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2017-01-31 02:22:22

スクリーンに映る都会の風景が好きだ。

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スクリーンに映る都会の風景が好きだ。

 

この場合、(申し訳ないが)完全に東京を想定していて、

断然テレビよりも映画館がいい。

「いい」というよりこの二点はもはや必須事項といってもいい。

深夜なら尚いいし、そしてなぜか(本当になぜか)その光景はアニメの中だとさらに琴線に触れてくる。

 

一年以上更新を滞らせ突然何を言い出すのかと思う人がいるかもしれないが、

当ブログの最大にして唯一の長所は終了しないことにある。

日々更新する人は世の中たくさんいるだろうけど、何年も辞めない人はごく一握りだろう。(と偉そうに言ってみる。)

 

まあそもそもこの文章が誰の目にも触れないのかもしれないのだから、

いっそのこといつも通り今回も好きなように書き殴ってみる。

 

 

さて、冒頭で言ったことは理屈ではなく感覚的なものなのだけれど、果たしてわかってもらえるだろうか。

 

聞いといてなんだが、わかってもらえる人が(ごく一部にせよ)いることを僕はなぜか確信している。

 

映画の中に限った話ではない。

 

特に新宿は象徴的だ。

 

南口のサザンテラスから高島屋へ向かう大きな橋から見る夕刻のドコモタワーも、

至る所からその異彩を放つ姿をのぞかせるコクーンタワーも、いつもなんだかやけに僕の胸に何らかの感情を惹起させる。

 

西口の高層ビル群を週末の夕方あたりに歩こうものなら、突如それまでの喧騒が静寂に飲み込まれ、まるで自分ゴーストタウンに取り残されたような、時間も空間も切り取られたかのような不思議な感覚に陥る。

 

それらは時に感傷的だったり、時に躍動感をともなったり、

そしてなぜかある種の郷愁感を漂わせたりする。

 

一方で、田舎の風景もなぜか銀幕に映るそれは時に強く心に訴えかけてくる。

(菊次郎の夏や岩井俊二の打ち上げ花火、最近では新海さんの例のやつなど)

 

この文章を書いていて思ったのだけど、これらは心の時間軸のようなものとどこかでリンクしているのかもしれない。

 

都会の風景はその時代その時代を映す鏡であり、10年でも経とうものならほんの少し色褪せることもまたその刹那を忠実に投影するような気がする。

 

 

仕事や結婚で幸せを感じる人もいれば、蝕まれていく人生もある。
自らの居場所を半強制的に指定されることを心の何処かで望む人もいる。

 

人生は制約や満たされない欲望があるからこそ充実感や幸せを感じるものだろう。

時に闇が深いほど射しこむ光はその存在を強烈に放つ。

 

自戒を込めて言ってみるが、金は幸せに生きるための手段でしかないのに手段が目的化しては本末転倒だ。

 

 

僕は残念ながら本質的に極度に悲観的で、心の弱い人間だ。
それを変えることはできない。


僕らから(少なくとも僕から)孤独や迷い、葛藤が心の中から消えることは一生ない。

 

日々の喧騒や限定的でかつ多くの不毛な人間関係に紛れ時間を悪戯に過ごしていると、いつの間にか心の何処かに置き忘れてしまうような、何か大切な、根源的な感覚。

それは人それぞれまったく違うだろう。


でも、最も怖いのはその何かを何処かに置き忘れて日々を過ごすことではなく、

自分の中にまだそれが「ある」ことをきちんと認識しなくなることだと思う。

僕にとって、神宮球場やドビュッシーの旋律、深夜の映画館や春樹の小説、そしてこの「何かを書く」という行為は、

そういうことを再確認することができる、言い換えれば「きちんと引き戻してくれる」大切なものだ。

 

 

きっとまた何か書きます。

(そしていつも思う。今度こそ緩いやつを・・・、と)

 

 
 

 

 

 

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2015-07-12 23:19:18

さて、

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雨の日の図書館が好きだ。
意味も無くただ好きだ。


紙の黴た匂いが静寂と外の雨音と相まって醸し出すあの独特の空間が好きだ。


1年半以上更新の滞ったこのブログを誰か見ることになるのか甚だ疑問だが、まぁそれはどうでもいい。
発作的に文章を書きたくなった。


思えば昔から気分が沈むと本屋に足が向く。
特に意味は無いのだけど、僕にはどうもそういう習性があるようだ。


本屋の価値も図書館の価値も、シンプルに単純に感覚的な空間としての居心地の良さ。
これに尽きる。あまり理屈ではない。


なぜ僕は心が荒んだ時に本屋に行きたくなるのだろうか。
それは、そこで本を手にとって眺めている人、本屋で働いている人達なんかが醸し出す、どこか地に足ついた空気のせいかもしれない。
歌舞伎町の地下に跋扈する闇の住人たちとは完全に生物学的に違うカテゴリに属する人たち。


世の中みんな、色んな不満があり葛藤があり、それぞれの苦悩があるだろう。
自分なんか相当に恵まれてると思う。

でもそれがいくらわかっていても、時に街を歩く世間の人たちがどこかやけに眩しくて、無性に胸が苦しくなることってないだろうか。


僕はそういった苦悩を受け容れ、やり過ごす人間としての強さが決定的に、そして致命的に欠けている。



最も好きな作家が、創作活動は「心の中の地下室に入っていくよう」だと表現していた。
そして、「暗くて恐ろしい地下室から帰ってくる強さを養うために、毎日早く起きて走り、執筆して、夜10時には寝る。規則が大事です。」と。


どれだけ強い人間なんだろうと思う。


小説が、文章を書くことがこの上なく器用な人たちが次々と新たなテーマを見つけてきて、空想の世界で大衆を楽しませる物語をゼロから作り出す産物であったとしても全然構わない。
東野圭吾も池井戸潤も百田尚樹も化け物のような才能を持った人たちだと思う。


だけど、僕はそれが物語という形を借りていたとしても、その人の根源的な部分がどこかで投影されたような、
自然に自らのことを振り返ったり、自分がどういう人間か気づかされるような文章に心の底から胸を打たれる。


僕にとってこの世にそういう文章を感じられる作家は一人しかいない。


『おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく。』


もうこの事実は受け容れざるを得ない。



子供の頃、半年か年に一度くらいにしか訪れない千載一遇のチャンス、新しいファミコンのカセットを買ってもらった帰りの車、後部座席で待ちきれず開封して心躍りながら説明書を開いたあの気持ち。
十代の頃、映画館でタイトル以外なにもわからない映画がこれから始まるあの暗闇の中での高揚感。
女の子とデートして色々となにをどうしたらいいかわからず、それをごまかすために必死にしゃべり続けた青い過去。
上京して生まれて初めて一人暮らしをした時のあの異常なほどの解放感。


こういう気持ちを、その時代なりに違う形であっても取り戻さなければいけない。



毎日、本当に毎日のように頭痛は心身を蝕み、効かない薬の量ばかりが増えていく。


身体はどんどん衰弱して、それよりもっとまずいことに、気力が衰えていく。


自分のこの先の人生に、なにより僕自身が何の期待もしていないというのは非常にまずい。

マセラティはないけれど、このままだと五反田君になってしまう。



いくらかのお金や無駄に重ねた経験のせいであの頃の胸の高まりを過去のものにしてはいけない。


僕はそう思う。




3日後か3年後かわかりませんがまた気が向いたら何か書きます。

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2013-10-07 21:41:52

凱旋門賞

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勤め人もニートも暇人も肥満児もみなさんお疲れさまです。

オルフェーブル・キズナと残念ながら敗れてしまった凱旋門賞について。
昨夜は実況も見ながら「あーあ、また負けちゃったか・・・」と思っていたが、なんだか一晩経ってやたら悔しくなってきた。

正直、今年は勝てるのではないかと思っていた。

そのあたりは皆さんも同じだったのではないか。
単勝が2倍前後というオッズから鑑みても、オルフェーブルの実力が突出しているのはもう世界中の総意だった。

勝ったのは地元3歳牝馬のトレヴ。
5戦無敗でこの世界最高峰のレースを制したのだから相当に強いのだろう。
着差の大きさから、蓋を開けてみたら昨年と異なり今年は実力差という面でも完敗、
という向きが強いがそのあたりはどうだろう。

もうご存知の方も多いかもしれないが、このレースは3歳馬と古馬に異常な斤量差が設けられている。
3歳牡馬:56kg
3歳牝馬:54.5kg
4歳以上牡馬:59.5kg
4歳以上牝馬:58kg
特に中長距離路線では牝馬より牡馬のほうが絶対能力が勝るし、もし成長途上の3歳馬と完成された古馬とが同斤量であれば若駒には確かに酷だ。

だが勝ったトレヴとオルフェーブルの5kg差というのはちょっと大き過ぎるだろう。
元々サラブレッドは異常に繊細な生き物であり、水・食べ物・気温・天候などの環境に相当敏感だ。
ちょっとした物音などに敏感な馬も多く、自分の影に怯える馬用の矯正具だって存在する。
よって競馬自体が「地の利」がかなり大きく影響してくることで知られる。
海外でのレースは外国から参戦している時点で一定のハンデを背負ってると言えるが、それは予めわかっていたことだから言っても仕方がない。
(実際、ジャパンカップで日本馬より遥かに強い海外の強豪を何度も退けてきた。)


一点、メディアで特に言及されていなかったことで、私見を。


キズナに騎乗した武豊が7年前にその父ディープインパクトでこのレースに挑戦してこれまた惜しくも負けたのは記憶に古くない。
論ずる間でもないが、「飛ぶ」馬、ディープインパクトは史上最強馬であった可能性が高い。
しかし凱旋門賞では飛ばなかった・・・。

その時の騎乗がミスだったとは思わなかったが、今年のキズナの騎乗は完璧だったと思う。
奇しくもキズナも父同様、後方一気の直線勝負という脚質である。

もし武豊が7年前、今年のキズナのよう騎乗をしていたらどうだっただろう・・・

今見返してみても、スローペースで末脚を余すリスクや斤量、距離的なロスを考えて超のつく大一番でほんの僅かにこの天才が守りに入った騎乗をした気がしないでもない。
今年は当時と立場も異なり、思い切り控えて直線一気に賭けることが許されたのかもしれないし、さらに言えばそうでもしなければ勝利の可能性も無かったと思う。

今年勝ったトレヴもこれがオルフェーブルのように断然の人気だったら昨日と同じ競馬ができただろうか。。

話を元に戻すと、今年の武の騎乗は本当に完璧だったと思う。

4コーナーで勝ち馬トレヴが仕掛けた時にこれをマークして上がっていった所を見ても、武は相手をオルフェーブルと決めつけていたわけではなかったように思う。
これも後からレースを振り返って少し意外だった。
武はオルフェーブルの強さを嫌と言うほど理解しているはずだからだ。

だが、ほんの一瞬のことだが直線入り口でオルフェに並びかけた際、武がインを締めなかったのが気になった。
あそこで勢いに勝るキズナがもう少しでも予め内に寄ってオルフェの進路を締めればスミヨンは一度外に持ち出さざるを得ず、さらに仕掛けが遅れただろう。

彼ほどの一流の勝負師が同じ日本馬だからといって僅かでも恩情をかけたとは思わない。
ましてや自分の馬にあの時点では勝利の手応えすらあったはずだ。
(しかももっと言えばオルフェーブルの鞍上は地元フランスのスミヨンだ。)

ありえない仮定だけど、武と二人で修学旅行のベッドが隣だったら寝付けない深夜にそっと聞いてみたい。
「あそこは敢えて締めなかったのか?」と。

正直に感想を言うと、武は来年もキズナで挑戦したいといっているが斤量面で今年より遥かに厳しい戦いになると思う。

武がディープインパクトでもっと大胆な競馬をしていつものように飛んでいれば・・・
1999年のエルコンドルパサー(2着)で蛯名がまさかの逃げをしなければ・・・
昨年スミヨンがオルフェーブルのヨレる癖をもっと頭に入れていたら・・・

そしてオルフェーブルの鞍上が武豊だったらどんなレースになっていただろう・・・


勝負の世界にifは禁物だ。

正確には、禁物というより存在しないのだと思う。
なぜならば、すべての勝負事は刻一刻と刻まれるこの現実と同じ、一度きりで一切のやり直しは利かないことを前提に行われるのだから。

だからこそ勝利には意味があり価値があるのだろう。

強い者が力通りの結果を必ず示すわけではないのが勝負の世界だ。
現実でも心の優しい人間が必ずしも報われるものではないし、なんなら時に世界は非情にもその相関が逆に働く傾向だってある。

日本人でスラムダンク安西先生のあの名文句を知らない人はいないだろう。

挑戦を諦めたら、試合終了どころかそこから先はifすら無いのだ。

課題は多いが、来年からもオール日本でしつこいくらいの執念深さで挑戦を続けて欲しいと願って止まない。




動画はちょっとレアだけどディープインパクトがもっとも強烈な印象を残した二戦目のレース。
彼意外スローモーションで、他の馬は牛になり一頭だけ鳥がいた。
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2013-09-18 21:44:00

無題

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人生のとある時点で一定の金を手にした人間が取る行動は、概して欲望の消化とコンプレックスの克服で、実はその二つは同義である気がする。

得てして、10代から20代の人生において最も旺盛に欲望が渦巻く時期に、ほとんどの人はなんらかの我慢や達成できない欲望に駆られて悶々としながら過ごす時間があるはずだ。


その時期を経てある一定の金を手にした時に取る行動、滲み出る変化というのがいかにもその人間の本質を浮き彫りにしていて、非常に興味深いと思う。


まずはそれまで比較的勤勉に生きてきて、同時に鬱屈した人生を歩んで学歴・仕事に打ち込んだ人間が一定の給与水準に達し、いわゆる高給取り(もしくはその手前)になった場合。


これはその後も仕事上でさらに評価されて稼ぐようになる、ということに人生の重点を置く人が多い気がする。

そしてだいたい若い頃よりきっちり貯金していてケチなやつが多い。

非常に申し訳ないが、傾向としてこの手の人は本当に人間として魅力の無いことが多く、同性からも異性からもモテない人がとても多い。

そして本人にその自覚が無かったりするから本当に幸せだ。

だが本人はそこそこかその前後くらいの相手と早々に結婚して子供でも作って謎の優越感と充実感に満ちており、非常におめでたい限りだ。

引き続きどうぞ好きに生きていただきたい。


次に、世の中のまっすぐな道からちょっと外れた世界で生きて小金を手にした人間の場合。

まぁ言ってみれば暴力や色の世界。

これは対照的に、面白いほど欲望のままに散財する。

ただしこのケースはそれまでも比較的自らの欲望に直線的に生きてきた人であり、刹那的に惰性と快楽で金を使う。そしてこれまたさっきの例とは対照的に、人間としては欠けている要素が多いのにどこかしら人を惹きつけるものを持っている人が多い気がする。

(ちなみになぜか僕は結構こういう人たちと馬が合う場合が多い。)


そして面白いのが株などの投資で大きな財産を築いた場合。


いろんなパターンがあると思うけど、本来金を稼ぐ手段であった投資が人生の目的になってしまい、ある一定の金を稼いだ後もその作業にしか価値を見出せなくなっているタイプ。

別にそれは本人の意思なので批判もなにもないのだが、このタイプはけっこう多い気がする。


あと、わかりやすく自らの「失われた過去」を取り返そうと躍起になる人間もいる。

これは冒頭で述べた果たせなかった欲望の消化と、コンプレックスの克服である。

周囲が(一見)自我の確立をした年齢だらけになってくると、こういった人間の本質的な部分が浮き彫りになってくる様を目にすることもなかなかできないので、非常に面白い。


そう考えると、金やそれがもたらす何らかの経験というのはすごい威力だな、と痛感する。


しかし投資の世界では、ひとつの物事に対する異常なまでの執着心やいわば人生の怨念のようなものをこの世界にぶつけるくらいでないと、そう簡単に勝たせてはもらえないというのも面白い。


自分はどうなんだろう、とふと考えてみた。


僕は振り返ると、リスク管理上一応社会と接点を持ちつつ、自分の浅はかな欲望やそれこそ惰性と快楽に流されるように人生を生きてきたように思う。

さらに人の好意や愛情を、悪意も無く結果的に貪って踏みにじってしまう傾向すらある。

正直こうやって書いてみると酷いな、と思う。


なにが良いとか悪いとかそういうことは人それぞれの価値観なので、各自が選択することだ。

でも、個人的には自己顕示欲が滲み出ていたりしてはたから見ててカッコ悪いのと、人に好かれないのは嫌だな、とは思うけれど。


人間ってほんとにいろんな人がいるなぁ、と最近思うのだ。


人の幸福感ってやっぱりその時代での相対的なものなんだろうか。

本人がそれぞれ幸せだと思えるならそれだけで充分なんだろう。

だからといってなかなか自分が生きたいように生きられるものでもない。


なんでも人と比べて自分が優れていることにだけ優越感を持って生きることができれば幸せなんだろうけど、そんな人間になるくらいなら僕は猫になりたい。


生きるということは、孤独とどう向き合うか、ということなんだろうか。

だとすれば僕には決定的にそれと向き合う強さに欠けていて、詰んでるなと最近よく思う。

あらゆることに対して空虚だな、と思ってしまうのだ。

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2013-08-08 21:10:24

盆ヅラについて

テーマ:ブログ
どうも、みなさんこんばんは。
ご無沙汰しております。大変ご無沙汰しております。

突然ですが、僕はブログやめてません。
やめてないどころか年中ブログの構想を練ってます。
なんなら、職業は?と聞かれると間髪いれずに「ブロガーです。」と答えるレベル。

はい、すいません。

今日は、無数に溜まっている下書きのエントリから(しつこい)、「盆面」というテーマを引っぱり出してきた。
しばしお付き合いを。。

タイトルにも書いてあるように、これは「ぼんづら」と読む。

あまり聞きなれない言葉かもしれないが、博打の世界ではとても有名な言葉だ。
「盆」の由来は丁半博打の台から来ているが、賭場や勝負そのものを指す言葉としても用いられる。

要は、盆ヅラというのは勝負における面構え、といったニュアンスの言葉だ。

僕はこの言葉が昔からとても好きでよく使うんだけど、これが意外に色んなことに繋がってくる概念だと思うのだ。

よく、「あの人は盆ヅラがいよね。気持ちがいい。」
などという使われ方をする。
勝っても負けても飄々としていて、フテ腐れたり熱くなって見苦しい様を見せないことを指す。
そして懐がカラになろうが、パシッとあるもの全部叩きつけて「次は負けないぞ」と悔しそうに去っていく。

ただし、僕が思う「盆ヅラの良さ」とは、こういった単に表面上あまり感情的にならないことのみ指すものでもない。

やっぱり麻雀の話になってしまうけど、ある一定の時間一緒に卓を囲んでいると、お互いほとんど会話を交わさなくても卓上で相当量のやり取り、せめぎ合いをしていることがある。

そういう当の本人たちにしかわからない時間・空間を経て、ある区切りがついた瞬間に、一方がふと醸し出す表情、言葉。

そういうものに本物の「盆ヅラ」が顔を覗かせる瞬間があるのだ。

この感覚は、高いレベルではなくてもある時期にでも必死に牌を触ったことのある人ならある程度わかるのではないかと思う。

そうすると、表面的な点棒や金のやり取りだけではない所で互いの存在を認め合うことがある。

僕が考える本当の「強さ」「盆ヅラがいい」とは、こういった要素にも宿るのだ。


余談だけど、麻雀の世界でも一見玄人に見えるような所作(小手返しとかね)や、目先の点数にばかり意識が移ろっているような自称上級者をしばしば見かける。

実はこういうレベルの打ち手が最もやりやすい。

中途半端な強さである自覚が薄く、大局観が見えてない。
そしてなまじ腕に自信があるので、どうも流れが悪かったり目の前が僕のように本来勝てない相手であっても(失礼)その彼我の差を理解できるレベルにないから財布が空になるまで打つ。

そもそも麻雀自体が不確定要素が多くて運に左右されやすいんだけれど、彼らは運さえよければ絶対に勝てると過信している。

逆に運がよくないと勝てない時点で「しれてる」のだけれど。


変かもしれないけれど、歳を重ねるにつれ、勝負そのものよりも勝負に臨む姿勢、結果に至るスタンスや、結果に対する振舞いなどに自らの焦点が移ってくる部分がある。

でもそういった要素が、表面的な勝敗の奥にある「強さ」の次のフェーズにも繋がってくると思う。


かの世界を制した孤高のゲーマー、梅原大吾がこう言っていたのが印象的だ。

>どれだけ勝とうが負けようが、結局は誰もがひとりの人間に過ぎず、結果はそのときだけのものだ。勝敗には必ず原因があり、結果は原因に対する反応でしかない。刹那的な結果に左右されず、勝てるようになるための努力を怠っていいはずはない。

>結果が出なかったとき、どう受け止めるかでその後の歩みは変わってくる。あの時はたまたま負けただけだったんだと運のせいにするか、このゲームが悪いと責任転嫁するか、相手が強かっただけだと諦めるか、自分も年を取ったと頭を抱えるか。だが、そのように一時の感情に流されるのではなく、事実を受け止めて分析することが大事なのである。


これも広義の盆ヅラの話だと思う。


僕の友達には相場の世界で身銭を切って日々戦ってる人たちが多いけれど、言うまでも無く相通ずる部分があるだろう。

勝負は水物で、勝つこともあれば負けることもある。
恋愛だって仕事だって体調だってなにもかもそうだ。
うまくいくこともあれば、どう足掻いてもがいてもうまくいかないこともある。

でも周囲に「あいつは盆ヅラがいい」と言われたいものだ。
その時点で人生においてけっこういい線いってると僕は思うのだ。

最後に、敬愛してやまない棋士・羽生善治の名人戦での投了の画を貼っておきたい。





将棋の世界では相手の王を取れば(詰ませれば)勝ちなんだけど、決して実際に相手の王の駒を獲らないのだ。

負けたほうが、自ら敗北を認めて投了する。
「負けました」と言ったり、盤に手を置いて黙って頭を垂れて意思表示することもある。
僕が好きなのは「ありません」と言う投了の言葉。
(次の自分の手は)ありません、という意味合いだ。


勝負そのものが決したら「散り際の美学」を重要視するのだ。

勝ったほうも、自分の中では勝ちを確信してても、相手が投了するまで妙な気の抜き方をしたり浮つきを見せたりしない。
それまでの死闘をともに戦った同志であり、勝者もまた相手を讃える気持ちを持つのだ。
この動画の勝者、森内名人の表情を見ても、微塵も緩みが無い。

お互いが勝負の行方を確信しても、敗者が「その時」を表明するまでじっと時間を紡ぐ。

とても美しく、でも一瞬で散り行く桜をこよなく愛でる、実に日本人らしい考え方で素敵だと思う。
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