すこしだけ失敗をした。
 けっして致命傷ではなかったけれど。
 人体の構造上、頭部からの出血は、実際以上に大量かつ派手に見えるのが、お約束。
 こめかみを触った掌に、べったりと赤色がついて、ああひどいなと思った。
 ひどくブザマ。




 六本木に聳えるマンションの、九〇七号室、おなじみの合わせ鏡のあいだを通りぬけて、きみたちの居場所まで無事に辿り着けるのか、わずかに危惧してしまうから。
 厳重に浄められた聖域に、血腥いヒトゴロシの存在は受容されずに、はじきだされてしまうのではないかしら、とかね。
 まあ、仮にそうでもいいんだけどね。
 そこに俺が許されないとしても、どうか、そのままでいてください。
 きみたちだけは。




 ばかね、と冴子に叱られ、彼女の奇蹟的な能力で傷を塞がれて、居間のソファで休んでいるうちに三十分ほど眠る。
 すぐそばのミニキッチンで、幾度も幾度も湯を沸かしてはポットに注ぐ気配。
「何の演習ですか」
 片眼をあけて訊いてみる。
「起きたの?」
「んんー。まだ微妙ーに、頭の半分がボヤッとしますわ」
「じゃあ寝てなさいよ、あたしは傷は塞ぐけど貧血は治さないんだから」
「きみは何をしてるの」
「何をって、お茶をいれてるのよ。忍様と、あたしと、あなたの」
「何十人分のお茶をいれておるのだ」
「まだせいぜい五十人程度よ、誤差の範囲内よっ」
「ああ、はい、うん、範囲内。そうかもしれん」
「おとなしく寝なさい」
「はい」
 命令されると嬉しくなる。
 孤独が嫌いで、確かなものに従属したがる、この悪癖。なかなか一筋縄にはいかんね。




 もう二十分眠って、目を覚ます。居間の大窓は、いちめんに落日の朱色。
 太陽を惜しむみたいに、この部屋の主は、窓際に座って本のページを繰っている。サイドテーブルには、カップアンドソーサー。カモミールの香り。
「それは二十二杯目あたり?」
 オハヨウと言う時間帯でもないので、そう質問する。
「六杯目までは数えたが、その先は忘れてしまったな」
「無茶はやめなさい。忍さん。あとは俺が飲むからやめなさい」
「これも愛する妹の涙だと思えば、このお茶は、馬の骨には渡せないな」
「あなたのシスコンは知ってますから、お茶を相手に過剰な意味づけをするのはやめなさい」
「諒。すこしでも僕の身を大切に思うなら、冴子の扱いには気をつけてくれないと困るな」
「もーのーすーごーく、わかってますよ、そんなことは!」
「そうかな?」
 小首をかしげて、愉快そうに忍がつぶやいた。






The mirrors 【2010.12】

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「誰が殉教者だって?」
 隊長室のデスクに肘をついた師英介の問いかけは、棘よりもさらに鋭角的な、直截の刃をあらわにしている。
 おかしなことに……いつでも必要量に対して二百パーセント以上の雑多な資料で周囲を埋めていなければいられない性癖の師英介の、そのデスクに現在はファイルの一冊どころか塵ひとつ乗っていない。
 一秒後にでもこの駐留地を引き払うことのできる、そんな態勢だ。
「撤退か」
 師の言葉には答えずに如月は、己の目にうつる状況から導かれた結論を口にする。
「ケツまくりあげて敗走と、もう少し惨めに表現してくれてもいいんだがね士郎! 怪我人にはきつい負担になるが悠長には座っていられない、こちとら他にも抱えてる人命が多すぎるものでね、今夜中には逃げだす算段だ。しかしそれで果たしてどこに隠れられるものかは実際、目先真っ暗な話ではあるのさ」
 饒舌にならざるをえない師の気分は、如月にも推測できないわけではない。師からつねづね人の心に疎いと責められる立場で、どの程度の真実をつかんでいるか如月自身、確証など持てはしないのだが。
「その手の惨めさは、師隊長の叡智ある決断には不似合いだな」
「ご信頼はありがたいことだ。いやまったく」
「殉教者呼ばわりは、風間の趣味だろう。別に俺が言ったものじゃない」
「冷静だな」
「そうか?」
 如月はかすかに肩をすくめる。
「俺は元からこういう人間だと思っていたが」
「……ああ」
 疲労した視界に邪魔な眼鏡を抜きさり、デスクを挟んで自分の前に立つ如月の姿から、かたちにならない苛立ちとともに師は双眸を外す。そして、言い捨てた。
「そいつは最悪な話だな」
「……飛躍してないか、その判断は?」
「おまえが昔の症状に戻っちまってるってことさ、能天気なペシミストにリセットされちまってるってことさ。いや、そんなものは俺の個人的慚愧の念ってやつだ、おまえに感想なんか要求するデリカシーは俺にはないんでね。穴にもぐる準備に大忙しの隊長さんとしては実務的なお話をする。士郎、おまえはしばらくうちに雇われて用心棒のお仕事だ、金の払いは悪くない、なにしろ危険度の高さが普通じゃないんでね。どうだ?」
「断わる」
 現状に可能なかぎりの優しさをともなわせて――如月は年下の親友にそう告げた。
「お得意様の依頼を振るのは本意ではないんだが、今は乗れないな。俺も、これからしばらく忙しい」
「…………」
 煤けた眼鏡をつかんだ指を止めて師英介は、数瞬、適切な応答を見失ったように沈黙した。
 よく観察すれば軽量硬質レンズの左側にはかなりめだつ傷が走っていた。頭脳労働に徹するべき組織指導者が自分の眼鏡にまで傷をつけている事実は、戦闘状況における余裕のなさとイコールで結びつく。望ましくないことだ。
 衝撃の余波か。
(超能力者)
 あの少年を――消し去った。
「ずいぶんな傷だ」
 ふと、師英介は独白として呟く。ずっと疑似角膜を装着せず旧式な眼鏡を愛用してきているのは、趣味と、意地と、実用との、どこにもっとも比重をおいたうえの判断であったのか……我ながらなぜだか思いだせない。
「ああ。気の毒だな。今まで無事に保っていたのにな」
「何を話してるのか、わかってるか士郎?」
「おまえの眼鏡の話だ。違うのか?」
「俺が知りたいのは、おまえの考えだ、いまさら何ができる? ――どうするつもりなんだ」
「イズミを……」
 水が流れおちるように、自然に。
 すなわち、師英介の頭脳が算出する『可能性』の一つを決して裏切らず。
 あるがままの定めに従い、如月は答える。
「捜すさ」


 * * *


 硝煙の匂いがいつまでも消えずにまとわりついているのは、気のせいではないはずだ。
 足りない視覚のぶん、他の感覚が過敏にそれらの残留する気配をとらえて反応するのだと、省吾にもわかっている。理屈として、非常に明晰に察知されている。
 移動が近い。
 壁越しに慌ただしい人々の動きが、そう伝えた。
 あてのない逃避行になるのだろう。ろくに足腰も立たない現在の自分が、彼らにとって厄介な荷物となることは間違いなかった。
(選ばれた優秀な遺伝子に……)
 不全な肉体が在ることを父や母は承認し得ただろうか? それは不適格なものとしてたやすく排除されるのだろうか?
「元気か」
 瀕死の重傷者のもとを訪れるのに、そんな無神経な挨拶をよこすのは誰であるのかはっきりしている。如月士郎だ。
 哀れな……。
 そうだ、自分とは違った意味合いで彼も哀れな……暗闇のなかにいる。
「元気ですよ……不毛な想像に浸る程度には」
「なら何よりだ。師との契約を今、切ってきたんでな、俺は暇になる。料金は後払いで、雇ってみる気はないか?」
「何を……」
 けだるい意識のまま省吾は笑おうとした。成功はしなかった。
「何を、あなたは……」
「それなりに便利な身体だ、捜し物には向いている。おまけに俺は気が長い。報酬は、目的の果たされた時点でいい。お互いに、迷惑の少ない条件だと思うんだが」
「…………」
 師英介が自発的に、こんなところで契約を解除するわけがない。
 誰が敵の標的になっているかは明白だ。狙ってくれといわんばかりに親友がひとり出てゆくことを、あっさりと許せるはずがない。
 だが、知略策謀に長けたあの人物でも最後の局面では最下層階級の如月士郎に勝利できぬことを省吾は知っている。醜くも自己本意の負い目というものを、共有する……。
「あなたは僕を利用しようとしている」
 闇の先にいる如月の姿を、今だけは視られたならと省吾は薄く思う。睨んでやる――非難の視線で、はねつけて、優位に立った気分になるだろう。わずかでも。
「師隊長と別行動をとることであなたは組織に敵を呼びこむ危険性を減らそうとしている。関係のないところを歩きまわって囮になるつもりだ。その名目に僕との契約なんてものを持ちだすだけだ。偽善ですよ」
「そう考えるのが、おまえには必要なことなのか?」
「あなたのほうこそどうかしている!!」
 怒鳴りつけた一瞬に、省吾はその行為の虚しさに背をつかまれひきずりこまれる錯覚に襲われる。
(意味がない)
 ここにいる自分の存在そのものが……実は分子間の結合が不充分な、もろく透ける影なのではないかと。何のために生きているのか説明されない無用な物体にすぎぬのだと。今やどこからもさしのべられる掌はないのだから。誰からも。誰にも。
(響子)
 その名への執着が本当は何なのかさえもうわからないのに!?
 まだ生きている。
 まだ――生きている。
(拓己)
 いないのに。
(誰が消した)
(イズミが)
(俺が)
 身代わりに殺したのに。
「俺の精神はいまさら改めて発狂する構造にはなっていないんだ、坊主……」
 充分な理解を促す速度でゆっくりと、如月はゆるぎない事実を述べる。
 狭いベッドに四肢を固定され各種の生体維持機器につながれた、いとも不自由な姿のその少年の内側へ言葉を届かせるには、語調を工夫するくらいではなんら効果はあるまいとも思えたが。
 酸鼻をきわめた、あの絶望の刹那からも、満身創痍ではあれ叶省吾は生還しているのだ。如月はそこに大きな意味を見る。
「それだけひどい状態でもなんとかおまえは死なずにいるじゃないか。それなら、片割れが死んだと決めるのも短絡な話だ。時間はかかるだろうが、どうせ海から先は閉鎖されている、歩けるかぎり捜しまわればいつかは出会える」
「嘘だ」
 空ろに、焦点を失くした二つの瞳をひらいたまま省吾がつぶやいた。
「あなたの言うことはどれも、嘘だ」
「……泣くと苦しさが倍になるぞ」
「泣いてなんかいません」
 涙など見えない。だから違うのだ。
(光あれ)
 創造主が初めに告げたものがそれなら自分はあらかじめ世界に拒まれている。
 拒まれながら。
 生かされてゆく。何のために? 誰のために?
 うまれたことを贖うために?
「嘘だと信じることがおまえの支えなら、それを無理にとりあげるほど俺も悪趣味じゃないが」
 がちゃりと、如月がライフルの銃身を抱えあげたようだった。
「情報は、適宜、送らせてもらう……。次にいつ会えるかはわからないな。ともかく、食べて寝ることだけは忘れるな。そいつをくりかえしていれば、そのうち風向きも変わるさ」
 ブーツの足音はたてずに、寝台のそばから遠ざかっていく。その気配を省吾はずっと膚でとらえていたが、かみしめた唇から零れる言葉は、ぎりぎりの、最後の瞬間まで抑えられていた。
「何があなたを動かすんですか。自棄なオプティミズムですか。無闇な希望ですか」
「…………」
 問いかけに立ちどまり、如月がふりかえる。
「そうするのが俺の役目だと、あの小僧が言っただろう」
 傍若無人に、頭ごなしにきめつけるのが得意な――いや、それ以外に人と語るすべを知らない、不器用な、そして最強の。
 スーパーヒーローが。
「そう言われて、俺が嬉しかったんだ。……ただ、それだけのことだ」
「……すみません」
 ふと――。
 如月へ直接には声を向かわせず、顔をそむけたまま、ぽつりと省吾から、その謝罪は発された。
「勝てなかっ……」
 とぎれた悔恨が誰のものであったのか如月は一瞬、疑おうとする。が、すぐにその思いつきは捨て去った。
 そこにいるのか……と。
 尋ねたとしても、求める姿が目前に得られるわけではないと、わかっていた。


 * * *


「死ぬわよ。あの男」
 来見川翠の忠告は、明確な論理にもとづくものではない。いきのびるために磨いてきた本能で、否応なく感じとられる類のことだ。
「今度こそ風間も甘い顔は見せてきやしないわ。隊長ご本人もそのへんはよく、わかってるでしょうけど!」
「でしょうね」
 それだけの仕打ちを実際に、風間祥に対しておこなったのは如月自身だ。
 撤退作業で乱れた髪を疲労した指でかきあげつつ、幌のかかったジープの車内へと師英介は身体を沈める。未明の空が薄赤く滲むさまを、いつものレンズには覆われない瞳で眺めやると、副長の松島に最終的な移動手段の報告を命じている。いらいらと翠は車外から師の耳元へ上半身を突き入れて、さらに声をはりあげた。
「そこでなんか素晴らしい策が出てくるものでしょ隊長からは? お仕事大歓迎よ、こちとら腕はいいし、おまけに文無しよ」
「残念ながら、私にも守るものが多すぎましてね」
「何それ、老けこんだ話ね」
「まったくです」
 この人物にとって眼鏡という小道具は、飄々とした物言いを演出するためのものだったらしい。他者のはいりこむ余地のない怜悧なまなざしが情報屋を一瞥し、ひややかに促した。
「もっと割りのいい依頼人をさがしたらどうです。人手があるだけ有難いような……」
「失明しちゃって瀕死の重傷だったりするような?」
「彼の眼は潰れちゃいない。他に、どういうかたちで絶望すべきかを知らないだけでしょう」
「手のかかるガキだこと」
 大袈裟に首を振り、それでも彼女は食い下がらずにジープの外側へ身をひきあげ、さっさと立ち去っていく。どういう選択をするかは彼女次第だ。師はその背中が向かう先をたしかめはせず、運転席で待機する松島に、片手の指先でゴーサインを出した。どこへともなく、諦観のひとことが洩らされる。
「人間、祈ることもできないなら、せいぜい食いつないで生きるだけさ」
「そのうち風向きも変わる、ですか?」
 エンジンを始動させながら、松島が反問する。頭痛のきえない面持ちで、じろりと師はそちらを睨みやった。
「誰の信条だって?」
「如月さんですよ」
「れっきとした祈りじゃないか、そいつは。俺はいやだね、もっと即物的に生きるさ」
 即物的に生きている人はわざわざそんなこと言いませんよと松島は答えようと思うが、そのときは、あえて口にせず保留しておくことにした。
 鈍くかすむ夜明けを、ゆくてに控えて。
 瞼をとざした師隊長が今、何かを祈るのならば……妨げたくはないと考えたのだ。




※初出 1995年12月 (商業誌未発表作品)

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 僕らの騒音を呑みくだす戯びに、どうぞ、ようこそ。


 僕はスイッチを指で弾くだけの役割であとは冷静に狂った民衆を蔑んで眺めよう。


 僕の隣をゆきすぎた眩しい綺麗すぎる白い純白の光芒が斜めにあなたたちに降り注ぐ。


 僕は決して狂わずに狂乱するあなたたちをゆっくりと眺めよう。


 僕の後ろをゆきすぎた殺伐の塊は世の終わりのような黒。


 僕は首をすくめながらあなたたちを漫然と眺めよう。


 僕の目の前をゆきすぎる一つきりの影をさあ皆さん存分に喰べ尽くそう。


 let's FxxK IT !



 希少価値の生物、こんなものこの場所にしかないからね。


 山積した鍵盤の自動演奏、僕たちは余り何も感じずに過ぎていく。


 ヒトの鼓動より速い渦、踏みならす黒い影の踵、踊る、光を斬り裂く指先のそのしめす行方を誰の視神経も見切れない、ハハハハハザマアミロ、めぐるめぐる器官、血流、人工音の鎖、死ね死ね死ね死んじまえ魂がないのなら!! 断罪する黒い異常な濡れた両眼が僕たちを生きながらに処刑するからあなたたちの陶酔は生への渇望。叩き殺す熱量、同等にして不可避の救済。hosanna !


 なんて子供っぽい生き方でさ。


 肉声を嗄らして叫んで教徒たちを操る危ない眼をして狂うあなたの最後の意識を僕の冷たく硬い指が脱がして、スイッチをいれる。


 スイッチをいれる。


 I've got you.






※初出 1997年12月 (商業誌未発表作品)

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「みみみミスタ・クレイトン?」
 十六歳の年若いメイド、ルウ・シルヴィアンが目をまるくしたのは、米国東海岸マサチューセッツ州ボストン郊外の屋敷において、冷えこみの厳しくなってきた初冬の、ひときわ寒い朝方のことだった。
「ああ、何か困った問題が? ミズ・シルヴィアン?」
 ナプキンを置き、朝食の済んだテーブルを立ち去るところでエドウィン・アーサーが反問する。あまりに悠然として、心当たりのないようすだったので、ルウはそこから先をどう訊いていいものかと思考停止に陥ってしまった。
 館の主人ことクリストファー・ローディン・ジュニアがこの場にいたならば、あの尋常でなく勘のよい少年はルウよりも早くそれに気づき、食卓での話題にとりあげていただろう。いや、もしかしたら言葉に出すことなく、彼ら二人だけの『心のお話し合い』ですまされてしまってルウがその内容を聞き及ぶことは不可能であったかもしれないが、だがしかし。
 クリストファーは一昨日から熱の出る風邪をひきこんで、食事もベッドのなかでとる状態がつづいている。
 めずらしくはないことだ。年間を通じて、ひとつの季節に一度は必ず――冬ともなれば三度くらいは――クリストファーは風邪をひくきまりになっている。もとから体質が決して頑丈にはできていないのだと医者は言う。あれだけ優れた容貌と中身とを生まれつき持ちあわせていれば、それもやむない仕儀だろうとルウにも得心がゆく。
 そしていくら毎度のことであろうとも、少年の忠実なる側近エドウィン・アーサー・カンナギ・クレイトンが事態をどうでもいいものと見ているわけがないのも、また当然の運びであるはずだった。
 結論。へたな話題は出さぬが勝ち。
「いえ、なんでもございません! わたくしの勘違いでした!」
 あたふたと場を取り繕って、ルウは食卓からフルーツの皿をとりあげ、エドウィン・アーサーの目が届かぬ廊下へ出たとたん大急ぎで厨房まで駆け戻った。
「ジャスティーンさん! ジャスティーンさん、ご存知でした!? あのこと!」
 年長の同僚をつかまえて囁く。あからさまにジャスティーン・コールはいやな顔をする。
「何よ、いそがしいときに」
 だらしなく脚を組んでヴァージニアスリムライトを一服していたことは、きっちり棚上げされている。カード破産をまぬがれる金策のためやむをえず化けもの屋敷で働いている彼女の意識はつねに、どんなときでも、いそがしいのである。
「わたし今朝初めて見たんですけど、ミスタ・クレイトンの……」
「あらあの男が何よ」
「左手の薬指に、指輪がっ!!」
「なあああんですってー!?」
 ジャスティーンが椅子からはねあがって悲鳴をあげた。ああやっぱりみんな驚くんだわ、とルウは胸をおさえて納得する。
「わたし、この屋敷に勤めるようになって半年余りになりますけど、あんなもの見たのは今日が本当に初めてです!」
「ちょっと待って、あいつ確かバツイチって噂じゃなかったの、いつのまにそんなことになったの、どこで女つかまえたの、でなきゃ元から奥さんいたの、なんだ不能じゃなかったの、ああやだやだやだやだショック」
 ジャスティーンはジャスティーンで、ルウとはいまひとつ違う観点から衝撃をうけている気配だった。成熟した女性の考えることは、ルウにはなかなか理解が難しい。
「今日一日、様子を見てみて、明日もまだ指輪をなさっているようだったら、差し出がましいですけれど所以を伺ってみようかと思います。だってやっぱりおめでたいことでしたら、知らぬふりは心苦しいですもの」
「そうそうそう、そうね! 問題は、明日まで続いてたらよね!! あんたしっかり目を光らせるのよ」
「はい! ジャスティーンさんも何か変化を見つけたら教えてくださいね!」
 この一瞬だけ意気投合して互いの手を握り、二人のメイドはそれが一大使命であるかのごとく頷きあった。実際、たかだか二十四歳の身空で、十一歳と半分の子供に人生をまるきり捧げているとしか見えないエドウィン・アーサー・カンナギ・クレイトンという青年の『内的事情』は、いくら推測の力をはたらかせようとも覗きえないものだった。



「ふうん。変なこと気にするんだなあ、女の人たちって……」
 高熱で潤んだ翠色の双眸をどこへともなくさまよわせて、羽根布団のなかに華奢な身体を埋めたクリストファーがぽつんとひとりごちた。
「どうかいたしましたか?」
 風邪にはビタミンCの補給が第一と温めたレモネードを枕元まで運んだエドウィン・アーサーが、それを聞きとがめる。どうしようかなとクリストファーはぼんやり天井を眺め、
「うん……たいしたことじゃないんだけど」
 説明を避けたのちに、どういう思考の手順を踏んだものか不意に、
「エドウィンには秘密」
 と、言い足した。サイドテーブルにトレイをおろすエドウィン・アーサーの手元がやや狂いがちになったのは、ごまかしがたい事実である。
「……左様ですか」
「そう。秘密」
 淡々と念をおされてはエドウィン・アーサーもつっこんだ問いかけを返せない。いつもならば、クリストファーはそうそう持ってまわった謎かけはしない人物なのだが。
 なにしろ彼は風邪をひいているのだ。多少、普段とふるまいが違ったとしても、いたしかたがない。
「ああなんだか、ユーロディズニーでも観にいきたい気分だな、エドウィン」
「いくらでもお連れいたしますよ。クリス様のお風邪さえ治られましたら」
「うん……そうだよね、風邪なんだよね、当面の問題は」
 小さい咳をこぼすとクリストファーは退屈そうに自分の熱っぽい額に掌をあて、いやだなあと呟いた。
「まったく、困った風邪はさっさと私に伝染して、クリス様が楽になってくださるとよいのですが」
「えっ? 何? 風邪って人に伝染したら治るの?」
「世間では俗に、そういう考え方をすることもあるようですよ」
「ふうん。でもエドウィンにあげちゃったら可哀想だから、この際、ウォークマンに貰ってもらおうかな」
「しかし彼は……」
 異世界人がはたしてクリストファーと同じ種類の風邪をひきこむのかどうか、エドウィン・アーサーにはわからない。
 ソニー・ウォークマン・エクセル、別名ファイアマスター・ガディスは、昨夜から『遊び』に出たきり、まだ屋敷に戻っていない。あの野蛮人のしでかす遊びといえば不道徳にして非合法な類の、ひまつぶしだ。エドウィン・アーサーは頭からそう決めつけている。クリストファーの情操安定のためには有害な部分が多すぎる。さしあたりの玩具としてクリストファーがいまだ彼を気に入りつづけている以上、たやすく追い出せはしないのが、苦しいといえば苦しい事情だった。
 個人的には、嫌いではない。好悪の判断を下す以前に、そんな『嫌い』などという対等の感情がうまれるレベルに身を置きたくないというのが正しい。……要は『大嫌い』なのではないかと疑う声も理性のどこかからは上がるが、それは黙殺に価するものだった。
「あのねえ、エドウィン、ためしに訊くけど……」
「なんでしょう?」
 邪気のない、純粋なクリストファーのまなざしに、なるべくにこやかにエドウィン・アーサーも応じようとする。
「キスしたら風邪って伝染るかな?」
「は?」
 ぶえっくしょい、と巨大なくしゃみを放ちつつ赤毛のファイアマスター・ガディスが少年の寝室の入り口へ――すなわちエドウィン・アーサーの背後に帰還したのがそのときだった。
「……………………………………………………」
 形容も修飾もしがたい、なんともいえず複雑怪奇な沈黙とともにエドウィン・アーサーはそちらを眺めやる。
「ったくひでえ風邪だ」
「……何の用かな、ミスタ・ウォークマン?」
「用も何も、小僧に土産だ。そら『チャーリーブラウンとゆかいな仲間たち』のビデオ、あったぜ」
「ああ、ありがとうウォークマン、これ欲しかったんだよね」
 はなからエドウィン・アーサーを視界に入れないソニー・ウォークマンに、クリストファーは屈託なく謝礼の言葉などを投げかけている。
「したら俺は寝る。ともかく寝る。死んでも寝る。じゃあな」
「うん、またね」
 なおも大きなくしゃみを連発しながらソニー・ウォークマンはとっとと病人の寝室を立ち去った。ごほんと形だけの咳払いをして、エドウィン・アーサーはしばし次の語句を喉からひきだすのに時間をおいた。
「クリス様、さきほどのご質問ですが……」
「うん、何?」
「せずにいた場合よりも、した場合のほうが、風邪のうつる確率は高いでしょうね」
「そうだね、確率はね。あともうひとつ訊いていいかなエドウィン?」
「なんでしょう?」
 硬直した表情をなんとかゆるめる努力をくりかえし、そつのない口調でもってエドウィン・アーサーは再びそう応じる。
 熱のせいか妙に据わっている――熱のせい以外に何があるというのだ――エメラルドの瞳をベッドの中からじろりと持ちあげて、クリストファーが尋ねた。
「その指輪、誰の?」
「は? あああ……そういえば……失礼いたしました」
 思いもよらぬ指摘にエドウィン・アーサーは己が左手を見おろし、昔の結婚指輪をしたままだったことに気づく。〈覡の属〉としての役目上において、配偶者があると周囲に知らしめたほうが好都合な場合にのみ、填めることにしていたものだ。仕事を円滑にはこぶためのカムフラージュのひとつにすぎない。
 デザインだけは揃えてあったが。
 サラと。
「ふうん」
 エドウィン・アーサーの表層意識を読みとったクリストファーが、無感動に、納得をした。
「ゆうべはそれを填めとかないと、ヴィクトリアが離してくれそうになかったんだ?」
「いえ、つまりただの……用心です」
「ふうん。ヴィクトリアなんて指輪どころか十一歳半の子供までいるのにね。あのひとにはそれ自分で見えないんだよね。可哀想、だね」
 ヴィクトリア・ローディン。
 昨夜、ニューヨークからここまで我が子の見舞いにかけつけておいて結局ほんの二時間しか屋敷に滞在しなかった、若く美しく身勝手な女性の名だ。
「ですが……私には充分に見えておりましたよ。クリス様」
「エドウィン今、自分で言い訳がましいと思ってる? じゃあ喋るのやめていいよ。僕も風邪薬きいてて眠いし。おやすみなさい、またあとでね」
 クリストファーの断定によってエドウィン・アーサーの言辞は完璧に絶たれてしまった。
 確かに、あえて力をこめて、クリストファーの睡眠を妨げてまで弁解すべき種類の話ではない。エドウィン・アーサーもそう考えた。
「おやすみなさいませ」
 羽根布団のめくれを直し、エドウィン・アーサーは丁重に告げて少年の部屋から退出する。
『……ああでも、ねえ、エドウィン』
 ふと、微弱な独白のように、感覚にふれてくる声があった。
『どうしてもってことだったらエドウィンに風邪、うつしてあげてもいいよ』
「…………」
 エドウィン・アーサーは静まりかえった室外に、また解きがたい難題をつきつけられた心地で立ち尽くしたが、すぐにクリストファーの精神がことんと眠りに入ってしまったため、自分ごときの狭い思考領域のなかでは余計なところへ発想をめぐらせないでいたほうがよかろうと判断した。

 なにしろ――
 本当に、クリストファー・ローディン・ジュニアはそのとき、ずいぶんな風邪をひいていたのだ。



〈了〉


※初出 1995年12月 (商業誌未発表作品)

sand eclipse




 砂。
 仄かに光っていた。
 大地をかたちどる微細な素子。
 左手の指先に。
(地上のすべては壊れそして原始の一点へ還る)
 風が、闇の背後から吹いてきた。無常の夜。妨げられる視野。如月士郎は瞼を閉ざし、苛烈な風から身を隠すように、背をまるめて屈んだ。地表から細かい砂塵。荒れる、渦をえがく。ここは滅んだ、無人の野。
 とうに死んでしまった大地。
 とうに生命をもたぬ仮想の身体。
 おなじことだ。
 だから、慕わしい。
 メタリックな人工光を孕む瞳孔を再び開いて、如月は一面の空虚をみはるかす。夜は冷ややかで、響く音もなくしてしまったようだった。がらんどうの、閉鎖世界。肉眼視できぬ覆いで天をふさがれたまま。
 ふと見ると、屈みこんだ如月の足下、ブーツのつまさきが届く辺りから砂丘は急な傾斜をつくっていた。黄泉へつづくような下り坂を、さららと砂がすべりおちていく。まるで蟻地獄に似た、果てのない、底の見えない奈落だった。
「こわいか」
 少年の声がした。
 凛と、芯の張った、あの少年にしかできない話し方の。
 声が、隣で。
「僕の求めるものが怖いか如月?」
「響子だろうと、ジュリアだろうと、なんであろうとかまわないさ」
 なめらかに崩落していく砂の斜面をみつめながら、如月は答える。
「おまえが行くならば、そこへ行くさ」
「真実を」
 イズミが言った。
「この世界の真実を、拾いにいかなきゃならないな」
「遠いのか?」
 如月は左手の指先を見る。光る砂の粒子。
 風が攫った。
 深い穴の底へ。
 すばやく斜面を跳ね、ころがり、かけおりていく。
 愉しげな運動だった。
 そして真っ暗な空洞にのみこまれ、消えさるのだ。
「いや、どこでもかまわないさ。どれほど遠くてもいいんだ」
 少年の返答を待たず、如月は続ける。
「もう俺には怖いことなど見あたらないんだ、イズミ。たったひとつ、来た道を後ろに戻ることだけが、俺にはおそろしい」
「目の前だ、如月」
 イズミが呟いた。
「目の前だ。世界のすべてはそこにある」
「俺をつれていってくれるのか」
「おまえは弱虫だな如月。僕がいなくちゃどうにもならないのか」
「人間は誰もそうだ。ひとりではいられないんだ」
「寂しければ案山子でも抱いておけ」
「おまえも人間だ、イズミ。だから俺がおまえを追っていく。俺の眼が、おまえを繋ぐだろう、この世に。おまえの戦いは速すぎて、俺の眼でなければついていけない」
「ふん。寂しい話だな」
「しかたないさ」
 如月が言う。
「しかたのない運命だ」
「嬉しそうに言うな。どうして僕はおまえになんか」
 言葉を半ばで止めて、少年が空を仰ぐ気配があった。影が揺れた。
「運命か。だがな如月、おまえを未来へつれていくのは仕組まれたシナリオやプログラムじゃないぞ。僕だ。僕という、輝かしい生命だ」
 風。
 如月の背を圧して吹きぬけた。
 ――立ちあがれ。
 闇からの要請を、運んでくる力だ。
 如月は、冷えた唇にかすかな笑みを刻む。幸福な、おそらくは愚かしい笑みを。
 傾けた上体を起こし、膝をのばして立った。
 ――歩みだせ。
(目の前だ、如月)
 ぽかりと削除された地表、その深淵のなかに。
 踏みいる。
 一歩を。



* * *



 がつん、と大地が鳴って、意識が甦る。
 硝煙の匂い。周囲は暗かった。夜。だが真の闇ではなかった。月が。
 天を占める雲の合間に、ちぎれた月の輪郭が。
 うつくしく冴えていた。
 光の筋が、如月の左眼を刺した。如月はまばたきをしたが、左眼の光は離れなかった。瞼が落ちなかった。生身のものより強化された代用の皮膚が、今は自由な動きをうしなっていた。
 頬が砕けたのだ。
 指でふれて確かめようとして、左腕も持ちあがらぬことがわかる。動かそうにも腕そのものが、存在しなかった。
 後頭部と肩の接した感触で、大地の硬さを知る。しかしそれ以外の知覚は麻痺していた。極度に破壊された身体は、詳細な痛覚や触感をきりはなすことで、精神を狂わさず保つシステムをもつ。
 横たわった如月のまわりに、折れた枝のようにちらばっている黒い影は、人形どもの残骸なのだろう。
 とても静かだった。
 ここもまた死の戦場。
 ここもまた、生命をもたぬ疑似人間たちの墓場だった。
 ――何を夢見た?
(目の前だ。世界のすべてはそこにある)
 如月は、おぼろな視界をゆっくりと動かしていく。天から、地へ。
 降下させて、止めた。
 そこにも光の源泉があった。
「なんてありさまだ、如月」
 如月の眼差しにとらえられると同時に、少年が口をひらいた。
 やわらかな亜麻色の髪をつつむ光。
 蔑むように見下す。傲然と、彼にしか似合わない表情で。
 笑った。
 月よりも太陽よりも、美しく。
「僕がいなくちゃどうにもならないのか」
 ああ、と如月は答えた。声は呼吸音にしかならなかったが、伝わったはずだった。
 ああ、そうだ。
「他にもっと僕に言うことはないのか。綺麗だとか素敵だとか素晴らしいとか」
 イズミが言った。
 あの頃のままの口癖だった。
 記憶よりも僅かに大人びた貌つきで、如月の姿をみおろしていた。
 如月も、微笑した。
 こわばった顎を軋ませて、告げた。
「おまえほど美しい世界を他に知らない」
「ふん。おまえなんか馬鹿だ」
 無残に壊れたサイボーグの四肢に視線を横切らせ、イズミが吐きだした。不機嫌に、くりかえした。
「おまえなんか、ただのとんでもない馬鹿だな。如月」
 彼は泣くのだろうかと如月は意識の隅で思う。けれどイズミは泣かなかった。
「おまえが立ちあがるまで待ってやる。だがのんびりはできないぞ。僕は見つけに行かなくちゃならないんだからな、ほんとうの真実を」
 夜風に髪を流し、イズミが言った。
 防塵ケープの影がはためいて、翼のように鳴った。
 未来を指し示す救世主の、天へふりかざす旗のように。
 如月はその響きを耳に受けとめて、風のゆくえを聴く。
「ああ、立てるさ」
 滲む光に向け、囁いた。
 すぐだ。
 もうすぐに、その傍らへ帰るから……。




〈了〉


※初出 2000年7月 (商業誌未発表作品)