ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

  

    


           是非ご覧下さい! 


     URL : http://www.warmheart.jp


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      TEL : 03-5399-7123


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            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


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            ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


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3日連続で、〝学校で教えない史実〟のご紹介です。

 

1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国側に通達、実質的に無条件降伏し武装解除を行いました。

 

これに対し米・英軍は即座に戦闘行為を停止しましたが、ソ連軍はそれを無視して樺太等に侵攻、多くの日本人を虐殺したのです。

その一例が、一昨日記事にした 『真岡郵便電信局事件』 ですが、もうひとつ・・・その翌々日・8月22日、更に非人道的な殺戮を行いました。 それは、


 三船殉難事件

 

当時日本領だった樺太には大勢の日本人がいましたが、大津樺太庁長官はソ連軍からの攻撃を避けるため婦女子・高齢者を優先的に本土へ送還させる命令を下し、船を手配。

 

まず始めに8月20日、逓信省の海底ケーブル敷設船の小笠原丸が約1,500名を乗せ大泊(コルサコフ)を出港。

 

          

 

一旦無事稚内に到着し約800名は下船したものの、そこから小樽港に向かう途中・・・8月22日午前4時20分頃に潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。

 

生存者は僅か61名、死者は638名にのぼりました。

 

       

                    小 笠 原 丸

 

次に同日午前5時13分頃、引揚者約3,400名を大泊で乗せた特設砲艦・第ニ新興丸が留萌沖で潜水艦から魚雷攻撃を受け船体右舷に穴が開き、更に浮上した2隻の潜水艦から銃撃を受けます。


白旗を上げて停戦した第二新興丸も、やむなく応戦。 潜水艦1隻が被弾し潜航したものの、大量の重油が海上を覆ったとか。


損傷を受けた第二新興丸は、何とか留萌港に寄港。

 

しかし船内で229名の死亡が確認され、行方不明者を合わせると約400名がその攻撃で犠牲になったと思われます。

 

     

                                       第二新興丸

 

そして同日午前9時52分頃、同様に大泊から引揚者を乗せて小樽へ向っていた貨物船・泰東丸が留萌沖で浮上した潜水艦の砲撃を受けます。


同船は武装していなかったため白旗を掲げたものの潜水艦はそれを無視して砲撃を続け、遂に同船は沈没。

 

乗員・乗客780名中、667名が死亡しました。

 

      

                   泰 東 丸

 

当時は混乱していて乗客名簿がなかったため、実質的には1,700名以上の一般人が犠牲になったと言われている大惨事でした。


2007年にサハリン州公文書館から公開された資料によれば、ソ連軍は樺太と北海道北部を占領するため留萌への上陸作戦を計画し、その偵察のため2隻の潜水艦を出していたとのこと。

 

その潜水艦が3船を攻撃、うち2隻を撃沈したと記録され、一方で潜水艦1隻が機雷により沈没・乗員全員死亡とも記されているとのこと。

 

これはどう考えても日本の引き上げ船への攻撃と、第二新興丸からの反撃による沈没だと思われますが、ソ連がこれを認めていないため公式には潜水艦は〝国籍不明〟となっています。

 

それなのに同国は帰還した潜水艦の乗員全員、更には近年沈没した潜水艦の乗員にも勲章を授与しているのですから、呆れるばかり。

 

無条件降伏を認め武装解除し、更には白旗を掲げた相手を領土獲得のため一方的に攻撃し、その事実を認めない・・・これがロシア人のやり方なのです。

 

こういう性質を持つ相手と外交交渉をする時、〝誠意〟 とか 〝正直〟 など全く通用しないことを前提としなければなりません。

北方領土問題を含め毅然とした態度で対応・解決しなければ、北の海に散った数多くの同胞が浮かばれません。うー

 

 

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第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年2月初旬、クリミア半島のヤルタで、米大統領ルーズベルト・英首相チャーチル・ソ連首相スターリンが集まり3ヶ国首脳会談が行われました。

その際ルーズベルトは、ソ連による
千島列島・南樺太の領有を認めることを条件に、日ソ中立条約を破棄して対日参戦するようスターリンに促します。

これが所謂〝ヤルタ密約〟ですが・・・実は狡猾・貪欲なスターリンは、終戦直後に北方4島を含む千島列島全島の領有だけでなく、日本のシベリア出兵に対する代償という口実で北海道の半分を要求してきたのです。

実際にはスターリンは北海道全てを占領すべく、アメリカの制止を無視してサハリン南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるよう極東軍事最高司令官に準備指令を出していました。

しかし幸いにも北海道にソ連軍が上陸することはなく、北海道は日本の領土となっていますが・・・このウラには、教科書には載っていない日本軍人の決断と奮闘がありました。

終戦直後の8月18日から始まり、72年前の今日・8月21日に終結した


 占守島の戦い

が、それです。

占守島は、カムチャツカ半島の南端から約10km離れた千島列島の最北端に位置する、(東京23区の約6割にあたる)面積約388㎢という比較的小さな島。

 

    

                占守島(赤↑の先)


ここに駐留していた日本軍はポツダム宣言受諾を受けて武装解除中でしたが、そこに8月18日未明、ソ連軍が突然対岸のカムチャツカ半島から砲撃を開始、更に竹田浜から上陸してきたのです。

 

    


その時、第5方面軍司令長官兼北部郡管区司令官として北海道にいた樋口季一郎中将(1888-1970)は熟慮の末、戦闘行為を禁じていた大本営の指示に従わず、現地部隊に反撃を命令。

       

 

上陸用舟艇16隻など計54隻の艦船と8,300人余りの兵力を有し、1日で占守島を占拠して千島列島を南下する計画だったソ連軍に徹底抗戦し、足止めさせました。
 

結局ソ連軍は上陸地点にくぎ付けとなったまま、戦闘は日本軍が降伏した8月21日に終結。

しかし日本軍の戦死者約1,000名に対し、ソ連軍は1,500~3,000名で、戦況は日本軍有利だったといわれています。

その後同月27日までに抵抗することなく武装解除に応じた日本兵は、10月にソ連船に乗せられシベリアに抑留されることに。


もしソ連軍が占守島に上陸した際に抵抗しなければ、ソ連軍がそのままの勢いで南下し、アメリカ軍が駐留する前に北海道に上陸・・・現在の日本は朝鮮半島のように分断されていた可能性は十分にありました。

最近の世論調査では、「もし侵略されたら戦わずして逃げる」 と答える10・20代の日本人が少なからずいるようですが、そういう若者には是非この史実を教え、今私たちが平和な暮らしが出来るのは、先人の奮闘と犠牲の上に成り立っていることを知らしめるべきでしょう。

 

       

            現在も占守島に遺されている戦車


【余 話】

樋口中将はその後、抵抗されたことを根に持ったスターリンによって極東軍事裁判で戦犯に指名されました。

しかし彼はハルビン特務機関長だった1938年3月に、ナチスの手を逃れるべくシベリア鉄道でオトポール駅まで逃げてきたユダヤ人18名を保護し、上海に逃がしたこと(オトポール事件)が。

あの杉浦千畝が〝命のビザ〟を支給した1940年7月より2年4ヶ月前のことでした。


以後この〝樋口ルート〟を利用して満州から海外に逃れたユダヤ人は、(樋口中将の回顧録によれば)数千人もいたとのこと。

それを恩義に感じていたユダヤ人は、スターリンの戦犯指定を知るやいち早く世界規模で樋口救出活動を展開し、彼の身柄はソ連に渡されることはありませんでした。

嗚呼、情けは人のためならず・・・。


石原莞爾や最後の陸相となった阿南惟幾とは陸軍大学校同期の親友でもあった〝徳将〟樋口中将に関して詳しく知りたい方には、こちらの書籍をオススメします。

 

『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎
                       (早川 隆・著 文春文庫・刊)

 

        

日本の軍人にも、こういう立派な人格者がいたことを、是非次世代に語り継いでいただきたく・・・。扇子

 

 

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先月29日に拙ブログで記事した 『通州事件』 同様、今日も皆さんに拡散していただきたい〝学校で教えない史実〟のご紹介です。

※『通州事件』に関する記事は、こちら。(↓)
   
https://ameblo.jp/warmheart2003/day-20170729.html

 

皆さんは、〝樺太〟という地名や場所はご存知のことと思います。

しかし若い方は、地図を見てすぐに指差せるでしょうか?

 

北海道の北に位置する細長い島・樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境に分割され、その南半分が日本領土となりました。

 

     樺太

 

最盛期には約40万人の日本人が暮らしていたこの地で、今から72年前の今日・終戦直後の1945(昭和20)年8月20日に

 

  真岡郵便電信局事件

 

という悲劇が起きたことをご存じでしょうか?

 

同年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が対日参戦。

 

それまで平穏だった樺太の北緯50度線を越え、戦車を先頭に南下・侵攻してきたのです。

 

しかも、同月15日に日本がポツダム宣言を受諾して玉音放送を流し降伏した後も、彼らは攻撃を続行。

 

混乱と恐怖の中で疎開命令が出され、次々と逃げる日本人達。

 

にもかかわらず、北洋漁業の港や王子製紙の工場で栄えていた真岡 (まおか) の郵便電信局 (※当時は電話交換業務を郵便局で兼務) に勤務していた10代を中心とする若い女性電話交換手20名が、仕事を全うすべく〝決死隊〟として最期まで残ることを申し出ます。

 

               真岡の位置と、その全景

 

そして8月20日早朝から、真岡沿岸に現れたソ連艦隊が無差別砲撃を開始。

 

更に上陸したソ連軍兵士の銃撃や防空壕への爆弾投下などで一般住民が次々に虐殺される中、当番の女性交換手12名がいた郵便局別館にも砲弾が。

 

窓からソ連兵の残虐行為を見て覚悟を決めた班長以下9名が、予め所持していた青酸カリやモルヒネで服毒自決を遂げ、男性職員によって保護されたのは僅か3名。

 

班長が自決する直前、他の郵便局に伝えた最期の言葉は、

 

「みなさん、これが最期です。 さようなら、さようなら・・・。」

 

だったとか。

 

現在に至るまで、ロシア(旧・ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印しないまま実効支配を続けており、日本の立場では〝帰属未定地〟となっている南樺太。

 

ただでさえ国際法上違法な攻撃・支配をしたソ連ですが、この事件に関し我が国にとって更に屈辱的なことがその後に起こっています。

 

この悲劇を描いた映画 『樺太1945年夏 氷雪の門』 がジャパン・ムービー・ピクチャー社により制作され、1974年4月から東宝系劇場で上映される予定でした。
 

※ 『氷雪の門』 とは、北海道・稚内市の稚内公園内にある、自決した女性電話交換手9名を含め樺太で亡くなった人々の慰霊碑のこと。

 

       

 

当時としては破格の5億円以上という制作費をかけ、丹波哲朗・藤岡重慶・千秋実・藤田弓子ら豪華俳優の出演、そして陸上自衛隊の全面協力を得た話題作で、前売り券も大量に売れたとか。

 

ところが公開直前の2月にソ連当局から圧力がかかり、軋轢を恐れた東宝は止む無く上映中止を決定。

 

結局その年の夏、東映が北海道・九州の劇場で僅か2週間の限定上映をしただけでお蔵入りになってしまったのです。
 

しかし2004年、紛失していた同作品のフィルムが奇跡的に発見され、デジタル処理を施された上で制作から36年が経過した2010年7月、全国26ヶ所の映画館で上映されました。

 

残念ながら当時も大きな話題になることはありませんでしたが・・・。

 

ただ幸いにも、現在〝「氷雪の門」上映委員会〟からDVDが発売されています。
 

       

         

通販等で入手できますので、是非ご家族でご覧ください。

 

弱腰外交国家・日本の実態を憂えつつ・・・。うー

 

無法・残虐なソ連軍の侵攻により、20歳前後の若さで自らの命を絶つことになってしまった女性交換手9名のご冥福を、衷心よりお祈り致します。笑3

 

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拙ブログでも過去にご紹介させていただきました、〝沖縄のジャンヌ・ダルク〟こと我那覇真子さんが、今年8月15日に靖國神社で感動的なスピーチをされました。

是非とも多くの方々、特に若者に彼女の主張を聞いていただきたいと存じます。




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映画ファンなら、この方がメガホンを取った作品を1本も観ていない人は、まずいないはず。

今日は、その

 トニー・スコット 監督 

     Tony Scott

の命日・没後5周年にあたります。

 

      

       色褪せた赤いキャップがトレードマークだったスコット監督

スコット監督は、1944年のイギリス・ノースシールズ生まれ。

ロンドン王立美術大学を卒業し、当初は画家として生計を立てていましたが、1970年代に映画監督をしていた兄リドリー・スコットが経営するCM制作会社に入社し、ディレクターとしてコマーシャル制作を手掛けるように。

 

そして1983年に 『ハンガー』 で映画監督デビューを果たすと、兄リドリーの後を追ってアメリカへ。

そして彼の名を一躍有名にしたのが、トム・クルーズ主演の大ヒット映画 『トップ・ガン』 (1986年)でした。

       

この作品の音楽が大好きだった私は、もう数え切れないくらい観ています。

その後も 『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987年)、『デイズ・オブ・サンダー』(1990年)、『ラスト・ボーイスカウト』(1991年)、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998年)、『マイ・ボディガード』(2004年)などのヒット作を連発。

近年ではデイゼル・ワシントンを主役に起用した 『デジャヴ』(2006年)、『サブウェイ123 激突』(2009年)、『アンストッパブル』(2010年)を制作しました。

個人的に彼の作品で一番好きなのは、2001年に公開された 『スパイ・ゲーム』。

       

ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの2枚看板が共演してCIAエージェントの活躍を描いたこの作品は、最後までハラハラ・ドキドキ・・・何度観ても飽きません。

 

そして 『トップ・ガン2』 の制作が構想されていたという最中の2012年8月19日昼過ぎ・・・カリフォルニア州サンペドロにかかる橋から男性が飛び降りた、という通報が複数警察に寄せられ捜索したところ、午後4時半に遺体が発見・回収され、スコット監督であることが確認されたのです。

オフィスで遺書が見つかったため自殺と断定されましたが、その内容に関しては明らかにされていないため、動機は不明のまま。 

 

以前インタビューで、
 

「私の住んでいる所はコクーン(繭)のようなもの。作品を制作し終わるたび引きこもる。ここまで映画を沢山作ってきても、未だにハリウッド文化の一部として溶け込んでいるとは思えないんだ。」

と語ったスコット監督・・・深刻な病気を患っていたわけではなく、遺体から少量の抗うつ薬と睡眠薬が検出されたそうですから、精神的な悩みがあったのでしょうか。

『グラディエーター』 でアカデミー作品賞を獲得し、『ブラックレイン』 や『ブラックホーク・ダウン』、『エグゾダス 神と王』 など重厚な作品を撮る兄・リドリーと比較すると、娯楽性が強くシンプルなストーリーが特徴のトニーは、ヒットは飛ばすもののメジャー映画賞とは無縁。

もしかしたら、その辺が悩みのタネだったのかも・・・?

今宵はスコット監督の冥福を祈りつつ、若きトム・クルーズの活躍する『トップ・ガン』 を久しぶりに鑑賞するつもりです。笑3

 

 

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今日・8月18日は、

 ビーフンの日

なんだそうです。  


何の語呂合わせにもなっていないのにナゼ?・・・と思ったら、ビーフンは米の粉で出来た麺だから、〝漢字の〝米〟を分解した八・十・八に因んだとのこと。

ビーフンの発祥は中国・福建省周辺だそうで、漢字では 『米粉』 と表記するそうな。

発音は、ミンナン語・台湾語のビーフン (bí-hún )が由来。

東アジア南部は小麦よりも圧倒的に米作が盛んであり、そのため小麦粉の麺(ミェン)ではなく米粉で作られた粉(フェン)が日常的に食べられるようになったといいます。

作り方は比較的簡単で、精米して水に浸したうるち米を挽いて白濁液にし、これをろ過して取ったデンプンを加水・加熱しながら練ったもの。

通常はそれを乾燥させて販売されています。

もっとも、最近ではトウモロコシなど米以外のデンプンを混合させているようですが・・・。

        

この外来種の麺を日本に定着させたのは、何といっても国内シェア9割近くを占める 『ケンミン食品株式会社』 でしょう。

同社のテレビCMは蚊取り線香の金鳥同様実に個性的かつシュールで、視聴者に対するインパクトは絶大。(

     https://www.youtube.com/watch?v=MkE4ZDu18qU  

 
〝ケンミンの焼きビーフン〟 というキャッチフレーズは、多くの方の脳裏に刻みこまれていることでしょう。


        


社名から、同社の創業者が中華の鉄人・陳建一氏の父である陳建民氏だと思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは間違い。

1950(昭和25)年に創業したのは、台湾出身の高村健民 (※2009年に87歳で逝去)


             

以来ビーフンの専門メーカーとして同社をオンリーワン企業として育て上げました。

実は我が家の女王様は、大のビーフン好き。
特にカレー味の焼きビーフンが大好物なんです。

今晩は記念日に敬意を表してカレービーフンにする予定ですが、皆さんはどんなビーフン料理がお好きですか?

 

 

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我が国における陽明学の祖といえば、中江藤樹。(※関連記事は↓)

   http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10889730397.html  

今日は、彼の弟子としてその教えを政治の場で実践した


 熊沢 蕃山

の命日にあたります。


蕃山は1619(元和5)年に現在の京都市下京区で浪人の父・野尻藤兵衛の長男として生まれました。

8歳の時に母方の祖父・熊沢守久の養子となって熊沢姓を名乗り、16歳の時に備前国岡山藩主・池田光政の小姓役として出仕。

しかし島原の乱への参陣を願い出たものの許されなかったため、彼は一旦近江国の祖父の家に帰省。

独学に飽き足らず師を求めていた蕃山が出会ったのが、同じ近江国で陽明学を教えていた中江藤樹でした。

蕃山は、山を2つ越えて藤樹の主宰する私塾・藤樹書院の講義を聴きに通ったそうですが、父親が浪人の身だった故武士と同じ座敷には入れず、廊下で藤樹の教えを聴き続けます。

そして熱心に勉強する蕃山に声をかけ、片道4時間かけて通っていることを知った藤樹が自宅の馬小屋に住むことを勧めると、彼は

「ご親切な気持ちはありがたいですが、山2つ越えて来るからこそ辛抱の甲斐があるのです。」


と自ら師の好意を断ったと言いますから、実に見上げたもの。


時に藤樹34歳、蕃山23歳・・・そして藤樹の弟子だったのは僅か8ヶ月でしたが、そこで得た学びは以降彼の人生の背骨となりました。

 

       

 

そして陽明学に傾倒していた池田光政は、中江藤樹に学んだ蕃山を再び召し抱えると、いきなり側役として300石を与え、更に1650(慶安3)年には鉄砲組晩頭として3,000石の大抜擢を行います。


蕃山はその期待に応え、1654(承応3)年に洪水と大飢饉に襲われた際には光政を補佐し、領民の救済に尽力。

また藩政改革に取り組み土木事業や農業政策に効果を上げます。

しかしいつの時代にも、新興勢力の足を引っ張る抵抗勢力は存在するもの。


農民に手厚く武士に厳しい政策は家老らの反発を強め、また当時朱子学を重んじていた幕府(保科正之・林羅山ら)からも目をつけられるようになった蕃山は、39歳の時に岡山藩を去ることに。

その翌年、彼は京都で私塾を開校。

 

多くの武士や町人らを教えましたが、評判が高まるとともに再び幕府から危険視され、京都所司代から追放処分を受けてしまいます。

その後大和国(現・奈良県)などで隠遁生活を送った後、幕命によって播磨国明石藩主・松平信之に預かりの身となり幽閉。

幕府の支配体制が変わり、1683(天和3)年には大老・堀田正俊から招聘されるも、これを辞退。

そればかりか参勤交代など幕政を批判し、更にはかつて仕えた岡山藩をも糾弾。

その姿勢を変えなかったため、幕府は69歳の高齢だったにも関わらず蕃山に蟄居謹慎を命じ、そのまま1691(元禄4)年8月17日に73歳で病没しました。

もう少し世渡りが上手ければ、不遇な後半生を過ごさずに済んだと思えるのですが・・・そうしなかった、いや出来なかったところが蕃山の蕃山たる所以だったのかも。

人間としての生き方を考えさせられますネ。

 

彼の没した遥か後、幕末期の藤田幽谷・東湖父子や橋本左内、高杉晋作、山田方谷ら多くの志士たちから敬われ、そして安岡正篤先生も高く評価した〝反骨の陽明学者〟の思想を、一度は紐解いてみたいものです。笑3


 

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今年も熱戦が繰り広げられている、夏の甲子園。

 

数々の名勝負や名場面を生み出してきたその甲子園で、今から25年前の今日・1992年8月16日・・・日本中に大論争を巻き起こした試合が行われました。

 

後に巨人やヤンキースの主砲として大活躍した松井秀喜選手が5打席連続敬遠された、あの

 

 明徳義塾 vs 金沢星稜

 

の一戦を、皆さまもご記憶のことでしょう。

 

敬遠策が的中してか、結果的に金沢星稜は2-3で敗退。

 

しかし勝利を収めた明徳義塾も、試合直後から凄じいバッシングを受けたことが精神的な負担となったのでしょうか、次の試合を落として甲子園を去っていきました。 

 

    

 

実はプロ野球で活躍する一流選手って、高校時代に大なり小なりこういうエピソードを残した人が多いんです。

 

例えば元巨人のエース・堀内投手は、高校時代あまりに対戦相手が打てないので、わざと四球を出しては牽制で走者を殺して遊んだとか、あるいは横浜大洋ホエールズの主砲だった嘗てのホームラン王・田代選手も、無死満塁で敬遠されたとか。

 

ただ、この試合は地方予選や練習試合と違って、晴れの甲子園が舞台。

 

〝ゴジラ〟というニックネームがつけられ全国的に注目されていた松井選手が5打席連続敬遠され、しかも星稜が敗退。

 

なおかつ当時の牧野高野連会長が、暗に敬遠を批判するコメントを発したことも、騒動に拍車をかけたような気がします。

 

また主催新聞社を中心に、松井選手を〝悲劇のヒーロー〟、明徳義塾を〝ヒール役〟にしようという (偏向) 報道も目につきました。うー

 

当時盛んに言われたのが、「高校生らしくない」 という批判。

 

しかし率直に申し上げて、私はこの 「高校生らしく」 という言葉に違和感・・・いや、嫌悪感すら覚えます。

 

これってどういう意味なんでしょう?

 

牧野会長が言っていたように、それは 「正々堂々と」 真向勝負することなのでしょうか。

 

でも〝敬遠〟は戦略のひとつであり、ルール違反ではありません。

 

真剣に野球に取り組み、甲子園に行くことを夢見て日々辛い練習に明け暮れる選手たちが求めるもの・・・それは〝勝利〟です。 

 

野球王国・四国の代表として地元の期待を一身に背負い甲子園で戦うチームの監督が、勝つために最も確率が高いと考えた戦略が松井選手の敬遠だったならば、それは尊重されるべきだと私は思います。

 

(もし真っ向勝負して打たれて負けていたら、おそらく馬淵監督は逆に 「無策だ」 と地元ファンからボロクソに言われたかも・・・。)

 

また、「教育的見地から望ましくない」 という方もいらっしゃいました。

 

でもルール違反を犯したわけでもないのに批判を繰り返したマスコミや、試合中メガホン等をグラウンドに投げ入れてそれを選手に拾わせたり、明徳義塾ナインに対し 「帰れ」 コールを繰り返した観客の行為そのものの方が、余程教育上好ましくないでしょう。

 

    

 

 毎日の練習や試合から、チームワーク・協調性、そして勝利の喜びと敗北の悔しさを学ぶことこそが教育だ、と私は思うのですが・・・。

敬遠策を批判した人の多くは、単に注目していた松井選手のバッティングを見ることが出来なかったことに怒り、後付けでもっともな理由を付けただけなのでは?

 

この試合について詳しく知りたい方には、松井選手や馬渕監督ら関係者のインタビューをまとめたこの本をお勧めします。

 

 『甲子園が割れた日』 (中村 計・著 新潮社・刊)

 

      

 

試合に出場した明徳義塾の選手は、同書の中でこう述べています。

「僕が何より嫌だったことは、監督が非難されること。
あの作戦に対して、え?って思ったヤツは一人もいない。
僕らも勝ちたいですもん。 
監督のエゴの犠牲になったみたいな見方は全然違う。
(でも)そういう人たちに一々反論してもしょうがない。」

 

・・・さて、最後に質問です。

もし皆さんが明徳義塾の監督だったら・・・真っ向勝負させますか? 
それとも黙って一塁を指差しますか?
野球ボール

 

 

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今私たちが平和を享受できているのは、お国のために散華された英霊のおかげ。

その犠牲に感謝すると同時に、彼らの思いに応える日本人でありたい、と私は切に思うのです。

10代・20代の若者に、この動画を是非ともお見せいただきたく・・・。


                         合 掌







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