2016.8.2

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 もう1週間!!

やまゆり園の大量殺人事件から。

 

 ありえないでしょ、そんなこと、と最初に聞いた時、言った、というか叫んだ。

ネットは当然やってないし(だからデマとも無関係)、TVも見ないし(ヤラセとも無関係)、地震でもなければ朝はラジオもつけない当方。

施設に暮らしていて、世間サマに迷惑かけようもない人たちを、ありえないよ、そんなこと、が信じられない理由の主たるものだった。

 

 実は、峠工房から転園入園した人がいる。

1985年のこと。

本来なら峠工房で受け入れるような状態の人ではなかった。

自宅以外の社会を全く知らず、重度らしいが障害の重さもよくわからないその人、ここへ入園した時は38歳。

つてを頼って峠へ依頼に来た母親は、「ここで断られたら、もうあてはない。神奈川内はおろか、遠い地方の施設へも行ったが、全て受け入れを断られたから」と、たった1本のわらをつかむ様子だった。

 

 なんとかしてあげたくても、迷わざるを得ない。

相当な決心と覚悟を持って受け入れることにした。

見捨てられなかった。

1980年のことである。

 

 社会性はもちろんのこと、家庭内での自立性もゼロ。

でも行き場のない彼を、これから世の中で生きて行けるようにするためには、相当厳しい訓練が必要であることを納得してもらった上で、月曜朝連れて来て、土曜夕方迎えに来てもらう生活スタート。

 

 大変な人を引き受けちゃった、と公開したこと多々。

 

 親は、今まで自分が片時もはなれることなく、常に何でもやってあげていたから、1週間よそへ宿泊する生活を、心から危ぶんでいた。

それで面白いことが。

初めての1週間、「どんなに自分を恋しがっていることか」と迎えに来た母に彼は、他人を見るような態度で接した。

そして第一声、「ごはんホシイ」「あついお茶」

 

 私たちは笑いころげてしまったが、母の落胆たるや見るも哀れ。

でもそれでふっ切れたのだ。

 

 それから5年、思いがけずやまゆり園と言う所の面接をうけないか、と福祉事務所から声がかかり、それこそ望むことだったので、彼はやまゆり園に移った。

その間のスッタモンダ(役所との)は、「萌」25号に書いた。

2010年に、わがスタッフが見学に出向いたのを機に、「萌」95号にも再録してあるので、興味ある人にはお送りしても良いと思っている。

 

 で、その彼は今回無事だったと交流のあった職員さんが教えてくれた。

 

 この事件を防げなかったのはなぜか、とか園の責任とか、また私の嫌いなネットの書き込みに障害者をあんな山奥に収容するなど人権問題だと書き込みがあると聞くと、ああ、またバカ増殖中と腹が立つ。

何も知らないで、バーカ!!

 

 やまゆり園は入所者への対応も、地域との関係も良好だったし、今回の殺人犯の不穏な動きに対しての策も講じてもいる。

 

 施設の責任をウンヌンするよりも、尋常でない価値観の持ち主が、エライ議員様に、殺人計画を持って行き、1度は措置入院をさせたにも関わらず、野放し状態だった、ということが一番の問題だと思う。

治療が必要であり、見守り(監視)が必要な人物だったのだから。

一連のことが途切れたままになるようなシステム不備が問題だ。

人が殺されたから、何か改善されるのだろうが…。

 

 「どれだけ人が死ねば平和になるの…」という歌詞が、ボブ・ディランの「風に吹かれて」の和訳にあった。

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2016.7.3(日)

 7月の交流会(兼勉強会)実施。

 

 第2教室についての私の報告と、「トゥレット症候群」という発達障害の話。

ほとんど知られていない障害で、そして、私もこまかいことまでは知らなかったけれど。

 

 今回話していただいたのは、娘さんがこの障碍をもって、母娘ともどもとても苦労して来た、(今も大変な)福井さん。

 

 テレビで放映された映像なども用意してくれて、知っていた人にも、知らなかった人にも、とてもわかりやすかったと思う。

 

 話のあとのおしゃべりもとても有意義で、かつわかり合える親しみに満ちていたと感じた。

 

 様子や内容をYOUTUBEで流しているので、関心のある人は見て下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016.6.21(火)

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 新規教室開設のもやもやが、かたづいてから、怒涛の5月6月、ようやくめんどうな大切なことが2件相ついで決着した。

 

 

6月17日に、物件賃貸の正式契約。

これがまた大家さんの、なみなみならぬご好意で、不動産屋を介さず直接契約となった。

 

 第2教室(仮称)新規開設場所は、ここの町内に在住だった、地元の人が私費を投じて長年の夢を実現させた(であろう)郷土資料館の一階部分。

資料館は10年ぐらい閉鎖状態で、展示品数点が勝手に持ち出されてしまったとの話も人づてに聞いたけど、実際この目で確認した時には、「よくこれだけのものを集めたなぁ!!」と驚いた。

蔵書もすばらしく、これだけのものを死蔵するのはもったいない、と、われわれの手で再開しようと決めた。

大家さんも喜んでくれた。

 

 今まで「お国から見放されて?」いた峠工房としては、その枠内で事業を進めるのは、初心者でこれからよくわからないことが山ほどありそうな気もするし、恐るるに足らず、との気もする。

 

 何はともあれ、現峠工房はいつも通りに稼働中。

そして、新規開設の準備や地域への連携のための、資料館を使ったイベントなどを計画もしている。

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2016.5.3(火)

 私がもやもやして、腹立たしく感じていることを解決しなければと重い、M氏に手紙を書いた。

原因は、M氏の仲介に寄ってもたらされた、「峠工房で放課後デイサービスをやってほしい」という件。

 

 峠工房では「小・中学生放課後くらぶ」と「生活塾」が連動して、障害児、健常児(定型発達児)の別なく受け入れている。

2012年に制度としてはじまった放課後等デイサービスは、私たちから見れば、あまりにいいかげんで、営利目当ての(悪徳)業者が群がるのに好適なものだったから、金に目がくらんで峠がやるようなことではないと、はっきり区別して受け止めていた。

お金はほしいけどね。

それもたくさん。

 

 今回、信頼し峠工房のことをよく知っているM氏からの話であり、しかも開設(する場合の)物件は、同じ町内のよく知っているところ。

 

 行政の作った枠の中に入ると、今までやれていたことのかなりの部分がやれなくなる恐れがあり、NPOになるときに、担当者が苦労に苦労を重ね、役所と何回も話し合いを持ち、無認可でやってきたことの全てをもれなくやれるように届出してある。

だから峠工房が今までやって来た事を、今まで通りにやり続けられなければならないし、現利用者もそれを望んでいる。

 

 だから、提案受け入れの条件は、そのことに尽きる。

 

 協同で、事業を展開する相手との間に、誤解だとか、連絡不備とかが重なって、私は全く信用できなくなっていたから、それで信頼のおけるM氏にそれを伝え、指導力を発揮してもらいたい、と、でなければこの話はなかったことにしてもいい、と伝えたのだ。

 

 昨晩、M氏と協働相手と峠の担当スタッフで3者会談があり、私が疑念をもっていたことは、きとんと説明され、新規開設の主導的立場は峠工房に、ということが明確に話し合われたとのことで、少し安心してるところだ。