に作られたものだろうと思うんだけどもどうなんだろ?。知っている方がおりましたら教えて下さい。

 

 

 公園のグラウンドの写真です。陣屋の遺構は、保存のために埋め戻され、盛り土をされておりますので見る事はできません。たぶん、このグラウンドの下に遺構が埋まっているのだろうと思うんですが。

 

 

 

 現在、遺構と呼べそうなものは、上記写真の「陣屋稲荷」だけかと思う。この小さな稲荷社は、陣屋中央部にあった藩主屋敷の鬼門に建てられたものだそうです。

 

 この荻野山中陣屋は、幕末に芝三田に集まった薩摩藩邸浪士に襲撃され炎上してしまいます。ここを襲ったのは薩邸浪士の内の相州挙兵グループで、鯉渕四郎に率いられていた一団だったらしい。

 その時の様子を、『相楽総三とその同志 上巻(長谷川伸著・中央公論社)』から見てみよう。

 

 「鯉渕四郎の一隊は陣屋に行き、陣代にむかい、長州萩藩の海野武助の一行であるが、国家百年の計のため、軍用金を納められたいと談判した。陣代はそれに応ぜず、遂に談判不調となった。浪士隊はあらかじめそれを承知できている。手早く陣屋に放火し、陣屋の武士以下を死傷させ、追いはらい、武器武具を奪い、倉庫にあった米などは使った人足たちに与え、宿舎を下平井村の久保田惣右衛門方にその日はとった」

 

 とあります。これだけだと、単に放火襲撃したという感じなんですが、実際には銃撃戦も起こっているらしい。この陣屋襲撃時に陣屋内にいた藩士天野政立の自伝『所世録(天野政立著・相模原自由民権百二十周年建碑実行委員会)』によると

 

「午後十時、神仏ノ燈明将サニ消ントスルニ当リ、荻野山中ノ陣屋表門ヨリ発砲、其音響数雷ノ一時ニ落ルガ如キニ驚キ、余ハ子供ナガラモ胸ニ浮ミ、之レ浪人ノ乱入ナラント感ジ、直チニ戸外ニ出テ見レバ、砲声連続火煙三方ニ揚リ、所謂焼キ打チナリ。」

 

 と、この事件の衝撃を伝えています。

 

 この時、薩摩藩邸浪士側の計画は「徳川慶喜による大政奉還によって討幕の密勅を潰された武力討幕派の西郷隆盛が、薩摩藩邸浪士に命じて旧幕府側を挑発し、暴発させようとした」というものだったと通説では言われています。

 しかし、私はこれは間違いだと確信をもっている次第。

 

 その根拠は、相楽総三ら西郷隆盛にあって指示を受けた慶応三年十月の時点での討幕派の計画は「討幕の密勅による挙兵」だけであり、大政奉還など想定していないこと。大政奉還が行われた後、薩摩藩京都留守居の吉井幸輔が江戸の薩摩藩邸益満休之助、伊牟田尚平に向けた書簡には、「云々之事(関東挙兵)状御見合可被成候、東西繰違ニテハ大ニ不便」とか「」其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御伝言可被下候」と書かれており、江戸薩摩藩邸浪士に行動計画に対して「計画を見合わせるよう」に通達し、重ねて「鎮静にするよう」に指示している。(参考史料『相楽総三・赤報隊史料集(西澤朱美編・マツノ書店)』)

 これは、通説で良く言われている「大政奉還の後、窮した討幕派が江戸薩摩藩邸浪士に暴れて幕府を挑発するように指示した」とする説明と完全に真逆なのです。

 

 これらの史料を裏付けるものとして、西郷隆盛が江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を聞いたという第一報の中で「壮士之者暴発不致様御達御座候得共、いまた訳も不相分…」と書いており、西郷隆盛自身が江戸の薩摩藩邸に「暴発しないように指示していた」ことが理解できるかと思います。しかも、西郷自身は同書簡の中で、幕府側に先に先手を打たれたと悔しがっているのです。謀略があったとすれば、逆に罠にかかったと大喜びする場面のはず。

 

 つまり薩摩藩邸浪士の行動に関して、当初は”討幕の密勅”によって薩長両藩が京都で挙兵したら、薩摩藩邸浪士達は関東で挙兵し、”東西同時挙兵”して旧幕府軍を全力で戦えなくする作戦だったのです。ところが、大政奉還によって討幕の密勅が無効にされてしまったため、薩長両藩は挙兵する口実を失います。それを江戸に知らせなければ、江戸の薩摩藩邸浪士が単独で挙兵してしまう。西は挙兵せずに、東だけが挙兵してしまっては困る。これが書簡にある「東西繰違ニテハ大ニ不便」という文言です。だから「見合わせ」ろと指示している。

 さらにその後の書簡では、かさねて「鎮静にするように、一同に伝言してくれ」と伝えています。これは、たぶん「見合わせる」ように指示したにも関わらず、薩摩藩邸浪士たちは”見合わせようとはしなかった”からこそ、改めて「鎮静にして何もするな」と指示しているのだろうと私は考えています。

 

 つまり、「西郷隆盛の謀略」なんて無い。と、私は考えます。まぁ、通説を変えるにはキチンとした揺るぎない根拠が必要なわけです。

 

 ちなみに、じゃあ「西郷謀略説」って、どこから出てきたの?という疑問が当然出てくるんですが、この説の出所もハッキリしており”旧幕臣(佐幕派)たちの一般認識”からです。

 戊辰戦争当時の佐幕派側の史料の多くから「薩長ら討幕派の罠にかかった」といった感じの記述が見られますので。

 

 では、最後の写真のご紹介を。

 

 

 この写真は、「烏山藩厚木役所跡」です。この烏山藩もまた小田原藩の分家にあたりますが、やはり薩摩藩邸浪士の襲撃を受けました。

 

 まぁ、こうした荻野山中藩の戊辰戦争を調べている真っ最中だったりするわけですね。

 

 

 

 

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 今日は、戊辰戦争の発火点となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に関連する史跡を見て回ってきました。

 

 現在、私の興味をそそっている相州荻野山中藩が、この事件に巻き込まれている関係で、調べざるを得なかったというのが実情ではあるんですが(苦笑)。

 

 荻野山中藩は、神奈川県は厚木あたりにある譜代の小藩で、小田原藩の支藩にあたります。この荻野山中藩の本拠地、荻野山中陣屋が、薩摩藩邸の浪士達に襲撃されて炎上するという事件があったわけです。

 小なりといえども譜代の小藩であり、どこの誰だかも解らぬ不逞の輩に本城ともいうべき陣屋を破壊されたわけで、ただちに江戸の幕府に報じられ、本藩たる小田原藩から捕縛部隊が派遣され、幕府からは八王子千人同心が現場に急行しました。

 こうした事件が、最終的に薩摩藩邸焼き討ち事件という形になっていくわけです。

 

 まず最初に向かった場所は「赤羽橋」です。いや、単に家から電車で直行できるんで(苦笑)。

 

 

 『相楽総三とその同志・上巻(長谷川伸著・中央公論社)』には、

 

 「庄内藩に属していた新徴組六番組の小頭・中川八郎、庄内藩の徒士目附鈴木弥源太が、一組二十五人の部下を率いて、持場である芝三田界隈を巡邏して、赤羽橋際にあった蕎麦屋で美濃屋というのが屯所になっていた。そこへ帰って来て、夜食をとるため大半の者が草鞋を解いた。既に足を洗って畳の上へあがった者もあれば、足を洗っている者もある。そういう折柄、外から小銃がパラパラ射ちこまれた。六番隊の者がぎょッとしている中で、大島百太郎という気丈で気早のものが、刀を引ッつかみ、裸足で外へ飛んで出て、左右を見たが、中の橋方面にものそ反対の今の芝園橋方面にも、人影がまるでない。察するに射ちこみッ放しで、すぐ姿を隠したものらしい。そのうち全員が出て四方に追跡を試みたが姿が見えない。とはいうものの、感じでは、すぐ近くの薩摩屋敷へはいったと思える。さもなくして急に十人以上二十人ぐらいと思える人間の姿が見えなくなるということはない、こう思った」

 

とある。

 まぁ、今の赤羽橋の位置が江戸時代から変わっていないという保証は無く、その点は調べてません(苦笑)。私の興味は荻野山中藩であって、新徴組や薩邸浪士のことを専門的に調べているわけではないんで。今回は、あくまでも薩摩藩邸焼き討ち事件に関わる場所の距離感を掴むことが主たる目的ですから、この付近に新徴組が屯所にしていた蕎麦屋があったのだろうなぁ~ぐらいで私は十分なんですな。興味のある方は、古地図などで裏付けを取るなどして頂いて、後でこそーり教えて頂けると嬉しいかも(苦笑)。

 

 

 赤羽橋は、この古川にかかる橋でした。この古川は渋谷川ともよばれてもいます。いまはもう昔の面影もなさそうですが。このあたりに屯所があったのでしょうなぁ。ついでに言うと、この赤羽橋のあたりが薩摩藩邸攻撃部隊の集合地点にもなっており、四藩の藩兵が集まって三田の薩摩藩邸に向かったらしいです。

 

 さて、ここから”近くにあった”という薩摩屋敷まで徒歩で目指します。距離感を掴むために、あえて交通機関は使いません。というか、乗り換えが悪すぎなんで(苦笑)。

 

 

 てなわけで、地下鉄一駅分から二駅ぐらいの距離で到着しました。三田の薩摩屋敷です。ココが薩摩藩邸焼き討ち事件の舞台です。今は、NECという超有名な企業のビルが、”どーん!”と建っています。

 

 

 こんな感じで、”どーん!”と建ってます。バベルの塔みたい。

 

 ここを根城に動き回ってたのが相楽総三らを中心とする薩摩藩邸浪士の皆さんです。さて、ここからまた歩いて新整組のたまり場に行ってみます。

 

 

 

 三田にある春日神社です。再び『相楽総三とその同志・上巻(長谷川伸著・中央公論社)』を見てみましょう。

 

 「またも小銃の射ちこみがあった。今度は美濃屋の屯所でなく、今の三田通りの東側、春日神社の前に吹貫という寄席があった、そこを借りて庄内藩士の次三男ばかりで編成した火器隊のもの(新整隊)が、休息時間で、晩飯を集まって食っている。そこへ、十発か二十発か射ちこんだ。銃声に驚いて二階住居であった寄席の亭主が、梯子段をどンどンと急いでおりたが、その足音を聞いて応戦に出たと思ったのかたちまち射殺した。死者は亭主ともう一人、寄席の雇人の男が台所で即死を遂げた。この方は流弾にあたったのである。このときも何者が射ちこんだか、追跡したが姿が見当らない。いよいよこれは近くの薩邸の浪士のやったことだと、庄内藩側のものの勘が働いた」

 

 とあります。

 

 

 春日神社の前というと、ここらへんですかねぇ。春日神社の向かいを見回しています。まぁ、大雑把ですが、このへんなんだとという認識で、薩摩屋敷との距離を考えると……”マジで目の鼻の先”です。

 いや、まぁこんなところを庄内藩が警備でうろうろし、集団で詰めてたら…薩摩藩側からは”目障り”以外の何物でもないでしょう(苦笑)。まぁ、庄内藩から見れば、江戸の町を荒らしてんだから、自業自得で逆恨みもいいところという所ですが(苦笑)。どちらにせよ、江戸の警備を担う庄内藩や新徴組が、かなり薩摩屋敷を見張りまくったんじゃないかな。それが目障りで薩摩藩側の神経を逆なでしたのであろうという想像はできますが、まぁ史料的根拠が無いので証明はできないけどねぇ。

 

 とりあえず、春日神社に入ってお参りします。

 

 何か”茅の輪”とかあったので、御利益有りそうですね。とても綺麗な社殿でした。

 

 これで目的の史跡は見たのですが、時間があまったので飯田橋にある新徴組屯所跡にも行ってみました。

 

 

 こんな感じで、飯田橋に碑が建っております。

 

 

 近くには「日本赤十字社跡」とか写真の「東京農業大学開校の地」といった碑が建っています。榎本武揚が関係する大学ですね。

 

 荻野山中藩を調べている私にとっては、今回紹介した史籍は予備的なもので、メインではないんですが、戊辰戦争の発火点だという部分は重要で外せない場所でもあります。荻野山中藩の史跡も巡ってはおりますが、ご紹介するのはまたの機会の時にということで。

 

 

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幕末ヤ撃団って何?

 

と思う人も多いかも知れないので、ここで自己紹介などしてみよう。

 

幕末ヤ撃団とは歴史同人サークルである。

創立から22年目を迎え、知らない内に20年の節目を軽く越えていた(苦笑)。

ああ、「20周年記念でなんかやる」というタイミングを逃したかなぁとか思っている。

 

 22年目といったが、実際にはもう1,2年は遡る。当初は、当時流行っていた「仮想戦記小説」でサークルが立ち上がった。そこを起点にすれば、24~25年目という事になるだろう。

 歴史サークルとは言うものの、実態としては”私の私による私だけの”一人サークルである。コミックマーケットに参加するために作られたサークルであり、会員は今でも”私一人”だけだ。

 

 こんなことを言うと、あと2人ぐらいいるじゃないか。と言われるかもしれないが、実は彼らは友達であって、サークル会員という束縛された存在じゃあ無いんだな。

 私一人だけのサークルだけに、ぶっちゃけサークルという枠内に縛られる必要も無い。つか、俺が良いといえば良いのだ。だって、俺一人しかいないんだから(苦笑)。ということで、同じ趣味の友人達とつるんで同人誌を作っていただけというのが実態だろうと思う。

 

 で、話しを戻すと当初「仮想戦記小説」サークルと言う事で、コミケに参加したものの、その活動は挫折する(苦笑)。この小説というのは幕末史を現代に置き換えた戦記小説で、対消滅エンジンを搭載した空中戦艦が、鎖国を続ける現代日本に現れて…という仮想世界の小説だったりする。が、ぶっちゃけ「小説は無理!」という結論に達した(苦笑)。

 

 いや、だって”全部妄想”ですからな。ひたすら想像し続けるのって大変なのよ。しかも、妄想するだけなら簡単だが、それを文章にして他者に伝えなきゃいけない。これがまた難しい。

 正直、歴史家と小説家は似て非なる技術を必要とする。小説の書き方みたいな本にも書いてあるけど、小説は「あくまでもフィクション」であり、そのフィクションをリアルに書き綴る能力が求められる。無粋な言い方をすれば「上手い嘘をつける」能力が必要なのよね。バレバレで白々しい嘘ばっかりの小説なんてしらけるばかり。これは嘘だと解っているのにリアルで、思わず感情移入しちゃう小説が面白い小説なんじゃないかとか思うケドも。まぁ、私にはそんな能力が無かったわけで。

 じゃあ歴史家に必要な能力はというと、小説家とは逆に「歴史を正確に伝える技術」が求められる。嘘を付く能力は必要無く、むしろ邪魔。嘘を書いたら捏造だからねぇ。ただし、小説家と歴史家で共通点も多く、「文章技術」と「想像力」は両方とも必要なんだな。想像力は歴史上の彼方に過ぎ去った過去を想像する能力で、小説家の”何も無いところから生み出す想像力”とはちと違う。が、どちらにしても想像する力が必要だという点で共通する。

 小説家から歴史家に転向する人も多いのだけれど、小説家の性というべきか、優れた想像力(想像し生み出す方)を駆使して、”可能性はゼロではない”というのを大義名分に”俗説”を生み出しまくるケースが見受けられる。いわゆる”歴史推理小説”的な感じの歴史本は、あくまでも小説で史学とは言えない。史学的に歴史を論じるならば、その方法論は史学的に正しい方法でなければならず、小説の技術を応用しての歴史論は史学の世界では相手にされない。

 

 んで、サークルを作ったもののコミケには落ちまくり、落選常連サークルで開店休業な状態が続いていたりもする。

 そこでヤケになり、当時はやっていた漫画『るろうに剣心』を史実にのっとって考察した本を作る考察サークルに転向した。

 これが受けて、コミケ常連サークルになったのが1995年のこと。ウィンドウズ95が発売され、インターネット時代が始まった頃だ。当時のサークル名は「幕末特捜隊」だった。

 「るろうに剣心」の考察本を数年ほど作り続けた。コミケは夏と冬の年二回開催だったので、夏に「るろ剣」本を出し、冬に幕末の史実本を出すといったサイクルで本を作っていた。が、さすがに原作漫画も連載を終了し、TVアニメも放送が終わってしまった状況下ではネタ切れにならざるを得ず、「るろ剣」本の方が先細りになった。意を決し、ジャンルを歴史系に変えて”完全史実考察サークル”となったのが何年前だったかな?。この間に、サークル名も現在の「幕末ヤ撃団」に変えている。

 

 まぁ、そんなこんなで現在に至っているわけだ。ふ、知らない間に20周年越えてたと感慨深いものがありますなぁ。

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