でかい娘がたまに、マンガを描いています。



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 娘の弁当を毎朝作るようになって5年目。学生5年目の娘をちょくちょく学校まで車で送る。

「んじゃ、いってくら。」
「おう、いい仕事しろよ。」

 職業としての学生、前向きに授業参加することは当然。でも娘にはもっと真面目に参加しないとならない理由がある。第一に奨学金を、つまり人様からの助力で学生をしていること、第二に職業養成の学部に在籍していること、最後に必要としている人がいるからだ。

 僕の稼ぎがまともなら奨学金、金は別の誰かが借りたはずだ。そこのところ、娘が借りている。無利息で。その金を無意味にされては申し訳ない。それに選択した道が職人の世界だ。脳の無い職人ほど無粋なものは無い。みっともない。そんな職人になってもらっては恥かしい。んで、職人になるからには必要としてくれる人がいる。その人に求められることを忘れては今の学びを軽んじてしまうかもしれない。

…あぁ、大学が遊園地と言われていた時代の僕が、自分を棚に上げて偉そうに何か言ってる感満載だ。でも、自分が馬鹿者だったからといって自分のところにいる若者も同様に馬鹿者であっては世の中に申し訳ない。

 父は、願うばかりの毎日。

 

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 今年高校を卒業した娘は自分を指す言葉として「オレ」を使っている。自分を指す言葉を色々考えていたら、「オレ」が一番しっくりきたのだそうだ。友達同士でも当たり前にこれで通していると言う。はて、この言葉は育ちの問題か。


 娘は「一人称位、自由にさせてよ。」と言う。

 一人称について、彼女に言わせれば、別に男の子みたいに振る舞いたいからではなく、「オレ」と使っても自分自身が女性であることには何の揺るぎもないことが興味深いそうだ。また、それに反応をする人に、社会的性ついての同一性の揺らぎを見て取れる事が興味深いそうだ。そこを利用して、自分を相手の中においてもらう手段にしたり、他者への自分流の挨拶としていると言う。

 まぁ、確かに必要に応じて「わたし」と使い分けている。ご近所で「オレ」なんて使ったら驚いてしまう文化に生きるお年寄りだっていらっしゃる。そんな方達には「わたし」と半オクターブ高い声で会話をしている。だから、まぁ、ここは父としてスルーしておくべき所だろう。


 ずっと昔、娘は自分が好きだった紺色のランドセル を小学校に背負って登校した。級友からある意味でのセクハラ(笑)?にあって結構凹んでいた。ランドセルを選ぶ時に、「それは男の子の色だから」とピンクや赤を買ってやるべきだったかと思う。でも、小学校前の娘は紺色のランドセルをとても楽しみにしていた。親は子育てについて「こうあるべき」が強すぎると、時々学校では「モンスターペアレント(長い単語!)」になるからそいつを自粛する必要もある。でも、小さな人の「こうありたい」は思い切り応援してあげても良いと思っている。


 僕の母は、娘がこの一人称を使うことに気付き驚いた。そしてこの僕に「自分達を形作っている、同一性のすこしあやふやな部分がちくちく痛むから、彼女には『わたし』と言わせてくれ。」と言外に言ってきた。いやいや、こうした人達がマジョリティーなのだから、そちらに従うのが流儀というもの。彼女の言い分は、根拠は抜きにしても大概正しいことにした方が無難だ。だから、「うんうん、わかった、僕の躾が悪くてすまない。」と、取り敢えず言っておく。そして、自分の思考を社会的に行使することを一人前に始めた若者には何も言わないでおく。


 しかし…だ。


 僕が台所で煮物などを作っているとその匂いを嗅ぎ付けて娘が寄ってくる。「鳥と根菜の煮物だ。」と僕が言うと「わー、食う!」と言う。おいおい、「食べる」と言えよ、「食べる」と。これには若干の抵抗が僕の中にあることに気付く。自分を形成している社会的感覚の基準が判って確かに面白い。


 誰だ、この若者にとぼけた思考を身につけさせたのは。

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