最近、保護者参加の授業が増えました。


 お父さんやお母さんと僕、そして塾生がその時その時の学習テーマを一緒に考えたり、勉強のことを話し合ったりしています。親子同士ではついつい喧嘩になってしまう話し合いも、冷静に話ができたり、我が子の得意なこと、ほめられること、苦手なことがよくわかって楽しいそうです。また、一緒に共通の勉強をすることで時には塾生が親御さんに教える場面もあります。


 結構、学力向上には大切な人間関係が構築できるように思います。


…どうですか?お子さんと一緒に微分積分や関係代名詞の勉強、しませんか?


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最近、文部科学省が実施する「全国学力テスト」なるものの国語と数学(中3)の問題用紙を手に入れた。新潟では基本的に個人に配布せず、返却するのが常だったからちょっとびっくりした。


国語と数学の中身をよく読んでみた。くできたテスト用紙だと感心する。問題の一つ一つが吟味されていて、目的をしっかりと持って出題されている。


そして、更に気付いたこと。


全てが「文字」を通して「意味を解釈」しなければ、まず解答が困難であるということ。


ってことは、


①文字を読もうという意欲がキチンとあって

②読解力が身についていて

③論理的な思考ができる


こんな条件があれば高得点可能であると思った。あれれれ?ちょっと間違えた間違えた。(こんなこと言うから点数主義とか勘違いされる。)


よく考えたら①②③って、思考の基本のような気がする。これらが身についているって、学力面ではとっても大切なことだし、このテストの結果はそれによるところが大きいと思った。


ふと、娘の校区の数学の成績が全国平均よりかなり下回っているのだが、ひょっとして、数学の指導が問題なのではなくて、小さな頃から「言葉(文字としても音としても)」に触れる経験に裏打ちされた「論理」の力が不足しているからではないか。


だとすれば、国語科の指導を、校区の小学校中学校が連携しあって、もっともっと「言葉」と「論理」に関するより良い指導が企画されていないから、数学的な力にも影響が出ているような気がする。ただ単純に数学が苦手じゃなくて、「数学的思考」をするのだって、「言葉」ですることが多いのだから、ここんところ、どうなってるんだろ?


松柏塾では10年以上前からこの事に気付いて指導にあたっているけれど、このことについては結構確信めいた思いがある。


学校組織でやってくれたら、もっともっと子ども達は自分の思考に自信を持って伸びて行けそう。


数学の先生と、国語の先生が、もっと連携して、新たな授業の創造をおこなってくれたらいいな^^

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「どだ、コイツは訊いておきたい、謎を解いておきたいことってある?」


殆ど毎回、塾生に尋ねる言葉。

「何か良いことあった?」(別ページ参照

と同じくらい毎回塾生に会ったときに訊く言葉。


「基礎基本の徹底」は確かに大切ではあるけれど、どうも学校では教えてもらってきてない。


「解らないことを探す」、これ、教わってきてない。


きっと伝えようとしている先生は居るのかもしれない。でも、きちんと生徒達に伝わっていない。「解らないことを探す」を、もっときちんと納得、実践させれば「基礎基本の徹底」なんて、先生方が必至にならなくたって、そして学習面のスローガンにしなくたって、自動的に達成できるような気がする。


「えっと、ここ、答え見てやってみるんですけど、ピンとこないんです…。」

と、きちんと毎回数個の質問をする塾生は、或いはその努力が見える塾生は、理解すべき事項を最後には解決して戻ってきた答案用紙を納得の面持ちで眺めている。


「あはは、わかんない事だらけですから、今日はここだけ解ればいいです。」

と、「疑問ノート」を作り、それを眺めながらニヒリスティックに笑う塾生は周囲の期待を裏切って第一志望の進学先を手にする。


「解らないことを探す」これ、手伝って、本人が自分で出来るようにするのが僕の仕事。


難しいけれど、諦めたらいけない、僕の仕事。


ただ単に成績を上げる為にその時だけ、即効性のあることをベラベラ喋るだけなら出来る。

でも、それと比して目立たないけれど、若い人達の「伸び」に最も影響するのが


「解らないこと探し」。


さて、今日もがんばろっと。


↓↓↓これから授業前の夕方の青


浮雲シングル ~松柏塾日記~-夕暮れの青

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■言葉を

 言葉は、大切だなと思う。こんな日記を公開しているから、本当はもっときちんとした言葉を使えないといけないと思っている。年中恥ずかしい言葉の使い方をしていることに気付くと恥ずかしいと思う。


…でも、言わせてもらう。もう恥ずかしいなんて言っていられる歳でもないから。


 子ども達から言葉をどれだけ長い間奪い続けてきたのかと思う。


 塾を主宰していて思うことは、みんな意外に思っていることを喋っていないんだなと言うこと。学校や友達のこと、親のこと学校の先生のこと。まるで話してはいけないと思っているように言葉がない。身の回りのこと、今日起こったちょっとした出来事、朝食べた飯が不味かったとか食べ過ぎたとか、色々。


 僕は授業の始めに、ここ15年間、いや、20年以上続けてきている言葉を音にする。


「何かいいことあったかい?」


どんなことでも良い。良かったことは勿論つまらなかったこと、哀しかったこと、馬鹿らしかったこと、腹を立てたこと、何でも良い。で、続ける。


「元気で生きてて最悪なのは、何もないこと。悪いことがあってもそれはまだマシ。何にもないことが一番悪い。」


ずーっとそれを続けてゆくとやがてみんな何か僕に教えてくれる。普段の生活のこと、腹を抱えて笑ったこと。とにかく色々。聞いていてすごく楽しいし、考えさせられる。


「…なんだ、こんなに色々あるのに。」と思う。不思議に、彼らも「なんだ、結構色々あるじゃん。」と思うらしい。そして、段々と言葉の数が増えて、雪崩みたいに話すようになる子ども達は、雪崩みたいに急激に変わってゆく。


言葉は、学者さんのように沢山語彙がなくたって良い。自分の持っている言葉で十分だ。言葉を使うこと、字や特に人に向かって音にすることが大切だと思う。それはやがて同一性を安定した物にし、自分の生きてることを実感できる道具になるから

もっともっと、子ども達に沢山話す場所があればいい。

分数の出来ない子どもが多い。あ、土台、世間の方々が言う「分数が出来る」って、なんだ?分数は動詞か???まぁ、いいや。


例えば


「 1/2 + 1/3 = 5/6 って、なんで?」


と質問しても説明できない子ども達が多すぎる。なんでだー???と考えていた。

確かに、計算の方法だけ知ってて、パッパと出来ればそれでよいのかもしれない。


でもでも、それってなんだか変だ!


理解が先か技能が先かなんてことに拘泥したい訳じゃない。

その両方が、小学校を卒業したなら、どうしてセットじゃないんだ???

しかも、学習能力的にはかなり十分な子ども達ですら説明できない子ども達が大勢いる。


見せかけだけの計算能力は、将来の学習を狭く難しくする。

しかも、周りだけでない、本人ですら「自分は分数がわかっている!」と思い込んでしまう節があるからもっとまずい。

その勢いで高校生になっても学習のプロセスを勘違いしているから、実力が頭打ちになって

「訓練こそ知性を生む」とばかりにやっきになって「センターの訓練」をする。で、結局十分な結果を出せない。


満足する結果に至るまでにはとても長いプロセスがある。


一緒に勉強してくれて、医学部や東京大学に入学した子ども、国立大学を推薦で合格している僕の所の塾生、つまりは実力が十分に出せた子ども達はどんなだったかと振り返ってみる。


僕の所は彼らが小学校から大学入試までつきあう。長い間一緒に勉強してくれる。だから見えることがある。


…それは、


「わかっていること と わかってないこと の区別がしっかりとついている」

「なぜそうなるのか? をきちんとおいかけている」


ことだった。それもできるだけ早いほうが良い。


小学校中学校は、「基礎学力の徹底」をスローガンにしていても、事実上は「技能重視」がめだつ。

優秀な子ども達はそれでも良いかもしれない。でも、もっともっと知的に伸びてゆく子ども達は居るはずだと、

僕は思う。それも、中盤層の中にだ。その子達をのばしてやれないなら、何が「基礎学力の徹底」なんだろう?


それなら、「基礎学力の徹底」なんて言葉を使わずに、「基礎作業の徹底」に置き直した方がよい。