ワーキング・ホリデーを科学する
テーマ:30万人のワーキング・ホリデー
川嶋 久美子さん
[profile]
・滞在国 オーストラリア
・滞在期間 1996年9月~
・渡航時年齢 23歳
・現在の職業 大学院学生(在オーストラリア)
私は現在、オーストラリアの大学院で、オーストラリアを訪れる日本人のワーキング・ホリデーをテーマに博士論文を執筆中である。こうして連邦政府から奨学金を頂きながら好きなことが出来るチャンスが巡って来たのも、全てはワーキング・ホリデーがきっかけであった。
ワーキング・ホリデーでオーストラリアに初めて到着したのは一九九六年九月。保守派のハワード政権発足、 ワンネイション党の反アジア移民的政策などがニュースを賑わせた頃であった。到着直後は英語もほとんど話せず、貯金もたかが知れているといった状態。ホームステイ、語学学校、そしてアルバイトからシドニー生活を始めるという、今考えれば典型的なパターンであった。フリーター経験が長かったので"ジャパレス"などでの仕事は違和感なくこなせたが、多少なりとも英語を使う職場は初めてである。ワーホリの先輩から必要最低限のフレーズを教わり、文法もわからないまま丸暗記して使っていた。
ワーホリ友達が英語コースを終え次々とラウンドに旅立って行く中、私に転機が訪れたのは翌年のことであった。通っていた学校が大学入学準備コースを開設することになり、先生方に入学を勧められた。当初は大学など考えてもなかったが、英語力の伸びを実感し、学ぶことが楽しいと感じていた頃だったので「勉強を続けたい」と強く思うようになった。ただ、留学生として生活するには相当な費用が必要である。迷った末に実家に電話した。両親は進学を快諾してくれた。両親の協力なしでは、この選択はあり得なかっただろう。
その後の数カ月、今までの人生で一番必死に勉強した。晴れて第一志望の大学に合格したときは、うれしくもあったが逆に実感がなかった。言語学と女性学を専攻し、また猛烈に勉強しているうちに四年間が過ぎた。卒業後は地元のコンサルタント会社に就職し、 約三年間、上司や同僚に恵まれながら、初めて正社員としての仕事経験を積んだ。オーストラリアの生活習慣や社会通念などは理解していたつもりだったが、現地人に囲まれて働いてみるとまた新たな発見があり、悩んだりぶつかったりしながらも急成長した時期だったと、今になって思う。
そんな頃、仕事で培った能力を使ってもっと自分の興味がある分野に進んでみたいと思い、博士課程に申し込んだ。希望の大学院に入学が無事決まったので、思い切って首都キャンベラに移住をすることに決めた。「ラウンドするのに必要だろうから」とわざわざ日本で取得してきた運転免許証を一度も使うことなくシドニーに居座り続けて、八年以上が過ぎていた頃であった。
人類学専攻の博士学生となってから現在まで、研究を通して様々な日本人と交流を持つ機会が持てた。主にオーストラリアでワーホリ中の人、または最近日本に帰国した元ワーホリの人を対象に調査していたため、自分が到着した頃の状況との違いは特に目立った。例えば、エージェント業の台頭や現地の日本語メディアの多様化、ワーホリや留学生として来豪する日本人の増加の影響もあり、オーストラリアでのワーホリ体験の質が変わって来たのは明らかである。
長丁場の研究を続ける中、どうしたら構造的問題が良い方向に向かうか、そして個人として出来ることは何かなど、考えさせられる毎日である。そして研究などを通して、微力ながらも日豪社会に貢献する可能性をくれたワーホリ、そしてオーストラリア社会には、やはり感謝したい。
(かわしま くみこ)
『30万人のワーキング・ホリデー』より抜粋




