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 カーター氏が敗北した当日、米国の知人から“レーガンの地すべり的な勝利だ!”との電話が掛かってきました。

カーターは偉大な功績を誇る政治家ではなかったかもしれないが、彼がアメリカに抱いていた理想は、独立宣言で定義されたものと一致する とパーキンス氏が記述されるカーター氏が私は大好きでしたから、大変悲しくなってしまいました。


そして、「レーガンが勝てたのは」とジャーナリストの田中宇氏は「ネオコンの表と裏(下) 」に於いて、次のように紹介しています。

1980年の大統領選挙でレーガンが勝てたのは、選挙の前年に起きたイランのイスラム革命とその後のアメリカ大使館人質事件に関して有効な解決策が打てなかったのに対し、
レーガンは選挙期間にイラン側と秘密裏に交渉
それが成功したことが主因だった
人質はレーガンの大統領就任式の当日に解放された
。レーガン陣営がイラン側とうまく交渉できたのは、仲介役としてイスラエルの諜報機関が協力していた可能性がある。イスラム革命前のイランには多くのユダヤ人が住んでおり、イスラエルはイランの諜報に強かった。


 しかし、この田中宇氏の記述は不十分であると存じます。

田中氏の記述のままでは、「レーガンは選挙期間にイラン側と秘密裏に交渉」していても、その結果が明らかになりレーガンの偉大さ(?)が誇示されるのは「(大統領選が終了した後の)レーガンの大統領就任式の当日に解放」なのですから、「レーガン側の勝因」を「秘密裏に交渉し、それが成功したことが主因だった」と結論付ける事は出来ません。

私が、以前、目にした情報は、「レーガン側が秘密裏にカーター側の交渉を妨害し人質解放を大統領就任式の当日まで遅らせた」ということでした。


この私が得ていた情報の正否はともかくとして、
人質、そして人質の家族の苦しみを思えば「

大統領就任式の当日」ではなく、


「一刻でも早い(
選挙期間中の解放)」に向けてカーター大統領に協力するのが人の道と存じます。



そして、カーター氏が大統領の座を去った後を、パーキンス氏は次のように記述しています。

新しい傾向の代表例はエネルギー業界だったが、私はその渦中で働いていた。公益事業規制政策法(PURPA法)は、一九七八年に議会を通過し、一連の法的検討をへた後、ついに一九八二年に法制化された。議会は当初、この法律がこれまでにない燃料を開発したり、電力を生産するための革新的な方法を研究する、私の会社のような小規模な独立系企業の活動を奨励するための手段になると考えていた。この法律のもとでは、大手電力会社は、小規模な会社が生み出した電力を公正かつ適正な価格で買わなければならなかったのだ。この政策は、石油──輸入された石油のみならず、あらゆる石油──への依存度を減らしたいというカーターの願いの産物だった。法律のそもそもの意図は、石油に代わる代替エネルギー源を獲得することと、アメリカの起業家精神を反映した独立系企業を育てることだった。しかしながら現実は、非常に異なるものとなった


パーキンス氏は更に悲しい事実を伝えてくれます。


私からすれば、ロルドスのような人物は希望を与えていた。エクアドルの新大統領ロルドスは、自国が置かれている微妙な状況を逐一把握しているにちがいないと思えた。彼はトリホスを賞賛し、パナマ運河問題におけるカーターの勇気ある決断に感服していた。彼は絶対にくじけないだろうと私は感じていた。その強靭な精神が、他の国々の指導者たちにとって、進むべき道を照らす灯火となることを願わずにはいられなかった。彼やトリホスがもたらす発想は、多くの指導者たちが必要とするものだった。

一九八一年はじめ、ロルドスの政府はエクアドル国会に、石油や天然ガスなどの炭化水素にかかわる法案を正式に提出した。もし施行されれば、国と石油会社との関係を改革するような法案だった。

多くの点からして、革命的で急進的ですらあった。従来の石油ビジネスのやり方を変革することを目的としていたにちがいない。その影響はエクアドル一国内にとどまらず、ラテンアメリカの多くの国々へ、そして世界中に広がっただろう。

 石油会社は予想どおりの反応を示した。あらゆる手段を駆使して対抗したのだ。広報関係者はロルドスを中傷し、雇われたロビイストは脅しと賄賂がつまったブリーフケースを携えて、キトとワシントンをくまなく歩いた。彼らは、現代のエクアドルで民主的に選出された最初の大統領を、カストロの再来のように色づけしようとしたのだ。しかし、ロルドスは何ものにも屈しなかった。彼は政治と石油とが──そして宗教までもが──結託していると弾劾することで応戦した。福音派の伝道団SILが石油会社と共謀しているとして公然と非難し、さらには、非常に大胆な、無謀とさえとれる行動に出た。SILの締め出しを命じたのだ。

 法案パッケージを議会に送った数週間後、そしてSILの伝道団を追放したわずか数日後に、ロルドスは石油会社にかぎらずすべての外国企業に対して、エクアドル国民のためになる計画を実行しないかぎり強制的にこの固から追い出すと警告した。キトにあるアタワルパ・オリンピックスタジアムで大々的な演説をした後、彼はエクアドル南部の小さな集落へと向かった。

一九八一年五月二四日、その地でヘリコプター事故に遭ったロルドスは、炎のなかで命を落とした

 世界中がショックを受けた。ラテンアメリカは激怒した。ラテンアメリカ諸国の新聞はこぞって「CIAによる暗殺!」と怒りの記事を載せた。米政府と石油会社が彼を憎悪していたことに加えて、さまざまな状況がこの主張を裏づけるかのように見えたし、さらなる事実が明らかになるにつれて、疑いはますます濃厚になっていった。動かぬ証拠は何ひとつなかったが、ロルドスは命を狙われていると警告されていて、移動にはヘリコプターを二機使うといったような警戒措置をしていたと語る証人もいる。事故の際には、ボディガードの勧めでダミーのヘリコプターに乗ったとされている。そのヘリコプターが爆発したのだ。

 世界の反応にもかかわらず、このニュースはアメリカではあまり報道されなかった。

 オズパルド・ウルタドが、エクアドル大統領の座を引き継いだ。彼は、SILとその資金提供者である石油会社を元どおり復活させた。そして、その年の終わりには、グアヤキル湾とアマゾン川流域で、テキサコ社や他の外国企業による原油掘削を拡大する野心的な計画を実行に移した。

 オマール・トリホスは、ロルドスを賞賛して「兄弟」と呼んだ。また、自分が暗殺される悪夢を見ると告白していた。巨大な火の玉に包まれて空から墜落する自身の姿を見たというのだ。それは、まさに予言となった。


更には、次のように!


ロルドスの死が事故でないのは、私には疑いようがなかった。あらゆる点が、CIAの仕組んだ暗殺であると示していた。それほどあからさまに実行されたのはメッセージを送るためだと、私は理解した。レーガン新政権は、反射的に連想されるハリウッドの西部劇のイメージとあいまって、そのようなメッセージを伝えるには理想的な媒体だった。ジャッカルたちが戻ってきて、オマール・トリホスと、反コーポレートクラシーに名を連ねようとするすべての者に意志を伝えようとしていたのだ。

 けれど、トリホスは屈しなかった。ロルドスと同じように、彼は脅迫に屈することを拒否した

彼もまたSIL(筆者注:先にも記述されています福音派の伝道団SIL)を駆逐し、運河条約の再交渉についてのレーガン政権の要求をかたくなにこばんだ。

 ロルドスの死から二カ月後、オマール・トリホスの悪夢が現実になった。彼は飛行機事故で命を落とした。一九八一年七月三一日のことだ

 ラテンアメリカと世界は動揺した。トリホスの名は、世界中で知られていた。アメリカにパナマ運河を放棄させて正当な持ち主の手に戻し、さらにロナルド・レーガンにも敢然と立ち向かう男として、尊敬されていたのだ。彼は人権を求めて戦う急先鋒にあり、イラン元国王をはじめ、政治的信条の違いを問わずに難民を受け入れた国家指導者であり、ノーベル平和賞受賞の呼び声も高く、社会正義の代弁者としてカリスマ的地位にあった人物だ。その彼が死んでしまった。CIAによる暗殺!」新聞の見出しや社説がまたもや書きたてた

グレアム・グリーンは、私が彼とパナマ・ホテルで出会ったときの旅行から生まれた著書『トリホス将軍の死』をこんな文章で書き出している。

一九八一年八月、五度目のパナマ訪問のため旅支度を終えたところへ、私の友人であり、招待主でもあるオマール・トリホス・エレーラ将軍の死を伝える電話が入った。将軍を乗せた小型機はパナマの山岳地帯にあるコクレシトに所有する家に向かう途中で墜落し、生存者はいないという。数日後、彼の護衛をしていたチユチエ軍曹こと、パナマ大学のマルクス哲学の元教授であり、数学教授で詩人でもあるホセ・デ・ヘスス・マルティネスから電話があった。「あの飛行機には、爆弾が仕掛けられていました。まちがいなく爆弾があったんです。でも理由は電話では話せません」

 貧民や弱者の味方として評判の高い将軍の死を悼む人々は、いたるところにいた。そうした民衆の声は、CIAの暗躍を究明しろという要求となって、米政府に向けられた。しかしながら、それは実現しなかった。一方にはトリホスを憎悪する人々がいて、そのリストには巨大な権力を有する人々が名を連ねていた。生前のトリホスは、レーガン大統領、ブッシュ副大統領、ワインバーガ一国防長官、統合参謀本部、そして多くの有力企業の経営者たちからあからさまに嫌われていた


トリホス将軍の死後、米国のパナマへの対応をパーキンス氏は次のように記述されています。



パナマの場合、傀儡政権をふたたび樹立させた後は、トリホスとカーターが交渉した条約の条件にもかかわらず、私たちは運河を支配した


あまりに悲しい事ばかりなので、ここで一旦打ち切り、パーキンス氏のサウジ・アラビアでの活動振りなどは、次の《エコノミック・ヒットマンそして日本(3)》へと移らせて頂きます。




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