判 定 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

〝死〟とは、何か? 何をもって〝死〟とすべきか?

私にとって商売柄切っても切れない命題ですが・・・実はその定義に関しては国や地域、また時代によって様々。


例えば日本の場合、従来は呼吸・脈拍の停止および瞳孔散大の3要件を満たすことで医師は死亡の宣告をしていました。


その判定基準が変わったのが、今から29年前の今日・1988(昭和63)年1月12日のことでした。

日本医師会の生命倫理懇談会が

『脳の死による死の判定は、患者本人またはその家族の意思を尊重し、その同意を得て行うのが現状では適当である』


という最終報告書を羽田会長に提出・・・つまりは

 脳 死


を(条件付きながら)人の死として認定したのです。


これは政府の諮問機関・脳死臨調の【脳死=人の死】という答申に4年も先だっており、ある意味日本医学会において大きな転換点であったと言えましょう。


なぜこのような認定の変更が必要だったか?・・・それは、臓器移植と密接な関係がありました。

臓器移植をするためには出来る限り新鮮な臓器が必要ですが、従来の死亡判定基準だと心停止が絶対条件。

しかし心停止した後では臓器の劣化が著しく進行してしまい、移植の成功率は格段に落ちてしまいます。

従って臓器移植を積極的に行うためには、心停止より前段階かつ蘇生の可能性が低い脳死の時点をもって〝人の死〟と捉える必要があったのです。


         


臓器移植の臨床例は20世紀初頭からあり、1906年にはフランスのジャブレイ医師が羊や豚の腎臓を人間に移植する〝異種移植〟を行い、更に1936年にはウクライナのボロノイ医師が人間から人間への同種腎臓移植を試みました。


そして1967年には南アフリカのバーナード医師が世界初の心臓移植手術を行い、患者は18日間生存。

翌年施術した2人目の患者さんは9ヶ月も生存し、以後世界各国で心臓移植手術が行われるように。

しかし日本では1956年に新潟大学で初の腎臓移植が行われ、更に1968年には北大の和田教授が初の心臓移植手術を行なったものの、その際ドナーの死亡判定を巡っては法廷闘争にまで発展し、それ以降臓器移植手術はタブー視されてしまいます。

これには日本人の死に対する観念が諸外国と違う点も大きく影響していたと思いますが、故に医学界としては移植手術を再開させるためにはどうしても〝脳死〟の明確な定義づけを行う必要があったのでしょう。


この最終報告を受け、1997年には臓器移植法が施行されたことで日本での臓器移植は再び行われるようになりましたが、それでもその数はアメリカ等に比べてかなり少ないのが実態。

現在 厚生労働省が定める脳死判定の基準では

①器質的脳障害により深昏睡及び無呼吸を来している
②原疾患が確実に診断されている
③現在行いうる全ての適切な治療をもってしても回復の可能性が全くない


以上3つの要件を全て満たしており、かつ急性薬物中毒患者などという除外条件に抵触しないドナーの


 1.深昏睡
 2.両側瞳孔径4mm以上、瞳孔固定

 3.脳幹反射の消失(以下7つ全てを確認)

   対光・対角膜・毛様脊髄・眼球頭・前庭・咽頭・咳の各反射
 4.平坦脳波→聴性脳幹誘発反応の消失

 5.自発呼吸の消失

を全て確認して初めて法的脳死と判定されるそうですから、かなり適合するケースが少ないことは、医学の知識のない私にも分かります。


そして症例数が少ない最も大きな要因は、ドナー登録数が絶対的に少ないことがあげられましょう。

 

そこにも、日本人の宗教観・死生観が大きく影響していると思われます。

「たとえ脳死と判定されても、肉体はまだ生きている」 と主張する方もいらっしゃるでしょうし、「臓器移植したら、来世で健常者になれない」 と信じる方も。

これらはあくまでも個人の思想ですので、他人は否定できません。

また現時点において、日本の法律では脳死を〝個体死〟と明記している条文はありませんし・・・。

ただ一方では、提供した臓器が他人の体内で生き続けることで 「生命は死滅しない」 という考え方もあります。

更に言うなら、脳死を認めないと今後ますます高齢化社会となる我が国において〝尊厳死〟が認められないという事にも繋がります。


どう考えるかは人それぞれですが・・・もし臓器提供に同意される方がいらっしゃいましたら、日本臓器移植ネットワークHPを通じてインターネットで意思登録をするか、もしくは意思表示カード・シール、健康保険証・運転免許証の意思表示欄などで示すことができます。


また家族にご自身の意志を伝えておくことも大切でしょう。

人工呼吸器の開発など医学の進歩によって寿命は延びた反面、生死の境界線が複雑化しているのは、何とも皮肉。

とはいえ、死は誰にもいつか必ず訪れます。

21世紀に生きる私たちは、臓器移植や尊厳死についてしっかり向き合うべきでしょう。


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