仕事が水曜定休のメリット。レディースデイで映画を観易い。平日ランチを食べに行ける。

ただし、土日休みの友人が多い中、スケジュールを合わせ難い。


メリット・デメリット色々ある平日定休のシフトだが、今日は水曜が休みであることを感謝!

お陰で発売日当日に読破できました。「ハリー・ポッターと死の秘宝」。


内容に触れずにはいられないので、未読の方はスルーして頂きたいのですが、個人的には冒頭のダドリーとの数語、言葉を交わすシーンにホロリとさせられました。このシーンを皮切りに、ハリーはシリーズを通して“敵対”していた多くの人々と関係を修復、とまでいかなくても相手を受け入れる度量を見せてくれます。


顕著な例だったのがハリーとの対決に勝ったと確信したヴォルデモート卿に、その死を確認させられたドラコ・マルフォイの母ナルシッサがハリーがまだ生きていると知りつつヴォルデモートに対し虚偽の報告をするシーン。ハリー・ポッターの周囲の人々は「世界の平和」や「魔法界の秩序を取り戻す」という大義のために戦う人々よりも、身近な人を守りたいという気持ちで動いている人物が圧倒的に多い。ヴォルデモートは恐怖で周囲を支配したけれど、ハリーは身近な人を大切に思う人に対しては、たとえそれが長年敵対してきた人物であっても手を差し出さざるを得ない。だから娘を心配しハリーを売り渡そうとするラブグッドを心底憎む事ができないし、服従の呪文で操られている敵を倒す事に躊躇する。最終的にはその姿勢が敵をも巻き込む、大きな器量になっているのだな、と実感したシーンでした。(ちなみにこのシーンは、なんでハリーの生死を確認したのがベラトリックスでは無くナルシッサだったのかは不明。ベラトリックスが調べていたらハリーは殺されていたと…)


ダンブルドアはハリーに対し、純粋な愛情から親身になって接していたのでは無かったのかも知れない。ハリーが自分を慕うように育てた本音は、ヴォルデモートと戦う駒として利用する気持ちの方が強かったのかも知れない。人としての思いやりや感情に欠けるのではとも思われるダンブルドアの冷静な分析力と判断力が、結果として世の中を変える力を生み出したとすれば、ダンブルドアはやはり「ハリー・ポッター」の世界の第二の主役なのだな、と実感しました。


ハリーはヴォルデモート卿に比べ、魔力も劣る。6巻で故人となったダンブルドア程の統率力も無ければ、カリスマ性も無い。それでもハリーの周りにあれだけの人々が集まり、団結したのは、ダンブルドアが物語中で話している「見た目は父親そっくりだが、気性は母親から多くを継いでいる」その人柄にあるのでは無いかと。7巻後半で明かされるスネイプの真実には、訳者が巻末で述べているように「7巻で最も心に染み入る」章ではあるけれど、恐らくスネイプだけでなく、物語に登場する全ての人物が魔法使いもマグルも屋敷しもべ妖精も小鬼も、人種や魔法の力といった境界を超えて、ハリーの中に生き続ける「リリー・ポッターの心根」を感じ取った結果が物語のエンディングを創り上げたのでは無いかと感じます。


多くの登場人物が7巻の中で犠牲になっていくのに関わらず、読後感は思いのほか爽やかで。


『ハリー・ポッター』シリーズは私個人にとってバイブルとも言える『指輪物語』には重厚感で負けていると思うし、『ゲド戦記』のような歴史絵巻を紐解いているような文化的な作風も薄い。ハリー達はちゃんとホグワーツを卒業したのか、など疑問も沢山残されますが、まぁどうなったのかをあれこれ想像するのも読書の楽しみのひとつ。夢中になって読んだシリーズの完結を締めくくるに足る充実したストーリーだったと大満足しています。


このシリーズと発売されるリアルタイムで出会えた事を、幸運に思います。

「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)/J. K. ローリング
¥3,990
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見えざるピラミッド-赤き紋章の伝説-
ラルフ・イーザウ著


単一の世界がある呪いによって分裂し、三つの異なる世界となり均衡を保っている。三つの世界とは地球、トリムンドス、アンクスと呼ばれる異次元の世界。だが異なる速度で揺れ動く三つの世界が最も接近する機会に結節点で何かを起こせば、世界を一つに束ねることができる――。


ファンタジーではお馴染みの今ある世界の裏側に存在する異なる世界。同じ著者の本では『ネシャン・サーガ』でも2つの世界が登場しましたが、その内容をより深く掘り下げたのがこの『見えざるピラミッド』になります。異次元空間を繋ぐ場所は、屋根裏部屋にある扉だったり、鏡だったり泉だったり“物”とされることが多かったのですが、この物語では三つの世界を繋ぐ重要な結節点は人(場所もあるので、それと差別化を図るために可動結節点と呼ばれている)。同じ時期にそれぞれの世界で生まれたフランシスコ、トレヴィル、トプラが知らず知らずのうちに三つの世界を一つに統一し、支配したいと考える支配者に狙われ、戦っていく姿が描かれています。


面白いのは元々が一つの世界であった事を示す遺跡が各世界に残っているということ。地球とアンクスでは結節点がクフ王のピラミッド「英知の間」であり、トリムンドスではロンドンだったりする。アンクスで壊れたピラミッドの内壁が地球でも壊れている。そして世界が三つに分裂した時の事が書かれた著書は地球にあるだろうとついつい思いがちであるけれど、トリムンドスの大英博物館(正確には図書館)に残されている。それぞれが“世界が三つに分裂した”経緯を探る旅に出るので、『ダヴィンチ・コード』を読んだ時同様、遺跡を巡る旅をしたくなりました。


イーザウ著書で一番お気に入りの『盗まれた記憶の博物館』に比べると私個人の中では評価が下がってしまいますが、数多く登場する戦闘シーンは迫力満点。まとまった休暇が取れず夏の旅行を断念した私のような方が本を通じて旅するには最適の物語となっています。



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三番目の魔女

ギリーは森の中の小さな小屋で何の血の繋がりも無い二人の女性と暮らしている。彼女達が人里離れた森の小屋に住んでいるのは、薬草などの知識に詳しい“魔女”だから。そしてギリーは年老いた彼女達に従うことで、自分の望みを叶えようとしていた。ギリーの望みは自分の父を殺した国一番の武将の命を奪うこと…。


シェイクスピア三大悲劇の一つ『マクベス』をモチーフとし、“三人の魔女”の一人ギリーの視点でマクベスを見つめ直すというストーリー。大学で英文学を専攻していたくせに、三人の魔女って全員お年を召した方では無かったっけ?などと疑問を抱きつつ読み始めたのですが、読み進めるうちにどんどんストーリーに引き込まれ、魔女が少女であることなぞ、全く気にならなくなりました。


復讐を果たすために「人としての愛情・友情・信頼といった心を捨てる」と豪語しているギリーが気付かないうちに、自分が気持ちを寄せた大切な人のために奔走。特に良い味を出しているのが、マクベスに復讐を果たすべく、マクベスの居城に下働きとして乗り込むギリーが世話をする事になったポッドとの姉弟とも言える信頼関係で。弱者に対して冷たい世界の中でもがき、何とか生き抜こうとするギリーの強さには心を打たれます。


マクベスが三人の魔女から聞いた予言『女から生まれた男はだれも マクベスに害なすことなど出来ない』を耳にしたギリーは(ギリー本人も魔女の一人として予言の現場に立ち会っていた)、男が手を下すことができないなら、と自ら手にかけるつもりでマクベスの後を追います。このシーン、何だか『指輪物語』のエオウィンを連想して思わず笑ってしまいました。


そんなこんなで英米文学好きには溜まらない一作。マクベス本編のストーリーを知らなくても十分楽しめる物語だと思われます。ジャンルとしては児童書扱いになるのかも知れませんが、味わえば味わうほど深みが出る、そんな作品なので大人でも読み応えありです。


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ウォーターシップ・ダウンのウサギたち  リチャード・アダムズ著(評論社文庫)

村に危険が襲いかかる──予知能力を持つ兄弟・ファイバーの言葉にヘイズル率いる14匹のウサギ達が村を脱し、ウォーターシップ・ダウンに新しい村を作るまでの物語。ウサギの習性や行動の特徴がよく分かって面白いだけでは無く、ウサギ達の間に伝わるエル・アライラーにまつわる伝説と旅に出たウサギ達の境遇が絡み合う様も何とも言えず楽しい作りになっています。

元々住んでいた村を追われたのは人間による丘陵地の開発が原因なのですが、別に自然環境保護を主点に置いた作品ではありません。自然を破壊する人間への批判というよりも、それぞれ個性のある、ウサギの集団社会を描くことで、ある意味人間社会に対する風刺とも取れる内容に仕上がっています。

一番怖いな、と思ったのは、独裁的なウサギが率いる村よりも、“どうして”“どこへ”と言った疑問を封じた、カウスリップの村。目の前で起きている悲劇から目を背け、人間と言わば『取引』したウサギ達の姿に、現在の自分を重ねてしまい、何だか寒気を感じました。


登場するウサギ達は皆個性的で可愛いもの揃い。機知で難関を乗り切るヘイズル、予知能力を持つファイバーを始め、語り部ダンディアイラン、戦士ピグウィグなどなど。ファイバー以外のウサギには皆草花にちなんだ名が付けられていて、花の名前に詳しい人が読むとそういった面でも楽しめると思います。

写真はヘイズル達がウォーターシップ・ダウンを目指す旅の途中に立ち寄った村のウサギ・カウスリップの花。本に登場するカウスリップはいけ好かない人物(?)ですが、ハーブの一種である花は可愛らしく、仄かな香も素敵で気に入ってます。

カウスリップ

児童書だって

ハードカバー本でも、大人向けの小説は結構すぐ文庫化されるように思えます。以前感想を書いた村上春樹著『海辺のカフカ』、この本を私は地元の図書館で借りて読みました。出版当初は予約待ちが100名を超えていて、やっと落ち着いたかな~という頃を見計らって借りたところ、3ヶ月後には文庫になったような。文庫化してから買いましたが。

ハードカバーは高いというよりも、置き場所が無い。本好きの人は、きっと一度は家に書庫が欲しいと思った事があると思うけれど、私も狭い家の中に四苦八苦して本をしまっているので、大抵ハードカバーは図書館で借りて、気に入った物だけ文庫化してから購入しています。

で、困るのが子供向けのファンタジー等、いわゆる児童書ジャンルの本。『ハリー・ポッター』シリーズも“携帯版”なる新書サイズの本が出ましたが、児童書は文庫になるものが滅多に無い!それでも最近はフィリップ・プルマン著『ライラの冒険シリーズ』や梨木香歩著『裏庭』等、大人も読める児童書は文庫になっていますが。

そんな中で私が文庫化を切望しているのがラルフ・イーザウ著『盗まれた記憶の博物館』。ファンタジーは好きで話題になった本は読んでいると思いますが、ここ数年読んだ中で一番良い!のがこの本。ハリポタ・ブームでファンタジー本は本当に多く出版されていますが、読んでいてRPGゲームを文字で追っているような物語が多い中で、『盗まれた~』は本当に昔ながらのファンタジーの良さと現代文化を上手くミックスした、素敵な物語になっていると思います。

イーザウの本は『ネシャン・サーガ』がハリポタと同じく携帯版が出版されているので、『盗まれた~』もそのうち携帯版が出版されるのでは無いかと期待しているのですが…。書庫があればハードカバーでも迷い無く買うのに───!!

ちなみにハリー・ポッターシリーズは邦訳全巻ハードカバーで持ってます。携帯版が出た時はちょっと悔しかったなり。
むだに過ごしたときの島 シルヴァーナ・ガンドルフィ 世界文化社

ジュリアはアリアンナと一緒に、鉱山での見学の授業をこっそりと抜け出した。抜け出した直後に二人が見付けたのは親からはぐれたコウモリの雛。コウモリを親の元に返そうと言うアリアンナと別行動を取ったジュリアは、やがて一人歩いている内に坑道で道に迷ってしまう。

迷子になってことに気付いたその時、突然ジュリアは身体が軽くなって、宙に浮き上がるような感覚を憶える。暗闇から強烈な光の中へすっ飛ばされたジュリアは、自分が不思議な島にたどり着いた事に気付く。

島に訪れる事ができるのが“自分が迷子になった事を自覚した人物だけ”。迷っていても迷った事に気付かない人は訪れる事は出来ない。そして、その島自体が現世で人々が失くした物や時間が集まって出来た島。

怠け者、のらくら者、詩人などがなくした時間が流れているため、島での時間はとてもゆっくりしたものになっている。傘や新聞、現世で人々がなくしたものが沢山流れ着くけれど、そうしたなくしもので自分達に必要なさそうなものを、島に居着いている子供達は片っ端からその火山島に空いたクレバスに投げ込んでしまう。そうするとその物は持ち主の元に戻ることになる。

この物語が面白かったのは、現実世界で人々がなくしたものが単純に流れ着く暢気な島というだけでは無いというところにあります。現実世界の各国は一つずつ〈むだに過ごしたときの島〉を持ち、フランスにはフランスの、日本には日本の島がある。そして島は火山島でその火山からは色鮮やかな火山礫と、島にある岩の間だから吹き出す黒い煙とがある。

色とりどりの火山礫は現実世界で人々が失った希望や勇気、忍耐力といったもの。それらの火山礫を身体に擦り込むと、島の人々は勇気や希望が身体に満ちていくのを感じる。逆に黒い煙は“自分から何かをはじめようという気がないために、人々が無駄にしてしまう時間”であり、その黒い煙は島の住人から逆に気力を奪ってしまう。黒い煙ばかりが吹き出す島はやがて島自体が崩壊してしまう事になる。

この物語は児童文学に区分されるべきものですが、読んでみて「無駄な時間って一体どんな時間なんだろう?」とあれこれ思いめぐらしてしまいました。私は暇さえあれば本ばかり読んでいる本の虫ですが、親に言わせると「部屋にこもって本ばかり読んでいるなんて、若いうちにはもっと他に出来ることがあるのでは無いか?」という事になってしまう。

同じ時間でも友人に言わせると「本を読むことで得るものがあるなら、別に無駄な時間にはならないのでは」ということになる。“無駄な時間”って視点次第で幾らでも変わってしまうものなのでは無いか、何に価値観を置くかによって変わってしまうものなんだな、と思います。

作品中では現実世界の人々が、有意義なむだな時を過ごす事が無くなり、世界各国の“むだに過ごしたときの島”が危機に瀕している、しかも最も深刻な危機に瀕しているのは日本の島だ、という設定になっています(笑)。

これが余りにも面白かったので、会社の同僚にちょっと話してみたら、案の定皆口を揃えて「確かにそうかも」と言っていました。確かに社会人になって以来、口を開けば「時間が無い」と言っている気がします。本書の冒頭に「ときを無意味にむだにするのでは無く、とてもよくむだにしている人たちみんなへ」というメッセージが書かれていますが、時間を“有意義にむだにする”過ごし方って一体どんな過ごし方なのでしょう?それを模索する為にも、私もしばらくの間〈むだに過ごしたときの島〉でとっておきのバカンスをとってみたいと読後しみじみと感じました。

「やらなければならない事が多すぎる!」と行き場の無い焦燥感に駆られている方に、是非是非読んで貰いたい素敵な一作です。
デイルマーク王国史 D.W.ジョーンズ 創元推理文庫

『ハウルの動く城』で日本でも一躍人気作家になったD.W.Hジョーンズの文庫最新刊。全4巻のシリーズ物で、現在1~3巻まで発売されています。

1・2・3巻はそれぞれ独自の物語で、時代・地域・主人公共に入れ替わっています(1と2は時代は重なりますが)。1巻は面白くて面白くて、それこそ貪るように読み終わり、2巻を手に取ってみたら…。あれ?主人公が違う??という感じで、本当に虚を衝かれました。1・2・3巻とも、4巻で全ての巻がまとまってのエンディングになるそうで、完全なる完結では無いのです。まったく、つくづく読み手を虜にするのが上手な方だな~と感じ入っています。

個人的には3巻「呪文の織り手」が一番好きかな。唯一女の子が主人公で、時代は1・2巻に比べてかなり遡ります。タイトルから察しが付くように、織物にしたためた言葉が呪文となり、現実となる。ただし、その呪文を現実世界に再現するにはちょっとしたコツがあって、そういう細部へのこだわりがジョーンズ独特の作風を作り上げています。

ジョーンズ作品は『ハウル』を始め、『クレストマンシー』シリーズ、『ダークホルム』シリーズと、異世界が繋がっているという展開の物がとても多いのですが、この『デイルマーク王国史』は本当に独自の世界を保っていて、『ゲド戦記』に近い、かなり神話的な雰囲気の物に仕上がっているという印象を受けました。

それでも実社会への風刺とも取れる箇所、大人も楽しめるブラックユーモアに富むという個性は健在。4巻の発売日はまだちょっと調べがつきませんが、また一つ「発売が楽しみな作品」が増えて、ちょっと幸せ気分に浸っています。
先週の「ニューズウィーク」誌をパラパラと見ていたところ、とある記事に目が止まりました。「『ハウル』生みの親が語る秘密」。ハウルの生みの親!D.W.ジョーンズその人!!と、早速ページをめくったところ、思いがけない著者の感想を目にすることが出来ました。

ちなみに私、『ハウルの動く城』は楽しみで楽しみで一般公開まで待てるか!とばかりに先行ロードショーで観に行って来たのですが、感想としては「ガッカリ」「原作のイメージぶち壊し」。
そんな印象最悪の映画としか考えていなかったので著者に映画の感想を聞くなんてマズイじゃないの?と思ったのですが。

「ハウルが原作の設定より若いのはさすが」から始まって、あちこちの映画感想掲示板では酷評されていた、主役のソフィーがおばあさんになったり少女になったりする展開にも完璧とのお言葉が。

この「動く城」シリーズは三部作らしいのですが、日本語訳が出ているのは第二部まで。映画を観た感想としては「魔法使いハウルと火の悪魔」「アブダラと魔法の絨毯」と宮崎監督独自のエッセンスを混ぜすぎた結果消化不良を起こしそうな失敗作という印象しかありませんでした。でも原作者にここまで誉められてしまうと逆に「私はちゃんと原作を読み込めて無かったの?」という不安すら感じてしまいます。

元々「ハウル」原作には、それ程大きな反戦メッセージって含まれていないと思います。反戦イメージが強くなるのは「アブダラ」からですから。荒れ地の魔女と戦っているようで、実は彼女の火の悪魔こそが真の敵だった、という物語のからくりも絶品だし、カルシファーからハウルの心臓を取り出すのが何故ソフィーでなければならなかったかも、映画では説明不足。不満は挙げればきりが無いのですが、「ハウル」とか「アブダラ」といったジョーンズ作品を通して貫かれている“大人が読んでも十分楽しめる社会風刺・ブラックユーモア”を突き詰めた結果、ああいう映画になったのかしら…、と何だか頭が混乱して。

このD.W.ジョーンズ、私はハリー・ポッターの友の会で紹介されて好きになった作家なのですが、ハリポタシリーズがジョーンズの「大魔法使いクレストマンシー」シリーズと似ているのが遺憾だと、ジョーンズ自身が述べた事があるとか。ジョーンズはハリー・ポッターよりピリリとしたスパイスが効いた、大人向けのファンタジーが多いように思えます。今読んでいるのもジョーンズの「デイルマーク王国史」だし(ただ今2巻)。私が一番好きなのは「九年目の魔法」。この本もいつか紹介したいな~。

日本にもダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンリングがあります。
暁の円卓2 情熱の歳月 ラルフ・イーザウ著 長崎出版

“世紀の子”として生まれたデービッド・キャムデンは両親の死後、自らの年齢を偽り従軍。第一次世界大戦でドイツ軍と戦い、瀕死の重傷を負う……。
こんなスリリングな展開で幕を閉じた第1巻の続編。

日本生まれのイギリスの伯爵は2巻が始まった当初まだ若干18歳。命を救ってくれたユダヤ人の娘レベッカ・ローゼンバウムや、レベッカを救う為に命を奪ったドイツ兵、ヨハネス・ノギエルスキー等により、自暴自棄だった生き方を次第に変えていきます。

なんと言ってもこの第二巻で嬉しかったのは、オックスフォード大学在籍中のデービッドが大学教授になりたてホヤホヤのトールキンと語り合うシーンでしょう!私で無くとも指輪物語ファンなら驚喜するはず!第1巻でデービッドの父が「暁の円卓」の会合に遭遇してしまった時にも感じましたが、とかくこのベリアル卿とネグロマネス、トーヤマは設定が『指輪物語』のサウロンと指輪の幽鬼、一つの指輪と九つの指輪の関係と似ているんです。作中に著者であるトールキン本人まで登場させてしまうラルフ・イーザウは勿論『指輪物語』のファンなのだろうし、だとしたら絶対にデービッドと暁の円卓の戦いをフロドと指輪の戦いの模倣はさせないはず!ラルフ・イーザウが描く「20世紀地球版・指輪を巡る旅」が今後どうなるか、本当に楽しみです。

この物語は20世紀に起こった様々な出来事、特に人々を震撼させるような戦争や残虐行為を作者独自の「暁の円卓」による、人類の意識操作によって起こったと位置づけることで展開しています。ファンタジーとも言えるけれど、壮大な20世紀の歴史絵巻を読んでいるような気持ちにも陥ります。似たような設定で田中芳樹の『創竜伝』に登場する“フォー・システーズ”を思い出してしまいますが、現代の世の中は様々な人が「これ程悲惨な出来事を起こすのは、何か絶対的な悪による意識操作が行われているのでは」と考えるほど、嘆かわしいものなのでしょう。

第一巻の巻末の解説に「日本で起こったあるテロ(恐らく地下鉄サリン事件)」がきっかけで書く事にしたというこの物語、本当に日本の事が詳しく書かれていて、それも日本人としては嬉しいところ。ただ、ドイツ人である著者が日本に生まれて20数年経過している自分よりも余程日本文化に精通しているのを読んでいると、何だか恥ずかしくなってしまいます。特に印象的だったのが「ニッポン語は、人をとまどわせるにはとてもよくできた言葉だといえる。肯定とも否定ともとれるあいまいな表現をするのに都合よくできている。」というもの。よく「一を聞いて十を知る」とは言いますが、日本語は一つの言葉に無数の意味を込め、それを聞いた人がどのように解釈するかを相手に委ねるという特性に、ラルフ・イーザウは感嘆しているように思えました。

前巻に続き、昭和天皇の事をかなり好意的に描いていますが(なんと言っても昭和天皇が主人公・デービッドの親友という設定ですし)、3巻以降に突入すると思われる第二次世界大戦と太平洋戦争、ドイツの作家から見た昭和天皇の苦悩と日本の戦争体験がどのような視点で語られるのか、興味深く読み進めていきたいな、と3巻を読むのが今から楽しみで仕方ありません。

この本はラルフ・イーザウの別の著書とも繋がるシーンがこぼれ落ちています。私は解説を読むまで気付かなかったのですが、2巻では代表作『ネシャン・サーガ』に通じるシーンが密かに挿入されています。こういう小気味良い技巧も、本好きにはたまらないサービスですね。

オレンジガール

「オレンジ・ガール」の中で、11年前に死んだ父親は成長した息子に向かってある問いを発しています。その質問を読んだ瞬間、芥川龍之介の「河童」を思い出しました。テーマとしては同じ流れを汲んでいる作品なのでしょう。そして私はこの少年に対してなされたのと同じ質問を突きつけられたら、一体何と答えるだろうと深く考えさせられました。

今の人生が楽しくて仕方ないという訳では無いけれど、これまでに経験した人々との出会い、巡り会った本や映画、手塩にかけて育てた花が開く瞬間に覚える感動などを体験することが無かったと考えるのは耐え難い。けれど、私は今、終わりの無い人生を授かりたいとは思っていない。まだ小学生の頃は自分がいつか死ぬという現実が恐くて、いつか家族との永遠の別れが来るという事実が恐ろしくて毎夜忠実に神様にお祈りしていた事もある。突然の不慮の事故から私や私の家族をお守り下さい、と。まるでクリスチャンであるかのように。実際に祈っていた相手は神か仏か、それとも全然異なる自分だけのオリジナル神様だったのかは分からないけれど、今ではその当時抱いていた死に対する恐怖心は薄らいでしまっています。

多分、実際に不治の病にでも冒されれば、私はこの物語の父親のように生に執着するのでしょう。でも今は、死は精一杯人生という競争の場を走り抜いた後に来る、休息の場では無いかと達観している面があります。毎日あれこれ追い立てられて、疲れているから死という名の二度と目覚める事の無い眠りにある意味安らぎすら感じる事があるのです。

別に私は死にたいと言っている訳ではありません。やりたい事なら今でも沢山あるし、中には「これをするまでは死ねない」というものだってある。けれど私は幼かった頃のように死を突如として全てを奪い去る、禍々しい物だとは認識していません。少なくとも今の時点では。だから私は本の中で投げかけられている質問に対する答えを求められれば、少年と同じ結論を出すに違いないとの結論を出しました。

「オレンジ・ガール」を読み終えたあとで、月光の第二楽章ってどんな曲だったっけ?と家に帰ってから久々にベートーヴェンのCDを聴きました。第一楽章と第三楽章のインパクトは強いけれど、第二楽章のメロディーを思い出すことが出来なかったから。聴いて納得。確かにこれは“二つの奈落の間に咲く一輪の花”かも。今晩のアロマオイルは自然とスィートオレンジになりました。