偏見について

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先日、大学院の授業中にとある教授がこんな話をしていました。
「あるアラブ圏の国に行った時のことなんだけどね、アラブ圏って実はゲイが多いんですよ。女性の処女性が重視される世界だからね、男同士でする、と。僕は偏見はないんだけどね、でもあるレストランで男性二人が座ってるんだけど、お互いに『あーん』って食べさせあってるの。こっちは食事中なんだからさあ、ちょっと嫌だよなあ」というような話でした。

これを読んだゲイの一般的な反応はどうでしょうか。私の予想では、「なんだ偏見ないなんて口ばっかじゃないか。最初から偏見ありまーす、って公言してた方がまだましだよ」だと思います(外れてたら教えて下さい)。
しかし、私はこの教授の態度はマジョリティのマイノリティに対する理想的な態度だと思います。理想的な態度とは、マイノリティの尊厳と自分の尊厳を同等に保つ態度のことです。

異性愛者にとって、同性愛者は異質な存在です。
人間にとって最も恐るべき存在は何か。権威を持った人? 独裁者? 確かに彼らは恐い。しかし、恐いのは彼らそのものではなく、彼らの態度です。権威を振りかざす人間や独裁者が恐いのは、彼らが何をするのかわからないからです。人間にとって最も恐るべきことは、人間が「わからないこと」なのです。理解できないことなのです。
つまり、異性愛者の同性愛者に対して持つ感情は、嫌悪ではなく、恐怖なのです。正しく言い換えれば、恐怖という感情を、嫌悪という形で表しているのです(違ってたらごめんなさい)。

でも異質性に対する嫌悪感の表出はほとんどの人にとって無意識に行われています。異なる=気持ち悪い、は、ほとんどのマジョリティにとってあまりに常識となっています(何故常識となっているかは、コミュニティの維持と関係がありますが、それはまた機会があれば書きます)。異質=気持ち悪い、という概念を持たないような人は(ほぼ)必ずマイノリティである(あった)経験を持っています。何故なら彼らは、「自分が異質だとみなされた」経験があるからです。
自分が異質だとみなされた経験のある人間のその後の行動パターンは2つに分かれます。第一に、異質性に対して寛容になる、第二に、異質性に対して極度に不寛容になる。私見ですが、ヒトラーなんかは正にこの二番目のタイプにあって不寛容の極致に達したのではないかと推察しています。後者の場合、その他の不幸な環境などの要因から不寛容になる場合が多い気がします(ヒトラーの場合、絵描きになりたかったけれどその才能が無く、後にいわゆる近代的な芸術に対して「退廃芸術」と名付けて展覧会を開いたりしてます(うろ覚え))。
自分がマジョリティ(正常)だと思っていた人間が、マイノリティ(異常)となる経験は、彼らにとってかなり価値のある体験だと思います。マジョリティがマイノリティになることを制度的に行った方が世界は平和になるのではないでしょうか(しかしマイノリティも数ありゃマジョリティになることを忘れてはいけない)。
まあともあれ、ほとんどの人は自分がマイノリティだと感じたことがない。それが「ふつう」だと思います。

「ふつう」の人が、「ふつうじゃない」人を見て差別をするのは当たり前です。彼らは「ふつうじゃない」人に対する接し方や対処法を知らない。私たちのゴキブリに対する対処法を考えて見ればわかりやすいと思います(まあ日本ではゲイが殺されるということはあまりありませんが、同性愛者や黒人などのマイノリティは、これまで何度もゴキブリのように殺されています)。私たちは、何か自分にとってわからないことに対して、どうして良いかわからない。
殺すとまではいかないものの、マジョリティがマイノリティに明け透けに偏見を持つというのは、上述した理由から、ある意味では「ふつう」のことなのです。彼らは他に術を知らないという意味では、ある種の不可抗力なのです。彼らが私たちを気持ち悪いと思うことは、「ふつう」のことなのです(もちろん、「ふつう」であって欲しくないことですが)。

「ふつう」から逃れることは難しい。「ふつう」というのは、私たちの無意識の中にあります。「ふつう」とは、意識しないものごとを指します。「これはふつうだよ」と教えられてきたことは、ほとんどの人々にとって、無意識に「ふつう」であることです。私たちは、「ふつう」のことだから人を殺したりしないし、「ふつう」のことだからものを盗んだりしません(これについては話すと長くなるのでここでやめます)。

それに、「ふつうじゃない」という状態における心理的な負担は大きい。私たちは(特に日本人は)「ふつう」である=他人と同じだから、という理由で行動をしがちです。その理由の一つには、「ふつう」でないことに対するストレスから逃れたいと思う心性があると思います。
罰ゲームのことを考えてみましょう。罰ゲームとは、それを受ける人がストレスに感じる状況をつくることで成立します。男子が女装をする、裸になる、普段言わないことを言わされるなど、その多くは受刑者を「ふつうじゃない」状況におくためになされます。「ふつうじゃない」状態とは、常に罰ゲームを受けている状態と似ています。少し想像するだけでも、とても耐えられるものではない。

何が言いたいかというと、「ふつう」を「ふつうじゃない」に転換させることは、社会的には不都合であるし(殺さない、という道徳を「ふつうじゃない」ことに転換したとしたらどうなるでしょうか)、そのような転換は「ふつう」の人にとっても「ふつうじゃない」人にとっても同様に耐え難いものです(誰だって罰ゲームを受け続けるのは嫌ですから)。

結論になりますが、偏見は持たないが、感覚的に気持ち悪いと思うものを気持ち悪いと言うという行為は、非常にバランスのとれた行動だと思います。
私たちは、偏見を持たないように教育されていても、実際に「ふつうじゃない」相手と対峙した時には、感覚的に「変だ」とか「気持ち悪い」と思うものです。その感覚を否定することはできない。感覚は経験と本能に基づいているからです。
もちろん、「変だ」という感覚を無くすために様々な経験をすることは大事ですが、すでに述べたように「ふつう」の人間が「ふつうじゃない」ものに抵抗するのは至って普通のことなのです。

ただ一つ大事なことは、偏見を持たないという教育を施すことです。そして、同時に「はじめて出会う異質なものに対して感覚的に気持ち悪いと思うことはふつうである」と教えることです。
人は、自分が偏見を持っていると気づいた時に、はじめて「偏見を持つ」ことを経験します。自分が偏見を持っていることに気づかない人間には、偏見という概念さえありません。これは非常に危険なことです。

偏見を経験し、偏見されることを経験し、偏見するという行為を自覚すること。この三つのどれが欠けても、偏見に対する教育は不完全であると言わざるを得ないでしょう。

そして、きっとこの三つをいずれも経験しているこの大学教授の態度は、本当の「異文化理解」に欠かせないものだと私には思われました。

まあ気持ち悪いと思われないのが一番嬉しいけどね。それは現実的ではないマイノリティのワガママだと言うべきではないでしょうか。
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