スケート・アメリカ 2013 女子 | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ



 今回のスケート・アメリカの浅田真央さんのフリー演技については、日本のフィギュアブログで、Eurosportイギリスの女性解説者が真央さんの演技を疑問視したコメントが話題になっていたのが目を引きました。
 真央さんの演技を高評価する男性解説者に対し、その女性解説者がどのような抗弁をしていたかというと、大要、次のように発言していたそうです。



男性解説者「真央が1位だろう、アシュリーは2位、ラジオノワが…」

女性解説者「そうかしら?  エレメンツはグレートだったし、いいスケートだった。でも、跳んでまた跳んで……ジャンプ、ジャンプだけで、その間にこれというものはなかった。他の選手にあった何か訴えるものがなかった。(1位かどうかは)私はわからないわ 。
 私が言いたいのは、多くのテクニカルエレメンツが入っていて、それらはよかったわ。ただ、私にとっては何かが欠けていたの」

男性解説者「ステップシークエンスはダイナミックだし、スピンの動きもすばらしい。ここから終盤に行くステップもファンタスティックだった」

女性解説者「そうよ、ファンタスティックだったわ。ただ、もう少しそこに何かが欲しかったっていうこと、プログラム全体に」


 この女性解説者の発言に対し、ある著名なブログのコメント欄には次のような感想が寄せられていました。(発言順。以下、要約)

〇1 海外マスコミでの(真央の評価下げの)印象操作が始まっているのか?

〇2 日本では8トリプルという高難度プロであることが比較的理解されているが、海外ではまだ理解されていないのかも。

〇3 物が喉につっかえたような物言いで、聞いていてむしゃくしゃした。ケチをつけたいけど、言葉がうまく見つからなかったのか?

〇4 もともとあちらの女性は気位の高い人が多く、人を褒める印象が全くない。浅田選手が目指しているものの次元が違い過ぎて、よく理解できていないのかなと感じた。

〇5 ドイツとイギリスは真央下げに必死のようだ。

〇6 イギリスとドイツにはチャイナ(含コリア)の影響が大きいのか? 反日の一環? それとも、ISU内部の力関係?

〇7 イギリスは賭けが絡んでくるからだ。またヨナで儲けようと企んでいるのだろう。ドイツは今年も(賭けに)参加して大金を持ってきてくれるからだろう。韓国の報道はことごとく、日本は悪のままだ、ドイツを見習えと称えるが、ドイツ人の全ては金だ。

〇8 真央ちゃんのあの演技を見て何も感じない人はとても可哀想だ。感動する心を何処へ忘れて来てしまったのか? 私利私欲に走る人達は物事を純粋に見る目が濁っている。何か腹が立ってしまう。

〇9 金臭い怪しげな解説や記事がまた増えてきつつあるのは、この先のキムチ上げ→爆加点→カネメダルといつものコースを辿ってるんじゃないか?



 まず、コメント7、9に見られるような、この女性解説者の発言を韓国のキム・ヨナ選手に対するインチキ採点と絡める発言は、全くの「邪推」というものです。
 不正採点を非難し、選手のスポーツマンシップに報いる公正な採点を求めるなら、根拠のない妄想的な邪推発言は慎むべきです。邪推それ自体が、既にして不公正な態度なのだからです。

 こう言っても、ぼくもまたキム・ヨナ選手の演技に対する採点の不当性は明白であると見ており、その採点を擁護する気持ちなどさらさらありません。
 ただ、それを批判するにせよ、ふさわしいTPOというものはあります。真央さんの演技を評価しない発言があったとして、それを直ちにキム・ヨナ選手やスケート連盟の政治動向と短絡的に結びつけてしまうのは、韓国の世論がキム選手を褒め、真央さんを不当にけなすのと同じ次元に落ちてしまうことでしかありません。
 それと同様、コメント7のギャンブルと結びつけた発言も、品位と慎みを欠き、甚だいただけないものです。

 上のコメントで、女性解説者の発言にまっすぐ反応しているコメント3、4、8は、真央さんの演技に対する審美的な無理解、無感覚ということを指摘しています。彼女のダンスの美が感じ取れないとは何事かというわけです。
 これは若干、ぼくの耳にも痛い指摘でした。というのは、このフリー演技を先日のジャパン・オープンで初めて見た際、ぼくはその「気品の高さ」を強く感じ取っただけで、「美」の次元ではいまいちよくわからず、数回映像を見直す中でようやくその「美」を感じ取っていったのだからです。




 そして、これも以前の記事に書きましたが、真央さんとは逆の形で、それでも似たような経験をしたのは、今回2位になったアメリカのアシュリー・ワグナー選手の演技に対するぼくの無理解、無感覚ということでした。

 昨シーズンまでのアシュリーの演技に対し、ぼくはそのスポーツ性の高さは強烈に感じても、芸術性の乏しさには見ていて苦痛を覚えるほどで、評価の低い選手の1人でした。
 その見方を破ってくれたのは、昨年のグランプリ・ロシア大会で、彼女がジャンプに失敗して腹ばいで転倒した、痛々しく、かわいそうな場面でした。

 そのときぼくを襲った直感とは、「あっ! アシュリーという女性はアメリカン・カウボーイの娘だったのか!」という大きな驚愕を伴う納得感でした。彼女の人間性をカウボーイ娘の枠組みに当てはめてとらえたとき、胸のつかえがストンと落ちて、彼女のスケーティングをようやく全体としてとらえられるようになったと思ったのです。
 加えて、今回の演技では、スポーツ性への強い志向は相変わらずでも、彼女なりの美的表現への意欲が十分に見てとれました。アシュリーのスケートを、ぼくは今回、初めて楽しみながら見ることができたことを喜びとともに書きとめておきたいと思います。


 さて、こうした経験のあるぼくのユーロスポーツ女性解説者の発言に対する受けとめ方は、彼女もまたぼくと同様の、異文化の中で生きる選手の人間性や表現意識に対する理解の困難さにぶつかっているなあというものでした。
 同じ異国アメリカの選手でも、ぼくの場合なら、アリッサ・シズニーさんの演技を初めて見ただけで目が熱いハートになり、一目惚れしてしまったこともあります(あっ、これって、単に女性としてのアリッサに恋しただけ?)。それはともかく、アシュリーのように、一度その演技を見ただけではちょっとわからない選手も出てくるのが、異国文化理解の困難性ということです。

 真央さんは同じ日本人ですが、ぼくが1回演技を見ただけではその「美」がわからなかったというのは、これはむしろ、ロシアの振付師タラソワ女史の、ラフコン2番に対する振付の表現意図がすぐに直感的にはつかみ取れなかったということで、大きな意味では、これまた異文化理解の困難性に属することと理解しています。

 他方、ユーロ女性解説者の反応を引き起こしてしまう原因が、真央さんの演技にもなかったとは言えません。
 というのは、あの女性解説者は演技要素間の「つなぎ」にこだわってコメントしていますが、ぼくの印象でも、彼女のスケーティングのスピード向上に対し、「つなぎ」表現はその速度に追いついておらず、速度と振りとの間にギャップがあるように感じられるからです。
 あの高速度で滑られてしまうと、従来どおりの振りではその印象が速度に吹き飛ばされてしまって、固定したイメージを結びにくいんですね。

 ユーロスポーツ女性解説者の発言は、タラソワの振付の意図の難解さと、真央さんの演技における速度と振りとの関係のいまだ未完成な過渡性、さらには真央さんのダンサーとしての表現意思、それらに対する幾重もの理解困難性の前であのようなコメントをしたので、彼女の率直な本心の吐露だったのだとぼくは思っています。
 
「ジャンプだけで、その間にこれというものはなかった。他の選手にあった何か訴えるものがなかった」
「多くのテクニカルエレメンツが入っていて、それらはよかったわ。ただ、私にとっては何かが欠けていたの」


 この発言から、日本選手、とりわけ真央さんを不当におとしめる意図を感じ取ったりするのは公正な態度とは言えません。「訴えるものがなかった」「私にとっては何かが欠けていたの」という発言は、あくまでもこの女性解説者個人の感受性に即した率直な発言として受けとめるべきです。

 大ぶろしきを広げるなら、ここには、そもそも「芸術表現とは何ぞや?」という哲学的なテーマに対し、各国文化がそれぞれに長い歴史の中で培ってきた「表現観」の差異という民族史的な現実が横たわってもいます。
 ユーロスポーツ女性解説者の抱く「表現観」からは真央さんの演技に「美」を直感的に感じ取ることができなかったからといって、それを直ちに批判する資格などだれにもありはしないのです。








 いや、さすがにちょっと前置きが長くなり過ぎてしまいました。

 真央さん、この大会の後、ショートプログラムの振付を修正するため、すぐにカナダのローリー・ニコルのもとへ旅立ったそうですね。ショートの振付にはぼくも若干疑問な部分がありましたから、彼女のすばやい対応に感心しました。どんな修正版が出てくるのか楽しみです。

 フリープログラムの立ち入った感想を書いてみたいと思いながら、ここ2週間ほど体調をひどく崩していて、映像を見直す機会に恵まれませんでした。
 加えて、ここは詩のブログなのに、今月はまだ一つも詩に関する記事が書けず、フィギュアのことばかり書いていて内心じくじたるものがありますが、ひとえに体調の悪化のせいということで、しばらくお許しをいただければと存じます。
 真央さんのフリー演技の全体についてのコメントも宿題にさせてください。

 ここでは、上の前置きの続きということで、真央さんの表現手法という点にコメントしておきます。
 真央さんの表現手法は、西洋人の尺度からするといささか弱いものに属していると思います。それは、彼女が、表現という行為を「人工的な構成物」としてつくり込もうとする意識が弱く、「身体の動きの自然性に対する付加物・修飾物」として表現行為を位置づけているからです。

 ヨーロッパの近代主義思想というのは、自然と人為を対立的・抗争的にとらえる性格が強く、極端なところで言えば、自然存在は資本主義的な商品生産のための「資源物」の位置にまでおとしめられています(それが西欧の自然観のすべてなのではありませんが)。そのためかれらの表現観も、一般に、自然性を克服して人為的な構成を自立的に打ち立てようとする志向が優位に立っています。

 ところが、真央さんはちょうどその逆を向いています。日本の伝統的な自然美尊重の思想・感受性の中で彼女は踊っているのだからです。
 ただし、彼女が信夫コーチのもとで手に入れたスケーティング速度は、反自然的な人工美を志向するものであって、彼女本来の表現感覚と必ずしもマッチしたものではありません。両者をどうやって調和させるか、今の彼女の大きな課題でしょう。

 西洋人で真央さんの演技にシンパシーを感じる方々は、西洋モダニズムへの一定の反省の上に立ち、東洋的な自然との共存感覚に目覚めた感受性の持ち主なのだろうと思います。
 ロシアの大自然を精神的背景に持つタラソワも、真央の表現手法には西欧基準でのインパクトの弱さを感じながら、東洋的表現への理解と感受性をもたっぷり持ち合わせた豪傑女性なのだと思います。

 さて、今回のフリーの3A転倒は、試合後のインタビューによると、ツーフットぎみだったショートの3Aの着氷を改善し、きちんとしたワンフットの着氷を意図した、いわば「攻めの失敗」だったようですね。それを聞いて安心もし、その積極姿勢に感心もしました。次回の試合では、必ずや、きれいなワンフットの3Aを披露してくれることでしょう。

 真央さん、これまで、3Aのいわば裏側のポジションからジャンプするサルコウに苦手意識があったようですが、今回の3Sにはそのような意識は微塵も感じられず、美しいジャンプになっていました。そうすると、残る課題はルッツのエッジエラーだけなのかな? ソチまでにはまだ若干の期間がありますので、何とかこの点の修正ができればいいなあと祈っています。









 さて、今回、この若手スケーターの最高の演技を見せてもらってうれしかったのが、ロシアのトゥクタミシェワ嬢。フリーの演技だけで言うと、2位のアシュリーとの点差はわずか 2.25 点しかない3位でした。5コンポーネンツがアシュリーは8点台前半、トゥクタミシェワ嬢は7点台前半と1点の差があることが順位を分けましたね。

 ぼくの目には、トゥクタミシェワ嬢がアシュリーに勝っていたように見えました。惜しかったのは、ショートプログラムのジャンプ失敗。あれさえなければ、2~3位争いに加わってくる見事な出来映えだったと思います。
 もう一人ロシアから出場して3位に入った14歳のラディオノバ嬢も、何やらすごい才能ですねえ! オジサンはただもうびっくりです。振付師に一つお願いがあるとすれば、大人の定型ポーズをあまり早く彼女にとらせるのではなく、もう少し年齢にふさわしい伸びやかな動きを大切にしてほしいなと思いますね。





 以前から注目しているフランスの黒人スケーター、メイテ選手。今回も、ぼくを十分楽しませてくれる演技を見せてくれました。
 ジャンプの天性の柔らかさは、疑う余地なく世界一でしょう。見ていて心底うっとりさせられます。スピンも見事で言うことなしです。物足りない点があるとすれば、いいえ、物足りない点ははっきりとあって、それはしかし一朝一夕には改善されないものでしょう。

 メイテ選手のスケート、「氷の上で遊んでいる」けれども、「氷と遊んでいない(遊び切れていない)」という印象なんですね。具体的に言うと、全体的に姿勢が立ったままになっていて、深いエッジワークに受動的な姿勢で体を預けてしまう部分が少ないのです。そうすると、演技に深みが欠け、氷の表面をなぞっているだけという軽い印象になってしまうんですね。

 大変な才能の持ち主ですし、本人の性格も好感させられる魅力的な女性ですから、じっくりと精進を重ね、二歩も三歩も飛躍した演技をはやく見せてもらいたいところです。ぼくはこのスケーターを高く買っており、確信を持って注目選手リストの1人に入れています。
 ソチ五輪にも出場するなら、大きなあらしの目となって、ひと暴れしてもらいたいところですね! \(^o^)/











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