○ 一味・・・海に入れば皆同じになる ○


「 一味 」 とは、大小清濁どんな川の水も、


「 海 」 に入れば同じ「 一つの味 」になる、ということです。


富山湾には黒部川・神通川・常願寺川・小矢部川・庄川など、


多くの河川が流れ込んでいます。


しかし、どの川の水も、海に入ると同じ味になる。


ちょうどそのように、どんな人も、


阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、


一味平等の絶対の幸福に生かされることを、


「 本願海 」 と仰有っているのです。


『 正信偈 』 には、このことを分かりやすく、


「 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味 」


( 凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば


衆水の海に入りて一味なるがごとし )


“ 弥陀の本願に救い摂られたならば、


万川の水が海に入って一味になるように、


才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・


貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、


同じよろこびの世界に共生できるのだよ ”


と 教えられています。


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また、「 与韋提等獲三忍 」(韋提と等しく三忍を獲る)


“どんな人でも弥陀の誓願に救い摂られれば、



イダイケ夫人と等しく三忍(人生の目的成就)を体得できる”、



と 明言されているのも、いつの時代、どこの国に住む人も、

弥陀に救われたならば、一味平等の世界に生まれ出る、



と 言われたお言葉です。



お月さん



ここで、イダイケ夫人とは、約二千六百年前、



お釈迦さまの在世中、インドで最強を誇っていたマガダ国の王妃。



生んで育てた我が子によって牢屋に入れられ、七転八倒、



地獄の苦しみに悶えるイダイケが、お釈迦さまのご教導によって、



「弥陀の本願」に救い摂られたことが、『観無量寿経』に説かれています。


恨みと呪いの暗黒の人生が、たちまち、懺悔と感謝の光明の人生と


新生したイダイケは、地球上で最初に「弥陀の本願」に救われた人。


そのイダイケの名を聖人は、『正信偈』に挙げられて、


「 韋提と等しく三忍を獲る 」


“ 何十億の人がいても、


阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、


誰もが、韋提(イダイケ夫人)と等しくなれれのだよ ”


と 訴えておられるのです。


このように弥陀の救いは、時空を超えて一味であることを、


「 海 」 に例えて教えておられます。


つづく


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○ 深い・・・弥陀の慈悲は底なし ○


次に、とてつもなく「 深い 」ことも、海の特徴の一つです。


世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈には、


世界最高峰を誇るエベレスト山がそびえていますが、


それでも標高は約8800メートル。


対して世界最深のマリアナ海溝は、1万メートルを超えます。


エベレストを引っ繰り返して海に沈めても、


頂上は海底に届かないほどの深さです。

富士山


阿弥陀如来が、罪悪の深い私たちを見捨てられず、


ご本願を建ててくだされた底なしのお慈悲を、


海の深さになぞらえて「 本願海 」と言われているのです。



願力無窮にましませば


罪業深重もおもからず

仏智無辺にましませば


散乱放逸もすてられず


(正像末和讃)


と 言われている親鸞聖人の『ご和讃』も、


「 阿弥陀如来のお力には、限りがないから、


どんな極悪人も救い切ってくだされるのだ 」 と、


繰り返し仰有っているお言葉です。


カクテル


量り知れない悪業のかたまりの我々は、

阿弥陀如来の無限のお力によらなければ、絶対に救われません。


『 歎異抄 』には、


“ なぜ、悪人でも、本願を信じる一つで救われるのか ” といえば、


罪業深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします


“ 煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために


建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである ”


と 説かれ、


その本願に救い摂られた歓喜をこう告白されています。


ai ai



弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、


ひとえに親鸞一人が為なりけり、

されば若干の業をもちける身にてありけるを、


助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ


“ 弥陀が五劫という永い間、


熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、


よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を


助けんがためだったのだ ”


こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、


助けんと奮い立ってくだされた本願の、


なんと有り難く、かたじけないことなのか。


りんご リンゴ りんご


すべての人を、金輪際助からぬ極悪人と見抜かれた上で、



必ず絶対の幸福に救うと誓われている、弥陀の御心の底知れぬ深さが、



「 海 」 の一字で表わされています。



つづく

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○ 広い ・・・ 相手をえらばれず、なされたお約束 ○


言うまでもなく、


この地球上で最も 「 広い 」 ものは、「 海 」 です。


海岸や船の甲板から、はるか水平線を眺めると、


海の広さに圧倒されます。

それでも見えている範囲は、海全体のごく一部ですから、


まさに「海は広いな、大きいな」。


海と陸の割合は、およそ七対三。


ユーラシア・アフリカ・南北アメリカ大陸など合わせれば、


陸地も結構広そうですが、海はその倍以上の広さがあるのです。


ハワイ 海


「 本願 」 は、「 誓願 」とも言われ、約束のこと。


約束には必ず相手がある。


親鸞聖人が、「 弥陀の本願 」を広大な海に例えられたのは、


そのお約束の「 相手 」が、とても「 広い 」からです。


阿弥陀仏は約束の相手を、


「 十方衆生 」 と仰有っています。


「 十方 」 とは、東西南北上下四維の


十の方角のことで、仏教では大宇宙のことをいわれます。


大宇宙には、地球のようなものが無数に存在することは、


今日の天文学では常識になっています。


それは、ちょうど、


大空間にたくさんの塵芥が浮いているようなものですから、


仏教では、「 十方微塵世界 」とも言われます。


この大宇宙に生きとし生きるすべての人を


「 十方衆生 」 と言われているのです。

大日如来や薬師如来など他の仏方にも、


それぞれ「本願」があり、約束されているのですが、


「 十方衆生 」を相手に約束されている仏はおられません。


どの仏さまの本願も、


「 こんな人とだけ、約束する 」 と、相手が限定されています。


ところが本師本仏の阿弥陀仏だけは差別なく、


「 十方衆生 」 と約束されている。


弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばず(歎異抄)


親鸞聖人は、その「 弥陀の本願 」を


「 弘誓(ぐぜい) 」(弘い誓い)とか、


広い海に例えて 「 本願海 」 と讃嘆されているのです。


つづく

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