駒ヶ根はオアシスだ。

TJARの全コース中、最後の静岡駅周辺を除けば最もお店が揃っている場所で、コンビニ、レストラン、ファミレスにお風呂、コインランドリーまで、何でもある。

北アルプスと中央アルプスを越え、これから長大な南アルプスに向かおうというタイミングで現れるのもナイスだ。

中央アルプスを登っている時は「とりあえず駒ヶ根まで行こう」という希望になるし、駒ヶ根でしっかり補給できれば「南アルプスも頑張ろう」という励みにもなると思う。


それに加えて、選考会が行われた場所であることから、地理的に明るいことも大きい。

私は選考会前の下見と選考会、本大会前の試走を合わせると今シーズンだけで5回は走っていたので、ちょっとしたホームコースの様な感覚すらあった。

勿論、本大会ではそのどれよりもボロボロな状態で走ることになった訳だけれど、見慣れた街並み、走りなれた道を走るという感覚だけでも、気持ち的にはかなり救われたと思う。

やはり、試走は大事だ。



駒ヶ根高原から駒ヶ根駅に向かって下りていくと、お店も段々増えてくる。

駒ヶ根の名物と言えばソースカツ丼だと思うけれど、レース中、特に今回の様に暑くて胃腸が弱っている時に食べるにはちょっと重い。

出来るだけ食べやすく、かつ注文してすぐに食べられる物を、と考えていくと、コンビニだろうという結論に落ち着いた。

駒ヶ根駅を越えた先にあるファミリーマートには店内に休憩スペースがあり、涼しい店内で休憩しながら食事を出来る。

事前の下見でそれもチェック済みだったので、迷わずファミリーマートを目指した。



何を食べようか考えながらコンビニを目指して走っていると、道路沿いのお土産屋さんの前に設置されているソフトクリームのディスプレイが目に留まった。

美味しそうだ。。。

頭で考えるよりも先に身体が動き、気がつくとブルーベリーのパフェとカフェオレ、マンゴーのすりおろしジュースを注文していた。


これから食事をしようというのにデザートを先に食べてしまうのはどうだろう、と思ったけれど、一口食べるとこの世の物とは思えないほど美味しくて、余計なことは一切忘れて冷たいデザートに熱中した。

ベンチに座ってスイーツを貪っているところを、NHKのスタッフが撮影に来た。

なぜだか凄く嬉しそうにあれこれ質問されて、ちょっと恥ずかしかった。


質問の内容はあまり良く覚えていないけれど、紺野さんが中央アルプスを下りて元気そうに進んでいることを聞いて嬉しかったことは覚えている。

紺野さんを抜こうとは思わないのか、と聞かれて、その質問には「それはありません」と答えた。

やっぱり望月さんや紺野さんはちょっと特別で、その領域には自分は達していないと感じていたし、それ以前に、私は今回のレースでは自分のベストを出し切ることにのみ集中したいと思っていた。

他の誰かに勝とうとか、何位以内に入ろうとか、そんな思考は邪魔になるだけだ。


でも、それを聞いた取材スタッフは腑に落ちない様子だった。

その辺りの考え方が上手く伝わらないのは仕方がないと思うし、そんなことはもう慣れっこだったけれど、話が噛み合わないチグハグなその感じは自分が嘘つきだと思われている様な居心地の悪さがあって、
(やっぱりこういうのは苦手だな)
と思った。

相手のことを理解しようとせず、自分で勝手に描いたイメージを相手に投影したり、用意した既定路線に沿ったやりとりしかしようとしない人との会話は、精神的に凄く疲れる。

ただでさえ心身ともに疲れているレース中のそれは、本当に苦痛だった。



スイーツ休憩を終えてコンビニまで走り、パスタと牛乳、麻婆豆腐を食べて、夜食用にサンドイッチを買って市野瀬に向かった。


南アルプスに向かって、東へ、東へと走り、天竜川を越えると道は登り基調になる。

休憩してもあまり身体は回復した感じがしなくて、登り始めるとガクッとスピードが落ち、少し傾斜が急になると走れなくなって歩いてしまった。

やはり選考会の時のようにはいかない。

当然、それは分かっていたけれど、想定以上に身体のダメージは大きかった。


焦らずに、走れるところはしっかり走り、走れないところは無理せずに歩き、大きくペースダウンしないように気をつけながら進んだ。

道の途中途中で応援してくれる人がいたり、通り過ぎる車から声を掛けてくれる人もいたのに、余裕がなくて上手く応えることが出来なかった。

とにかく前に進む事に必死で、それだけで精一杯だった。



山が近づいて来ると段々と建物が減り、傾斜の急な峠道になる。

歩いている人もいないし、車の通りも殆どない。

時折風が草木を揺らす音が聞こえる他は、自分の呼吸音くらいしか聞こえなくて、途中で夕暮れを迎えて徐々に辺りが暗くなっていくと、酷く心細く、寂しく感じられた。

すっかり暗くなった峠道を黙々と登り、中沢峠を越えるとその先は下りが続く。

下りは重力に任せて何とか走り続け、チェックポイントの入野谷まで何とか辿り着いた。



【CP18:市野瀬/入野谷 着 8月9日(3日目)20:28】

入野谷の地下駐車場で到着のチェックを受けた。

紺野さんが仮眠中、朽見さんが入浴中で、望月さんは既に出発した後だった。

私の到着で目を覚ましてしまった紺野さんに挨拶してから、私はデポしていた荷物から着替えを取り出してお風呂に行った。

当初の計画ではお風呂には入らず、ボディシートで身体を拭くだけにして、最低限の食事と睡眠を取ってすぐに出発する予定だったけれど、身体のダメージが想定以上に大きかった為、入野谷でしっかり身体を休めてから南アルプスに向かうことにした。


脱衣所に入ると、ちょうど朽見さんが入浴を終えて出てくるところだった。

腸脛靭帯を痛めてしまったので長めに睡眠を取ってから出発する、と言う朽見さんに、私も長めに休んでから出発することを伝えた。

朽見さんの表情にはまだ余裕があるように見えたので、この時はそれほど深刻には考えなかった。


身体を洗い、温浴と冷浴を繰り返しながら、マッサージとストレッチをした。

お風呂の効果はやっぱり凄い。

身体が芯から温まり、ガチガチに硬くなった筋肉もすっかり柔らかくなって、また元気に走れるような気がして来た。


入浴後、デポしておいた食料で食事をしながら、出発準備をした。

地図と計画表の交換、ヘッドライトの電池交換、行動食の補充、スマホの充電、テーピングの張り直し、脚のアイシングなど、やることは色々ある。

レース中の疲れた頭で一つ一つ思い出しながら準備するのは大変だし、何か忘れてしまったり、忘れてなくても忘れているんじゃないかと不安になるような気がしたので、デポする荷物の中に仮眠前と仮眠後にやるべきことを書いたメモを入れておいた。

おかげで、準備を迷い無くスムーズに進めることが出来たし、やり忘れたことが無いか不安になることもなかった。

ビビリな性格も、こういう場面では役に立つ。

備えあれば憂いなし、だ。



一通り準備を終えると、コンクリートの上に敷かれたブルーシートの上にマットを敷き、着込めるだけ着込んでビヴィに入って眠りに着いた。


途中で何度か起きて、トイレにいった。

お腹の調子が悪くて、下痢気味だった。

標高は低いし、気温もそれほど低くないけれど、胃腸の調子があまり良くない。

山中の露営と比較したら全然眠り易い環境のはずなのに、入野谷での仮眠がレース中では一番上手くいかなくて、それが次の日になって尾を引くことになった。

途中で石田さんが到着して、少しだけ話をしてからまた横になったけれど、私はあまり良く寝付けなくて、すぐに寝息をたてている石田さんが凄く羨ましかった。



結局、浅い眠りの中で寝たり醒めたりを繰り返しながら、起床予定時刻の2時を迎えた。


起き上がろうとするとあり得ないくらいに身体が重くて、まるで背中が地面にべったりと張り付いてしまったみたいに身動きがとれなかった。

それなら、と寝返りをしようとすると、それは何とか出来そうだった。

ごろ、と左に転がると、背中が地面を離れる瞬間に、「べりっ」っと音が聞こえた様な気がした。

ごろごろ、ごろごろと、ミノ虫の様にビヴィにくるまったまま、右へ左へと寝返りを続けた。

転がっていると、身体が少しずつ重力から開放されて軽くなっていく様な気がした。


だいぶ身体が軽くなったと思えたところで、

「いっせーの、」

と心の中で掛け声を掛けて、お腹に力を溜めていざ起きようとしたけれど、
「せっ」と同時に力が抜けて上手く起き上がれなかった。

頭も重たくて、なんだかぼーっとする。

ミノ虫状態のまま、そこから腕だけ生やして、枕元に用意してあったお粥とサンドイッチを食べた。

食べると胃の中がじんわりと温かくなって、少しだけ元気が出た。



石田さんと朽見さんがまだ寝ていたので、静かに出発準備をした。

これから、長大な南アルプスに入る。

そして、南アルプスを越えれば、いよいよゴールが見えてくる。


この時になって初めて、ゴールを意識した。

これまで快調に進んでいるようでも、常に完走できるか不安でいっぱいだった。

あまりにも先が長過ぎたし、身体のダメージも想定以上に大きくて、ゴールのイメージはずっと曖昧だった。

でも、南アルプスを目前にした時、やっと自分の頭の中で完走までのイメージが現実的に出来上がった気がした。

きっとゴール出来る。

そう思うと、興奮で手が奮えた。



準備を終えて出発のチェックを受けた。

紺野さんは既に出発していて姿がなかったけれど、何時に出発したのかは分からない。

出発記録を確認すれば分かっただろうけど、追うつもりはなかったので確認しなかった。


レース中、追いつくことがあればそれで良いし、背中を見ることが出来なくてもそれで良い。

自分にとって大事なのは、自分のレースをしっかりやり切ることだ。



前回大会で落選してからの2年間、ずっと考え続けていたことがある。

それは、
『もし、前回大会に出場することが出来ていたら、自分は今、どうなっていただろう』
ということだ。


勝負の世界で、「もし」とか「たら」「れば」を口にするのは、愚の骨頂だ。

でも、それが分かっていても、私はいつも、何度もそのことを考えては、現実には存在し得ない自分の姿を想像した。


レースの結果は、分からない。

思うような結果が出せなくて悔しい思いをしたかもしれないし、完走すら出来なくて自分に絶望していたかもしれない。

でも、挑戦することすら許されなかった今の自分よりは遥かにマシで、きっとその経験を糧にして、今よりもずっと、ずっと前に、力強く進んでいるに違いないと思った。

私は、自分の遥か先を行くその見えない背中を思い描き、何度も歯噛みして、唇を噛んだ。


悔しい

負けたくない


それが運命だったと言うのなら、その運命に心折られそうになる現状の弱い自分に負けたくなかったし、想像の世界で順調に遥か先を行っているはずの自分には、もっと負けたくなかった。


前回大会で落選したことは、何をどうしたって『良い経験だった』なんて思えない。

それは、今回の大会を終えた今でも変わらないし、これから先だって、絶対に変わらないと思う。


でも、この2年を全くムダなものにはしたくなかった。

単に遠回りしただけの2年間にしてしまったら、それこそ自分の敗北だと思った。



勝ちたい。

想像の世界で自分の遥か先を行く自分を、越えたいと思った。


その為には、2年前の自分では絶対に辿り着けるはずが無いくらいに、圧倒的に強くなるしかないと思った。


自分にとって今回のTJARは、それを証明するためのレースだ。

競う相手は、他の選手じゃなく、自分自身。

弱い自分の心を克服し、自分自身を越えるためのレースだ。



何度も挫けそうになり、諦めそうになった。

でも、ここまで来た。



2年間追い続けた背中を越える為に、自分はゴールを目指すんだ。