古代米琉 諏訪好風先生のお話 at 野乃花染工房 / 2014年秋 米沢染織巡りの旅 その2  のつづき

米沢2日目 まずは米織会館へサーチ

1階が米織のアンテナショップ、2階は米沢織物歴史資料館となっています。

1922年(大正11年)に建築されたという旧米織組合会館はレトロできものが似合う。



直江兼続からはじまる米沢の殖産興業としての染織の歴史。
上杉鷹山は桑の栽培と養蚕に力を入れ、青苧の麻織物から絹織物への転換をはかります。
越後からは縮織り職人を呼び縮役場を設け家中の女子に技術を習得させ殖産興業へと
結びつけました。

米沢では紅花や紫根による草木染めがされていましたが、さらに仙台より藍を取り寄せ
栽培し染め役場もつくられています。
紅花、刈安、梔子、柘榴、蘇芳、胡桃などの植物染料による染めが米沢織の原点であること
から伝産品である置賜紬は100%草木染めであることが条件とされています。

明治になり化学染料が普及し力織機が開発されると大量生産化が進みます。
1915年(大正4年)米沢高等工業学校(現山形大学工学部)の秦逸造が米沢製糸場を買い取り、
東工業米沢人造絹糸製造所を設立します。後の帝国人造絹絲株式会社、今の帝人です。
秦逸造は日本ではじめて人絹(レーヨン)の製造に成功、工業化されます。
大学発のベンチャー企業の先駆けといわれています。

レーヨンの製造につかわれる「紡糸機」
レーヨンとは、セルロース(パルプやコットンリンター)を水酸化ナトリウムなどのアルカリと
二硫化炭素に溶かしてビスコースにし、酸の中で紡糸したもの(湿式紡糸)。
ビスコースは接着剤みたいなものでセロファンのことらしいです。
化学繊維について勉強しないと知らない用語だらけ…(-"-;


居坐機、八丁撚糸機、苧引き台、きぬた

「弓だな仕掛け」の織機
野乃花染工房にあった絣織のための織機と似ています。

1802年(享和2年)丹後から縮織師の宮崎球六が米沢にやってきて高機が導入されます。
唐糸織、博多織の技術を伝えたとあり。


かつて、苧麻栽培と麻織物が主流だったころの、からむし(青苧)裃

大正時代の米琉や昭和初期の米沢紬
袴地は大正時代から多く生産されるようになり、現在95%が米沢織です。

洋服のテキスタイル生地の分野でも日本一の生産高で、イタリアのコモ湖周辺と匹敵する
海外高級ブランドの生地をつくっています。


米沢では他産地からの技術力を取り入れ殖産興業化するという、土台があることからか、
米沢黄八丈や大島紬のようなものまで様々な産地のものが織られていたようです。
ガチャ万時代といわれた1953年(昭和28年)に米沢黄八丈は年間10万反の生産。
1955年(昭和30年)は絣ブームで20万反の絣織が生産されています。
資料には米沢リッパ絣がブームとあるのですが、米沢リッパ絣??? どんな絣なんでしょう。

1927年(昭和2年)錦紗風のシボがあるレーヨン地のみずほ絹が大流行。
良い意味で固執しすぎないところが、日本ではじめてレーヨンの開発と商品化に成功した
要因となっているかもしれません。

昔ながらの手機による織物と機械織りで、米沢紬、仕舞袴、シルクサッカー地、
ジャガード洋服生地と様々な織物が織られています。
全国の洋服生地の産地の中でも最高級品であり、絹から合成繊維まであらゆる種類
の糸を組み合わせたものもつくることができるのというのも、米沢織の魅力であり、
さらなる可能性を持っているというところでしょうか。


次は、原始布古代織参考館です。←ここがすごいのです\(゜□゜)/

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