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※初出は、ミクシィのレビューです。


笠井潔は、『テロルの現象学―観念批判論序説』を、自分が「連合赤軍事件に対して有責であるという思い」から書いたという。

有責であるというのは、かつて黒木龍思というペンネームで「拠点」「情況」「構造」「革命の武装」といった新左翼系理論誌で評論を書き、党派活動に関与していたためである。

笠井は、マルクス主義は論理必然的に連合赤軍事件のようなテロリズムを生み出すという認識に到達し、戸田徹・小阪修平らとともに「マルクス葬送派」を標榜するようになる。

日本の「マルクス葬送派」は、フランスにおける「新哲学派」に対応している。

フランス思想史を概観すると、実存主義-構造主義-記号論-ポスト構造主義という流れの後に浮上してきたのが、「新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ)」である。

アンドレ・グリュックスマンの『料理女と人喰い(邦訳名:『現代ヨーロッパの崩壊』新潮社)と『指導者=思想家たち(メートル・パンスール)(邦訳名:『思想の首領たち』中央公論社)』、ベルナール=アンリ・レヴィの『人間の顔をした野蛮』(早川書房)、ギュイ・ラルドロオ&クリスチャン・ジャンベ『天使。革命の存在論』、モーリス・クラヴェル『私の信ずるもの』、ジャン=ポール・ドレ『快楽への到達路』、ジャン=マリ・プロワの『マルクスは死んだ』……

これらの共通点は、ソルジェニーツィンの『収容所群島』(新潮文庫)を契機に転向した元パリ五月革命の闘士たちであるということである。

彼らは、マルクス主義は論理必然的に収容所(ラーゲリ)を生み出すとするのである。

笠井潔は、連合赤軍事件を契機に新左翼系セクトから離脱し、パリで本書と『バイバイ、エンジェル』を書いた。

『バイバイ、エンジェル』は、矢吹駆という現象学を駆使する推理方法を取る主人公が登場する本格ミステリである。

本書と『バイバイ、エンジェル』は、主題的に重複しており、笠井は『バイバイ、エンジェル』をドストエフスキーばりの観念小説にする意欲を隠そうとはしていない。

哲学・思想分野と文学分野の双方で活躍する笠井は、『存在と無』と同時に『嘔吐』を書いたサルトルへの憧れがあったのではないか。

『テロルの現象学―観念批判論序説』は、一見哲学書の体裁をとっているが、詳細に見ていくと主題に沿った文芸作品を批評することで成り立っていることがわかる。

つまり、本書は文芸批評のジャンルに属しているということだ。

笠井の理論の枠組みは、まず共同観念(これは吉本隆明の共同幻想と同義である。)があり、この共同観念から逸脱するものが自己観念を形成する。

この自己観念をもった者同士が結びつき、党派観念を形成する。

党派観念はエスカレートしてゆくと、肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪の果てに、際限のないテロリズムへの無限肯定に至る。

この共同観念を内部から喰い破るものとして、笠井は集合観念を措定するというものである。

それでは、本書でとりあげられる主な文学作品をリストアップしてみよう。

序章 観念の廃墟(埴谷雄高『幻視のなかの政治』、高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」)

1 自己観念

 第一章 観念の発生(高橋和巳『我が心は石にあらず』、二葉亭四迷『浮雲』)

 第二章 観念の欺瞞(サルトル『悪魔と神』、ドストエフスキー『地下生活者の手記』)

 第三章 観念の背理(カミュ『正義の人々』)

2 共同観念

 第四章 観念の矛盾(田川建三『イエスという男』)

 第五章 観念の逆説(ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』、三島由紀夫『憂国』)

 第六章 観念の倒錯(東アジア反日武装戦線パンフレット『腹腹時計』)

3 集合観念

 第七章 観念の対抗(エドガール・モラン『人間と死』、ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』)

 第八章 観念の転変(ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』)

 第九章 観念の遍歴(ジェフロワ『幽閉者―ブランキ伝』)

4 党派観念

 第十章 観念の顛倒(ドストエフスキー『悪霊』、ネチャーエフ『革命家の教義問答』)

 第十一章 観念の簒奪(エンゲルス『フランスにおける階級闘争』序文)

 第十二章 観念の自壊(ソルジェニーツィン『収容所群島』)

終章 観念の自壊(ヴァンター・ベンヤミン『暴力批判論』、モーリス・メルロ=ポンティ「ソ連と収容所」)

マルクス主義とテロリズムの問題については、アルベール・カミュの『反抗的人間』、モーリス・メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』、埴谷雄高の『内ゲバの論理~テロリズムとは何か』などが取り上げてきたが、本書はその流れを汲むものであるといえよう。

『テロルの現象学』という名称には、ヘーゲルの『精神現象学』を批判するという意味合いがある。

笠井潔は、マルクス主義がテロリズムに転化するのは、マルクス主義のなかにヘーゲルに由来する弁証法が組み込まれているからだとし、本書より後に柄谷行人となされた対談『<現在>との対話1 ポスト・モダニズム批判/拠点から虚点へ』(作品社、38頁)では、マルクス主義を「弁証法的テロル」もしくは「ガイスト的テロル」に分類する。

こうして、ヘーゲルの現象学を排除する一方で、フッサールおよびハイデッガーの現象学に依拠し、ここからマルクス主義の弁証法的権力を「観念の倒錯」として批判しようとするのである。

なお、笠井は評論の上では『外部の思考・思考の外部』(作品社)に収められた「飛沫の実存イメージ(エマニュエル・レヴィナス論)」において、創作においては『哲学者の密室』(創元推理文庫)において、ナチズムと共犯関係にあるハイデッガーを排除し、レヴィナスに依拠するように軌道修正を行っている。

もっとも、笠井の現象学は、フッサールの現象学とは異なるところがある。

フッサールは、視覚を中心に、現象学的還元を思考するが、笠井は、触覚(特に痛感)を中心に、現象学的思考を展開する。

極めて大雑把にいえば、一般的・科学的な知の立場からすると、吸血鬼は存在しない。

が、『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫)のような状況に置かれたら、吸血鬼が実在するものとして行動するということである。

吸血鬼は存在しないという知には、ドクサが紛れ込んでいる。

一方、吸血鬼の実在問題は、自身の生存に関わる。

一般的な知の正誤問題は、この際かっこにくくり、吸血鬼はあるとして行動したほうがいい、ということである。

笠井のいう「現象学」には、吉本隆明の『心的現象論序説』(角川文庫)の「現象」のニュアンスがあるように思われる。

『テロルの現象学』においても、吉本の『書物の解体学』(中公文庫)などの言及が多数見られる。

吉本は、『書物の解体学』で人間の考える観念がどのように生成し、推移してゆくかを追究し、その立ち現れる現象を、そのまま記述していこうとしているのである。

この姿勢は、本書の方法論に近いと思われる。

(吉本との差異は、マルクス主義の問題を、吉本は弁証法にあるとは考えず、「アジア的」という歴史的段階概念を用いて、それのせいにする点である。)

笠井は、マルクス主義は、旧左翼・新左翼を問わず、最終的に論理必然性を持って、スターリン主義的な血の粛清、「絶滅=労働収容所」群島の形成に行き着き、無差別テロリズムに到達するという立場を取る。

そして、このマルクス主義的な権力知を覆すために、フッサール的現象学のなかに、バタイユの思想を埋め込もうとする。

ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』で、普遍経済学を唱え、人間には太陽エネルギーに起因する過剰な力があり、この過剰な力を蕩尽しなければならないとした。

この「過剰-蕩尽」理論は、バタイユの盟友・岡本太郎のほか、経済人類学者の栗本慎一郎らに影響を与えたが、笠井もそのひとりである。

(『薔薇の女』、映画『嵐が丘』のノベライズには、バタイユの影響が顕著である。)

本書においては、バタイユ的蕩尽(あるいは岡本のように爆発といった方が判りやすいかもしれない)が、「集合観念」という概念で捉えられている。

「集合観念」という観念は、笠井のなかでクロンシュタットの民衆叛乱と重ねあわされている。

「絶滅=労働収容所」群島という絶望的な状況下にあっても、人間はなおも圧制に抗して爆発できるのだということである。

後の『秘儀としての文学―テクストの現象学へ』(作品社)に収録されたコリン・ウィルソンの対談で、笠井は集団的な至高体験の存在可能性に言及している。

至高体験とは、絶頂体験とも訳されるマズローの心理学およびそれに依拠するコリン・ウイルソンの思想における術語で、自己実現に到達した人間の喜悦に満ちた体験を指す。

コリン・ウィルソンにおいては、個人的に捉えられていた至高体験だが、笠井は集団的にも至高体験はあるのではないかという。

集団的な至高体験は、本書における「集合観念」と対応していることは言うまでもない。

「集合観念」は、観念でありながら、「共同観念-自己観念-党派観念」を内部から打ち壊すものとして捉えられている。

つまり、「集合観念」は、観念の外部ではなく、観念の内部において形式化をラディカルに突き詰めていった果てに見出される反観念なのである。

「集合観念」という概念を、自らの体系のなかに位置づける際に、笠井は『隠喩としての建築』の柄谷行人や、『根源の彼方に グラマトロジーについて』のジャック・デリダを意識したようである。

なぜ、このような設定をしたのかといえば、テロリストに、テロルの悲惨という事実を指摘しても、それは彼らの理論の想定内であり、外部にはないえないのであるから、彼らの理論体系をゆるがせることはできないからである。

理論体系が論理必然的に陥る自己矛盾をしめすことが、強力な批判となるのである。

とはいえ、笠井の現象学に対する態度は、デリダと一致しない。

デリダは、フッサールの現象学にロゴス中心主義・音声文字中心主義を見出し、これを脱構築(ディコンストラクト)しようとするが、笠井は「人間」や「生活世界」といった現象学の前提に対しては、自明のこととして疑いを挟むことはないのである。

本書が「観念批判論序説」とされていたのは、本書のあとに、芸術論(テクストの現象学)、エロティシズム論(エロスの現象学)、革命論(ユートピアの現象学)が予定されていたからである。

続編が書かれなかったのは、ソ連邦が崩壊し、マルクス主義の凋落が始まったからである。

笠井潔の『テロルの現象学―観念批判論序説』で問題となるのは、ジョルジュ・バタイユの位置づけである。

本書は浅田彰の『構造と力―記号論をこえて』の後に書かれており、『構造と力』におけるバタイユを「終局=目的なき弁証法」と看做す解釈に、笠井は異論を展開している。

笠井によれば、バタイユは「グリュントゲーエンする廃滅の反・弁証法」だとし、バタイユの核となっている連続と非連続は対概念ではない、とする。

こうして笠井は、バタイユを、山口昌男やヴィクター・タナーに見られるような<コスモスとカオスの弁証法>ではない、とするのである。

しかしながら、バタイユのねらいがどうであれ、現実のなかでバタイユ理論がいかに機能するのかが問われる必要がある。

『構造と力』は、資本主義というシステムの解体そのものをシステム化したクラインの壷から、いかに逃走できるかというプロブレマティックの上に成り立っており、制限された脱コード化社会を、制限なき多方面への生成を肯定したリゾーム(根茎)にいかに変えてゆくかを問題にしていた。

一方、笠井の『テロルの現象学』は、ソヴィエト型の専制社会、言い換えれば超コード化された社会をいかに転覆させるかを問題にしていた。

果たして、バタイユの思想が、資本主義にダイレクトに有効なのかという疑問が浮上する。

なぜなら、資本主義はバタイユすら商品化して、消費し尽くしてしまう怪物的システムだからである。

プレ・モダンな専制社会に対するバタイユの叛逆は、顛倒すべき主体(大文字のS)なき資本主義社会において、逆説的に超コード化された絶対者を招き寄せる危険性すら持っている。

笠井理論では、こういった社会システム論への目配りが完全に欠如している。

また、本書はマルクス主義へのアンチ・テーゼであるが、それ自体としてのポジティヴな思想を打ち出すことに成功していない。

本書は、テロリズムに対し「集合観念」を対置させるが、テロリズムの発生原因となっている状況にまで遡り、原因を根絶させるものではない。

本書は、テロリズムに帰結しない別な変革のヴィジョンを打ち出すものではないのである。

その結果、テロリズムの発生原因となっている現状を、追認するイデオロギーに転化する可能性を持ってしまっている。

本書にこめられたメッセージの価値は、ソ連邦の崩壊後、相対的に下降した。

マルクス葬送派の系統に属する本書の価値は、東西の冷戦構造が支えていたのだといえる。

それは、バタイユの叛逆が、西欧のクリテンツーム(キリスト教教条)があって、初めて成り立つのと同じである。

東浩紀との往復書簡『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』(集英社新書)で、9・11という試金石に晒され、笠井潔は、東からすると旧世代に属する典型的な全共闘世代のイデオローグとしての限界を露呈してしまっている。

無論、イスラム原理主義に基づくテロリストたちにも、左翼系テロリストと同様に、肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪がある。

だから、本書の人間理解は、今日においても十分に通用する。

しかしながら、世界中のいたるところにネットワークを張り巡らし、一般市民に溶け込み、見えない軍隊となった新しいテロリストたちに対抗するためには、「集合観念」ではなく、スピロヘータか、バクテリオファージのような、相手の思考システムに深く侵食し、内部から腐蝕させるような別な闘争を描く必要があるだろう。

笠井的なマルクス主義へのアンチ・テーゼが、いまなおインパクトを持つのは、北朝鮮や一部の過激セクトに対してのみである。

とはいえ、本書はアンチ・マルクス主義の立場の人は勿論、ポスト・マルクス主義の立場の人にとっても、笠井潔が好きな人も、笠井潔葬送派の人にとっても、必読書である。

というのは、無限の自由を求めて出発した高邁な思想が、やがて無限の専制に帰結するというパラドックスを考え抜くことなしに、新たな解放の理論を構築することなど出来ないからである。

本書は、次なる思想を胚胎するために、読み継がれるべき書物なのである。

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