「一旦、ジタバタするのを止めようよ。」


と夏休みの始めに、模擬試験の結果を見てがっくりしている高校一年生の塾生に言った。


 彼の前に置いてある数学の解答用紙が彼の格闘の様子を表している。

二次関数の応用問題が書きかけのまま部分点さえ獲得できずに終わっている。


 何とかしたいと思うから基礎基本を徹底すべく問題集を始める、しかも基本から。でもやっているうちに他所が不安になって色々手を出し始める。一生懸命やるから時間だって結構かかる。で、何となく出来た気がし始める。


そして、苦手な部分の応用に着手する。


とたんに気力が萎える。


「結構時間も掛けたし、しっかりと基本問題も理解できた」。とか、思い始める。


で、結局「これだけやったんだから」と自分の現実を観ずにそこで手を引いて試験に臨む


…これでは実力が伸びるはずがない。


 「よし、じゃぁとても苦いけれど即効性のある方法をやってみよう。最後まで付き合うから。」と彼には難問に部類するものを五題、手渡した。たった五題だけれど終わるのに一月近くかかった。その問題ばかりやるわけにゆかないから他の教科もやりながら。ただ、数学だけはその問題のみだった。同じ問題の同じ部分を、問題の解法の全体の流れを、何度も説明した。少しずつ理解して最後に彼は五題の全てについて「何故そのようであるか」解説できる様になった


 余談だけれど、理解しているかどうか確かめるのに「わかった?」の問いは全く役に立たない。


 喋ってもらうと一発で判る。だって、喋れるのだから!つい先日、夏休み終わりに受けた模擬試験の結果を彼が持ってきた。


二次関数の応用がほぼ完璧だった。


 基礎基本の徹底という言葉に誤魔化されるなよ、基本十題より応用一題苦しむ方が効率も良く実力も伸びるし、何より自分が理解できた実感が得られる事が多くあるのだから。


 「応用問題との付き合い方がわかりました。」と安堵の溜息を、彼はついていた


…でも、この次は小問集合の計算ミスを少しだけなくそうね(笑)。

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~白への感受性~

 完成された物に対する賛美、驚嘆の気持ちはどこから来るのだろうか。そんな思いに一つの答えを与えてくれた入試問題がある。


 〇九年の東大の現代国語で「白に完成されたものをしたためる思い」それを不可逆性に対する心理と表現して教えてくれた。


 なるほど。例えば書家の作品。最後に筆が紙面を離れるその瞬間まで、まさに不可逆性があり、その筆にかける完成への気迫を想像すれば、僕に賛美と驚嘆の感情が湧くのも納得が出来る。


 それに対して例えばインターネット。その中では日々膨大な情報が蓄積され、刻々と全てが修正されてゆく。一連であっても、時間を経ると、情報は全く違った方向へ向かっている事もあり終わりがない。それらは不可逆性を無視しているようにも見える。そこからは「完成への憧れや賛美」が見えてこない。未完成が常なのだ。


 現代社会では、未完成であるものの利点を享受しつつ、完成されたものに対する僕達の「一刻への憧れ」を持ち続ける心が更に強くなってゆく気がした。

  (東京大学2009国語科入試問題 原研哉「白」)

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 ~社会と個人・世間と?~

 大阪大学だったか、千葉大学だったか忘れてしまった。明治維新以降の個人と社会の有様を論じたものの一部が評論文の問題として掲載されていた。

 なんでも、社会とか個人という言葉は明治になって使われるようになった言葉だそうだ。「ソサイエティー」の訳語「社会」、「インディビジュアル」の訳語「個人」。そしてもう一つの言葉、従来日本にありはしたが十分に僕達が対象化して考えてこなかった「世間」という言葉。世間と言う言葉には、社会に対応する個人のようなついになる言葉が無いそうだ。

 僕達は明治以降緩慢に、同一性の障害を重くしている。西欧の「個人~社会」が本来日本人が模倣しようとした同一性を重視した関係だ。ところが僕達は、「個人~世間」と「個人~社会」の二種類の関係に揺れ動いている。そして病んでいるのだそうだ。

 個人の帰するモノが、従来の意識せずともそこに存在していた「世間」なのか、それとも近代化の道を目指すこの国を成り立たせる為に必要な「社会」なのか。僕達は未だに決め兼ねているそうだ。

 こうした迷いの中で生まれる同一性の障害は、僕らを百年の間蝕み続けている。その責任は、僕達自信にある。少なくとも、必ず最後には…誰かが責任を負うことになるという段落でこの現代国語の出題文が終わっている。

 …どちらか決めて、社会を子ども達に引き継いでもらえるようにしたい。
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 高校一年生で学ぶ科目。


・数学ⅠA

・国語

・英語

・生物

・倫理

・政経

・その他…


これだけでセンター試験900点満点で考えても700点分


僕が高校一年生の塾生に必ず言う言葉


「高校1年生こそ受験生。遊ぶのは3年になってから。」


勿論志望校も決まり始めた頃になって遊びまくるようならハナから高望みは出来ない。


一年生の今こそ高望みをしていざ、受験勉強だ!


高校生になって逞しさを増した娘と情けなさの目立ち始めた父が、飯を食いながらポツポツと話をする。


「最近、生物の授業で遺伝について色々新しく知ったよ。それから、免疫システムも少し。」


「あの辺ってさ、勉強してると物質と生命の境目が見えてこない?」


「うんうん、もうちょっとミクロに寄ったら物質感もっと増すよね。」


 物質がエネルギーを吸収してより複雑な物質として存在する。僕らの体はそうした物質のうちエネルギーをタンパク質として保存し続ける為のシステムを持っている。「僕」はそうしたエネルギー能物質を統括維持するシステム

 そう考えると、思考の主体である「僕」は、僕の命の主体でななく思えてくる。「僕という物体」。その有様が特異過ぎて愛着が湧く。

 僕という存在は細胞分裂を繰り返し、自分自身を維持することに限界を迎える前に自分自身の半分を情報として遺伝子に残し別な維持システムを持った子に受け継がせる。

そして…維持能力が限界を迎えてその全てのシステムを停止する。 「」だ。 そう考えてみると僕の祖母や父の死は、すごく当然のこととして僕の中に収まってくれる。


「なんだ、愛している人達は私の中にちゃんと居るじゃないか~!」

「僕も、お前さんも、『私』と思っているこのシステムは、その体の主人なんかじゃないね。『私』の方が実は生命システムを維持する為の執事みたいなもんだね。」

「うんうん、私達は生命という形をもった物質なんだ~。」


今から30年以上前にある生物学者が言っていた。

「私達は、DNAというお客を乗せたタクシーのようなものです。」

納得。