山 吹 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

現在、皇居となっている江戸城。

といっても、天守閣などは残っていませんが・・・今日は、この名城を築いた


 太田 道灌


の命日・没後530周年にあたります。


彼が江戸城を造ったことをご存知の方でも、どんな人物だったのか? と問われると、意外と答えられない方が多いのではないのではないでしょうか。


太田道灌(資長)は、室町時代の1431年、関東管領の一族・扇谷(おおぎがやつ)上杉家の有能な家宰(筆頭家老みたいなもの)であった、源氏の流れを汲む太田家・道真(資清)の子として生まれました。


幼少の頃から非常に優秀だったようで、父親はそのあまりの才気ぶりに、逆に我が子の将来を心配する程だったようです。

ある時、道真が15歳の道灌に〝驕る者は久しからずと対処して読み聞かせ諫めたところ、彼は2文字を加え〝驕らざる者も又久しからず〟と反論したため、道真が怒って扇子で息子を打ったとか・・・。

どうやら傲慢というか向こうっ気の強い一面があったようです。


幼少期から少年期にかけての道灌の動向は不詳ですが、25歳にして父から家督を相続すると、傍流だった主家・扇谷上杉家を家臣として支えました。


あの広大な江戸城を築いたとはいえ、彼は〝殿様〟ではなかったのです。


          太田道灌

             太田道灌像 伊勢原市 大慈寺・蔵


道灌は、房総方面の有力な武将であった千葉氏を抑えるため、両者の境界にあたる利根川流域を防護すべく、江戸城を築いたようです。

またそれだけではなく、江戸城の守護として日枝神社など現代でも残る多くの神社を江戸城周辺に造営しています。


江戸城が完成し、道灌が居を構えたのが1457年、弱冠26歳の時だったと伝えられています。


その後彼の活躍により、扇谷上杉家の勢力は増す一方となりましたが、やがて彼のあまりの有能ぶりに〝下克上〟を恐れた主君・上杉定正が企てたのか・・・道灌は文明18年7月26日(1486年8月25日)、招かれた定正の邸宅で風呂場から出たところをかつて父・道真に目をかけられていた曽我兵庫助に斬りつけられ、55歳の生涯を閉じました。 

〝過ぎたるは及ばざるが如し〟と言っては道灌に失礼ですが、優秀過ぎた部下の悲哀を感じざるを得ません。

死に際、彼は〝当方滅亡〟・・・すなわち私がいなくなった扇谷上杉家は滅ぼされる、と言い残したと伝えられます。

その予言(?)通り、同家は1546(天文15)年、北条早雲の孫・氏康の夜襲によって滅亡させられました。


(※この約1世紀後、豊臣秀吉に仕えた名軍師・黒田官兵衛は、主君・秀吉が自分の力量の高さを買い、「ワシの次に天下を取るのは官兵衛よ」と家臣に発言したことを聞くや、44歳で家督を譲り隠居してしまったのだそうな。

もしかしたら官兵衛は、この太田道灌の末路を知っていたのかもしれません。)


        

          【図説】太田道灌 (黒田基樹・著 戎光祥出版・刊)


道灌に関しては様々なエピソードが残されていますが、その中でも印象的なのは、世に言う 『山吹伝説』


ある日道灌が父・資清を訪ねて越生の地に来た際、突然の雨に遭い、農家で蓑を借りようと立ち寄ったところ、その時応対した娘が黙って一輪の山吹の花を差し出しました。


道灌は蓑を借りられず内心腹立たしかったのですが、後日家臣から


「それは後拾遺和歌集の 『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』 という兼明天皇の歌に掛けて、家が貧しく蓑(みの)ひとつ持っていないことを奥ゆかしく答えたのでしょう。」


と教わります。


自らの無知を恥じた道灌は、それ以後歌道に励んだとか。


こんな素直な心と謙虚さを身につけ、実のある人間になりたいものです。笑3



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