2010-05-08 18:38:24

化学戦と犬達 其の1

テーマ:化学戦と犬達
忽ち起る毒瓦斯の白煙、佐野小隊長は命じた。着剣、面を附け。
みれば三十名と三十頭の軍犬が一斉にマスクをかぶり、そして執銃の隊員一同は着剣した。
それより直に西方より潜入せんとする便衣隊に對する攻撃に移つた。
雨の中、白煙の中小隊の銃声、屋上の機関銃と敵機の唸りの交錯、伝令犬飛び、担架隊及国防婦人の活躍。
煙幕をたいて今や小隊は突撃に移つた。
この刹那指揮官佐野小隊長は敵弾に當つて倒れた。
突如起る突貫の叫び「突つ込め〃〃」「ワーツ!ワーツ」。
この時黒山の観衆も一斉に拍手を送つた。

阪神防空演習にて、昭和11年


がすますく

冒頭は昭和11年9月、大阪で開催された阪神防空演習の様子。
参加したのは、KVの義勇軍犬隊(ボランティアの民間組織)でした。
大阪上空に侵入した敵機が大阪朝日新聞社附近に焼夷弾と毒ガス弾を投下したとの想定で、空襲及び化学戦下での軍犬運用訓練も行われたのです。
軍用犬演習の内容は、市役所から逃走を図ったスパイの逮捕、朝日新聞社爆破を試みる不審人物の捕縛、大阪市街に潜入した敵便衣隊の制圧、各部隊間の伝令、空襲で途絶した電話線の再架設、毒ガス中毒者捜索など。

この時期、将来起こり得る化学戦に備えて、日本も着々と準備を進めていました。
軍馬や軍犬といった数多くの動物達も、その計画の中に組み込まれていきます。


世界各国が化学兵器の配備を拡大した時代。
第一次大戦における化学戦の記憶が残っていた時代。
日本が戦時体制へ突入して行った時代。
まあ、当然の流れとしてこうなりますよね。

帝國ノ犬達-瓦斯
●昭和11年の帝国軍用犬協会報より 九五式防毒具を装備した演習中の軍犬。

1915年4月22日、ベルギーのイーペル戦線。
この日、現地に展開するフランス軍に対し、ドイツ軍が毒ガス放射攻撃を仕掛けました。使用されたのは「緑十字」と呼ばれた窒息性の塩素ガス。
フランス軍は大混乱に陥り、約2万名の死傷者を出したといわれています。

この日から、人類史上初となる大規模化学戦が始まりました。
翌年5月にはボミロフのロシア軍に対して再度の緑十字放射攻撃が行われ、イギリス軍もドイツ軍に対して塩素ガスで反撃します。
双方の応酬により、更に強力な化学剤が生みされていきました。
アルカリ剤による塩素ガスへの対抗策が確立されるとホスゲンが投入され、1917年からはドイツ軍が「黄十字(糜爛性のマスタードガス)」や「青十字(嘔吐剤)」の使用を開始。
第1次世界大戦における凄惨な化学戦では、各国で多数の兵士が犠牲となっていきました。

ナチス総統のアドルフ・ヒトラーは、第1次大戦出征中に負傷した時の体験を下記の様に記しています。

「十月十三日夜から十四日の早朝にかけて、イギリス軍はイープルスの前面で、毒ガスを発した。
それは我々がはじめて見た、「黄十字(※マスタードガスの俗称)」であったが、私はその効果を調査せねばならなかった。
我々は、ヴェルヴィック南方の小丘でこの毒ガスが一晩中猛烈に発射されるのに出遭った。
真夜中頃までに、我々の半数が倒れ、そのうちの幾人かは永久に生き返ってこなかった。
夜明けが近づくと、私は怖ろしい苦痛に見舞われた。そして朝の七時に私はよろめきながら後方へ退いた。
数時間後、私の目は熱した石炭のようになった。私のまわりが、すっかり暗くなりはじめた」
ヒットラア「我が闘争」より 室伏高信翻訳版。

帝國ノ犬達-犬用ガスマスク
第1次大戦にて、ガスマスクを装着したドイツ軍用犬。「欧州大戦と軍用犬」より。

ドイツ軍の化学兵器及び其の戦法の発達には、下記の様な特徴があったとされます。
1.絶えず新しい変った瓦斯資材、戦法を用い敵を混乱せしめんと努力したこと。
2.最初に敵を刺激剤に依って塹壕よりおびき出し、其処で最早戦に移り得ない様に他の物質を撒布して戦闘不能に陥らしめるか、又は殲滅せんと努めたこと。
3.敵軍の用いた防護法を無力化せんと努めたこと。

第一次大戦の西部戦線では、各国の軍用動物たちも毒ガス攻撃に晒されます。
人間と同様、化学兵器は動物たちにも深刻な被害を及ぼしていました。
その中から、イギリス軍用犬の報告事例を列挙します。

管理者Bの報告
Tは此十二ケ月ユブレス方面Yopres Seetarにありてしばしば第九師団及高原軽歩兵より須要なる伝令は成功せり。
ある時彼は毒瓦斯に苦みつゝ榴散弾破片による肩の受傷に生死の間にあるを物ともせず塹壕煙幕等を突破して任務を完ふせり。

管理者Nの報告
昨夜吾人は忌はしき毒瓦斯の攻撃を蒙りたるが、犬の防毒覆面を有せざりし為め止なく、素面のまゝ放任せるも大なる被害を被らざりき。
小官は犬は人より能く毒瓦斯に堪へ得るものと思考せり。
小官はTが頭部を負傷せる時、局部を剔毛洗浄して包帯せるに幸にして恢復せしむるを得たり。

管理者Oの報告

或時Tが第一線の塹壕にありし時、彼の優越せる嗅覚により電話にて通知するより二十分も早く、司令部に毒瓦斯襲来の警告を与へ得たり。
此価値や絶大にして、此勤務や實に賞嘆に値す。
毒瓦斯の襲来せる場合には、小官はTの頭に人用防毒覆面を応用するを例とせり。

管理者Mの報告
小官共は一九一八年四月、前記の地を出発してハゼルプルツクHazelbrouckに向へり。
而して第二十九師団が来りて第三十一師団に交代する時に、ニーペNieppe森林方向に於て我軍は少しく前進せり。
其際犬は大なる功績を表はせり。
此時第八十八師団長は八十三番犬及六十五番犬を非常に賞して報告せり。
此報告が公に軍用犬の感賞せられたる最初なり。
尚我軍の小前進を企てたる時、二頭の犬は不幸にも毒瓦斯に中毒し、前線より帰るや三週間病院に入院せしむるの止むなきに至れるも、瓦斯攻撃中は何れも十分満足すべき成績をあげたり。
後にニーペNieppe森林方向に於て我軍が小前進する時、P犬は前哨線にて毒瓦斯に中毒し、盲目になれるも尚正直に十七粁を隔たる自己の犬舎に向ひて走せ来り。
分犬舎の直前に迫り遂に倒れ、小官に救はれたり。
P犬は幸に後三時間にして元気を恢復するを得たり。

イギリス陸軍中佐R・H・リチャードソン「英國の軍用犬」より

帝國ノ犬達-dog gasmask
ガスマスクを装着したエアデールテリア。第1次大戦のベルギー戦線にて。

第一次世界大戦に於いて大々的に使用された化学兵器。
その凄まじい威力に各国の軍隊は恐怖し、そして自国での配備に取り掛かりました。

化学兵器を保有・使用する以上、対応策も同時に研究する必要があります。
それらは兵士用の防護・治療法だけではなく、軍用動物達にも及んでいました。

「軍用動物は粗末な扱いを受けていた」とかいう主張もありますが、軍用動物は多大な国費を払って調達・運用管理される存在。粗末に扱ってよいものではありません。
軍用動物の運用管理にどれだけの労力と技術と資金が費やされていたか位、当時の日本陸軍獣医学校や騎兵学校の史料を調べれば一目瞭然でしょう。
……まさかとは思いますが、それらの史料を調べもせずに歴史批判してませんよね?
苛酷な環境下で運用されていたという事実を「粗末な扱いだった」へ結びつける態度は、あまりにも無責任です。

そんな事はともかく。
第一次大戦において、化学兵器防護装備は急速に進化していきました。
当初は顔を覆うだけだった簡易マスクは、すぐに浄化フィルターを備えたガスマスクへと発展。
同時に、軍馬や軍犬用のガスマスクも各国で開発されていきます。

もしも馬や犬が「消耗品」であれば、そんな装備など要らない筈でしょう?
毒ガスで消耗品が死んだら、新たな馬を補充すればよい訳ですよね?

現実世界の軍隊では、そんな妄想とは逆の対応をとっていました。
大切な軍馬や軍犬を護るため、必死の努力が続けられたのです。

帝國ノ犬達-犬用ガスマスク
化学戦演習中のヴァイマル共和国軍兵士とドイツ軍用犬(第一次大戦後の撮影)

第一次大戦の化学戦については、世界各国が注目していました。
「いつの日か自国も化学攻撃を受けるのではないか?」
「それなら先に保有してしまおう」
と。

臨時軍事調査委員會の欧州大戦視察報告などを元に、我が国も列強に後れを取るまいと化学兵器の研究に着手。
兵士用の防護装備や医療方法の開発にも全力が投じられました。

昭和に入ると、軍馬や軍犬用の防毒具が開発されます。
犬用防毒具の必要性について、陸軍獣医学校の資料ではこのように記していました。

「瓦斯防御 第一節 要則
犬の鼻は馬に比し濃厚なる瓦斯雲に接触するの姿勢にあり。
又眼と耳とは瓦斯に對し比較的鋭敏なるのみならず、犬の呼吸は口腔にても行ふを以て、一般に瓦斯に對しては不利なるも、特に青剤(窒息性ガス)及び黄剤(糜爛性ガス)に對しては鋭敏なるを以て防護の要あり」


帝國ノ犬達-犬用ガスマスク3
国内演習にて、95式防毒面を装着した日本軍犬(正面からの撮影なのでレンズが隠れています)。
兵隊さんが胸に下げているのは兵士用のガスマスクバッグです。
実戦では犬より兵士が先にマスクを装着するよう指導されていました。そうでなければ主従共倒れの危険がありますから。

これらの動物用ガスマスク、ソ連軍や中国軍との戦いで使うつもりだったのでしょう。
実際、中国で日本軍の軍馬用防毒覆いが発見されたとのニュースも報道されています。

現在は日本軍の生物化学戦ばかり注目されていますが、結論から言うと日中双方とも使っていました。
但し、当時の中国軍の化学兵器生産能力や化学戦能力は貧弱なものであり、前線に配備する防毒装備すら不足していた様です。
日本側の記録にも、中国軍から催涙ガス(塩素ガス?)攻撃を受けた報告例が幾つかある程度。

細菌戦についても同様で、ドイツ軍事顧問からの技術支援があったとはいえ、当時の中国軍に各種細菌兵器の大規模製造・運用能力があったかどうかは怪しいものです。
満洲事変の頃、日本軍は「中国側が井戸を炭疽菌(?)で汚染した」などと非難し、証拠の細菌用アンプルを公表していますが、その真偽は不明。



もうひとつの脅威として、満ソ国境で対峙していたソ連軍の存在があります。
ノモンハンや張鼓峰での軍事衝突もあり、対ソ戦の可能性は常に検討されていました。
ソ連軍が大規模な化学戦部隊を運用していたのは周知の事実。
日本陸軍の蘇聯軍研究史料には頻繁に化学戦部隊が登場しますから、「何をするかわからない、謎の軍事大国」として相当に警戒していたのでしょう。

しかし、第2次大戦(ソ連側の呼称は大祖国戦争)では激烈な戦闘を繰り広げながらも、独ソ両軍は化学戦に踏み切りませんでした。
第1次大戦従軍時に毒ガスで負傷したヒトラーが化学兵器を忌み嫌っていたとか、先制使用に対する苛烈な報復を恐れたのが理由だと言われています。
ドイツ兵が携行するガスマスクは、ロシアの極寒から顔面を護る防寒マスクとして活用されたのだとか。
モノは使いようですねえ。
お互い大量の化学兵器を保有しながら、独ソ両軍とも第一次大戦の悪夢に囚われ続けていたのです。

「来るべきソ連軍との化学戦」は日本側の杞憂だったのかもしれません。
しかし、満州の権益拡大を図る日本にとって、ソ連との軍事衝突は避けて通れない道でした。
強大な化学兵器大国であるソ連に対し、日本側は対抗策を強化していきます。


帝國ノ犬達-防毒犬2
化学戦演習中の日本軍伝令犬。撮影場所等非公開。昭和11年

結局、中国大陸での細菌戦や化学戦に関しては日本軍の独壇場となりました。
日本各地で生産された多数の化学弾が前線へ送られ、今なお地中に遺棄されたガス弾が発見されています。
勿論、日本軍による化学戦の有無や規模については諸説ありますので、軽々しく結論を出すべきものではありません。
細菌戦については、関東軍の第731部隊(関東軍防疫給水部)や第100部隊(関東軍軍馬防疫廠)が有名ですね。
こちらは極めて秘匿性の高い部隊でしたから、実態は謎に包まれています。
各方面からの追及にもかかわらず、アメリカ軍と石井四郎部隊長の取引による情報隠蔽、更には噂や憶測や捏造写真問題まで入り混じって、731部隊の全容はよくわかっていません。
100部隊については、第2部(研究)隊員だった方の著書によると、日本から送られてくる軍馬の検疫指導、満洲各地で頻発する家畜伝染病の封じ込め作業や畜産農家での予防接種に大忙しで、細菌戦などやっている余裕は無かった様です。
但し、第1部(防疫任務)、第3部(家畜病毒菌培養)、第4部(機材担当)の活動内容については不明です。

日本軍が中国で生物化学戦を展開していたのだとすれば、これら動物用の防毒衣は、毒ガスを撒布した地域に軍馬や軍犬を突出させる為の攻撃用装備だったのでしょうか?
それとも、敵の化学攻撃を受けた際に軍用動物を護る、防御的装備だったのでしょうか?

軍事知識や歴史認識によって、この辺が評価の分かれる部分ですね。

ギャーギャーと不毛な論争をする時間があるなら、自分で体験してみればよいのです。
嫌イヤながら、私も率先して実験台となりました。本当に面白かった嫌々だったんですよ。
去年の夏のことです。

・真夏の室内でエアコン弱め、ガスマスクを数時間装着
・真夏の深夜(人目もありますので)、マスク装着でマンションの非常階段を7階まで昇り降り

結論としてはですね「こんなモン被って戦場を駆け廻るとかムリ」です。
汗で蒸れる。息苦しい。鼻の頭が痒いのに掻けない。レンズが曇って視界ゼロ。喉が乾いても腹が減っても何も口にできない。
宅配便のお兄さんが来ても対応できない。時間を持て余しても居眠りすらできない。

帝國ノ犬達-防毒犬1
ガスマスク姿で訓練中の日本軍犬。

結構誤解されていますが、化学戦防護装備は長時間の戦闘行為に向かないシロモノです。
防護スーツはともかく、マスクはあくまで短時間の応急措置。
嘘だと思うなら、アナタも軍装品店かネットオークションでガスマスクを購入し(ロシアのGP-5や旧東独製のSchマスクが安価です)、半日ほど装着してみてください。
街中でやると通報される危険がありますので、自室内での実験をお勧めします。
暑い時季なら、頭部を覆われる密閉感と汗と蒸れによる不快感で窒息しそうになる筈。
飲食はおろか、うっかり居眠りすら出来ません。
息苦しくて無意識のうちにマスクを剥ぎ取ってしまうか、目覚めたとき何かが顔にへばり付いているのでパニックを起こすかのどちらかでしょう。
皮膚からも浸透する神経ガスやマスタードガスに対しては、更に全身を化学戦防護服で覆う必要があります。
その状態で重い武器や装具を身に纏い、命を守るために蒸し風呂地獄を味わう。化学戦とは難儀なモノですねえ。
4時間くらいで装着実験をギブアップした私は、毒ガスの開発者を全身防護服にくるんでサウナに放り込みたい気分になりました。
以上。


犬


馬


車輛で移動する現代の機械化部隊ならまだしも、こんなものを着たまま、当時の兵士が汚染地帯で戦い続けるのは困難です。
人間ですら堪え難いのに、体温発散を呼吸に頼っている犬にとって、ガスマスクを長時間装着させるなど拷問に等しい行為でしょう。
陸軍獣医学校のマニュアルでも、その辺の注意事項が記載されています。

第三節 防護衛生
防護具を装して軍犬を使役するに當り、衛生上注意すべき事項左の如し。
一、犬は生理的に体温調節と呼吸作用とを専ら鼻、口を以て行ふが故に、特に夏季に於て肺心に對する疲労大なるを以て休憩時間の配當、給水等に注意し、過労せしめざるを要す。
ニ、体質虚弱、鍛錬不十分なる犬及フイラリア寄生の症状ある犬は炎熱時装面伝令行軍は注意を要す

当時の化学戦防護服は、敵のガス攻撃に対する緊急避難や、一時的に汚染地帯を通過する際に使うもの。
防毒服の耐久時間自体、それ程長くはありませんでした。
化学剤の種類によっては防護服のゴムを貫通するものがありますし、軍犬用の防毒脚絆だと耐久時間は30分程度とされています。

帝國ノ犬達-犬用ガスマスク


日本軍では、犬用防毒具を使用するケースを下記の様に想定していました。

軍犬に防護具を装着する時は、視界を狭少ならしめて伝令速度を減じ、嗅覚力を低下し呼吸器の疲労を大ならしむる等、可成犬の固有の性能を減殺するを以て、馬に於けるが如く行動間の防護は比較的困難なれども
青剤及黄剤中に於て伝令を強行せしむる場合には各個防護を、又駐止間又は行軍間等に於て青剤の急襲を受け然も之れら瓦斯地帯外に退避せしめ難ときは各個防護又は要すれば集団防護の手段を執らしむるものとす。
軍犬に對する集団防護法は通常小箱、塹壕、犬舎或は防毒室を利用し其の出入口には防毒剤又は水浸せる掛布を設くれば概ね防護し得るものなり


毒ガス攻撃下では身を守るのに精一杯、せいぜい短距離の伝令任務を行う程度だった様です。

帝國ノ犬達-防毒犬3
化学戦演習にて、伝令任務中の日本軍犬。昭和11年。

それでも、日本軍は生物化学兵器の開発に邁進。軍馬や軍犬の対化学戦研究も実用化の域に達します。
昭和3年から9年にかけて「研究中」と表記されてきた化学戦訓練及び化兵創(化学兵器による創傷)応急処置法は、昭和10年から軍用犬訓練教範に登場。
この頃までに、動物実験による「あか(クシャミ剤)」「あを(窒息性ガス)」「きい(糜爛性ガス)」剤の効果及び防護法に関するデータが蓄積されていったのでしょう。

まずは昭和10年の教範より(原文はカタカナ文です)。

第四節 對瓦斯訓練
第百五十七

毒瓦斯に對する犬の抵抗力は人に比し一般大なり。
殊に戦場に於て遭遇すべき濃度の一時性瓦斯(某種の瓦斯を除く)に對しては迅速に通過せしむれば、無防護の場合と雖も感毒せざるものとす。
第百五十八
軍犬は瓦斯内の通過を忌避せざるものなり。
第百五十九
伝令犬をして一時性瓦斯を横断して伝令を行はしむる場合に於ては、勉めて装面せしむるを可とするも、状況之を要すれば、無防護の儘連絡を強行せしむることを得るものとす。
第百六十
装面して行ふ伝令は状況により異なるも、予め連絡路を固定しある場合に於ては、生地にて千米内外、道路上にて二千米内外の距離を確實に連絡せしむることを得るものとす。
其他の場合に於ても概ね之に準ず。
第百六十一
防毒面及吸収剤は犬の嗅覚作用を絶對的に阻碍するものにして、装面せる犬は足跡及補助臭気を嗅知し得ざるものなり。
第百六十二
装面して延長連絡路を追及する動作は一般に困難なり。
故に延長距離の限度は状況有利なる場合、錯雑地に於ては五百米とし、道路を利用する場合及地形平易なる場合に於ては千米内外とす。
第百六十三
装面して伝令を行はしむる場合、連絡路の延長部は予め固定せし連絡路の方向に直線に選定するを要す。
此の場合、起(終)点兵は勉めて展望良好なる位置を選定し、伝令犬を迅速に発招呼するを有利とす。
第百六十四
撒毒地帯を通過して伝令を行はしむる場合は、通常四肢を防護し装面して強行せしむるものとす。此の際、なるべく速に消毒の処置を講ずるを要す。
第百六十五
防毒脚絆を穿ち装面せる場合の伝令能力は、概ね覆面のみを装せる場合に準ずるも、連絡距離及速度は一般に低下するを通常とす。
第百六十六
応用訓練を修得せる犬に對しては、防毒面及防毒脚絆の装着に慣熟せしむると共に、装面時或は簡易に防護せしときと雖も、簡単なる伝令勤務を遂行し得る如く訓練するを要す。
(中略)
第百八十八
瓦斯攻撃を受け、或は毒瓦斯地帯を通過し連絡を行はしむる場合の処置に関しては、對瓦斯訓練の部に準拠するものとする。

帝國ノ犬達-ガスマスク犬
ガスマスクを付けて飛越訓練中の軍犬。昭和11年。

続いて昭和13年。

「防護具の使用に當り注意すべき事項は左の如し。
装面馴致不十分なる犬は之れを嫌ふ性質ありて、伝令途中故意に脱除することあるを以て締紐の一端を首輪の環を通し以て、自ら脱除するも其の紛失を防止し得る如く処置するを要す」


帝國ノ犬達-ガスマスク犬2
ガスマスク犬のジャンプ。昭和10年。

続いて昭和16年の資料より

第六十八

瓦斯攻撃を受くる虞ある場合は予め防護の処置を講じ置くを可とするも、瓦斯急襲に際しては先づ自ら装面したる後犬の防護処置を講ずるものとす。
撒毒地域を通過し汚毒されたる犬は先づ信書を伝達し速かに消毒の処置を講ずるを要す。
(略)
第二百六十九
傳令犬は防毒面及防毒脚絆の装着に慣馴せしむると共に、装面時或は防毒脚絆を装着せしときと雖も連絡勤務を遂行し得る如く訓練するを要す。
第二百七十
防毒面及防毒脚絆の装着は、各別に慣馴し逐次運動を課し、次で両者を併用するを可とす。
装着に慣熟するに至れば、之を附したる近距離の伝令訓練を行ひ、逐次距離を延長し、概ね六百米を往復し得るに至らしむるものとす。
此の訓練は犬を連行して連絡路を構成したる後實施し、特に犬の動作を監視し得る場所を選定し、途中に於ける之が脱除を警しむるを要す。
第二百七十一
防毒面の装着を嫌忌し、前肢を以て之を脱除する犬に在りては、頸に円板(エリザベスカラーの事です)を装し、其の脱除を妨げ、漸次慣馴せしむるを可とすることあり。

帝國ノ犬達-ガスマスク犬3
もう1回ジャンプ。昭和10年。

「瓦斯急襲に際しては先づ自ら装面したる後犬の防護処置を講ずるものとす」とあるのが面白いですね。
もしかしたら、愛犬にガスマスクを装着させようと夢中になる余り、自分のマスクを被り忘れる兵士が訓練時に続出したのかも。

主人が倒れたら犬はマスクを被ることが出来ません。
主従共倒れを防ぐ為には、人間の防護が優先でした。

帝國ノ犬達-ドイツ軍用犬
防毒装備のドイツ兵とドイツ軍犬。

この日本軍の犬用防毒マスク、実際はどのようなモノだったのでしょうか?
次回は、95式犬用防毒具と演習で使用された記録などについて解説します。

(続く)
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2010-05-08 18:30:02

化学戦と犬達 其の2

テーマ:化学戦と犬達

第二部:毒ガスと軍用動物

※動物用ガスマスクについて取上げるなら、併せて化学兵器の被害に遭った動物の姿も知らせるべきだと思います。
不快な画像が掲載されていますので、苦手な方は此処でお戻りください。

下の写真は、東京市での防空宣伝行進風景。
ガスマスク姿の帝國軍用犬協會員と在郷軍用犬が出場しました。昭和11年6月27、28日。

帝國ノ犬達-犬用防毒面




















私の手元にある歩兵学校の軍用犬教範には、元の所有者である軍犬兵さんによる多数の書き込みがあります。
おそらく、軍犬兵教育期間中に教官の講義をメモしていたのでしょう。
興味深かったのが防毒衣の解説部分。ページの片隅に「試作品であり、支給はされていない」と記してありました。
この教範が使われたのは昭和10~15年。まだ、95式防毒面の量産には至っていなかったのでしょう。
少なくとも、昭和11年までは少数の生産にとどまっていたと思われるエピソードがあります。
昭和11年6月27日に東京、続く9月18日~21日に大阪で防空宣伝行進が行われたのですが、これに参加した軍用犬にも95式防毒面が配られました。
KV大阪支部担当者は、行進に用いる54頭分のマスクを製造会社から借りるのに苦労したと述べています。
「佐野第三小隊及吉田第四小隊からは毎日の様に、状況伺ひが来る。
もう発煙筒も買ひました。銃も人間のマスクも揃ひましたが犬のマスクがありません。世話してくれますか、とは佐野熱血漢の声。
隊員の意気益々旺盛です。防空演習参加の日を待つてゐます。とは郵便局長吉田第四小隊長の熱望の声だ。
十八日のマスク行進に引きつゞいて、二十日、二十一日が防空演習だ。
東京日本化工会社より借りる約束のマスクが仲々着かぬので役員一同気が気ではない(KV大阪支部「阪神防空演習に参加し軍犬隊の活躍」より 昭和11年)」

防空演習とガスマスク犬に何の関係があるのか?と思われるかもしれませんが、当時は、仮想敵国が都市部を空襲する際、化学弾を投下する可能性が問題視されていました。
また、爆風や火災によって電話線が断絶するケースも想定されます。
帝國軍用犬協会では、爆煙や毒ガスが立ち込める状況下で、ガスマスクを付けた伝令犬を走らせて都市部の通信網を補助しようと計画していたのでした。

「四師 獣第三五一号
阪神防空演習指導部軍犬隊配属ノ件
通牒
昭和十一年九月十六日
第四師団参謀 印

大阪府、市、税関、鉄道、逓信局、統監部宛
今般社團法人帝國軍用犬協会大阪支部軍犬隊ヲ防空演習間阪神防空演習指導部附トシ
左記ノ如ク配属数ス可クニ附、之レヲ活用セラレ度。且ツ同隊ノ行動ニ関シ便宜ヲ与ヘラレ度通牒ス。
尚同隊ノ活動ハ二十日午前八時ヨリ同日午後九時迄ニ附キ申添フ。
左記
一、部隊名、頭数、配属先、屯所等
隊名佐野小隊 配属軍犬数二○ 配属統監部大阪市 主ナル屯所 朝日新聞社附近 摘要佐野儀太郎以下二十名
隊名利島小隊 配属軍犬数二○ 配属統監部工場防護團 主ナル屯所 大阪税関附近 摘要利島重一以下二十名
隊名吉田小隊 配属軍犬数二○ 配属統監部大阪逓信局 主ナル屯所 大阪中央電話局附近 摘要吉田虎雄以下十五名

ニ、活動種目
1.昼夜間ニ於ケル警戒勤務
2.伝令勤務
3.捜索勤務
4.弾薬補給
5.電話線架設
6.襲撃
7.以上諸勤務ヲ瓦斯中ニ於テ實施セシ
以上

十時五十分、第三分隊より伝令犬トニー来り。
大阪時事新報社前に敵機焼夷弾を投下し去りし為、至急援助方通知あり。
直に第一分隊第二分隊に第三分隊援助を命じ、駆足にて第三分隊本部に向ふや南東に三箇所、四箇所とビルの間から街頭から白煙の物凄くたちこめる中を曽根崎 防護團、時事新報社工場防護分團員が必至の活躍をつゞける中に第三分隊長上田氏愛犬アレツクス、メリは濛々たる毒ガスの中を縦横に馳駆、毒ガス中毒者や負 傷兵を捜索発見し救護班に伝達する一方、田中氏愛犬フォーカス、上田氏愛犬ベルナーは弾薬の補給、偵察機より投下の通信筒捜査等目覚しき活躍を続け居り。
直に第一第二分隊も参加し第三分隊の行動を援助した。
敵の空襲はイヨ〃烈しく、大阪時事新報社の電話線破壊され通信不能となるや、中村氏愛犬デールに直に電話線架設を命じ、瞬間に復旧、通信陣を盤石の安きに置いた。
その時「スパイ潜入」の情報ありし為メリ、カール、ハインツ、バルロー等を放し警戒せしめた処、時事新報社玄関横に忍ぶ間諜を発見、直に追跡難なく之を逮捕した。
突如午後一時廿分東南に銃声起り敵機の再襲かと感ずる処に先程我が軍犬に依り復旧されしばかりの電話のベルけたゝましく鳴り、梅田新道附近に敵機数台焼夷 弾、ガス弾を投下して去りし為負傷者多く、曽根崎防護團の救護班活躍し、これ等の負傷者を収容しつゝあつたが、負傷者の発見困難に附至急軍犬の援助を依頼 して来たので、直に第一分隊長木村氏第三分隊長上田氏に命じ各分隊より五名宛を派遣した」

この時想定されていたのは
「厳重な防空網を突破して来た少数の敵機が、最大の効果を狙って化学剤を投下する」というもの。
空襲の被害を過小評価している様に見えますが、あくまで万一の事態に備えた化学戦演習でしたから、当時はこの程度の対策でも仕方ありません。

まさか、高空域から侵入してきた大型爆撃機の編隊による、都市ごと焼き払う無差別爆撃に晒されるなんて想像すらしていなかったのでしょう。

【日本の犬用ガスマスク】

第1次世界大戦で実戦投入された化学兵器。
それに対抗して、各種軍用動物の防毒装備も開発されます。

「犬の防毒面を製造するに當つて、犬が伝令或は衛生犬として毒瓦斯汚毒地帯を何らの傷害を受ける事なく通過する事が出来、或は交戦中の部隊と共に汚毒区域に止まつてゐる事が出来るのを目的として努力されたのである。
独逸では、労役任務に服して居ない犬の為に、簡易な防毒面が作られた。之は眼鏡の附いたもので、馬の防毒面と同じ様な布地で作られたのである。
犬の防毒面の場合にも馬の場合と同様に呼吸嚢を用ひる事が唯一の可能な方法と思はれて居つた。所が犬では、生理的な必要上、激しい労働の時には開いた口に依つて呼吸せねばならないのであるから、防毒面を頭に密着する事は實際に行つて殆ど不可能である。
其処で、密着部は頭の周り迄ずらされる事となつた。此の条件を充す為に幅の廣い毛皮を頸の周りに用ひて密閉し様と試みられたが、その結果は非常に好成績であつた。
防毒面は馬に用ひられたのと同様な防護溶剤を以て浸し、必要でない時は適當の器物の中に仕舞ひ置くのである。
幸ひ、充分訓練を施す事に依つて、犬は比較的速かに防毒面着用にも馴れ、散兵の時等にも、着用の儘、人の傍を離れる事なく、斥候等にもどし々々出掛けたのであつた。
又短距離の場合には、この防毒面を付けた儘で伝令の役目迄も果したのである。
聯合軍の用ひた犬の防毒面は、同軍の馬の防毒面と同様な材料で作られたものである。
防毒面は馬に用ひられたのと同様な防護溶液を以て浸し、必要でない時には適當な器物の中に仕舞ひ置くのである。
そして用ひられた防護剤も馬の場合と同質の物が用ひられた。
之は頭全體を覆ひ、頸の所で締める様に出来たものであつたが、尚耳袋や眼鏡迄も装備されて居つたから、その中で可成り自由に顎を動かす事も出来たのである」
リヒタース「化学戦と軍用動物」より


試作ガスマスク

犬用ガスマスク
ドイツ軍の試作ガスマスク2種。
リヒタース著「化学戦と軍用動物」より 昭和20年

そして、我が国で開発されたのが95式犬用防毒覆面です。

外国軍では浄化フィルター附きの動物用ガスマスクを開発していますが、日本ではマスク自体に中和剤を染み込ませ、その面体を通してガスに汚染された外気を無毒化・呼吸する浄化方式を採っていました。
それら日本軍の軍馬・軍犬用防毒衣は、呼吸器や頭部を保護する防毒マスク・防護眼鏡・防護頭巾と、皮膚への化学剤浸透を防ぐゴム製の胴覆い(前・後半身用)・脚絆で構成されています。

御世辞にも「完全防護」とは言い難い、体の一部を保護するだけの装具。
大丈夫かいなと不安になるシロモノですが、馬や犬はコレで我慢するしかありませんでした。

帝國ノ犬達-犬用防毒面
95式犬用防毒覆面と防毒脚絆一式。右は収納用バッグです。昭和10年。


帝國ノ犬達-犬用ガスマスク4


帝國ノ犬達-95式防毒覆面
95式防毒覆面を被った軍用犬。下は防毒脚絆も装着しています。昭和10年。

95式犬用防毒覆面、つまり犬用ガスマスクが訓練教範に登場したのは昭和10年から。
95式は、防毒面1個と防毒脚絆4足(四肢用)、それらを収納するバッグで1セットが構成されていました。

「各個防護法ハ試製犬用防毒面及防毒脚絆ヲ使用ス。而シテ青剤防護ニハ前者ヲ使用スルモ、黄剤防護ニハ両者ヲ使用スルモノトス」とあるように、呼吸器系に作用するガスと、皮膚を冒す糜爛性ガスで装具の使い分けもされています。

以下、昭和13年の陸軍獣医学校教範より95式防毒面の使用法について。入力が面倒なのでカタカナ文を修正してあります。

第四節 防護具の取扱
防毒具の取扱法は概ね左の如し。
(一)軍犬に對する防毒具の装着法及之れが馴致に関しては、訓練の部に譲る。
(ニ)防毒面は要に臨み、中和剤として九一式馬用吸収剤の一定水溶液中に約十分間其の覆面部を浸漬し、軽く搾りたる後使用せば概ね十数回の瓦斯戦闘に耐ゆるも、時に見ずに湿潤せしめて使用するを要す。
(三)防毒脚絆の使用限度は黄剤、撒毒地に於て約三十分とす。
(四)黄剤撒毒地通過後、防毒面、防毒脚絆を脱するには予め晒粉液(濃厚液)を以て消毒し、布片にて拭掃氏たる後行ふを要す。
而して要すれば犬体中口吻部、趾部、下胸、下腹部等は漂白粉泥を以て消毒するを安全とす(漂白粉の代用として五%苛性曹達水石鹸加里二%重曹水、酒精を用ふるも可)。



帝國ノ犬達-犬用ガスマスク
●犬用ガスマスクに関する陸軍獣医学校の解説。 95式とは別タイプですね。 
昭和15年

日本軍犬用ガスマスクの場合、頭部全体を覆うもの(上図)や95式防毒具など、複数のタイプが確認されています。

「犬の防毒面も馬の場合と原理に於て異なることなきも、犬は口にても呼吸を行ふ(※馬は鼻で呼吸)を以て頭部全體を蔽はざるべからず。
接著線は首の周囲に在る如くし、首に接する内側面に兎の皮等を縫ひ付け、気密となすを可とす。
之れを図示すれば概ね前図の如し。
我國現制犬防毒面に就ては實物に就き説明す(陸軍獣医学校)」

当ブログでは軍犬ばかり説明して来ましたが、軍馬や軍鳩にも防毒具が配備されていました。
馬に関しては、次回掲載する日本軍輓駄馬防毒具の記事をご参照ください。

馬用ガスマスク
ガスマスクを装着した第1次大戦当時のドイツ軍騎馬。

ドイツ軍ガスマスク
ドイツ軍の馬用ガスマスク各種(陸軍獣医学校)。

馬用のガスマスクについては、口全体を覆う甲式マスクと鼻だけを覆う乙式マスクが在りました。
また、マスク本体に毒ガスの中和剤を沁み込ませた物、活性炭フィルターを装着するものなど多種多様なタイプが開発されています。
日本軍では、構造が複雑で重い甲式マスクは選定から外し、乙式マスクが採用されました。


帝國ノ犬達-馬用ガスマスク各種
●各国の馬用ガスマスク解説図(「化学兵器と軍用動物」より)

馬や犬はともかく、ちいさな鳩の場合「鳩用ガスマスク」なんてものを開発するのはナンセンスでした。
その為、各個防護ではなく集団的防衛法が採用されています。
即ち、巣箱ごと防毒処置を施すというもの。

「鳩車又は鳩籠に水又は適當なる中和剤を浸潤せる毛布又は織布等を打ち掛け防衛す。独軍の戦地よりの報告書に、斯の如き簡単なる方法を以て屢々危険の域を脱せること在りと」
「数羽の鳩を収容し得べき携行用防護箱を作り、瓦斯襲来に際し内外空気の交通は常に吸収層を経由する如くす。
即ち通常人間用防毒面用吸収缶数個を箱の一個に螺著し、外気は之れを通過して進入する如くせり」

しかし、鳩の場合は一番簡単な防毒法がありました。
その名も「飛ばして逃がす」。

「一、放鳩
瓦斯襲来に際し、放鳩するときは鳩は速に危険地域外に退避すべし。
此の方法は鳩の生命安全なりと雖も場所に依り再び帰還せず。
本来の居住地に逃れ去ること在るべし(陸軍獣医学校 昭和15年)」

帝國ノ犬達-軍用鳩
●ドイツ軍の鳩用防毒ケース(「化学兵器と軍用動物」より)


こうして、軍用動物の為に様々な防毒対策や治療法が開発されていきます。
その陰では、数多くの動物達が犠牲となっていました。

古くから、炭鉱などでカナリアを飼っていたのは有名な話。
彼等が有毒ガスに敏感であるのを利用し、“ガス警報器”として利用していたのです。
毒ガスが盛大に使われた第1次大戦から、カナリアは化学兵器の警戒センサーとしても使われはじめました。
カナリアは上海事変でも登場。
中国側の化学兵器を警戒した日本海軍陸戦隊員が、カナリアの籠を掲げて進軍している写真があります。近年では、オウム真理教の施設を捜索した機動隊員がカナリアを連れていましたね。
イギリス海軍の場合はハツカネズミを使っていました。明治時代の雑誌には、有毒ガス探知の為に英国艦船で飼われているネズミ達の写真が掲載されています。


帝國ノ犬達-毒ガス


警報装置として使われたカナリアや鼠と違い、化学剤の効果そのものを試す為に使われた動物達もいました。
現在もそうですが、生体に対する薬物の影響を確認する手段として、動物実験が行われています。
日本軍の化学兵器実験に於いても、数多くの動物たちが実験台となっていました。
下記は陸軍獣医学校の資料から、化学剤が動物に及ぼす影響の一覧です。

「各種瓦斯に對する犬の感受性等に関しては別表に示すが如し。

軍用動物對毒瓦斯特異性一覧表

砒素中毒
●ドイツでの動物実験より、アダムサイトに晒された猫(リヒタース)。

瓦斯ノ種類:クシヤミ剤(赤剤) 
・作用:軽 
・動物ノ抵抗力:馬ハ五○倍 
・動物生理上ノ特性:生理的特質ニ依ルベシ 
・軍用動物ニ對スル軍事的経験:野外ニ於テハ動物被害濃度ノ構成ハ困難ナリ。
瓦斯ノ種類:催涙剤(緑剤) 
・作用:軽微 
・動物ノ抵抗力:馬ハ一○倍、犬鳩ハ数倍 
・動物生理上ノ特性:仝 
・軍用動物ニ對スル軍事的経験:仝


ホスゲン中毒
●ドイツでの動物実験より、ホスゲンに晒された犬。高度の呼吸困難と大量の流涎(リヒタース)。

瓦斯ノ種類:窒息剤(青剤) 
・作用:強大 
・動物ノ抵抗力:馬ハ二倍、但シ感受性ハ鋭敏。犬ハ鋭敏。鳩ハ一○倍、但シ帰巣能力低下ス 
・動物生理上ノ特性:馬(利点)一、気道長シ(馬ニ米)。ニ、呼吸数少シ(馬一○)。三、精神的感作ナシ。四、呼吸気中水分多シ。馬ハ7%ハ呼吸汗トシテ発散ス。
・動物生理上ノ特性:犬(欠点)一、鼻ハ地面ニ接触ス。二、鼻及口ヨリ呼吸ス。三、発汗作用ナキトキハ、呼吸ニ不利ナルハ防毒面ニ對スル呼吸抵抗大ナリ。
・軍用動物ニ對スル軍事的経験:一、障害馬数ハ糜爛剤ニ比シ少キモ、重症馬数殊ニ斃死馬数頗ル大ナリ。(自一九一六年七月 至一九一八年二月 ニ十七ケ月半 仏軍流汁)。ニ、感受性鋭敏ナルガ故ニ初期咳嗽ス。欧洲戦ニハ「ホスゲン」検知ノバロメータニ利用シタリト。

マスタードガス


マスタードガス
上)ドイツでの動物実験より、マスタードガスに晒された犬。4日後の症状は結膜炎、角膜炎、呼吸困難、流涎。
下)同じく、マスタードガスで足指間の皮膚が糜爛した犬。10日経過(リヒタース)。

瓦斯ノ種類:糜爛剤(黄剤)
・作用:強大
・動物ノ抵抗力:馬ハ液状毒ニ弱ク、気状毒ニ強シ。犬ハ鋭敏 
・動物生理上ノ特性:(馬)一、皮膚曝露ス。特ニ、四肢下腹被害多シ。二、皮膚傷害ハ回復遅シ。但シ人ニ比シ罹病シ難シ。 
・動物生理上ノ特性:(犬)一、趾間、内股部、陰筒部侵サレ易シ。二、低身ナルヲ以テ気状毒ニハ鋭敏ナリ。
・軍用動物ニ對スル軍事的経験:一、障害馬数ハ窒息剤ニ比シ著シク大ナルモ、重症馬数就中斃死馬僅少ナリ(自一九一七、九月 至一九一八、十一月 十三ケ 月仏軍流汁)。二、泥濘地通過ノ時被(判読困難)シタシ(英軍)。三、夏期特ニ泥濘土ガ皮膚ニ附着スル時被害大ナリ(本邦実験)。
備考
一、鳩ハ致死量ヨリ云ヘバ抵抗力大ナルモ、飛翔力ハ軽度ニテ速ニ低下シ、単ニ瓦斯膜ヲ通過シタルノミニテ鳩群ノ大半ハ軍用鳩ノ能力ヲ欠クルニ至ル(大戦経験)
二、瓦斯ニ對スル家畜ノ抵抗力(科学研究所)猿(人)一、モルモツト一、犬(猫)三、兎五、馬四ー五、鳩五」

除染

化学兵器治療
上)外国の化学戦研究より、マスタードガスを浴びた馬への中和剤噴霧。
下)マスタードガスによる皮膚糜爛箇所への晒し粉塗布(リヒタース)。

化学兵器治療

化学兵器治療
●ドレーガー社製犬用酸素吸入装置。犬や羊など、家畜の化学剤治療に使用されました。

以上が赤・青・黄・緑剤に関する中毒症状と治療法ですが、この詳細な内容は、要するに犬を使って化学剤を実験したという事です。
勿論、貴重な軍用犬を犠牲にする訳にはいきません。
実験台にされたのは、どこからか調達されてきた雑種犬達でした。

日本の化学戦動物実験については、少数ながら写真も公表されました。
昭和10年に関谷陸軍獣医正が撮影した写真には、野外での毒ガス実験に晒される犬達の姿が写っています。

「化学兵器を度外視して近代戦を語る事は出来ない。
その化学兵器の花形として毒瓦斯の戦略的価値は益々その重要性を増して来た。
今後の戦場に於て敵の死命を制するや否やは毒瓦斯戦の功拙にあると云つても過言ではなからう。
我が陸軍も、列強各国に後れをとつてはならないと、之が研究に寧日なき有様であるが、動物、殊に軍用犬に就いての化兵器の各種問題は尚研究が要求せられる処が多い。
最近某地に於いて近代戦に適はしい化学戦が動物を応用して行はれてゐる。
その詳細は一般に公表する自由を持たないが、演習内容には関係ない関谷理事の撮つたスナツプ数葉をこゝに掲載する次第である」


帝國ノ犬達-習志野学校
●「雑種犬を用ひて毒瓦斯に對する抵抗力の試験」より、日本軍の化学兵器実験。
撮影地等非公開。 昭和10年

実験の性格上、詳細は公表されていません。実験台となった犬達の生死も不明です。
これは化学戦演習の一環として行われたものらしく、ガスマスクを着用した歩兵学校軍用犬班員と軍犬達の姿も記録されています。
写真が発表される以前、関谷さんが海外へ出掛けた形跡はありません。
そうすると、実験場は化学戦訓練を専門とする千葉の習志野学校あたりでしょうか。
これらの実験結果を反映し、日本軍の化学戦防護能力は格段に進歩した筈。
しかし、その陰でどれ程の実験動物達が犠牲となったのかは不明です。

昭和9年7月、芝公園増上寺にて、軍用動物の慰霊施設建設が計画されました。
戦場で斃れた軍馬・軍犬・軍鳩や、食糧となった牛や豚と共に、化学兵器の実験台となった犬、兎、猿達も慰霊の対象に挙げられています。
大陸の戦争が激化する何年も前から、動物達は化学兵器の犠牲となっていたんですね。

化学戦への防護能力に特化した我が国の自衛隊のようなケースもありますが、世界には大量破壊兵器として保有したがる国や組織はたくさんあります。
日本で起きた地下鉄サリン事件もそのひとつですね。
どこかに生物化学兵器が存在する限り、その対処能力を研究・維持する必要があるのです。
今なお各国で製造・備蓄され続けている「貧者の核兵器」。
この種の兵器の廃絶は、核の全廃より困難かもしれません。

まあ、ここは犬のブログですから、犬の話だけにしておきましょう。
日本近代畜犬史に記されるべきエピソードのひとつとして。

しかし、犬に興味すら持たない人ほど、この手の話に飛付いてくるのは何なのでしょうか?
志高く正義感溢るる敵味方識別装置フル回転の人よりも
犬が好きで、犬の歴史に興味がある人に読んでほしいのですが。
繰返しますけど、ここは単なる犬のブログですよ。
時々、思想ごっこの場と勘違いしている人を見るので念の為。

……そういうネタを振った私も悪いんですけどね。


次回は、日本軍馬のガスマスクに関する記事を載せておきます。
馬に興味がある人はどーぞ。

 |  リブログ(0)
2010-05-07 18:34:29

日本軍馬用ガスマスク:其の1

テーマ:化学戦と犬達
日本陸軍 軍馬用防毒装具解説 
第1回:
馬用防毒装備の歴史

實験及文献ニ依レバ各種毒瓦斯ノ馬匹ニ對スル作用ハ概ネ次ノ如シ。
a クシヤミ瓦斯ノ作用ハ軽微ナリ。
b 催涙瓦斯ノ眼ニ對スル作用モ亦軽微ナリ。
c 窒息瓦斯ノ作用ハ著大ニシテ呼吸器ヲ侵シ、遂ニ致死セシムルコトアリ。窒息瓦斯中ホスゲンノ如キハ其ノ効力最モ甚シ。
d 液状糜爛瓦斯ハ皮膚ヲ糜爛セシム。皮膚ノ中比較的障害ヲ被リ易キヲ四肢ノ下部トス。
瓦斯状糜爛瓦斯ハ呼吸器ヲ経テ體内ニ入ルトキハ障害ヲ惹起スルコト勿論ナリ。
然レドモ皮膚ニ對スル障害ハ著シカラズ。英國ノ文献ニ依レバ、欧州大戦中馬ノ糜爛剤ニ依リ傷害ヲ受ケタル實例ハ多ク泥濘地ヲ行進セル後ナリト。
我國ニ於ケル實験ニテ気温著シク高キ時期ノ外、瓦斯ニ依ル皮膚障害ハ明カナラズ。然レドモ液状糜爛瓦斯並撒毒泥濘土ノ皮膚ニ付着セル場合ニハ其ノ障害著明ナリ。
土砂ニ水分少キ場合ハ撒毒土皮膚ニ触ルゝモ被害少シ。

陸軍獣医学校化学戦教範「第二節 各個防護 第一 馬匹防毒面並防毒脚絆」より 昭和15年

帝國ノ犬達-馬用防毒具
●馬用防毒被(ガスシート)前・中・後を組み合わせた状態。さすがに馬鹿でかいです。馬用だけに。


「戦争の犬達・化学戦」編では、日本軍犬の防毒装備について取上げました。
今までは訓練や運用法が中心でしたので、この項では実物を使って解説しようと思います。
「帝國ノ犬達」は犬のブログですから、本来紹介すべきは犬用の防毒具。
でも、私の手元にあるのは馬用ガスマスクのみなので、ここだけは“帝國ノ馬達”ってことで。

長くなるので
・馬用防毒具の開発史
・九一式馬用防毒面(ガスマスク)
・九七式馬用防毒被(防毒シート)
・百式馬用防毒脚絆(防毒ゲートル)
・馬用防毒眼鏡(防毒ゴーグル)
に分けますね。
まず第一回目は馬用防毒具の歴史について。



化学戦演習中の日本軍馬。防毒ゴーグルの馬だけは、九一式とは異なるガスマスクを装着しています。

お断りしておきますが、今回紹介するのは「輓駄馬用防毒具」。
文字通り、輸送部隊の輓馬や駄馬が使う「防御用の装備」でした。軍事上、輸送部隊の馬が先陣切って突撃するなどあり得ませんので。
まあ、この記事に辿り着いた以上、日本軍馬の基本である「乗馬」と「輓馬」と「駄馬」の違いくらいは御存知かと思いますけどね。
……などとイヤミな書き方をしておかないと、馬のガスマスク=攻撃用装備と早トチリする人がいるので念の為。
我が国の軍用動物史を「歴史批判の道具」と勘違いしている傲慢な人は多いのです。


馬
騎兵隊はこんな感じですね。

騎兵用に関しては、全く同じモノで名前だけ違う「乗馬用防毒具」もあります。興味のある方は御自身でお調べください。

※動物用ガスマスクについて取上げるなら、併せて化学兵器の犠牲となった動物達の姿も知らせるべきだと思います。
不快な画像を多々掲載しますので、苦手な方は此処でお戻りください。


帝國ノ犬達-ホスゲン中毒
●ホスゲンによる被害を受けた馬(リヒタース著「化学戦と軍用動物」より 昭和20年)。

凄まじい戦禍をもたらした第一次世界大戦の毒ガス戦。
窒息性ガス、糜爛性ガス、嘔吐剤などが次々と投入され、兵士たちはバタバタと斃れていきました。
その威力に注目した日本陸軍は、化学兵器の研究に着手します。
昭和に入ると大量の化学兵器が製造・配備され、その一方で兵士及び軍用動物用防護装備の開発も進みました。
しかし、実際に日中戦争で何が行われたのか、日本軍の生物・化学戦について全容は明らかにされていません。
今もなお、化学戦の有無・規模の大小などを巡って論争が続いています。
そんなモンに首を突っ込む気はないので、当ブログでは「こんなモノがあった」という装具の解説のみにとどめておきますね。


帝國ノ犬達-軍馬
防寒か防暑か偽装か、何だかよく分らない馬用覆。

帝國ノ犬達-軍馬
こちらは雪中戦カモフラージュ用の白色偽装覆。

雪
白色偽装覆を纏った日本軍馬。なんか、パチモンのパンダみたいになってます。

帝國ノ犬達-軍馬
並べてみました。
迷彩から防毒まで、日本軍は様々な軍馬用カバーを開発していたんですね。


さて。
上に掲げてあるような軍用動物の防毒具を見たとき、軍事智識や歴史認識などによって捉え方は人それぞれだと思います。
まず結論ありきで歴史批評の証拠漁りをしている人なら尚更でしょう。

「毒ガスを散布した地域に騎兵を突出させる為の、攻撃的装備に違いない」
「敵の化学兵器攻撃を受けた場合を想定して開発された、防御用の装備だろう」
「ナウシカの瘴気マスクみたい」
「馬が可哀想。酷い扱いを受けていたのね」
「これだけの労力と費用をかけて、軍馬は大切にされていたんだな」
「旧軍が化学戦をやっていた動かぬ証拠だ!ケシカラン!」
「何が珍しいんだ?こんなモノ、どの国でも配備していたじゃないか」

馬
MⅡガスマスクを装着したアメリカ軍の軍馬。1940年

そう、これらの装具は別に機密でもなんでもなかったのです。
第1次大戦での凄惨な大規模化学戦のトラウマか、(連合・枢軸軍を問わず)第2次大戦中の各国兵士は基本装備としてガスマスクを携行していました。
その辺は歩兵装備を解説した軍事書籍に載っていますが、ミリタリー系が苦手な方はサリンジャーの「エズミに捧ぐ」でもお読みになってください。
あと、戦時下の日本では、空襲に備えて民間人へガスマスクが大量に支給されています。古い家なんかでは、押入の奥から戦時中の防毒面が出てきたりしますし(我が家の物置からも出て来ました)。
結構身近に防毒装備がある、というのが当時の状況でした。

軍馬、軍鳩、軍犬に関しても事情は一緒。
第一次大戦では、軍用動物も化学兵器の被害に遭いました。
その為、各国軍隊では即座に動物用防毒具の研究を開始しています。


帝國ノ犬達-軍馬

因みに、我が国でも軍用動物の化学戦マニュアルが配布されていましたし、写真も公表されていました。
画像のとおり、防毒装備の軍馬が子供雑誌の表紙になった事もあります。
もちろん前線部隊にも配備されていたようで、この防毒具は中国でも発見されていますし、昭和12年頃の新聞にも“防毒軍馬に関する戦地便り”が掲載されていました。

いずれにせよ、実態は不明なんですけどね。

その日本軍の馬用防毒具は、呼吸器と皮膚の防護を目的として開発されました。
防毒マスク、防毒覆3ピース(頭部、胴体、腰部)、脚絆、防護眼鏡、携行袋で1セットが構成されています。
大袈裟にも見えますが、毒ガスには呼吸器系を冒すものと、皮膚から浸透するものがあるのです。顔だけ覆えば安全という訳ではありません。

先ずは防毒マスクの解説から。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
各国の馬用ガスマスク比較。
手前の革製ポーチ(濾過フィルター収納用)×2とホースで連結されているのが米軍のM4、黒い水道栓みたいなのがドイツ軍のM38、綿製のコーヒー豆袋みたいなのが日本軍の九一式馬用防毒面。
機能集約型のドイツ、分散型のアメリカ、簡素化の日本と、各々の運用思想が現れているような…。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
こちらが日本軍の馬用ガスマスク。中身が空っぽの布製バケツみたいな物体です。
馬は鼻で呼吸する為、呼吸器を護るには鼻先だけを蔽うマスクで十分でした。口と鼻で呼吸する人間や犬の場合、顔面を蔽うガスマスクが必要となります。

防毒面
●眼や皮膚から浸透する糜爛性のマスタードガス等に対しては、防毒覆面や防護眼鏡を併用していました。
防毒マスクと防毒覆面はこのように組み合わせます。

帝國ノ犬達-馬用マスク
実際の日本軍馬用ガスマスク着用例。昭和6年

帝國ノ犬達-馬マスク
こちらはソ連軍の軍馬用ガスマスク。日本軍のモノと似たようなタイプです。


馬用ガスマスク 馬用ガスマスク
ドイツ軍のM38馬用ガスマスク

馬用ガスマスク
米軍のM4馬用ガスマスク

ガスマスクのイメージといえば、「顔面を覆う、フィルター付きのゴム製マスク」でしょう。
しかし日本軍馬用のガスマスクは、あまりにもシンプルな構造ですね。
防塵用の馬用マスクは日露戦争の頃から使用されていたのですが、外見はその頃からあまり進化していません。
でも、この形状へ至るまでには試行錯誤が重ねられたのです。

日本陸軍獣医学校が注目したのは、第1次世界大戦におけるフランス軍馬の被害。
仏軍獣医マルセナックが同軍軍馬4662頭を調査した統計を参考とし、化学戦対策が検討されていきました。

窒息性ガスによる被害(1916年7月~1918年11月)
・27ヶ月半の期間 障害馬数137頭 死亡32頭 後送28頭
・月平均 障害馬数4.98頭 死亡1.16頭 後送1.02頭

糜爛性ガスによる被害(1917年9月~1918年11月)
・13ヶ月半の期間 障害馬数1685頭 死亡1頭 後送60頭
・月平均 障害馬数129.16頭 死亡0.07頭 後送4.45頭

「上記仏国一部の統計に依れば
A 糜爛瓦斯に因る障害馬に因る障害馬数は窒息瓦斯に因るものに比し著しく大なり。然れども之に依る重症馬就中斃死馬は僅少なり。
B 窒息性瓦斯障害馬中には重症馬数殊に斃死馬数頗る大なり。

以上の如く馬匹に對する毒瓦斯効力を考察するときは、馬匹に在りては殊に目、呼吸器及四肢の防護を肝要とす。
尚馬匹防護上人に於けるものと稍々趣を異にするする諸点を挙示すれば次の如し。

A 馬匹は毒瓦斯に関し精神上の交感を有せず。
B 文献に依れば、毒瓦斯に對し馬匹は人よりも強し。
C 馬匹は運動性大なり。

馬匹は迅速に運動し得るを以て瓦斯攻撃を受くる處ある地点を迅速に通過し、或は之れを避け又瓦斯滞留地域を迂回し以て瓦斯防護を全ふし得ることあり。
然れども此の如きは常に實施し得べき方法にあらざるを以て技術的防護法の準備を必要とす」

こうして馬匹防毒具の研究が始まりました。外国軍のマスクも参考に、いろいろと検討された様です。
同時に、化学戦における軍用動物医療の研究も重ねられました。その過程で、どれほどの実験動物が犠牲となったのかは不明です。

馬


馬
切開部に嵌められた通気・排液弁

ホスゲン中毒の治療研究にて、実験台となった軍馬米村號。治療はホスゲン投与から25時間後に開始。鼻カテーテルによる酸素吸入に加え、気管切開による粘液の排出と酸素濃度の測定がはかられています。
陸軍獣医学校「馬の酸素吸入法に就て」より、昭和16年


馬


馬は鼻で呼吸しますから、人や犬用マスクのように口全体を覆う必要はありません。
日本軍の馬用ガスマスクも、写真の如く上顎に噛ませて使用します。
無論、これだけだと毒ガスの濾過能力はありませんので、何らかの濾過・中和機能を追加する必要がありました。
ガスマスクの除毒材として筆頭に挙げられるのは、今も昔も活性炭。
しかし、我が国の場合は諸般の条件を考慮して活性炭フィルターは採用されませんでした。

帝國ノ犬達-国防館
兵士、一般市民、馬、犬用の各種防毒具。戦時中の国防館にて。
犬用ガスマスクは95式犬用防毒具と違うタイプですね。こちらは化学戦編にて解説します。


「馬匹の呼吸器を防護するには、次の特性を考慮せざるべからず。
A 馬匹は鼻のみにて呼吸す。
B 馬匹の呼吸量は安静時毎分概ね九○位、激動時毎分三○○乃至五○○にして人に於ける依りも著しく大なり。
C 馬匹は呼吸抵抗に對する苦痛に敏感なり。
応用材料を以てする呼吸器の応急的防護法として大戦間実用若は研究せられたるものに
イ、湿潤せる毛布類を馬の鼻部に巻付く。
ロ、飼袋中に湿潤せる草及藁等を容れたるもの装用す。
ハ、鼻腔に湿布を以て栓を施す(鼻栓法)等の諸法在り。
然れども
a 応用材料と雖、予め準備し置くに在らざれば火急の用に応じ難く。
b 応用材料は馬匹に對する定著困難にして気密良好ならず。
c 馬匹の呼吸量著大なるに依り、本法就中鼻栓法の適用には多大の困難を伴ふを以て、応急法の防護は確實なるものにあらず。
上述イ及ロ法は瓦斯戦の初期応用せられたるも、瓦斯戦盛んなるに及び此れ等の応急法は馬匹防毒面と代るに至れり。
呼吸器の防護に任ずべき馬匹防毒面に具備すべき要件は、大體人員防毒面に於けると異ることなしと雖、諸種の関係上其の結構及機能には両者の間に多大の差異在り。
先づ毒物吸収剤として活性炭を使用することは大いに望む所なりと雖、構造複雑、呼吸抵抗大等の為、未だ實現を見ず。
活性炭を用ふることなく毒物を除去するには、織布ヘチマの如き多孔性物料に毒瓦斯吸収溶液を浸潤したる層を通して呼吸を行ふ如くす。
吸収溶液に依るときは構造簡単堅牢軽量のものなるも吸収溶液より来る次の如き不利あり。
a 吸収溶液の除毒能力は瓦斯の種類に依り異り、活性炭の如き共通能功を有せず。例へば塩化ピクリンの如きは之を吸収し難し。
b 豪雨に洗はれたる時及著しく乾燥するときは共に其の効力減退す。
然れども、吸収剤の選定を適當にするときは馬匹呼吸器に對する主毒物たる窒息瓦斯(ホスゲンの如き)に對し充分防護の目的を達し得べし。

帝國ノ犬達-馬用マスク甲乙

次に吸収剤として溶液を採用するとき、防毒面の型式を大別すれば二様あり。
一は鼻孔及口全部を包む式(甲)とす。
其の要領上図の如し(陸軍獣医学校 昭和15年)」

こうして試作されたのが甲式馬匹防毒面。写真が見つからないので文章のみで解説します。

「欧州戦末期に於て急速に制定せられたる本邦馬匹防毒面は甲式に属するものにして呼気弁吸気弁を有し、吸収剤層は特に挿入せるヘチマ繊維に下記配合の中和剤を湿潤せしめたるものを以て構成す。
大豆油 一○○
グリセリン 一○
四五%アルコール 五
七%苛性カリ(又はソーダ) 三五
アンモニア(比重八・八ノモノト水との等分液) 三滴
此の如き吸収剤を用ふるを以て本防毒面は塩素ホスゲン等に對し有効なり」

しかし、この甲式防毒面は構造が複雑であり、性能が疑問視されていました。
「本防毒面の主なる欠点を挙ぐれば概ね次の如し
A 容積重量比較的大にして運搬携行不便なり。
B 構造複雑にして破損し易し。
C 吸収剤層の断面積小にして、層高比較的大且吸収剤に油を使用するを以て呼吸抵抗大なり。
尚、甲式に属するものに仏國デコー馬匹防毒面あり。本防毒面は本邦甲式馬匹防毒面と異なり、呼気弁及吸気弁を有せず、又吸収剤層としては防毒面本體を利用して本體を構成せる織布にニツケル塩とグリセリン溶液とを浸潤するものなり。
本式は前述本邦制式のものに比し、構造単簡且呼吸抵抗小なるもの利在り。
然れども一般に甲式に依るものは馬の口及鼻の全部を包むを以て次の欠点を免れず。
A 防毒面大型のものとなる。
B 銜を覆面内に包むを以て、韁(きずな)の操作自由ならしむるため特別の工夫を要し、従つて此の部の構造複雑となり或は此の部より瓦斯の漏入を来す」

その欠点を改良したのが簡易タイプの乙式馬匹防毒面。この記事で取上げているものです。
マスク本体に中和剤を沁み込ませ、汚染された外気を面体透過の際に浄化する仕組み。
このように単純な構造だと重量や生産コストを下げられますし、何より戦場で壊れる心配も少なくて済みます。

「一防毒面に付き上記溶液四五○乃至五○○瓦を使用せり。
乙式に依る英軍馬匹防毒面はフランネルの二層より成り、吸収剤としては石炭酸、フオルマリン、アンモニア及グリセリンを使用せり。
其の姿勢及装着姿勢に於ける状態次図の如し。

ガスマスク装着姿勢

既出の如く本邦甲式馬匹防毒面(※口全体を覆うタイプ)には幾多の欠点を認めしを以て、乙式馬匹防毒面(※鼻部を覆うタイプ)を研究試験し制式とせり。
本邦防毒面は構造簡単小型軽量呼吸抵抗小にして窒息剤及糜爛剤瓦斯を除毒するを得、其の構造及吸収剤は獨逸(ニ)型に類似す。
仮制式馬匹防毒面に関しては実物に就き説明す(陸軍獣医学校 昭和15年)」

「中和剤トシテ九一式馬用吸収剤ノ一定水溶液中ニ約十分間其覆面部ヲ浸漬シ、軽ク搾リタル後使用セバ、概ネ十数回ノ瓦斯戦闘ニ耐ユルモ時ニ水ニ湿潤セシメテ使用スルヲ要ス(陸軍獣医学校 昭和15年)」


馬用の防毒装備はこのように発展してきました。

次回は、日本軍の代表的な馬用ガスマスクである九一式馬匹防毒面について解説します。

(其の二へ続く)

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2010-05-07 18:32:12

日本軍馬用ガスマスク:其の2

テーマ:化学戦と犬達
日本陸軍 軍馬用防毒装具解説 
 第二回
 九一式馬用防毒面について

初回は馬用ガスマスクの歴史について解説しましたが、今回は日本軍の馬用ガスマスクについて取上げます。

馬の場合、犬と違って鼻だけで呼吸します。
だから、毒ガスから呼吸器を護るには鼻先だけを蔽うマスクでも充分でした。

馬
米軍の化学戦防護教範より、軍馬の呼吸方法 1940年


馬
MⅡガスマスクを装着したアメリカの軍馬

【日本陸軍九一式馬用防毒面】

帝國ノ犬達-horse gasmask

帝國ノ犬達-horse gasmask

帝國ノ犬達-horse gasmask

日本軍の九一式馬匹防毒面。
「九六式」としてある資料もありますが、ここでは上記の呼称を使います。


一、馬防護の必要に就て 
陸軍歩兵学校「馬防護の参考」より 昭和13年

一、馬匹の補充は易からず
馬は活動の兵器にして之を愛護せざるべからざるに、動もすれば満州事変後馬は至る所に於て補充しえるを以て敢て之が補充を憂ふるを要せずとなすものあるも、之唯半面の観察のみ。
試みに一度国を挙げて戦ふ時焉んと如斯容易なるを得んや。
言ふは易くして行ふは難し宜なり、数十萬頭の馬匹を徴発するに方りては其の集成は決して易からざるは明にして、既に當局に於ては之が調査及諸般の準備に遺漏あらざるべきも、吾人亦思を敍上の状況に致して馬匹愛護就中之が防護に於ても又決して油断しあるべからざるなり。
ニ、馬の防護は絶對に必要なり
馬は後述する如く必ずしも抗毒力大ならず。加ふるに恢復も又速ならざるものあるは既に過去の事實に徴するも明なる所なり。
然るに動もすれば馬は人より抗毒力に於て勝れるが如く考ふるもの多きは誤なり。
宜しく其の實情を研究して其防護を完全ならしめ、以て所謂兵馬協力萬難を排して勝利に向つて邁進せざるべからず。
之聊か馬の防護を講ずる所以なり。

ニ、防毒面(乙)取扱 
九一式馬匹防毒面取扱法
一、防毒面(乙)は化学兵器に對し軍馬の呼吸器官を防護するものとす。
ニ、本防毒面は覆面の大きさに依り之を大小ニ種に分つ。大は概ね蹄鉄五號以上、小は蹄鉄四號以下の馬に適合するものにして、其の全備重量は約一瓩三○○とする。

(原文ママ。3の誤植)、構造及機能
防毒面(乙)は覆面吊革及属品(袋)より成り、覆面織布層に呼吸剤を浸潤せしめ使用するものとす。
覆面と気密革に依り馬の上顎部に密着し鼻腔を被包するものにして、吸気に際し含毒空気の織布層に吸収せられ其呼吸剤に毒物を完全に吸収濾過するものとす。
1.吸収剤を調製するには一式馬用吸収剤甲(気温摂氏零下約七度を下る地方に於て使用すべき覆面に對しては同乙を併用す)
を桶類又は水嚢に入れたる清水三立を加へ、棒片等に依り混合攪拌して殆んど無色透明なる液を作るものとす。
2.吸収剤として次の配合のものを用ふ。
十個分配合量
ウロトロビン  九○○瓦
炭酸加里   一五○瓦
水       三○○瓦
一個の覆面に對し上記溶液の約三百瓦を吸収せしむ。
尚、冬季に於ける凍結を予防する為、厳寒時に於ては之に若干の食塩等を混合する如く研究しあり。
3.
防毒面に吸収剤を浸潤せしむるには先其革具類殊に気密革に充分塗油したる後一ケづつ気密革を上にし約十分間之を吸収。
中に浸潤す。
而して織布層全體に浸潤せしめたる後取出し、過剰の溶液を手にて搾り季節天候に応じ適當に乾かし袋に納むるものとす(細部は使用上の注意六七参照)。

四、使用法
1.防毒面(乙)は通常之を馬具に装着して携行するものとする。然れ共、場合に依り最寄車輌に積載して運搬することを得。
乗馬に在りては通常左鞍嚢の直前に於て鞍に装着するを要す。
2.防毒面(乙)の携行に方り、携行姿勢若くは待機姿勢何れを採るべきや又装脱等は総て防毒面(甲)の使用法に従ふものにして防毒面(甲)の処置終りたる直後に於て特に命令に依ることなく之を行ふを通則とす。
(註)ガス襲来の場合ある場合は携帯袋より吊革のみを取り出し、之を馬匹に装着し待機姿勢となす。
3.待機姿勢にあるとき防毒面(乙)を装着するには通常次の順序に依るものとす。
イ.行進間に在りては停止し乗馬者は下馬す。
ロ.吊革の端末部を勒額革より脱し垂下す。
ハ.袋より覆面を出し其内部に一手を挿入して之を拡大す。
ニ.馬の左(右)側より之に近寄り、之に左(右)手を以て覆面を保持し、右(左)手の食物と中指とを右(左)口角内に挿入して口を開き、口板を口中に在しむる如く覆面を除き之に上顎部に深く嵌装し、鉤を吊革の方形鐶に鉤す。
ホ.両手を以て馬の両口角に近く締紐を握り、之を何時に外方に緊張して気密革を十分緊締したる後、紐止により緊定す。
防毒面(乙)を脱するには概ね装着と反對順序に依るものとす。

五、使用上の注意
1.防護面の携行に方りては、常に迅速且容易に取出し得る如く考慮するを要す。特に車輌に積載運搬する場合に於て然りとす。
2.本防毒面の装着は迅速且確實なること極めて肝要なり。依て人馬共に熟練馴致しあるを要す。

馴致の方法としては、未だ理想案なきも馬房等には防毒面を吊し、常に之に馴らしめ又時々袋より出し馬に視せしむる等を可とせん。
3.吊革各部の寸法は、其の馬に適合する如く予め之を調整し置くを要す。
4.本防毒面装着間馬の運動は成る可く緩除ならしむるを可とす。然れ共情況に依り若干の速歩又は駈歩をなすことを得(速度に於ては最大限度二十分とす)。此の場に於ては克く馬の状態に注意するを要す。
5.本防毒面装着間は馬をして覆面を土地若くは股等に擦りつけて之を脱落又は毀損せしめざる如く注意するを要す。
6.吸収剤浸潤後覆面の乾燥程度の液の滴ることなからしむるを以て適度とす。
7.覆面の適度に乾燥せる場合は、之に清水を注ぎ潤したる後、適度に乾燥するを可とす。
此の際、吸収剤を流出せしめざる如く注意するを要す。
8.本防毒面は最初一回吸収剤を浸潤せしむるときは事後概ね二十回瓦斯雰囲気中に於て使用し得るものとす。故に使用回数以上に亘りたるもの瓦斯濃度極めて大なりし場合及豪雨其他に依り吸収剤流出せざるか又は其疑ある場合にありては、更に吸収剤を浸潤せしむるを要す。
9.本防毒面は伝染病考慮し各馬専用のものを配合するを本則とす。若之を他の馬に流用する場合には適宜消毒するを要す。

三、防毒脚絆
脚絆の締革の締方は、一番下を最も強く、中間を稍強く、歩行に関係する部分は緩締む。脚絆装着後は歩行に支障を来すを以て装着せば歩行を行ひ馴しむるを要す。
※防毒脚絆については後述します。


全体

horse gasmask

horse gasmask

horse gasmask
九一式ガスマスクの気密革部分。
内部には整形用のパッドが縫い付けられています。


ガスマスク下
馬の歯が当たる口板部分は、厚手の革で補強されています。

ガスマスク口



連結金具
 
正面

horse gasmask

連結部分
こちらは連結用の金具。頭絡の鼻革に固定するためのもの。

化学兵器を受けた際に防毒具が無いと、軍馬は深刻なダメージを受けます。
陸軍獣医学校では、実際に化学剤を投与しての治療方法も研究していました。

馬
通常の鼻カテーテル式酸素吸入法

馬
鼻カテーテルおよび呼気からの高濃度酸素再吸収を目的とした、有賀式蒸気吸入器袋併用テスト

馬
酸素発生剤入りのゴム嚢から吸気するマスク方式

馬
高濃度酸素希釈用の外気混入孔

上記は陸軍獣医学校における、酸素吸入による軍馬の回復實験。
酸素欠乏の状態を得るため、わざわざ馬をホスゲン中毒にしています。ホスゲン投与後25時間で重篤な状態に陥ったのを見計らい、各種酸素供給法がテストされました。昭和16年


補足資料:外国の馬用ガスマスクについて

【アメリカ軍M4馬用ガスマスク】

馬
こちらはMⅡガスマスク。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

アメリカ軍のM4馬用ガスマスク。排気弁を備えた黒いマスク部分を馬の鼻先へ被せ、吸気はホース先端に直結した2つの浄化フィルターを通して行う方式。
構造は複雑ですが、軽量かつ浄化能力の高いマスクです。

馬用ガスマスク

馬用ガスマスク
外見と違ってマスク内部はシンプル。吸気ホースと排気弁の穴が開いているだけです。

馬用ガスマスク


馬用ガスマスク

馬用ガスマスク
これが排気弁。馬の吐息はここを通して外部へ排出され、汚染された外気が侵入する前に弁が閉鎖されます。

馬用ガスマスク


馬用ガスマスク

馬用ガスマスク

馬用ガスマスク
浄化フィルターを収納するケース。中身は無し。ホースに直結してから首の両側にぶら下げます。
汚染された外気はここで浄化され、ホースを通してマスクへと吸い込まれていきます。


【ドイツ軍M38馬用ガスマスク】

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
浄化フィルターを内蔵したドイツ軍のM1938馬用ガスマスク。重さといい大きさといい、小ぶりのスイカくらいあります。
馬への負担も大きかったことでしょう。

馬用ガスマスク
正面の排気弁。

馬用ガスマスク
両側面の浄化フィルター。

馬用ガスマスク

馬用ガスマスク


馬用ガスマスク

次回は、マスクと併用する防毒覆(下の写真)を紹介。
防毒脚絆については追って投稿していきます。


帝國ノ犬達-馬用防毒具
写真では小さく見えるのですが
実際のサイズは馬と一緒。
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2010-05-07 18:30:42

日本軍馬用ガスマスク:其の3

テーマ:化学戦と犬達
日本陸軍 軍馬用防毒装具解説 
 第三回
 防毒覆面について

帝國ノ犬達-馬用防毒覆面
日本陸軍輓駄馬用防毒覆・前。軍用動物の防護に払われていた労力を物語る装具です。

前回の馬用ガスマスクに続き、今回紹介するのは馬用防毒シートです。
正式名称は九七式防毒被で、スタンプにあるのは「輓駄馬防毒覆」。
マスタードガスなど、眼や皮膚に作用する毒ガスから馬を護るための装具であり、防毒マスクと組み合わせて使用しました。

第一回で書きましたが、これは輸送部隊の輓馬と駄馬が使う防御用の装具です。
先陣切って突撃する騎兵隊の乗馬用ではありません。
乗馬用覆は習志野学校関係の資料でお探しください。私は知りません。

帝國ノ犬達-マスタードガス

帝國ノ犬達-アダムサイト
上)マスタードガス曝露後三日目の馬。症状は化膿性の結膜炎、鼻炎、上下唇の滲出性炎。
下)アダムサイトに晒された馬(リヒタース著「化学戦と軍用動物」より 昭和20年)。

帝國ノ犬達-馬用防毒カバー

●エーリスの発案による完全防毒面、防毒被、防毒脚絆を装着せる馬の防護。 
リヒタース「化学戦と軍用動物」より 昭和20年

第1次大戦では、呼吸器や目に作用する毒ガスに加えて皮膚を冒すマスタードガスも使用されました。
馬や犬といった家畜、野菜や果物を使って糜爛剤の被害及び治療実験が繰り返され、徐々に対抗策も開発されていきます。
それに伴い、馬用のガスマスクや防護ゴーグル以外に、全身防護具の必要性も論じられていました。

帝國ノ犬達-マスタードガス

帝國ノ犬達-マスタードガス
●糜爛剤の治療実験。
上)ルイサイトⅠ(a)、マスタードガス(b)、ルイサイトⅡ(c)による皮膚糜爛
下)a~cはマスタードガスによる潰瘍。dは適切な治療を施した部位(リヒタース)。

「糜爛性瓦斯に對して全體表に施すべき防護手段に就いて論じなければならない。
騎馬隊にとつては此の問題の解決は實際上重大な問題である。
飛行機上から散布器を用ひて液状化学剤を使用された時、馬の頚脊部は勿論の事、尻や股の辺り迄も障害を蒙る事は容易に想像され得る。
糜爛毒に對する全身防護の問題を解決するには次の2つの異つた方法に依らなければならない。
即ち皮膚に直接防護剤を塗布する方法は―最も良く混ぜ合せたもの―何分にも表面の占める面積が大であるから實用的ではない。
反之して、軽い安価な覆ひを用ふる方法は戦場の条件にも良く合致するものと思はれる。
エーリスは騎乗者の覆ひの内側に可延部(A)のとり付けを推奨して居る。
必要な場合には、之を拡げて馬の後躯を覆うのである。
又同氏は脚絆を作つて四肢の保護を試みてゐる。
之は前肢では膝の上部、後肢では飛節の上部で取付けられる。
下部の方は繋ぎや蹄冠部を丁度覆ひ被せる様な形に出来てゐる。
尚エーリスは馬に頭から覆ひ被せる頭布形の防毒面を装備し、其れに取り外し自由な濾過器を取付けて、有らゆる種類の化学剤に對する防護を試みてゐる。
此の濾過器は、必要でない時には鞍の前方に取付けられる。
危険区域を進軍する時に防毒面を掛けるが、濾過器は防毒面に取付けない儘で進む。
濾過器を防毒面に取付ける時には騎乗者は一々下馬する必要がない。
単に之を螺旋で嵌め込めば良いのである。
騎手は右手に濾過缶を持ち、馬の前方に乗り出して頭布を顔面部の溝に當てがひ、右側に捩るのである。
尚、頭布に続いて後方に付属部(D)が連接してゐる。之れは首の下部や肩部を覆ふためのものである。
手綱は2つの部分から成り、図に見られる様に装置されてゐる(図132 A.B.C.D.E.Fを参照)。
此の様に特別の防護覆を適用すると、普通の防毒面を用ひた時より馬の戦闘力は遥かに制限される。
併し乗馬部隊では、速力の乏しいものでも防護を施された馬の方が、速くて防護を施されて居ないものより遥かに効果的である。
防護の施されて居ないものでは常に危険に曝されて居るわけであつて、黄十字(※マスタードガスの俗称)など犠牲が出ると漸次全軍の戦闘力が減弱される事となる」
リヒタース「化学兵器と軍用動物」より 昭和20年

この防毒カバーは、日本軍でも実用化されました。
前回取上げた防毒覆前とセットで構成される、輓駄馬防毒覆中、防毒覆後がそれです。

2002年、中国の瀋陽にてこの防毒覆面が発見されたという報道がありました。
中国戦線に軍馬用防毒具が持ち込まれていた事が立証された訳ですね。
その際の報道ではサイズ等を間違えていますので、以下に正式なものを述べます。

帝國ノ犬達-馬用防毒覆面上
上から見た状態。なんかコウモリダコみたい。
写真では判り難いですが、雨天時にはポンチョとして使えるくらい巨大なモノです。

戦後に放出されたコレを雨合羽として使っていた人もいて、こんな記録を見つけました。

「戦後の第一回―昭和二十二年―は船橋で開催されていますが、小生当時は新橋で乾物屋をやっておりまして、さっぱりもうからない商売に明けくれていたために見学できませんでした。
翌二十三年の第二回には、松戸の交配した飛行場に、ポン友兼ライバルである阿比留氏と見学にでかけました。
小生このときには、すでに乾物屋を廃業し、訓練にカムバックしていましたが、未だ出場させるほどの訓練犬をもたない状況でした。因に当時の訓練料を申しあげると、月額三千円でした。
また阿比留氏が、引き揚げの際に配給を受けた、馬の防毒衣を改造した雨合羽を得意然として着て、闊歩していた姿がおかしく思いだされます」
一瀬欽哉「訓練ジーガー(戦後初期)思い出のかずかず」より 昭和45年

本体は緑灰色のゴム製。某報道では「防水の為」となっていましたが、実際はガスの浸透を防ぐのが目的。
サイズは全長120cm、最大全幅が170cm。
獣医学校の資料には大小2タイプあると書いてありますね。
因みに、私の手元にあるのは2つとも同じサイズ。

馬マスク

馬マスク2


【輓駄馬用防毒覆・前】

まずは、頭部をカバーする輓駄馬用防毒覆・前から解説します。

帝國ノ犬達-名称
「輓駄馬防毒覆 前」のスタンプ。下の「昭和弐捨」は製造年。
終戦までの長きに亘り製造されていたんですね。

両目の部分は褐色の半球形有機ガラスが嵌め込まれており、その直径は約16cm。

馬目3

馬目

頭部4箇所には用途不明の紐が縫い付けてあります。

馬目2
こちらは裏面の状態。円い補強部は、額の金属スナップ付属部分。

帝國ノ犬達-馬マスク内側
レンズ部分の裏表を比較。

馬用マスク



馬耳

馬耳2
耳を収納する部分は三角形の袋状で、長さは約20cm。

馬耳5

馬耳3

馬耳4
頭部裏側の状態。眼や耳の周囲は、複雑な形状を上手く成形してありますね。


スナップ
額にある固定用の金属ホック。吻部にあるのはホックを嵌め込む穴。

ベルト4
喉の部分にある4本の固定用ベルト。これでマスクを馬の首に装着します。

ベルト3


ベルト2


固定ベルト
裏側のベルト縫い付け部分。

紐2

紐

輓駄馬防毒覆面の後端部にずらりと縫い付けられている結束用紐(裏表)。
輓駄馬防毒覆・中(胴体部用)に連結する為のものです。

単純な構造のマスクに比べ、覆面は凝った造りとなっていますね。
こんなものを被せられて、馬も大変だったと思います。

【輓駄馬用防毒覆・中】

続いて胴体及び腰部分の防毒カバーについて紹介します。 
下の写真では、真ん中の部分。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
でか過ぎて 撮影だけで 四苦八苦。

防毒被中
輓駄馬防毒覆中。画面上が前部になります。

防毒覆中
輓駄馬防毒覆中。画面下が前部になります。

補強部
中央鞍部にある補強箇所。用途は不明。

防毒カバー中
前縁部は首の付け根に干渉しないよう円く裁断されています。
配置された連結用孔(画面の四角い補強部)に防毒覆面↓の後端部を接続。


【輓馬防毒覆・後】

更に、腰を覆う為の「防毒覆後」を連結します。

帝國ノ犬達-名称
防毒カバー裏側に押された輓駄馬防毒覆後のスタンプ。「昭和拾九」は製造年。


防毒カバー後

防毒カバー後裏
防毒覆の裏表。画面下が前縁部。巨大なフード状になっており、三角状の部分で馬の腰を包みます。

ストラップ

ストラップ

ストラップ部

胴体に固定するためのストラップ。すべてゴムでコーティングされています。

結束紐

縫付部


結束紐
こちらはカバー連結用紐の裏表部分。

これらの装具によって、馬の呼吸器、頭部、胴体、腰部を各種化学剤から防護できる訳です。
残されたのは脚部のみ。
そんな訳で、次回は馬用防毒脚絆について解説します。

(其の四へ続く)

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2010-05-07 18:21:11

日本軍馬用ガスマスク:其の4

テーマ:化学戦と犬達

日本陸軍輓駄馬防毒装具解説 
 第四回 防毒脚絆について

帝國ノ犬達-防毒脚絆
●日本軍馬用100式防毒脚絆。正面より。

戦場に噴霧された糜爛性ガスは、一定期間毒性を失うことなく地域を汚染し続けます。
泥濘や植物に付着した糜爛剤は、そこを通過する兵士や軍馬に被害を与えました。
空気中の毒ガスに対抗するガスマスクと防毒覆面、防毒カバーだけでは完璧な防護とはいえず、このような地表からの被害を防ぐ為に開発されたのが防毒脚絆です。

防毒脚絆
●第1次大戦中のアメリカ軍馬用防毒脚絆(リヒタース著「化学戦と軍用動物」より 昭和20年)。

「(第1次大戦時の)聨合國はイペリツトの使用漸次増大するに及び、遂に馬匹の皮膚を防護するの必要に迫られたり。
就中球節部、臀部及蹄球部は屢々イペリツトに障害せられしが故に蹄沓及球節付近に達する防毒脚絆を製作せり。
蹄沓は内面にゴムを張れる鉄板を以て堅固なる沓底となし、更に剤を密に掩ふものにして其の上部に防毒脚絆を附し、紐を以て管骨の前後に装着す。
此の沓底は又弾丸の破片及有刺鉄線に對し或る程度に蹄を保護するが故に、米軍は之れを其の戦場に在る全部の馬匹に配給せりと云ふ、然れども独軍に於ては防毒脚絆を使用せざりき。
馬匹防毒面及同脚絆は敵より瓦斯急襲を受くるとき其の効果顕著なるものに在らず。
蓋し斯くの如き状況急を要する場合に在りては、之れが装着は困難にして、瓦斯雲又は瓦斯弾を受け混乱せる場合、馭者又は騎手が先づ自己の防毒面を装着せる後に於て馬匹に防毒具を装着せしむるも已に時機を失する場合在ればなり。
然れども、フリース将軍は動物の瓦斯防護は将来戦に於て大なる価値を有し、特にイペリツトを以て毒化せられし土地を通過する際を顧慮するとき、其の必要を痛感すべしと云へり。
吾國に於ては、蹄冠部繋部及管部を防護する馬匹防毒脚絆を製作せり。
野外試験並實験室に於ける研究の結果に徴すれば、糜爛剤は蹄底を通し蹄軟部を障害することを認めざるを以て、蹄沓は其の必要を認めず、本脚絆は既に制式とせり。
実物供覧説明す(陸軍獣医学校 昭和15年)」

帝國ノ犬達-マスタードガス

帝國ノ犬達-マスタードガス治療
上)マスタードガスにより脚部の皮膚が糜爛した馬。
下)皮膚糜爛箇所への晒し粉塗布(リヒタース)。

ドイツ軍が防毒脚絆を使用しなかったのは、連合軍のマスタードガス投入が大戦末期だった為。
米軍の防毒脚絆は、「底の鉄板が容易に弛くなつたり、或は柔くなつた地上を行動する時、非常に歩行を困難インする欠点があるから、此の様な處では甚だ不便を感じた(リヒタース)」とのことです。

日本軍馬の100式防毒脚絆は、大小2サイズが開発されていました。
右脚用と左脚用、及び脚絆収納用の馬品袋で1セットとなります。

防毒脚絆
100式防毒脚絆

比較

大小比較

脚絆大左

脚絆小左

大小サイズ比較。

脚絆側面2

脚絆側面
脚絆側面。

脚絆左右
左右側面比較。

【ガスマスク収納用バッグ類】


馬
胸にガスマスク・キャリアーを装着したアメリカの軍馬。1940年

バッグ2

大

小
こちらは防毒具の馬品袋・大小2タイプ。

表

中
バッグの表・裏・内部。裏側のベルトループは、装具への固定用でしょうか。
内部のフラップで密閉する仕組みになっています。

ポケット

紐

紐
細部など。

雑嚢

雑嚢裏
こちらも防毒具の収納バッグですが、上のものとは別のタイプです。

雑嚢

紐

紐

これらは防毒面と防毒脚絆の収納用なのですが、様々なタイプがあるので何がナニやら詳細不明。
やっと見つけた防毒具嚢に関する解説はこの程度↓

「馬匹防毒面は、之れをヅツク製の嚢に納む。
其の運搬法は部隊携行を主とし、必要の時機に至り各馬携帯に移すを以て有利とす(獣医学校)」

馬具への装着法に就いては第1回を参照下さい。

他国の馬用ガスマスクバッグは下のような感じでした。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
米軍のM4馬用ガスマスクの収納バッグ。マスク収納時以外も馬の首からぶら下げておき、濾過器連結ホースの分岐部分を固定するのにも使います。

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク

帝國ノ犬達-馬用ガスマスク
ドイツ軍のM38馬用ガスマスクの収納バッグ。重くて嵩張るマスクを納めるのは一苦労です。


最後に、その他の馬用防毒具について紹介します。

対化学戦用防護装備として開発されたものに、防護ゴーグルがあります。
防毒マスクと併用されたもので、とにかく呼吸器と眼だけは護ろうという簡易装具。馬への負担は軽減できますが、マスタードガスの噴霧を受けたりしたらひとたまりもありません。
防護眼鏡を装着した日本軍馬の画像も結構残されているのですが、実物を見た事がないので解説は無理です。


帝國ノ犬達-防護眼鏡

帝國ノ犬達-防護眼鏡

帝國ノ犬達-防護眼鏡

帝國ノ犬達-防護眼鏡
いずれも馬用ゴーグルを具備した試作防毒マスク(リヒタース著「化学戦と軍用動物」より 昭和20年)

その他の防毒装備としては、簡易覆面もありますね。
こちらはマスタードガス対抗用のフランス軍馬覆面。

帝國ノ犬達-馬用マスク

似た様なマスクは、日露戦争でロシア軍から鹵獲した品にも記録されています。
勿論、当時は化学兵器などありませんから、恐らくはコサック騎兵が防寒用に使っていたのかもしれません。
形状としてはこんな感じのもの↓

帝國ノ犬達-馬用マスク

帝國ノ犬達-馬用マスク

帝國ノ犬達-馬用マスク

そういえば、手元にあるこの馬用マスクも正体不明です。耳の部分は革製のカバーで覆われていますから、防寒用でしょうか?

以上。










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