都知事選挙がきっかけにいた小池劇場を興味深く見守ってきた。

小池知事のスピーチには海外生活の長い私にも難解な英単語が含まれるのが不満だが、都民(国民)からの支持率は高いようだ。

都議会自民党のドンXO氏との対決が小池劇場のメインテーマであり、先般の千代田区長選挙の結果により、ドン成敗戦の帰すうが決したようだ。

その結果、都民ファーストの会(都民第一の会の方が良い響きだが)という会派を立ち上げ、事実上の小池党として次期都議選で過半数を目指す勢いである。

 

しかし演出家の都知事としてはドンXO氏との対立構造によるシナリオがなくな、ここで小池劇場を閉幕させては夏の選挙まで都民の関心を引き付けられない。そこで次なる対立相手(悪役)を模索せねばならならず、石原慎太郎に白羽の矢を立てた

 

選挙に不安を抱える都議会議員たちは人気の高い小池知事の意図を忖度して石原慎太郎の証人喚問を百条委員会でやろうと決議した。これでは都民ファーストの前に都議会ファーストと揶揄されても仕方がない。都議会議員も落選すれば一介の市井の民だから権力者にすり寄る気持ちも理解しないではないが、気持ちの悪いこと甚だしい。

 

そもそも豊洲移転の議決をした議会にも責任があるのに元知事に何を喚問するのか?そのような議員たちのすり寄りを選挙までと知りつつも、彼らの踊り狂うさまを采配しているのは、演出家である知事であると見透かされれば支持率の低下も免れまい。

 

石原慎太郎の物言いは痛快であるが、時に失言もある。その典型が例の年増の厚化粧だが、ワイドショーの取材を見る限り彼も十分に年老いてしまった。15年以上前の事象を逐次思い出せと迫っても記憶が定かではない部分が多々あるのは自明の理である。それでもマスコミと知事の人気にすり寄りたい議員たちはこぞって攻撃するだろう。しかし年老いた元知事が記憶にないと言えば仕方ないことであると理解するのが人の道であり、武士の情けである。小池知事にはそのような度量を示してもらいたい。

 

ところが小池劇場の継続のために高齢者いびりをすれば都民ファースト転じて小池ファーストと指摘するように世論が変わる可能性もある。

何故なら、いつまでも豊洲移転の犯人捜しをするよりも、市場関係者の苦境を見かね移転でも築地残留のどちらでも良いが早期決着を望む都民が多く、そこにはオリンピック関連の道路工事も絡んでいるからである。

 

小池さん、今こそ決断力が問われており、過去の問題に執着するより前向きな都政運営をして頂きたい。

 

3月3日

 

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2月22日竹島の日に想う

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2月22日は島根県の条例に基づく「竹島の日」である。竹島は17世紀に徳川幕府が成立した頃から我が国が領有権を確立しており、明治37年に島根県に正式に編入された歴史的にも国際法上も日本の国土である。

 

ところが大東亜戦争後のどさくさに紛れ、時の韓国政府が李承晩ラインを勝手に設定して竹島を不法占拠した。李承晩大統領の妄想による境界線では、日本の漁民が次々と不当に拿捕された事件も記憶に残る。

 

韓国側は不法占拠を強化させており、慰安婦像を設置する運動や韓国軍も動員されている。特に平昌五輪のホームページで竹島を朝鮮語で独島と記し、スポーツに政治のイデオロギーを持ち込む禁じ手まで使っている。岸田外相が抗議したが不遜にも削除しない。

 

日本の領土・主権に関する責任は日本国政府の役割であるはずだが、島根県の式典に総理どころか閣僚すらも参列しない。

この弱腰外交が韓国を増長させるのだが、一体政府は何を考えているのか?義憤に駆られ忸怩たる思いである。

 

反面、韓国人が白昼堂々と島根県の式典に反対して大声をあげている。もう日本人の謙譲の美徳などこの隣人には通用しないことを肝に命じようではないか。

 

2月22日「竹島の日」

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老いとの闘いは壮絶だ

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𠮷田正先生、(以下歌手名を含めすべて敬称略)の歌謡作品をオーケストラで演奏するようになって、16年の月日が流れた。

いつしか私も66歳となり高齢者の仲間入りをしたから日常生活の上では覇気が無くなってきたように感じる。人生の年輪を重ね、何が青年時代より良くなったか?自問自答をしても答えを見出すのは容易ではない。音楽家としての自分に特化して考えれば当然だが積み重ねた経験によって音楽観に深みを増したと思うが、その反面指揮者に不可欠な運動神経(反射神経)や視力と聴力は40歳前後をピークにして衰えているから、それらを相殺すると老化によるマイナス要素の方が大きく感じる。史上最高の指揮者と言えるカラヤンでも人間であるが故に通った道だろうから、仕方ないのだが悔しいものである。

 

先般、小澤征爾がベートーベンの7番交響曲を指揮した直近の映像を観たが、楽章ごとに指揮台を降りて水分補給、基本的には指揮台上でも椅子に座って振るという姿は、痛々しい限りであった。男子の平均寿命に近い70歳代後半に大病(咽頭がん)を克服しての80歳であるからやむを得ないのではあるが、癌も老化により発生リスクが増大する病気だから、結局は小澤征爾も老化現象に襲われているというのが現実である。私が学生時代に指揮の勉強をしていたころ、常に指標としていたのは、小澤征爾であり、師匠も口を開けば“小澤はこうやった”といった具合だったから、颯爽とした指揮ぶりは垂涎の的であった。その小澤征爾も衰えてしまい、人間は生身なのだと実感させられた。現在も指揮台に立つ(座る)という姿に大半の人が敬意を示し喝采しているから、私の見解には異論があると思うが、私個人には憧れの小澤征爾が老いてしまった姿を見るのは耐え難い悲しみであり、ひそかに心の中で小澤さん「もういいよ」と呟いてしまった。

 

𠮷田正も40代半ばにして急激に作品数が減少した。もちろん作曲家協会や著作権協会の要職に就き、社会的地位の向上とともに自己の新作への価値観が変貌、単なる流行歌より深く作品を練り上げることになったことも一因であろう。その証左に3分間で完結する歌謡曲ではなく組曲形式で長編大作を次々に公開したのである。

 

 鶴田浩二に書いた「歌謡組曲:名もない男の詩」は19分でオーケストラによる序曲と終曲までも含み、途中に「同期の桜」を挿入した“鶴田浩二男の世界”という構成になっている。吉永小百合には民話風のセリフを交え、わらべ歌のような風情の「組曲:おばあちゃん」そして昭和50年当時に流行したスタイルの楽曲とそれに相反する子守歌など牧歌的な要素を組み合わせた「組曲:夢千代日記」と合計で優に30分を超える長編を書いた。

 

𠮷田正は、40歳代の後半から60歳ころまで、その他の歌手たちにも長編組曲を提供したが、中でも極めつけはフランク永井の「歌謡組曲:慕情」であった。ミュージカルタッチの作品だがセリフは皆無で次々と18分間にわたり歌によるストーリーが展開される。そのメロディーは、転調が繰り返されるから歌詞を覚えるのと併せフランクは相当苦労したようで、𠮷田正リサイタルでの歌唱を最後にフランク永井はこの大作を歌っていない。このように歌唱力に定評のあった歌手ですら歌うことに逡巡するのだから大衆歌謡としてヒットする訳がなかった。

 

𠮷田正後半生の音楽的な意図は、𠮷田正記念オーケストラ演奏による「東京シンフォニー」第一番~第七番までの7曲に反映され、私自身も編曲者・指揮者として𠮷田正の想いを五線譜に書き記し、それらを演奏・録音してきたと自負している。オーケストラ演奏による𠮷田作品は、現在も全国ツアーで演奏され続けているから、ある意味で不滅の音楽生命を得たと言っても過言ではあるまい。

 

話を整理する。長編組曲を書いた50歳代以降の𠮷田正は作曲家としての経験を駆使したが、世相を敏感に感じ取り、ヒット曲を連発したエネルギーは40歳前後で尽きたともいえる。

晩年に書いた前述の組曲群は完成度が高いが、40歳前後までに書かれたヒット曲が持つ“みずみずしい潤い”が感じられないのである。三浦洸一が歌った「街角のノスタルジー」はまさに年齢的にピークである40歳前後の作品であり、歌謡曲の定型である1番、2番、3番と同じメロディーを繰り返すパターンを打ち破り、次々と新しいメロディーに変換させたのである。つまり1番の後に新しいメロディーの2番、そして3番がまた変わったメロディーになるのだから贅沢な作品であり、当時の𠮷田正の絶頂ぶりが良くわかる。

 

私自身も前述のように人間を生物として定義すれば指揮者としてのピークは40歳を過ぎて低下、その後は経験の積み重ねで老化による衰えをカバーしているに過ぎないのである。

 

結論としてスポーツ選手、中でも比較的に選手寿命の長い野球やゴルフと音楽家がほぼ同じくらいの引退年齢なのであろうと思う。(40歳代で引退する音楽家は、極めて少数だが...)

 

音楽家の老いという難題は後述するとして、𠮷田正の黄金時代(主に昭和30年代)の逸話に触れておきたい。

 

作曲に没頭するとエネルギーを消費するため腹も減る。すると決まって支那ソバやかつ丼を食いたくなるので、𠮷田夫人とその母君が鍋を片手に下北沢を駆け回り、閉店した食堂のドアを叩いて何とか調達したというエピソードも残っている。

また、𠮷田正はメロディーが閃くと血流が頭に集中するため、夫人が櫛でとかすと頭皮がボロボロと激しく剝げ落ちたが、当の本人は全く無頓着であったそうである。後年に組曲を書いた頃には、そのような症状は現れなくなった。また、作曲中は滅多に言葉を発することなく、煙草を吸いたくなれば灰皿に目をやると夫人が火をつけて手渡す、のどが渇けば湯飲み茶わんを見るだけで夫人が茶を入れる。明け方になり作曲が完成すると夫人に歌って聞かせ、本人は倒れこむように寝る。そのあとコピー機の無い時代であるから夫人が譜面を清書して数枚の複製も書き、翌朝レコード会社のディレクターに手渡すという日常であったそうだ。従って現存する𠮷田作品の譜面は夫人によって書かれたものが大半であり、日立市の𠮷田正音楽記念館に陳列されている譜面もその例にもれない。𠮷田夫人は仕事上の秘書であり、夫君を先生と終生にわたり呼び続けていたから立派なものである。その𠮷田夫妻の様子を観察していた作詞家の岩谷時子が、“そばに居てくれるだけで良い”という歌いだしの「おまえに」という名曲を作詞、𠮷田正が作曲した。フランク永井は、𠮷田正の夫人への感謝の念が込められた曲であると理解して歌唱していたそうである。

 

𠮷田正自筆の譜面は希少であり、𠮷田正記念オーケストラ事務所に保存してある。それらは、書きかけたが途中で筆を止めたもの、つまりシューベルトの「未完成」のようなものしか現存しないが、何故お蔵入りにしたのか?不思議なほど美しいメロディーの譜面も含まれている。

 

𠮷田正が流行作家として絶頂期を迎える前、その作風の確立のために苦悶する時期があった。宝塚のスターである久慈あさみから得たインスピレーションでラテンのリズムと都会的な雰囲気の作品を生み出し始めた時に、ニッカバーやトリスバーでハイボールを飲みながら聞くBGMが洋楽ばかりであることに気付いた𠮷田正は洋酒を飲む雰囲気に合う歌を書きたいとの決意を固めた。

 

そこで、久慈あさみに続き、バーで聞いたビング・クロスビーのような甘い低音の男声を探し求めるようになり、当時の軽音楽界で人気を博していた旗輝夫を必死に口説いたが、旗はジャズ歌手として日本の歌、特に歌謡曲を歌うことを拒否した。結果的に旗輝夫は昭和37年に歌謡曲的な平岡精二作曲の「あいつ」を歌いヒットさせたが、仮に𠮷田メロディーを歌っていたら更に幅広いヒット曲を誕生させていただろう

 

旗輝夫の後に白羽の矢を立てたのは進駐軍のキャンプで歌い、ビクター入社後もジャズを歌っていたフランク永井であった。フランクは𠮷田正の説得に応じ「場末のペット吹き」で歌謡曲デビューを果たし、𠮷田正が都会的な歌謡曲ジャンルを確立するための柱石となった。フランク永井より3年前にデビューしていた𠮷田門下生の三浦洸一は「落葉しぐれ」や「弁天小僧」などのヒットで既に人気歌手であった。当時の日劇や浅草国際劇場などの正月興行は実に華やかなもので、キングレコードの春日八郎、三橋美智也、コロンビアレコードの美空ひばりなどに対抗するビクターレコードの代表歌手が三浦洸一であり、それぞれが客の入り具合を争っていた。

 

昭和32年にそごう百貨店のキャンペーン目的で企画された松竹映画「有楽町で逢いましょう」の主題歌を松竹のスタッフは人気歌手三浦に歌わせる想定でいたが、𠮷田正は低音歌手フランク永井のイメージで作曲をしたと譲らずに松竹を説き伏せた。その結果、無名に近い新人歌手のフランク永井は一気にスターダムにのし上がり、フランク永井―松尾和子―マヒナスターズという都会調歌謡曲の黄金系譜が花開くことになったのである。

 

余話であるが、昭和33年になり𠮷田正が作曲した「街燈」を聞いたフランク永井は、モダンな作風が自分にマッチすると感じ“歌わせて欲しい”と直訴したが、𠮷田正はこの曲は三浦君のために書いたものだと頑として応じなかった。ヒット曲を量産する作曲家の感性は研ぎ澄まされたものであり、それは松尾和子のデビューにも逸話を生んだ。

ため息のような発声でジャズを歌うクラブ歌手の松尾をフランクと一緒に口説き落としてビクターに入社させ、そのイメージ通りにジャズの要素を持つファンタジックな作品である「グッドナイト」を準備してビクターの関係者に聞かせた。ところが“声だか息だか解らない”という迷言を発したディレクターに同調して松尾のデビューに難色を示す会社側に突き付けた回答は、マヒナスターズをバックに配置するという提案であった。さらに、B面(レコードの裏面)にはフランク永井とのデュエットで「東京ナイトクラブ」だから松尾和子はメガトン級のデビューを果たすことになった。この成功例はのちに女性歌手を売り出すための定番としてマヒナスターズと組ませることになり、田代美代子、三沢あけみ、吉永小百合、山中みゆき、多摩幸子、他多数が恩恵を得た。𠮷田正の感性はプロデューサー的な側面もあったという事例の一つである。

 

余話が続く。松尾和子の人気は爆発的であり、現代のレコード大賞のように形骸化されたものではなく、権威も価値もあった昭和35年当時のレコード大賞候補に松尾の2曲が争い「誰よりも君を愛す」がグランプリで「小さな喫茶店」が次点だから凄まじい。昭和30年の鶴田浩二「赤と黒のブルース」以降、昭和34年まではマヒナスターズを含む男性歌手を中心に作品を提供してきた𠮷田正の作風に大きな変化を生じさせたのが松尾和子の登場であった。昭和34年~36年までの松尾時代と呼ばれる期間では、フランク永井の歌ですら松尾的なスタイルで書かれた作品が多かった。

松尾は𠮷田家を訪れる度に居間のソファーに座る𠮷田正に対し床に正座して挨拶した後、ソファーに腰掛け恩師と対等に会話をすることを避け、台所で𠮷田夫人と話をするのが常である実に礼儀正しい女性であった。

 

フランク永井も同様であり、𠮷田家を訪れても恩師が不在であれば勝手口で夫人と立ち話をして帰り、決して恩師不在の居間には入らなかった。

歌謡曲を歌い始めた頃のある日、フランクが𠮷田家を辞して暫くすると工具を貸して欲しいと戻ってきた。どうやら進駐軍の払い下げで入手したアメリカ車のビューイックが故障したためフランクが車の下に潜り込み悪戦苦闘していたらしい。やがて夕方になるとフランクがまた現れ、今度は懐中電灯を借りにきたということで、さすがに𠮷田正も苦笑いしたそうだ。「有楽町で逢いましょう」がヒットすると既に販売していたが、あまり売れていなかった「東京午前三時」と「夜霧の第二国道」もある種の便乗ヒットとなりビクターはフル回転でSPレコードをプレスしていたという案配だから、フランクもジャガーの新車を買えるようになった。

そして納車された日に吉田家に乗り付け、恩師の吉田正を乗せて京浜第二国道をドライブするとラヂオから「夜霧の第二国道」が流れてきたそうだから、その光景を想像するだけでもドラマティックである。

 

余話が継続する。昭和30年当時のパチンコは1球が2円だったから100円で50発買え、機械式のハンドルで自動的に球を弾くシステムも無かったので、左手で球を一つずつ穴に入れ、右手でハンドルのバネで弾くという具合だから100円でも結構遊ぶことが出来た。チューリップと呼ばれる、開けば複数の球が入るシステムも存在せず、釘師が調整した釘の角度や配列と客の技術との競争であり、現代のパチンコと比較すれば人間味溢れる遊戯であった。ただし椅子に座らず、立って操作をしたため朝から晩まで入り浸ることは出来なかったが、それでも23時間の遊戯時間は普通であった。フランク永井は常に先輩である三浦洸一を立て、師匠𠮷田正のカバンを持ってもらい、自分は煙草の火付け役に徹していた。その二人が有楽町駅前のパチンコ屋の店頭に立ち、カバンを抱える三浦洸一は日劇正月公演の花形スター、片や「有楽町で逢いましょう」のフランク永井が二人で遊戯中の𠮷田正を待っていたのだから、当時の𠮷田門下生は大学応援団なみの体育会系ということになる。

 

体育会系といえば次のような逸話もある。

人気歌手になり絶頂の頃、フランクが京都でリサイタルを開催したが、楽屋を訪れた𠮷田正に対して非礼があったらしく、怒った𠮷田は定宿である都ホテルに帰ってしまった。礼儀正しいフランクでも多少は有頂天になり増長した態度になってしまったらしいが、その後の態度がいかにも体育会系らしい。リサイタルを終えたフランクは都ホテルのロビーに駆けつけ、𠮷田正の怒りが解ける翌朝までロビーで謹慎・徹夜をしたが、その姿をみていたホテル従業員は何を感じたのだろうか?

 

本題に戻す。前述のようなエピソードを積み重ねた𠮷田正、フランク永井、松尾和子も今は亡く人の世は儚いものである。そしてクラシック分野で私にとって大きな影響力を持った岩城宏之も逝ってしまい、小澤征爾は老いてしまった。また本日(原稿の執筆時点)WBCバンタム級を10度防衛の後、世界3階級制覇の名チャンピョンである長谷川穂積が35歳で現役王者のまま引退を表明した。防衛戦を行わず見事な引き際と言いたいが、実情はボクサーとしての老化なのである。フィギアスケートのように選手寿命の短いハードなスポーツでは浅田真央の26歳は既にベテランの領域に入り、今シーズンは不調を極めグランプリ・ファイナルへの出場権も逃してしまった。直接の原因は左ひざ痛だが、ケガもスケート選手としての老化現象と言わざるを得ない。 

 

 このように国民的な音楽家やスポーツ選手にも等しく訪れる老化を防ぐ手立ては存在しない。ところが文化の継承という視点で考えれば、𠮷田正の想いと意図は、𠮷田夫人が設立した𠮷田正記念オーケストラが継承していると定義しても大きな間違いではない。珠玉の𠮷田メロディーをちりばめた7曲の交響組曲「東京シンフォニー」は音楽評論家の伊奈一男氏にクラシックでもなく軽音楽でもない“第三の音楽”であるという評論をされ新境地を開いた。その結果、16年間にわたる全国公演では、大衆の動員ができる日本唯一のムード・オーケストラであるという評判と称号を得るようになり各地の聴衆、特に中高年層には誇りと自信を与え続けている。

 

安倍政権が標榜する地方創生政策に対し、𠮷田正記念オーケストラの地方公演は政府のコンセプトと合致しており、また「異国の丘」を全てのコンサートに組み込み、北朝鮮による拉致被害者の救済を訴える企画構成も極めて重要な社会貢献であり、私のライフワークでもある。しかし私にも老化の影は容赦なく襲ってきているから、編曲のためのペンや指揮棒を必要としなくなる日も遅かれ早かれ必ずやってくる。大衆のニーズに合ったオーケストラ演奏会と第三の音楽と評価されることになった𠮷田メロディーのオーケストラ演奏は私の手を離れた後でも永続的に活動できるように継承されねば我が国の大衆文化の一つが喪失されてしまう。

 オーケストラの運営には多額の資金が必要であり、現状のままでは公演数の減少や演奏水準の低下も避けられないのが実情である。そこで政財界の要職にある人々に窮状を訴え、支援を要請することが急務である。そのために現存の吉田正記念オーケストラ後援会を解散して、政治資金団体のように運営資金を募るための新組織を立ち上げることにした。

 

既に政権与党の派閥領袖、元閣僚など幅広い支援者も集まりつつあるので、民間企業のスポンサーを含む更なる賛同者を募る計画が進行中である。𠮷田正とその同時代の大衆軽音楽文化が将来に向け継承されて行くシステムと組織を作り上げ、後継者を育成することが私の責務である。

 

 

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誰も書かなかったトルコ

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〜誰も書かなかったトルコ〜

 

 

トルコでクーデターが起きた。決起に失敗したから厳密には未遂事件と言うべきなのであろう。

私の場合、トルコ国立オーケストラの指揮者という立場から、文章に書き表せる内容に限界があることにご容赦頂きたいが、可能な限り深層をえぐってみる。

ニュースの映像を見る限りエルドアン大統領の呼びかけに応じた市民がクーデターを阻止したという解釈が一般的だと思う。ところが、真相はそのように単純な美談で済まされるものではない。

 

エーゲ海に面したイズミールの空港から市内に入ると周辺の小高い丘の斜面に沿って住宅が所狭し、と立ち並んでいる。ローマの古代都市のようにも映る壮観な景色は、夜景になれば星をちりばめたように美しい。イスタンブール、アンカラなどにも似たような丘があり、そのような景観は同様である。

ところが、丘の麓から頂上まで隙間なく建てられた家々は、すべてバラック建築によるスラム街である。その夜景は星の煌きというより文字通り、星屑(スターダスト)だと言える。

これらの建築物は殆どが公有地に建てられた不法建築であり、トルコ語でゲジェ・コンドウ(一夜建築)と呼ばれている。そして不思議にも電気、ガス、水道などが引き込まれている建物が大半であるが、下水道がないから不潔極まりない状況である(一部には完備されている地域もあり驚かされる)。

当然ながら違法建築物だから登記もされず、統計資料もないが、首都アンカラでは、ピーク時に24万戸、130万人(アンカラ市人口の半数近く)がゲジェ・コンドウの住民であったと推測されている。

 

農村から貧民層が都市部に流入して、あっという間に公有地の山肌がバラック住宅で密集したため、スラムの住民にもある種の居住権を付与、代替えの住居を提供せねば立ち退きを要求出来ないという、貧民たちに「神の保護」と言わせたほどの法律が50年ほど前に制定されたのである。

そのため悪徳不動産業者が違法建築を公然と建売販売したから、イスタンブール・アンカラ・イズミールの三大都市におけるスラムの拡大に拍車がかかったという副作用も生じた。

 

都市部のスラムの膨張は農村部の貧困に起因するものが大きい。トルコ建国の父、ケマル・アタチュルク(後述する)が農地改革の道半ばで死去したため、オスマン帝国以来の大地主制度が中東と接するトルコ東部を中心に残ってしまった。オスマン帝国時代に中央アジアの草原から流入していた遊牧民の定住政策が仇となり、アタチュルクの没後に、酋長を地主、部族民を小作人と定めたため農業従事者の格差が拡大した。その遊牧民たちが細々と収穫した農作物の価格は、断続的に続いた都市部のハイパーインフレに追い付かず、貧困に耐えられない農民たちが大挙して都市部に移動して大規模なスラムを形成するに至った。貧困者対策として設立された連帯基金制度という公的扶余(簡単に言えば生活保護)をエルドアン政権は拡充して、政権発足時の2002年にはGDP0.3%であった予算を10年後の2012年には1.2%まで増額した。加えてスラム解消の代替え住宅として、建築バブルと環境破壊の批判を浴びつつも公共住宅を大量に供給した。

 

その共同住宅は協同組合が所有者となり、居住者は組合の構成員だから家主として自分に賃貸する形態になっている。その居住権の価格の詳細は知らないが、聞くところでは極めて安価であり、権利を譲渡することも可能である。いわば会員権のようなものだから所有権よりかなり安く購入、転売すればインフレ下のトルコでは大幅に値上がりしている。

このような恩恵に預かった脱ゲジェ・コンドウ(スラム)の民衆たちが今回のクーデターを未遂に終わらせた主役なのである。戦車によじ登り進軍を阻止した光景は天安門事件を彷彿させるが、本質は全く異なる。エルドアン大統領はSNSで自己の政権の支持者たちに人の盾になれというメッセージを発し、それが成功したのだが、中流層の有識者たちには極めて不評である。(あまり日本では報道されていない)そもそも国民を守るための政権が、権力維持のために国民を危険にさらしたという論法である。中流層(西欧化世俗主義の信奉者たち)の不満はそれだけではなく歴史に基づく奥深いものである。

 

ここで、オスマン帝国(トルコ人はオットマンと発音する)について述べておきたい。モンゴル~中央アジアにかけて広く展開していたトルコ系の遊牧民の軍事集団が小アジア(現在のトルコ共和国東部からシリア・アゼルバイジャンあたり)を拠点に集結して周辺の部族を配下に収めた。その強大な軍事力を持ってビザンチン帝国、その首都コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を陥落させたのが1453年、日本史では室町中期、応仁の乱の頃である。ビザンチン帝国の正式な国名は千数百年にわたりローマ帝国であり、ビザンチンという呼称は後世の通称であるが、イタリア・ローマを首都とした古代ローマ帝国との混同を避けるためビザンチンという通称で書き進める。

ビザンチン帝国を滅亡に追いやった後、その版図は現在の東欧一圓、北アフリカ、中東地域の大半という空前の大帝国を築いた。ラテン人(スペイン)がグラナダを陥落させサラセン帝国によるイスラム支配を脱した後、北アフリカ進出を試みたがオスマン帝国によって阻まれたことなど、ヨーロッパの中東進出を数世紀にわたり遅らせた功績があるともいえる。後年になりサダム・フセインのイラクがクゥエートに進行、本来はイラク領土であったとの言いがかりに対して「、フセインは何をご託を並べているか!そもそも中東全域がトルコ領であった」という指摘がトルコ人のコンセンサスであった。

 

オスマン帝国が多様な民族と言語に宗教が混在する地域を500年あまり支配できたのは、キリスト教に寛容で人種差別もせず緩やかな連合国家を形成していたということに起因する。ところが、広大なオスマン帝国も日本史の江戸時代の頃から徐々に宮廷と取り巻きの人々の堕落や腐敗により弱体化していたが、遂に明治9年~10年にかけて東欧のスラブ民族の支援という名目で大挙南下してきたロシア軍に完敗、首都イスタンブールは陥落寸前であった。この露土戦争に敗れたためブルガリア、ル-マニア、セビリアなどの東欧諸国の独立を許すことになり、さらに国力が低下した。

余談であるが、明治3738年の日露戦争で極東の日本が憎きロシアに勝ったことがトルコ人の溜飲を下げ、現在に至るまで大の親日国家である大きな要素になった。東郷元帥や乃木大将の知名度は現代日本の若者よりはるかに高い。私の祖父が乃木大将麾下の第三軍の兵士として旅順を陥落させたと話すだけで敬意を表されるほどである。それほどまでに憎いロシアに対抗するためオスマン帝国はロシアと対峙していたドイツと条約を結ぶことになった

 

ドイツとの同盟は大英帝国という新たな強敵を出現させ、オスマン帝国は崩壊の一途を辿ることになった。英国はオスマン帝国の支配地域である中東に多くの石油資源が眠ることに着眼して、アラブ人、ユダヤ人の双方に二枚舌外交をしてパレスチナ独立を画策した。オスマン帝国を揺さぶるために手段を選ばない狡猾外交が現代におけるパレスチナ紛争の根本原因になった。

1914年(大正3年)~1918年(大正7年)にかけての第一次世界大戦中も英国はサウジアラビアの独立運動を扇動、後に「アラビアのロレンス」という映画に描かれたように英国軍のスパイが暗躍してオスマン帝国を翻弄したのである。そしてオスマン帝国はドイツと共に大戦に敗れた。

再度の余談だが、イズミール交響楽団で映画音楽特集のプログラムを組んだ時に、くだんの「アラビアのロレンス」を演奏した。演奏者や聴衆にとって屈辱的な映画の音楽だから酷評を受けると覚悟していたが、美しい音楽だから構わないというトルコ人の懐の深さに感動したことを思い出す。ナポレオン戦争でロシアに負けた描写のあるチャイコフスキー作曲「1812年序曲」を絶対に演奏しないフランスのオーケストラや聴衆の料簡が狭いように感じてしまう。

 

ギリシア人はビザンチン帝国を構成するラテン民族の中核であったが、ビザンチン帝国の滅亡後、ギリシア系住民が住むアテネやスパルタなどの古代都市を含むか輝かしい地域も長らくオスマン帝国の支配下にあった。ところが第一次大戦後の混乱に乗じギリシア軍が攻撃に転じ、疲弊したオスマン帝国軍は、なすすべもなく敗れるところ、ケマル・アタチュルクが民衆の義勇軍(高杉晋作の奇兵隊と同様の民兵組織)を組織してギリシアに打ち勝った。その結果、アタチュルクは大衆の支持を得てオスマン皇帝を追放、トルコ共和国を1923年(大正12年)に建国した。首都もオスマン帝国の歴史的影響の残るイスタンブールではなく、ローマ時代からの古都であるアンカラに設置した。

 

アタチュルクは精力的に脱イスラムを図り、西欧的な新憲法の発布、その後の改訂でイスラム教を国教と定めるという条項を削除、トルコ語もアラビア文字を止めアルファベット表記に変えた。

そしてアタチュルクは「私がトルコだ!!」と言った有名な演説を議会で行い、共和人民党による一党独裁政権を揺るがないものにした。昨今の支那や朝鮮、それとプーチン支配のロシアなど独裁政権には負のイメージ(イメージではなく実害)が定着しているが、アタチュルク政権はリー・クワンユー首相のシンガポールと同様に良質な独裁で国民に支持され、健全な国家建設に寄与した稀有な成功例である。

 

政治・経済・文化・宗教・社会など精力的に改革を推進したアタチュルクはプレジデンシャル(大統領府)交響楽団をアンカラに設立、著名作曲家のパウル・ヒンデミットを指導者に招いた。ターバンやベールの公共の場での着用禁止などで世俗化を推進、また創姓法により国民に姓と名の両方を名付けることを義務化、更にイスラム法では禁じられている飲酒も解禁、自身もラク(トルコの代表的な蒸留酒)の飲みすぎによる肝硬変で建国15年後の昭和13年に死去している。アタチュルクに感化された訳ではないだろうが?現在のトルコ人も酒豪が多く,、街のレストランやパブは深夜まで賑わっている。

 

アタチュルク自身は自分を偶像化(神格化)されることを拒んでいたらしいが、現在の紙幣にはすべて彼の肖像画が描かれ、公的機関(民間企業も含む)には肖像画が掲げられている。その他、イスタンブールの空港や大学にも彼の名前が冠されており、公的な場でアタチュルクを誹謗中傷すると法律で罰せられる。そして命日の1110日午前9時5分にはトルコ全土で2分間の黙とうがされる。これ程の敬愛を集め、ドラスティックな欧化政策を推進可能にしたのは、アタチュルクがカリスマ指導者であった事と他にもう一つ大きな要因がある。

 

ビザンチン帝国の人口統計が存在しないため推測の域は出ないのだが、1200年代(日本史・鎌倉時代)には5600万人、コンスタンチノーブル陥落の頃(室町時代)には1000万人弱の人口であったと言われている。同時期の日本では、鎌倉時代が500万人(首都鎌倉は20万人)、室町時代には水田の耕作法が進歩して8001000万人に増加(但し首都の京都でも15万人)と推定されている。欧州有数の大都市であったコンスタンチノーブルは40万超の人口を抱えていたが、オスマン軍による襲撃前には大半が霧散してしまい4万人しか居住していなかった。そのためビザンチン皇帝はイタリア・スペインからの傭兵を加えても7000人の軍隊で10万のオスマン軍を迎撃せざるを得なかった。

圧倒的な火力(大砲と爆薬)を持つオスマン軍も1000年の帝都を防御してきた三重の城壁(テオドシウスの城壁)の突破が2か月間も出来ず、業を煮やしたオスマン皇帝はボスポラス海峡に展開した海軍の軍艦の一部を人海戦術で陸に引き上げ、金角湾の奥深くに軍艦を浮かべて艦隊を出現させたことでジェノバやベネツイアの援軍艦隊を挟撃、海上封鎖により補給を絶たれたビザンチン帝国が滅亡した。

 

トルコ全土に現存するトロイやエフェソスなど古代ローマの遺跡の規模と数は、イタリアのローマを凌駕するほどであり、キリスト教会をモスクに転用した例を除けば人為的な破壊は殆どしていない。その古代ローマ円形劇場の遺跡ではイズミール交響楽団が毎夏、野外コンサートを挙行しているが、音響効果が絶品であることを書き添えておく。

オスマン帝国軍の占領政策は、旧ビザンチン帝国住民に対しても政治と軍事を除く、文化・宗教・経済活動などにおいて一切に寛容であったから、ギリシア系の住民を中核に地中海やエーゲ海沿岸の海洋国家、ベネツイアやジェノバなどのラテン系ローマ人もビザンチン帝国滅亡後も同地に住み続けたのである。現にイスタンブールにはベネツイア人やジェノバ人の居留地跡が現存、その末裔がトルコ人として暮らしている。在日朝鮮・韓国人の若者が日本語しか話せなくなりつつある事象と同様に、彼らはラテン語を解せなくなり宗教もイスラム教に改宗している。ところがキムチを食べ続ける朝鮮半島の人と同じで、食文化は500年の時空をこえ、現代トルコ、ギリシア両国民に共通した味覚が引き継がれている。アタチュルクの愛したトルコ酒のラクはギリシアではウゾと呼ばれギリシアの国民酒である。ぐるぐる回転する肉を周囲から焙り、そぎ落としてスライスするドネルケバブはギリシアではギロと呼ばれている。その他、ケバブやスブラキのような串刺しの肉料理も共有しており、蜂蜜を大量に使用した甘い菓子(甘すぎる)も互いに自己の固有のものであると主張しているが、ルーツに関する結論は出ない。

 

東方から侵入したオスマン帝国の民(主に遊牧民)は自分たちより遥かに人口が多かったビザンチンの人々を皆殺しに出来る訳もなく、全員と混血した訳でもないから、ローマ人(ビザンチン帝国人)とそのDNAは色濃く500年のオスマン時代を生き延びたのである。エーゲ海に面するトルコ第三の都市イズミールの住民はローマ人の末裔とおぼしき人が大半であり、トルコ政府のイスラム化政策には激しく抵抗する人が多い。

 

ローマ人の末裔にはヨーロッパへの郷愁が強く、例えばトルコ西部に位置するイスタンブールのボスポラス海峡にかかるガラタ橋の西岸をヨーロッパ(確かに車で走ってもブルガリアやギリシアには2時間ほどで到達する)、東岸をアジア側と呼んでいるが、実はトルコ領の大半がアジア側に属している。それでもイスタンブールがヨーロッパと陸続きであることがローマのDNAを持つ人々には極めて重要なのである。そして、世俗主義・欧化主義を支持する人々の悲願がEU加盟であるが、イスラム化を推進するエルドアン大統領がクーデター未遂事件を機に死刑制度の復活を言い出した。それは即EUとの決別を意味するからローマ系のトルコ人たちには到底許容出来るはずがない。

 

結論から言うと、アタチュルクの欧化政策を強烈に支持したのは旧ローマ人の末裔たちなのである。言い換えれば1453年に滅亡したビザンチン帝国がアタチュルクの革命により、ヨーロッパ東岸のトルコ共和国として復活を遂げたと言えなくもない。ところが総選挙をすると農村の貧困層や都市部のゲジェ・コンドウのスラム住民の方が票数が多いので、アジア系の遊牧民の末裔たちにより繰り返しイスラム化の運動が起きる。それを数度にわたり押し止め、アタチュルクの世俗主義を守ってきたのが軍隊によるクーデターであった。

 

トルコ人には長年にわたり強権を発動する人物(政権)に従ってきた歴史がある。私が外務省の外郭団体である国際交流基金の派遣で初めてトルコに行き、プレジデンシャル(大統領府)交響楽団のゲスト指揮をした時にトルコ人の常任指揮者と一緒に彼の執務室で昼飯を食べていた。そのときサンドイッチの具を床に落としたので、それを拾い上げようとした私を制して、彼が大声で侍従(下僕?)のような男を呼び拾うように命じたのである。私は自分で落としたものだから自分で始末するのが当然だと思い呆気にとられたが、トルコのマエストロ氏いわく、奴の仕事を奪ってはいけないと私を諭したのである。トルコ政府のゲジェ・コンドウ住民の雇用策として政府機関では大勢の貧困者を雇っていたのである。その後、イズミールやアダナ、ブルサなどのオーケストラでも不要と思える人材が多数存在することを知ったが、どこでも貧富・教養ともに酷い格差がありオーケストラの団員は常に強者の立場で彼らに接していた。ところが、私の専属運転手であったハッサン(英語はワン・ツー・スリーすら話せない)という男をトルコ語の出来ない私が可愛がり、食事の場にも同席させるようにしてから団員達の意識も少し変わり、弱者への労り、ねぎらいの雰囲気が醸成された。私は今でも小さな功績として誇りに感じている。

 

国立オーケストラの楽員は世俗政策下では西欧文化の担い手として高い報酬や良質な公務員住宅の提供などで優遇を受けてきたから、当然だが誇りが高い。毎年必ず全楽員から立候補を募り、5名の役員選挙が行われるが、選出されても楽員としての給料に上乗せする手当が出るわけではない。それでもディレクター(監督)というポジションを望むのは名誉が満たされるからであり、役員に選出された日から多数の事務員、下僕、お茶くみの女中、掃除婦などの管理者として君臨するのである。中には高圧的で横暴な輩もいて、陰ではオットマン・スタイルの奴(オスマン帝国式)だと揶揄される。一般に楽員のリハーサルでの服装は極めてカジュアルなのだが、役員に選出された日から急に背広を着てくる。実に可笑しい習性だが背広を着た人間にはオットマン的な振る舞いを許容するのがトルコ人なのである。

 

だから、クーデター後の処理でエルドアン大統領が次々と強権発動をしているのを、背広を着た役員にひれ伏す楽員と国民を置き換えればトルコ人の習性として理解できる。ところが単純なオスマン式の強権だけでは説明がつかないことが起きている。それは軍人・警察官に限らず、数千人規模で法曹界や教育者たちの粛清、その他考えられない規模で諸々の人事や収監を行っている。

 

イズミール交響楽団が2000年、2001年と日本で公演したころがオーケストラとして絶頂期であった。その当時、フルタイムの月給をもらえる正団員が130名ほど居り、毎週の定期公演にローテーションを組んで交代に奏者を休めてもマーラーやベルリーズの大編成プログラムを悠々と消化できた。ところが2002年にイスラム化を標榜するエルドアン政権が発足してから表面上の文化予算は変わらないが、大きな変化は新団員の補充が叶わなくなったことである。団員は皆公務員のため一律65歳で定年になるが、例えばトランペット奏者が定年になれば同じ楽器の奏者を補充せねばならない。またトルコ人は若くして病没する人が多いため、私も目を閉じると多くの優秀な仲間たちの顔が瞼に浮かぶが、彼らの補充も出来ない。イスラム化政策の推進から15年経過した現在の団員数は70名を下回るようになってしまった。それも楽器のバランスが無視されているから12名いるビオラ奏者は順番に休みを取れるが、5名しかいなくなったチェロや定数を大幅に下回るバイオリンは休みを取れなくなった。それが原因で楽員間に不穏な空気が流れ、当然ながら演奏のレベルも大幅に低下した。

 

個々の団員の給料を減額されなくても、このような処置はオーケストラにとって真綿で首を絞められるようで実に苦しい。徐々にダメージを蓄積させられたボクサーのボディブローのようであり、1980年ころのインドネシア・ジャカルタ放送交響楽団の状況を想起させられる。オランダ統治時代にはオランダ人とインドネシア人混成の立派なオーケストラであったそうだが、当時のインドネシア政府のイスラム原理主義への回帰政策のため教育環境が激変、西欧文明の代表であるオーケストラ奏者の育成が滞っていた。当時はオランダが撤退してから35年間が経過していたため、オランダ時代の奏者が次々に死亡、その穴を埋められず団員は30名ほどになり自然消滅の途を辿っていた。現在は政府の政策転換により技量は低いがオーケストラが復活したという話は耳にした。

 

苦し紛れにイズミール交響楽団員の一部は現政権のイスラム化政策に融和させるため、イスラム教の民族音楽を演奏しながら西洋音楽を織り交ぜる新オーケストラを設立させ、予算を確保しようという試みも数年にわたりトライしているが功を奏していない。その融和的な行動が政権に媚びを売るものだと批判する団員と内輪もめまで起きている。例えば日本でN響が予算確保のため神道の雅楽を中心に演奏する集団を編成したら???と想像すれば異常事態であることは自明の理である。アタチュルクが西欧化世俗主義の象徴の一つとして育成してきたオーケストラが危機を迎えているのである。

 

ここまで書けば今回のエルドアン政権による過剰なまでの粛清の深層が解ってくる。つまり貧民層からの得票数で議会を制しているイスラム政党ではあるが、極言すれば政治以外、経済・文化・教育はビザンチン帝国以来のローマ人の末裔たちに実権が掌握されている。そして、その人たちが水面下で形成する世論によってアタチュルクによる世俗革命の番人である軍隊が再決起することを恐れているのである。背広を着ただけで権威を感じる(感じさせる)トルコ人の習性のため表面上は恭順しているように見えてもビザンチンの流れをくむヨーロッパ志向の人々をエルドアン大統領は極端に警戒しているのが深層である。私が書けるのはここまでであり、この先の推測は差し控えるが、今後の状況は予断を許さないと思う。

 

 

<308>鳥越俊太郎

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永六輔に続いて大橋巨泉が亡くなった。先に亡くなった愛川欣也、前田武彦、青島幸男、そして菅原文太など、この世代の文化人や俳優にリベラル(社会主義的な思想)の人が多かったと気付く。TV・マスメディアなどで、発信力の強いこれらの人々からメッセージを受けても日本人の持つ懐の深さは、バランスの良い社会を築き上げてきた。

政党においても同様で、何でも反対を貫く共産党はある意味、筋金入りで小気味よい存在である。ところが自民党時代には有能な保守政治家であった小沢一郎が政策ではなく政局に肩入れ過ぎて失敗、その挙句山本太郎なる素っ頓狂な際物の名称を党名にしてまで、何でも反対の野党に与しているのは解せない。

本来なら二大政党政治の一翼を担うはずの民進党(民主党)の体たらくには目を覆いたくなる。
健全な野党が必要不可欠であることに論を俟たないが、今回の鳥越俊太郎の擁立には首をかしげてしまう。

記者会見で悪びれることなく「政策は分からない。これから勉強する」と発言するような人物を担いでどうするつもりなのか?都知事選は著名人でリベラル思想の人物(石田純一もその範疇であった)なら誰でも良いのか?責任野党として恥をかいているようなものである。

「政策のない病み上がりの候補者を担ぎ出した」と対立候補が発言したことに鳥越俊太郎が猛反発している。
私の友人にもがん患者が多数存在する。苦しい闘病生活を乗り越えて社会復帰をした(しようとする)人たちを誹謗中傷や差別する意図など毛頭ない。同様に対立候補にもあったとは思えない。

鳥越俊太郎は公人である都知事を目指しているのであり、都民に対する責任の重さは計り知れないものがある。
その重責を果たすために年齢(76歳)と4度にわたる手術という現実を自問自答すれば出馬を自粛するのが自明のことであり、万が一4年間の任期中にがんの再発があった場合、民進党は都民に釈明出来るのだろうか?

鳥越俊太郎がガンを克服してジャーナリストとして頑張るなら誰もが心から拍手と応援をするが、都知事は別である。それを差別と絶叫する鳥越俊太郎に理性が存在しているとは思えない。

そもそも市民運動のデモ現場で安保法制や反原発を叫び、参加者から喝采を受け、神経がマヒしたのではないか?元シールズ代表者の演説に煽られ、野党が動員した群衆の熱気を自己への支持と誤解して「人生のなかで一番健康、体内年齢は48歳」などと吠えまくっている事が滑稽であると気付かないなら、一度冷静になって自己を見つめ直して欲しい。

灼熱の選挙戦に終日街頭に立てないような体力では都知事のような要職は無理である。
巣鴨でも森進一を紹介しただけで自己の演説を行わず、炎天下に動員された高齢の運動家たちを怒らせてしまったではないか!!
それが鳥越俊太郎の現実であり、限界なのである。

民進党には今回の失態について十分な責任を感じてもらいたい。そのうえで責任野党として二大政党の一翼を担える日が到来することに期待する。

7月20日

<307>鳩山邦夫氏を悼む

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鳩山邦夫氏が亡くなった。ピエロ・鳩っポッポと形容される実兄の元首相とは全く別種の愛嬌がある人柄で、永田町でも人望の高い政治家であった。
好漢鳩山邦夫氏の早逝を惜しまずにはいられない。
ところで故鳩山氏の同級生で全国模擬試験や東大法学部での一位を争った秀才が件の舛添要一元知事である。
今回の辞任騒動でも法律に詳しいからこそ合法であることを確信の上で、苦し紛れの嘘も法令に違反していないと第三者なる弁護士に強弁させたのである。

ところが秀才の意に反し、世論は彼の正論(?)には組しなかった。まず何といっても弁護士の人選が悪く、記者会見における横柄な対応が、上から目線の秀才と重なるイメージとなり、国民の怒りを増長させ秀才元知事は決定的に追い込まれたのである。

法律を熟知する秀才の元知事は99%もの人々が辞任を求める国民感情の基準が合法・非合法ではなく、人間のモラル・道徳性に起因していることに気付けなかったのである。
日本人の道徳基準は、潔さ、公への献身、無私、正直などであり、秀才元知事の唯一の拠り所は合法というだけであったので民意が離れて当然である。

安土桃山時代から江戸期を経て明治時代までに来日した外国人宣教師他が一様に書き綴り、褒めたたえたのは、日本人の道徳と品性の高さである。それに比較して約定・法律による合法・非合法に束縛される西欧諸国の民度は劣るとも書いている。秀才の元知事は実に西洋的な規範で行動したが、日本人のモラルには合致しなかったということであろう。

秀才を辞任に追い込んだ主役はマスコミが醸成した世論であるが、私はマスコミの報道姿勢にも苦言を呈したい。もちろんセコイなる日本語をSEKOIという国際語にされ、醜態をさらした元知事が国際社会に恥をさらし国益を損ねた大罪を逃れることは出来ない。

それにしても、辞任後に疑惑追及を唱え続けるるTVコメンテーターの論調には辟易とさせられた。つまり日本古来の武士の情けが感じられないのである。誰が見ても秀才元知事が嘘をついているのは周知の事実であるが、それをお白州に引き出して真相を語らせるモドキは、さすがに日本人の美的精神にそぐわない。打ち首ではなく詰め腹を切らせたことで十分なのである。その意味では集中審議を止めた議会の判断は武士の情けであった。

人気者であった同級生の故鳩山邦夫氏に比べ秀才元知事の人望は元より皆無であり、知己の議員仲間からも私自身良い評判を聞いたことが無い。
それでも現代の切腹は命までは差し出さずに済む。秀才元知事の再起に期待する。


6月26日

<306>吉田正の作曲秘話

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「異国の丘」のヒットによりビクター専属の職業作曲家としての途を歩み始めた吉田正にとって大きな壁は、自己の作風を確立することであった。戦後の荒廃した人々の心を癒した「リンゴの唄」同時期に一世を風靡したのは岡晴夫の明るい歌声による「東京の花売り娘」に代表される花売り娘シリーズであった。吉田正は岡晴夫と人気を二分していた小畑実のために「ロンドンの街角で」を作曲したが、歌詞には盛り込んでも、さすがにロンドンの花売り娘というタイトルは付けられなかった。つまりオリジナリティが欠落していたのである。

 

悩みぬいた吉田正が光明を見出したのは、宝塚のトップスターであった久慈あさみとの出会いであった。男装の麗人から得たインスピレーションが「女豹の地図」という妖艶な都会調吉田メロディーとして結実した。

 

その後、下戸であった吉田正を高級ナイトクラブに連れ出して酒を教えた鶴田浩二に触発され「赤と黒のブルース」が生み出されたのは昭和30年であり、ようやく都会派の吉田メロディーが確立されるに至った。

 

昭和32年発表の「有楽町で逢いましょう」は有楽町駅前の喫茶店の窓から、そぼ降る雨の景色を眺めていた時にイントロから曲想が浮かんだように、吉田正は外出先でメロディーが閃くこともあり、小さな紙切れに五線を引いてメモする程度の事はあったが、基本的には2400曲に及ぶ全作品が世田谷の自宅2階の寝室(和室)で作られた。

 

苦労して手中にした都会的なメロディーに比べると「潮来笠」などの股旅歌謡は苦も無くメロディーが浮かんだそうである。茨城県出身の吉田正にとって常に引き出しに準備されている自家薬籠中の物であった。

 

作曲の最中は実に神経質になり、アシスタントを務めた夫人に語りかける事なく終始無言であったそうである。煙草を吸いたくなると灰皿を見るので夫人は火をつけて渡す。茶を欲する時は湯飲み茶わんに視線を送る、それだけで夫人は理解したので会話は不要だった。

 

作曲は畳に寝転がりながら夜半過ぎに行われた。発想が浮かぶと時折、傍らのギターでメロディーやコード(和音)の確認をしながら書きあげると、コピー機のない時代だから夫人が朝までに何枚も丁寧に写譜をするのが日常だった。夫人により清書された譜面が出来上がると1階の居間の奥にあるレッスン室でピアノによる最終確認をした。

現存する自筆楽譜は吉田正記念オーケストラ事務所に保管してあるが、日立市の吉田正音楽記念館に展示してある楽譜の大半は、夫人が清書したものである。

 

作曲中、たまに迷う事もあったらしく23通りのメロディーを夫人に聞かせ、どれが良いか尋ねられ夫人が回答しても、夫人いわく最初から本人が決めていたらしい。

 

このような夫婦の機敏を観察していた岩谷時子が「おまえに」というフランク永井のヒット曲を作詞したが、正に吉田夫妻の夫唱婦随をテーマにした作品であることに間違いない。

 

5月20日

中高年よ元気を出そう!!

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「中高年のための元気が出るコンサート」を主宰する指揮者として、一か月余り元気の源は何であろう?と自問自答しながら思考錯誤していた。

舞台上のトークでも次のように語りかけてみた。“我々の年代である65歳以上の高齢者が人口の4分の1を占めるようになったという報道を耳にする機会が増えたが、皆さん年を取って何か良いことがありますか?”と問いかけると苦笑して首を横に振る人が大半である。
確かに年を経るごとに健康、体力、気力、知力は衰える。そして老後の生活不安、核家族化による孤独、親の介護などマイナスの要素は限りなく山積するため、元気を出せと言われても無理であり、将来への希望に満ちていた青春時代とは大きく異なるのである。

自己、つまり“私事”を基点にした発想では、中高年が元気を出す要素が皆無だが、社会全体に視野を拡げれば話は別である。戦後の復興から高度成長を成し遂げた平和な経済大国を守り、次世代に継承して貰いたいという使命感が我々を勇気付けてくれる。それが社会、特にマスメディアに対する怒りや憤りにもなり、ある種の元気をもたらせてくれる。

核開発に執着している”ならず者国家”がミサイルを発射すれば7分ほどで首都東京に着弾する至近距離にあり、また19世紀的に領土拡張を目論む中華思想の大国、更にその北には覇権主義を復活しつつあるロシアなどに隣接する我が国の立地は実に危ういものがある。
そこで安全保障の論議になるのだが、自力で国家と国民を守れないから、もし攻撃された場合には喧嘩の強いアメリカに助けてもらう約束が安保条約であり、それが無法者への抑止力となってきた。

ところが正義感の強いヤンチャ坊主の米国も中東やウクライナなどの紛争で手一杯となり、東アジアで万が一の事態が発生しても中国との正面衝突を避け、口先での抗議に終始して軍事力を背景にした警察官の役割を果たさないのでは?と危惧する人が増えてきた。だから日米安保も集団的自衛権という一歩を踏み出し、アメリカによる助太刀を確実なものとする必要があった。

それに伴い憲法論議も必要不可欠であり、アメリカの傘に守られたから平和を維持出来たという思考なら、自衛隊は違憲のシンボルから自衛軍と認定するためにも憲法改正が必要となる。
逆に平和憲法のお陰で戦争に巻き込まれずに済んだという主張なら、直ちに自衛隊は解散させて災害時のための救助隊として改編させる。加えて地震や台風も平和憲法で禁止すれば良いと言う諧謔的な論法も成り立つ。

このような議論をするだけでも活力は生み出されるのだが、何と言っても若者の道徳観と健全な思想を育成して次世代に平和と繁栄を託すのが一番の処方箋であると気付いた。

それは、子供や孫などの身内への期待を超越して、地域社会や職場などで見どころのある後進を育てる、つまり私的な感覚を捨て、活力にあふれた国家を構成する若者たちへの働きかけをする方が意義が深い。

実際に幕末から明治への躍動は薩摩・長州、そして会津などの子弟教育から生み出された。当時の大人たちが果たした役割に現代の我々も見習いたいものである。

<304>パリを襲ったテロ

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現在のパリは残念ながらイスラム国と称するテロリストの脅威にさらされている。テロの恐怖に直面している欧米諸国の当事者に対し、日本の文化人と称する人々の能天気な発言が如何に失礼なものか!!以下に列記する。

フランスによる報復の空爆は、原爆投下に相通じるものであり理不尽である。空爆より話し合いのテーブルに着いて欲しい(慰安婦報道の捏造で恥をさらした某新聞社の投稿記事)

国単位での報復はテロには有効ではなく暴力が無効になる社会を世界は目指すべき(リベラル、端的に言えば左翼的な構成で知られる日曜日朝のTBS系番組に出演した和服姿の某大学学長)

有志連合、アメリカの誤爆により無実な民が殺されるのもテロに等しい(夜の報道番組の著名キャスターと賛同して頷いていたコメンテーターの某大学院教授)

オランド大統領は戦争であると宣言したが、IS(イスラム国)との対話を避けず、対話を模索すべき(同キャスターと著名新聞の論説員)

ISの支配地域への空爆をテロと同一視する暴論が堂々とマスメディアを通じ放送される現実、如何にも知的レベルの未成熟な我が国マスメディアの実態を物語っている。

またISと対話せよと言う文化人には、先駆けとしてイスラム国に行ってもらい取材陣も同行して欲しいが、たちどころに拘束、殺戮される現実を彼らは知っている。そのくせに綺麗ごとのコメントで視聴者を騙す欺瞞が許せないのである。

結局、彼らは耳障りの良い正論を述べているつもりだろうが、その非現実的な論調は旧社会党による非武装中立論を想起させる。


1月25日


“パリの空の下セーヌは流れる”というシャンソンがあるが、実際に空を見上げながらパリの街を歩けば、瞬時に犬の糞尿(時には人間のものも含まれる)を踏みしめてしまう。

そもそもパリを含む城壁に囲まれた中世の都市では、トイレが整備されておらず所謂オマルにて用を足し、朝になると“失礼”の一言を発し窓から道に汚物を投げ捨てた歴史がある。
下を見ずに投げる輩もいて頭から糞尿を浴びる歩行者もいたらしい。日本人よりは糞尿に神経質にならない伝統があるのだろう。
城壁都市は、住居が密集していたから、石畳に散乱した汚物が乾燥して粉塵が舞う不潔な環境であり、ペストやコレラも周期的に蔓延していた。

同じラテン民族でも伊太利人に比べ、愛想の良くない仏蘭西人と大して美味くはない(私にとって)仏蘭西料理、とは言ってもパリには不思議な魅力があり、私もトルコへの仕事の途中に足を向けてしまうことが多い。

ただ一般人のレベルにおける芸術文化に対する造詣の度合いをフランス人と比較すれば日本人は足元にも及ばない。

ストラビンスキー作曲のバレー音楽「春の祭典」が明治45年にシャンゼリゼ劇場で初演された時のスキャンダルは音楽史上(劇場史)著名な事件として語り継がれている。
大指揮者ピエール・モントーによる初演をサン・サーンス、ドビッシー、ラベルなどの大作曲家たちも客席で聴いていたそうだが、冒頭のファゴットの超高音域を不快に感じたサン・サーンスが席を立ち、その後不協和音と不規則なリズムにいたたまれなくなった聴衆がヤジを飛ばすと、約半数の前衛芸術を支持する層も怒鳴って応じるなど大変な喧騒になったそうである。

ところが翌年、同じピエール・モントーの指揮の演奏会形式では、シャンゼリゼ劇場のの聴衆が総立ちで大喝采!ニューヨーク、ロンドンでも成功を収め、現在では各オーケストラの主要レパートリーの一つとして定着している。

岩城宏之氏はメルボルン響の定期公演でこの難曲を指揮している途中、暗譜した記憶が飛び、棒を振り間違えたためオーケストラが止まってしまった。そのアクシデントを回顧しながら、あの曲は初演当時のオーケストラには難し過ぎて滅茶苦茶な演奏になり、余計に会場が混乱したのだろうと推察していた。自戒の念を込め苦笑いした岩城氏の表情を思い出す。

吉田正記念オーケストラは創立直後の黎明期(15年前)にパリ演奏旅行を実施、芸術に対し好き嫌いを明確に意思表示するパリの聴衆から吉田メロディーがどのような評価を受けるのか?不安な思いで私は「東京シンフォニー第二番」を指揮した。

オケとしての技術力も現在と比べ遥かに未熟なレベルであり、加えてフランス人には馴染みが全く無いメロディーだったから心配は尽きなかった。ところが、それは杞憂に終わり、満席の聴衆は最後まで席を立たず、ブラボーの掛け声まで聞こえた。歌謡曲の哀感を日本情緒(オリエンタリズム)と捉え理解してくれた懐の深さに驚嘆した。