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 三好達治は、日本の近代詩人として抱え込んでいる問題性の大きさから、一種、怪物的な存在として私の目に映じています。好きになどなれなくても正面から取り上げざるを得ない詩人という位置づけです。
 これまで幾つかの作品のリーディングを行って、今後どの作品を読んでいくかについても大まかな見通しがありましたが、入退院を繰り返したせいで、三好のテキストにそれまで張りめぐらせていた緊張の糸がすっかり切れてしまいました。もう入院前と同じ地点からはリーディングを再開できません。

 一種のリハビリも兼ねて、最近自宅の本箱で見つけた現代詩手帖のバックナンバーに「生誕百年・三好達治新発見」特集号(2000年10月)がありましたので、これに収められた十数本の論文を読むことを通して、わが三好論の輪郭を改めて描き直していきたいと思います。
 まずは総論にかかわる論考を取り上げて、わが三好論のアウトラインを押さえた上で、次に、各論的な論考における個別作品のリーディングに入っていくことにします。




川端隆之「達治が読まれない理由――達治の「雪」と中也の「雪」」


 三好達治の詩「雪」には、中也の「生ひ立ちの歌」と比較して、主体たる発語者を表す言葉「私」がない。読者が自分自身を投影し、感情移入をする目標物ともなる、「私」や「自分」という言葉がないのだ。

 達治の他の詩篇を見ても、「私」や「自分」という表現は意外と少ない。この主体の表現の少なさは、無邪気、無自覚に戦時中の時流に乗って戦争協力詩を書いてしまった、自我意識のなさ、責任主体のなさという達治の倫理的な弱点につながるものであろう。しかし、ミーイズムが疫病のごとく大流行している、今現在の時世においては、中也の詩「生ひ立ちの歌」より、感情移入をしにくい達治の詩「雪」の方が、私川端には気持ちよく読めるのである。

 そして、その気持ちよさは、ミーイズムと対極の位置にある、共同体を慕う国家主義的な志向とは全く別物だ。川端は右翼ではないと、べつに弁解したいわけではない。三好達治の詩の世界は今や、日本の伝統的な共同体を現実的に描いた世界というより、一種人工的でヘンテコな、いわば超現実的な世界になりつつあることを、再度押さえておきたいだけである。






 ここではまず三好と中原の詩が比較されています。三好の「雪」は、「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」の2行詩で、「私」は1個も出てこないのに対し、中原の「生ひ立ちの歌」は、年齢ごとに「私の上に降る雪は」これこれでしたと語る詩で、一篇の中に6個の「私」が出てきます。
 さらに、三好作品には一般に「私」や「自分」という語が少ないとも指摘されています。数えたことはありませんが、きっとそうなのでしょうね。

 とはいえ、その「主体の表現の少なさ」が、川端さんの言われるような、「無邪気、無自覚に戦時中の時流に乗って戦争協力詩を書いてしまった、自我意識のなさ、責任主体のなさという達治の倫理的な弱点につながる」のかどうかについては、大いに検討の余地がありそうです。
 その検討に入る前に、まず、作中における「私」や「自分」という語の頻度は、詩人の自我意識や責任意識の強度と関係があるのかについて一言しておきます。

 書き言葉と話し言葉を問わず、戦時中の日本語と、戦後民主教育が始まって以後の日本語とを比べたら、有意差を持って「私」や「自分」の頻度が後者において高まっており、それは日本人の自我意識の質的な変容を示すものだと言うことができます。そして、その変容はさらに、戦時中の詩と戦後民主教育下の詩における「私」の頻度の差にも及んでいるものと見て差し支えありません。
 しかし、三好達治は、日本語のこの一般傾向に従って、戦後になると「私」や「自分」をたくさん使い出したかといえば、ほとんど変化はなかったはずです。三好を論じるのにそうした日本語の一般傾向を援用することはできないのですから、詩人本人に即した議論がなされるべきでしょう。

 三好の一般傾向として、「私」という語が余り使われないことをどう受けとめるべきでしょうか。
 そもそも、三好は、川端さんが根拠もなく断言されているように、戦争協力詩を「無邪気、無自覚に戦時中の時流に乗って」書いてしまったのでしょうか? それとは反対に、極めて自覚的に、時流をむしろリードするようにして書いたとは考えられないのでしょうか? 三好の戦争詩は、かれの強度の自我意識や責任感のもと、自発的、積極的に書かれたものと私は読んでいます。

 そして、それ以前に、(たとえ時流に乗る形であったとしても)戦争協力詩を書くことは「自我意識のなさ」や「責任主体のなさ」という倫理的弱点を意味したのでしょうか? それは、戦時中の日本型ファシズムのもとで、軍国主義体制に収斂されていく諸行為はすべて「自我意識のなさ」や「責任主体のなさ」からなされたものなのかという問いへと一般化されもします。
 本稿で川端さんがなさっている「責任主体のなさ」という裁定は、戦後民主主義世界の価値観に立った上で、そこから日本軍国主義を省みて裁いたものです。しかし、責任のとり方というのは何も戦後民主主義的なものが唯一至高なのではなく、他のとり方も考えられます。

 三好は、国民詩人としての自己の使命と責任に基づいて戦争協力詩を積極的に書いたのであり、自我意識が「ない」どころか、強度の自我意識を持ってあの戦争に詩人として参画していったのではないでしょうか。
 その場合、「私」という語が少ないという川端さんの指摘は、三好における主体性を、国家に対する従属性として解することによって説明されます。「主体 subject とは、従属 subject (をその本態とするもの)である」という見解は、最近では常識化していますので、それ以上の説明は要りませんでしょう。
 三好の主体性は、天皇制国家に深く従属したものとしてあります。といっても、川端さんが言われるように、その主体は「従属」しているのだから責任主体が「ない」ということにはなりません。逆に、まさに「従属」することにおいて最も強い自我意識、責任主体が発生しているのです。そうした主体意識の構造を持つ典型的な存在が、三好もその一人である軍人です。「主体(=従属)」としての近代人のあり方は、こと日本においては軍人によって最もよく象徴されています。

 三好達治は、一貫して日本型ナショナリズムに従属する近代的主体を生き抜くことを通して、その主体にとっての詩の可能性を探究した詩人なのです。(私が三好に怪物を感じるのはまさにその点です)。


 ここで三好から若干離れて、川端さんの論旨に寄り添うとき、戦後民主主義の内部から生まれてきた「ミーイズム」はやはり注目される現象です。ナショナリズムに従属した三好の近代「主体」主義に対し、戦後の「ミーイズム」は、ナショナリズムへの従属という要素を欠きながらも、近代的な意思決定主体としての権能は保持しています。その権能を見る限り、「ミーイズム」はポスト「主体」としての地位を得ているのであって、これはこれで1つの独立したテーマとして探求されるべきものだと思います。

 他方、川端さんが最後の段落で述べていることは、時代が一回りして、今ではその逆の事態が現出しつつあるように見えます。川端さんがこれをお書きになったミーイズムの蔓延時代には、三好の詩のナショナリズム性が「一種人工的でヘンテコな、いわば超現実的な世界になりつつある」ように見えていたようですが、今やそれは「ヘンテコ」なものではなくなりつつあります。
 打ち続く景気後退の中での「ミーイズム」の閉塞化と変質、2000年以後のインターネット世界の飛躍的な進展とそこに住む若者たちの急激な右傾化は、三好作品のナショナリズム性や近代的主体性への再接近を可能にしつつあると言えるように思われます。


 さて、今回はもう1人、永原孝道さんの三好論も読んでみましょう。



永原孝道「〈共感〉の詩人は、サワンの夢を見たか――三好達治について」


三好達治はどこまでも国民詩人としての自らの資質に忠実であっただけだ。三好の代名詞として「自然詩人」という言葉が定着している。

 だが、三好達治には、自然も戦争もなかった。彼の詩はただ、日本的な〈共感〉によってのみ成立している。彼が自然を謳うのは、日本語文化圏ではそれが伝統的に最も一般的な〈共感〉の対象であったからだ。「彼の自然は、彼の頭の中に巣くっている短歌的自然」だという鮎川信夫の批判は的確である。ならば、三好が自ら進んで戦争を謳うことに何の不思議もない。彼は、花鳥風月という国民的〈共感〉に乗って詩を書いてきたように、奇襲成功に熱狂する国民的〈共感〉に乗ったのだ。もし、緒戦の勝利の報にもかかわらず、一億国民が断固反戦の世論を形成したとしたら、三好達治は天晴れ反戦詩人として名を残したかもしれない。





 まず、ここまでの永原氏の論述について2点言いたいことがあります。

 鮎川信夫の三好達治に対する痛烈きわまりない罵倒――ここから「戦後詩」が始まります。鮎川の名文「三好達治 ――逃避幻想の詩人」(思潮社現代詩文庫1038『三好達治詩集』所収)は、日本の近代詩を戦前と戦後に分かつ鋭利なナイフとして、今もなお三好作品をずたずたに切り裂いています。日本の戦前の詩は三好で終わり、戦後の詩は鮎川から始まる――この見取り図を画定したテキストです。

 その上で、三好の謳う「自然」は「短歌的自然」であるという鮎川の見方に1点だけ留保をつけたいと思います。
 基本、三好がとらえる自然は「ナショナリズムの領土」という人為属性を帯びています。その際、自然景物のナショナリズム属性は必ずしも「短歌的」に把握されるとは限らず、『測量船』及びそれに続く4行詩時代の自然のとらえ方には、ナショナリズム的であっても短歌的にはならないものが多数あるように思います。それが「短歌的」という把握の仕方に集約されていくのは、三好が日中戦争に巻き込まれていく過程において(中国に渡って従軍記を書いて以降)であるというのが私の見方です。
 したがって、永原氏が上で言うような、三好における日本的な〈共感〉は、かれ本来の素質というより、当時の時代状況の中での歴史的な選択という性格の方が強いように思われます。

 次に、永原氏が上記引用末尾で、「もし、緒戦の勝利の報にもかかわらず、一億国民が断固反戦の世論を形成したとしたら、三好達治は天晴れ反戦詩人として名を残したかもしれない。」と言われていることには全くの不同意を表明しておきます。それは、三好という詩人に対する致命的なまでの、とんでもない誤解です。

 三好達治は一個の天皇主義者です。天皇がお国のために戦えと命じたなら、たとえ「一億国民が断固反戦の世論を形成」したとしても、いかなるちゅうちょもなく、たった一人敢然と立ち上がる人物です。
 三好の陸軍幼年学校時代の生活を見ていきますと、将来、高級軍人になる中枢の連中とは激しく対立していて、とてもこのままでは軍隊には残れまいと思わせます。それでも、三好がこの時期に、天皇と国のために一命をささげる覚悟をきちんと固め、以後決してぶれなかったことは確実と思わせられるエピソードにも事欠きません。
 三好は、現実の軍人に対しては強く批判的でありながらも、自己を皇国の軍人と規定する点において一点の疑惑も抱かなかった人物です。永原氏が言われるような、「天晴れ反戦詩人として名を残」すなどということは、三好にとって最大の侮辱以外の何物でもありません。




(冨山房百科文庫23 1979年)


 例の有名な「近代の超克」座談会には三好も出席していて、2日目の最後の箇所で、三好は軍人精神を称揚する次のような発言を行っています。

三好 少年航空兵に限らないけれど、軍人教育の精神的の強さといふものは、友情友愛の観念が非常に強いのですよ、戦友の意識感情といふものはとても普通のわれわれの生活では考へられない。僕は陸軍の学校にゐたこともあるので、さういふ経験をいくらか持つてゐるのですが……それから、また同期生とか、同じ将校団だとか、飛行隊なれば同じ飛行隊だとかいふ繋がりがありますが、その団結の裡にある友情は非常に強いものなのです。……

 この発言は、戦友同士の友情友愛を最高度に肯定し、この座談会の昭和17年当時の日本人に対して、かくあれかしとの思いを込めて訴えられているものと読むべきテキストでしょう。
 三好は軍人であるという最も基本的な一点を外した三好論は、今後、無効であることを宣しておきたいと思います。


 今回の最後に、永原氏の三好観をもう一度見ておきましょう。




反戦の声や敗北の予感を完全に無視した「捷報臻(いた)る」がそうであるように、「雪」の一篇もまた、豪雪地帯や亜熱帯の辺境の現実を切り捨てたいわゆる「日本」、大和中心に形成された「短歌的自然」という〈共感〉によって生きる。ひたすら無意識的な〈共感〉をすくい取り、一般的に共有可能な美しい象徴的言語に変える以外に、国民詩人の役割はない。……

 批判なき〈共感〉とはつまり、無責任な傍観である。大阪に生まれ雪国を知らずただ通過する者の、洗練された傍観が「雪」を生んだとすれば、すでに四十を越え徴兵される心配のない者の野放図な傍観が「捷報臻(いた)る」を生んだ。本質は変わっていない。






 「無責任な傍観」によって作品「雪」と「捷報臻(いた)る」が生まれたとする永原氏のこの読み方は、三好という人間に対する全くの無理解に基づくもので、到底受け入れることができません。とりわけ、「すでに四十を越え徴兵される心配のない者の野放図な傍観が「捷報臻(いた)る」を生んだ。」というに至っては、これにまさる不当な侮辱はもはや考えられないでしょう。

 六十歳になっても七十歳を超えても、一旦緩急あれば天皇の足元へはせ参じる志を生涯持した詩人が、三好達治です。






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