2010-01-31 21:20:46

日本人と犬の歴史

テーマ:日本人と犬達
(イヌ)
いぬる也 
主人になつきてはなれぬ物也
故に他所に引よせてよき食を飼へども もとの主人の所へいぬる也
久志くつなぎ於けばその主人になつきてかへらず


(オホカミ)
大咬也
口ひろくして大にかむ也


貝原益軒「日本釈名」より 元禄12年

帝國ノ犬達-はにわ
ハニハニ。

元旦の朝、代々木八幡宮へ初詣に出掛けました。
まだ日の出前だというのに、丘の上にある神社は多くの人で賑わっています。

お参りを済ませて境内をぶらぶら散策。
代々木八幡の敷地には縄文時代の住居が復元展示してありました。この遺跡は境内で発掘されたもの。当時は集落が形成されていたそうです。
5000年前、この丘で暮らしていた一家はどのような正月を迎えたのでしょうか?
その頃は「正月」なんて概念はありませんし、明けましてオメデタイどころか厳しい冬を生き延びるので精一杯だった筈。
それから長い年月を経て、子孫である我々は同じ地で平和なお正月を迎えているのです。

この丘で縄文人が暮らしていた頃すでに、日本列島へ犬が渡来して何千年もが過ぎていました。
もしかしたら、この家でも犬を飼っていたのかもしれませんね。

帝國ノ犬達-山犬


イヌはオオカミを祖先とする動物です。
日本列島にも古くからイヌとオオカミが棲んでいました。しかし、古代日本のイヌはニホンオオカミから進化した訳ではありません。
我々の先祖と共に、イエイヌとして日本列島へ渡って来たのです。
日本中に拡散した犬達は、大陸からの渡来犬と交雑しつつ地域毎の系統を形成していきました。

それから長い年月を経て、現代の日本人も犬と共に暮らし続けています。
一万年もの間には様々な出来事がありました。
時代が進むにつれて地域集団はクニへと姿を変え、権力層は次々と入れ替わり、様々な宗教が混在し、社会構造は複雑化し、多様な文化が生れては消えてゆきました。
海外との交流、繰返される戦乱や自然災害、飢饉や疫病によって人々の生活も大きな影響を受けました。
日本に暮らす犬達もまた同じ。
海外へ逃げられない彼等は、変化する日本社会に翻弄されつつ生きてきたのです。

その「変化」も江戸末期まではゆるやかなものでした。
激変したのが明治時代。開国と近代化によって、日本犬界は一挙に巨大化していきます。
戦前の日本に花開いた畜犬文化は、しかし総力戦への突入と共に縮小の一途を辿りました。
そして戦争末期、日本が破局へ向かう中で畜犬界は崩壊します。

昭和の敗戦によって、我が国は焼け野原から再起しました。
長く暗い時代が終りを告げた戦後復興期、アメリカのペット文化が凄まじい勢いで流入します。
その明るさに幻惑され、忌しい戦時の記憶はかき消されてしまいました。
「日本のペット文化は、戦後にアメリカからもたらされた」という勘違いは劣化コピーを繰り返しつつ拡散し、いつしか「真実の日本畜犬史」と化します。犬の研究者たちも、ソレを盲信したまま次世代の人々へ伝えてしまいました。
こうして、戦後日本には忘却の畜犬史が定着したのです。

現代の日本では普通に犬を飼うことができます。
多種多様な品種が流通しており、それぞれの飼育法も本やネットで調べることができます。
ペット店へ行けば、犬に関する飼育用具やフードが豊富に揃っています。
愛犬が病気になれば、かかりつけの獣医さんに診て貰うこともできます。
狂犬病は撲滅され、ジステンパーやフィラリアへの予防手段もあります。
行政による畜犬税課税や宗教的な制約もありません。食用にされる心配もありません。

この現代日本犬界は、どのような過程を経て構築されたのでしょうか?

犬の歴史解説で見かけるのが、「犬に関する〇〇は戦後にアメリカからもたらされた」という進駐軍理論。
大抵の場合、「戦前の記録を調べるのが面倒だから、テキトーに誤魔化そう」として使われる呪文です。手抜き解説を見分けるキーワードとして、犬の歴史を調べる人は覚えておきましょう。
コレが濫用された結果、日本の近代畜犬史は思考停止状態に陥ってしまいました。

「進駐軍論者」の主張は、下記のような戦前否定が中心です。

曰く「戦前の日本人に犬の知識などなかった」

へえ、そうですか。
知識もないのに、明治・大正のハンターたちはポインターやセッターを使いこなしていたんですか?
そんな訳ないでしょう。
犬
大正6年の狩猟風景。明治20年代にはレジャーハンティングが普及し、西洋からは大量の猟犬と飼育訓練技術が輸入されました。

「戦前には犬の専門書など無く、海外書籍のみだった」

犬の飼育訓練マニュアルなんて、明治時代からたくさん出版されています。
海外書籍で智識を吸収した愛犬家たちは、それを基礎に国内向けの飼育訓練法を広めました。

犬
戦前に発行された軍や民間の飼育訓練書。これらを元に、犬の飼育知識は急速に普及しました。

「一般庶民が愛玩犬を飼うようになったのは戦後からである」

愛玩犬なんか江戸時代から飼っていますし、戦前・戦中の日本では「月刊ドッグ」「犬の研究」などといったペット雑誌も人気でした。
明治時代から畜犬取締規則や畜犬税が導入されたのは、当然ながら多数の畜犬(飼育犬のこと)がいたからです。

犬
ペットのグリフォンと遊ぶ小野少年。大正6年の撮影

「犬専門のペット商は、戦後に米国から持ち込まれた職種である」

ナルホド。それでは、明治時代に創業したペットショップのカタログをご覧ください。
当時におけるカメ(洋犬)の流行も、輸入・蕃殖・流通を担う畜犬商の存在があって可能だった訳です。

犬
明治30年創業の畜犬商「大日本猟犬商會」。大正時代になると、各地で畜犬商組合が結成される程にその数は激増しています。

「日本の犬猫病院は、戦後に登場したのである」


では、大正8年の狩猟雑誌に掲載された犬猫病院のリストをどうぞ。当時のハンターにも、猟犬を診察してくれる獣医さんが必要でしたからね。因みに、「犬病院」の広告が確認できるのは明治時代に遡ります。
日本の獣医学史は畜産や狂犬病の分野だけではありません。ペット医療の歴史を無視しないでください。

犬
大正時代の東京だけでも犬猫病院はたくさんありますねえ。それらを支える、多くの顧客(ペットの飼主)がいた証拠です。

「日本のドッグフードは、戦後に進駐軍が持ち込んだのである」

それでは戦前のドッグフード広告を。日米貿易は幕末から始まっているのに、「戦後まで輸入されなかった」と考える方がおかしいのです。
舶来品のみならず国産のウェットフード、ドライフード、各種サプリメントも戦前から販売されています。

帝國ノ犬達-ゴールドカップ
昭和8年に輸入されていたドッグフード。残飯を与えていた飼主もいれば、愛犬の食餌に気を遣う飼主もいました。

「ポメラニアンやパグやプードルは戦後に来日した品種」


来日したのは大正時代。マルチーズやボルゾイやアフガンハウンドすらも戦前に輸入されています。
違うと言われても、大正元年の東京朝日新聞には来日したパグとボルゾイの写真が載っていますし。
幕末に鎖国政策が終ると、日本人は多種多様な洋犬を輸入しまくっていました。

帝國ノ犬達-ポメラニアン
戦前の日本で飼育されていたポメラニアン。昭和9年の広告より

「ハチ公は軍国教育に利用されたのである」

では「オンヲ忘レルナ」の何行目が軍国教育に該当するのか、具体的に説明してください。
そもそも「あれは軍国教育ではなく、情操教育じゃないの?」とか、そういう疑問を持たないのは何で?
……まさかとは思いますが、読みもせずに批判していませんよね?

帝國ノ犬達-恩を忘れるな
児童用尋常小学修身書 巻二 二十六 「オン ヲ 忘レル ナ」より
この挿絵を描くにあたり、実際に渋谷驛でハチ公がスケッチされました。

「戦時中、軍部が犬を強奪したのである」

陸軍による軍用犬(シェパード、ドーベルマン、エアデールの三犬種)の調達業務は、軍と飼主の合意による売買契約が原則。
「犬を売りたい飼主」と、「犬を買いたい軍隊」の仲介窓口として設立されたのが帝國軍用犬協會です。
こちらが軍犬購買会の開催通知。購買会の記録は昭和8~19年度分が残っているので、根拠のない妄想なんかカンタンに突き崩せます。

犬
帝國軍用犬協會による軍犬購買會公告。「希望者」とある通り、犬を売りたい飼主を事前に募っていました。

「そうだそうだ!戦時のペット強奪なんて嘘だ!」

軍犬の調達と異なり、ペットの毛皮供出は強奪に等しい行為でした。
昭和13年の商工省皮革統制では野犬の犬皮も対象となり、軍需原皮の減産が深刻化した昭和19年末には全国の知事宛てにペットの毛皮献納が通達されます。
それに伴い、各自治体では多数の犬猫が殺戮されました。

帝國ノ犬達-犬の特攻隊
警察署からペット供出を呼びかける隣組回覧板。これは、従来の野犬駆除システムをペットまで拡大したものでした。自治体で「生産」されたペットの毛皮は、皮革業界で加工・集荷され、皮革統制會社を通じて軍部へ配給されています。

「戦地から帰国した軍犬は一頭もいないのである」

15年に亘る戦争の間には、何頭もの軍犬が帰国しています。彼らが一頭も帰国できなかったのは敗戦時のお話。
動物を戦いに巻き込んだ戦時中と、管理放棄した敗戦時の話は、区別して批判しましょう。

犬
第二次上海事変を戦い抜き、凱旋部隊と共に帰国。故郷仙台の飼主宅へ戻った軍犬フリーダ。
昭和14年の功労犬表彰より

「日本初の国産民間盲導犬は戦後に誕生した」


戦時中には陸軍省医務局の失明軍人誘導犬の他に、何頭もの民間盲導犬が活動していました。
示路(北海道犬)や勝利(紀州犬)といった、盲導日本犬も記録されています。

盲導犬
民間盲導犬示路号による誘導實演。主人の三上氏に寄り添い、日々の通勤を支えていました。
昭和15年

以上、犬の近代史に関する通説や常識は間違いだらけですね。
「戦後に~」「進駐軍が~」で全てを誤魔化してきた、これが日本畜犬史の惨状です。
自国の犬の歴史すら知らないのです、我々日本人は。

古代から現代まで、日本の畜犬史はひと続きのもの。
「敗戦でリセットされた」と思い込む餘り、人々は戦前の記録を無視してしまうのでしょう。

過去を教訓にして前へ進まないと、この先同じ間違いや失敗を繰返したり、余計な回り道をする派目になるかもしれません。
その犠牲になるのは犬達です。
「より良い将来」へ向かう為に、日本人と犬達が今まで辿って来た一万年を早送りで振返ってみましょう。

【戦後の日本犬界】

帝國ノ犬達-戦後
昭和20年代より、かつての「敵国」からの犬の輸入も再開されました。昭和34年の広告より。

昭和20年、日本は総力戦の末に敗北します。
それから始まる混乱と復興の時代、人々に犬を飼う余裕などありませんでした。
深刻な食糧難により、食用とされた犬も数多くいます。日本犬は辛うじて残存し、闘犬界などはほぼ壊滅状態でした。
日本の畜犬団体やペットショップが活動を再開するのは、出征していた愛犬家たちが復員する昭和23~25年頃から。特にシェパード界の復興スピードは驚異的で、同時期には展覧会も全国規模で実施されています。昭和25年以降は海外からの畜犬輸入も復活し、数多くの愛犬団体も設立されました。
続く昭和30年代の高度成長経済期になると、日本犬界は完全に復興します。
昭和31年には大勢の命を奪ってきた狂犬病の撲滅にも成功。動物愛護精神の普及、飼育マナーの向上も「犬への敵視」を減らす効果がありました。
やがてテレビやインターネットの普及を経て、「犬のネットワーク」は飛躍的に広域化。
こうやって現代日本の犬界は形成されたのです。

それでは、戦時中の状況はどうだったのでしょうか?

【戦時の日本犬界】

帝國ノ犬達-軍用犬班
満州方面に展開していた某部隊軍犬班一同。昭和16年

大陸での軍事衝突は激しさを増し、昭和12年に日中戦争へ突入します。それと共に、日本国内は戦時体制へと移行しました。犬の世界も同じで、満州事変以降は軍犬報國運動が拡大されていきます。
民間の軍用犬種は軍部に購買され、続々と戦地へ出征。巨大な民間畜犬界を支えに、日本は東洋最大の軍犬運用国へ成長を遂げました。
いっぽうで、ペットとしての犬には厳しい冬の時代が到来します。
昭和13年には駆除野犬の毛皮が商工省の統制下に置かれ、国家の資源として配給され始めました。
戦況の激化によって昭和15年には海外からの畜犬輸入ルートも途絶。国内にいた愛玩犬たちも「無駄飯を食む無能犬」と白眼視されるようになりました。
昭和16年には対米戦まで始まり、国内情勢もいよいよ逼迫。
昭和19年末、深刻な原皮不足を理由に厚生省と軍需省は飼犬の毛皮利用を認可します。それに伴い、全国の地方自治体はペットの毛皮献納を実施しました。
昭和20年、空襲によって国内各地は焼け野原となり、日本犬界は終戦を待たずに崩壊したのです。

戦時中がこのような状況なら、戦前の日本犬界もひたすら暗鬱な時代だったのでしょうか?
実は、そうではありません。 

【戦前の日本犬界】

帝國ノ犬達-ワイヤー展覧会
昭和8年10月8日、大阪難波高島屋屋上で開催されたワイヤーヘアードフォックステリア鑑賞會。たくさんの出陳犬と見物客で賑っていますね。
戦前、このような品評会は全国各地で開催されていました。

関東大震災の傷跡、昭和恐慌などにも関わらず、戦前の日本犬界は飛躍的な発展を遂げます。
昭和3年には日本犬保存会と日本シェパード倶楽部(NSC)が発足。続いて、各種テリア、ドーベルマン、グレートデン、ボルゾイ、狆、コリーといった犬の愛好団体も続々と設立されました。
我が国に、純粋な意味での愛犬団体が生れたのです。
日本犬保存会は、消滅しかけていた日本犬の保護活動を展開。日本在来犬種は次々と天然記念物に指定されました。日本犬復活の決定打となったのが忠犬ハチ公ブームですね。
また、NSCは陸軍に接近し、シェパードを軍用犬として日本に普及させようとします。この方針は犬の訓練ノウハウを欲していた陸軍側とも合致し、日本のシェパードは軍用適種犬としての途を歩み始めました。
そして昭和6年の満州事変が勃発した夜、日本陸軍の犬が初めて実戦投入されます。
翌年には日本海軍も軍犬を採用し、満州国では関東軍、満州国軍、満鉄、税関、国境警察がそれぞれ警備犬チームを配備。犬の軍事利用は拡大していきました。

昭和犬界が飛躍するための足掛かりとなったのが大正時代です。

【大正の日本犬界】

帝國ノ犬達-ダックスフント
当時の日本で飼われていたダックスフントとフォックステリア。大正2年撮影

大正は輸入される洋犬の種類が激増した時代。大正元年にはボルゾイやパグが、続いてパピヨンやポメラニアンなども来日します。
犬の品評会も盛んに開催されていますが、大部分は愛犬団体ではなく畜犬商の主催によるもの。要するに審査ではなく商売が目的だった訳です。
また、大正元年には警視庁が直轄警察犬制度を採用。続いて大正8年には日本陸軍が軍用犬研究に着手しています。
こうして、「公的機関の犬」も登場したのでした。
ようやく花開いた日本犬界も、大正12年の関東大震災によって大打撃を受けます。
以降、日本犬界の中心地は関東から関西へと移り、神戸には輸入犬が次々と上陸しました。

大正犬界を形成する基礎となったのが、近代化へ歩み始めた明治時代です。

【明治の日本犬界】

帝國ノ犬達-犬

幕末の開国によって、日本には多数の洋犬が渡来しました。
それまで武家や豪商が飼っていた唐犬や南蛮犬を、一般庶民が飼育できるようになったのです。
カメと呼ばれた洋犬は、珍しい舶来の犬として、優秀な猟犬として、僅か20年ほどで全国へ勢力を拡大。殖産興業による牧羊の推進で、種畜場では牧羊犬も導入されました。
各地に根付いていた和犬は、洋犬と交雑することで急速に姿を消していきます。いっぽうで、土佐闘犬のような品種も作出されていますね。
カメの普及は、日本人の犬へ対する価値観も変えました。
「その辺をうろつく獣」は対価を払って入手するペットとなり、その飼育技術や訓練法にも西洋のノウハウが導入されます。西洋式の獣医学や畜犬輸入ルートの確立、そして纏まった「顧客」の出現によって、ペット商や犬猫病院も登場。
いっぽう、野犬による被害や狂犬病を阻止する為、行政は畜犬取締へ踏み切りました。地域警察への犬の登録、畜犬税の徴収、野犬駆除、狂犬病豫防注射の施行、飼育マナー向上の啓発。それに伴って動物愛護団体が設立されたのも明治時代です。
また、海外で外国の犬と接触する日本人も増えました。極端な例が明治37年の日露戦争。軍馬の知識しかない日本軍にとって、馬と鳩と犬を駆使するロシア軍の戦術は驚異的でした。
近代化へ邁進する明治日本では、日本人と犬の関係も大きく変化したのです。

西洋文明を導入する前の日本犬界は、一体どのような姿だったのでしょう?

【中・近世の日本犬界】

帝國ノ犬達-暁鐘成
「予若かりしより、犬の野井戸に陥りて既に死せんとし、又池に陥りて上り得ず、田圃の肥溜の土坪に落て、苦むものを助くる事五六箇度に及べり。尤も犬は各〃異にして自他の差別なし」
こうやって犬を可愛がれば恩に報いてくれることもあるのよ、という江戸時代の説話。
絵と文・暁鐘成「犬、火難を告る」より 嘉永7年

中世から戦国時代にかけては、権力層が次々と入れ替わり、相次ぐ戦乱や飢饉で人心は荒れていました。
そのような時代にも、日本人と犬は共に暮らし続けます。
犬を愛する人が多かったことは、犬の昔話がたくさんある事からもわかりますよね。
大名は外国から輸入される唐犬や南蛮犬や狆を愛好しましたし、庶民にとっても猟犬や番犬は身近な存在でした。
しかし、多くの人にとっての犬は、何の價値もない不快な獣に過ぎません。仏教の制約にもかかわらず、犬肉食も全国各地で見られました。
これを引っ繰り返した出来事が、将軍徳川綱吉の発した「生類憐の令」です。
トップのワガママで人々を苦しめたこの法令ですが、日本に犬の登録制度や野犬保護施設、獣医師などを生んだという功績もありました。犬公方様が亡くなると共に、人々の恨みは犬へと向けられた訳ですが。
鎖国が続いた太平の世、唐犬や南蛮犬による和犬への影響は僅かでした。
幸いにも、鎖国政策は日本犬の保護にも貢献したのです。

それが崩壊したのは開国へ踏み切った幕末期のこと。江戸末期から明治20年代にかけて、海外から大量の洋犬が渡来しました。
近代化へ邁進する明治日本では、犬の世界も大きく変化していったのです。

前置きが長くなりました。
次回より、犬の日本史を辿っていきます。

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2010-01-31 20:30:23

第一部:古代の日本畜犬史

テーマ:日本人と犬達
 
【縄文・弥生・古墳時代の犬たち】



帝國ノ犬達-縄文犬
縄文犬の復元模型(国立科学博物館展示)。

現在は「日本犬」と呼ばれる我が国の土着犬。
彼等の祖先は、縄文時代から人間と共に暮らしていました。海外から渡来したと思われる「縄文犬」は、やがて日本列島全土へと拡散。出土した骨格から「柴犬より小柄で額のストップが浅く尾の立った犬」と想像されています。
縄文~弥生にかけて蝦夷まで達した縄文犬達が、更に樺太や千島列島へ渡ったのかどうかは不明。オホーツクの犬達はシベリア方面から渡って来た犬に占められていましたが、北海道の犬は交雑を免れました。
狩猟や採集生活をしていた縄文時代、猟犬は大切に扱われていたのでしょう。眠るような姿で丁寧に埋葬された全身骨格も発掘されています。
獲物を追い、外敵の接近を報せる犬は、縄文人の暮らしにも大いに貢献していた筈。海外と同様、日本列島でも人と犬との共同生活が定着します。
一方で、犬を食用とする習慣も既に縄文時代から始まっていました。

帝國ノ犬達-弥生犬
弥生犬の復元模型(国立科学博物館展示)

弥生時代になると、大陸から中型の「弥生犬」が渡来。
縄文犬と弥生犬は交雑しつつ、全国各地で独自の系統を形成していきました。弥生犬との交雑が少なかった地域では、琉球犬や北海道犬などが残存したのでしょう。

縄文時代には大切に飼われていた犬ですが、稲作の伝来と共に食肉へと格下げに。弥生時代の遺跡からは、皮や肉を解体した跡が刻まれ、バラバラになった犬骨が発見されています。
コメという便利な食料を得たことで、日本人は猟犬に全てを頼る必要がなくなりました。

弥生時代には大型犬(シェパードを凌ぐ体格の個体も)から小型犬まで、多様な犬種が渡来していたことが出土した犬骨から判明しています。それだけ大陸との交流も活発だったのでしょう。

農耕社会へ移行した日本人は小さなクニを作り、互いに武力衝突を繰り返しつつ大きな国家を形成していきました。

弥生時代以降も人と犬の共同生活は続きます。
古墳時代に階級社会が確立されると、日本の犬は「官の犬」と「民の犬」へ分れていきました。

帝國ノ犬達-埴輪
国立博物館所蔵のイヌ埴輪。群馬県で出土した6世紀ごろのもので、首輪に鈴を付けています。
イノシシ埴輪とセットで出土する例もあり、猟犬や番犬を象ったものかもしれません。

西暦300年頃の仁徳天皇の時代には鷹甘部(たかかいべ)が制定され、狩猟用の鷹や犬の飼育が始まります。
538年に安閑天皇が屯倉(みやけ)を大規模設置すると共に犬養部(いぬかひべ)が置かれました。屯倉は天皇の猟場であると共に穀倉でもあり、犬養部の犬は屯倉の猟犬や警備犬として用いられたのでしょう。
古墳時代から飛鳥時代へ移行する中で、犬の記録も次第に増加。
興味深いのは、奈良時代あたりから忠犬・義犬談のような犬物語が現れることです。
日本人と犬との関係は、社会の発展と共に強化されました。

【飛鳥・奈良・平安時代の犬たち】

これら「公的機関の犬」が出現した事により御犬飼という犬の専門家も生れ、鷹甘部や犬養部では当時最先端の飼育訓練技術が研究されていきました。長屋王の屋敷では「仔を産んだ母犬に米の餌を与える」との木簡が発掘されています。
海外の知識も導入されており、百済から渡来した袖光という人物なども犬飼に関わっていました。
近代以降の「公的機関の犬」といえば警察犬や軍用犬ですが、この時代は猟犬や番犬だったんですね。
675年には犬肉食を一定期間禁じる通達も出されていますし、様々な理由によって犬は保護されるべき対象ともなっていったのでしょう。

帝國ノ犬達-元明天皇
元明天皇(飛鳥~奈良時代)陵に八基据えられた狗人(火酢芹尊の子孫)の石彫図。
「隼人の狗吠」の儀式を執り行った人々を現したものです。日本書紀に登場するこの儀式は、我が国で最も古い「犬の鳴き声の記録」でした。

日本で初めて「名前のある犬」が登場するのは奈良時代に書かれた日本書紀。
その犬の名は足往(アユキ)といいます。

足往は丹波國の桑田村に住んでいた甕襲(ミカソ)という人物の愛犬でした。
記されているのは「この犬が牟士那(ムジナ:アナグマのこと)を噛み殺したところ、ムジナの腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉が出てきた」というお話。

帝國ノ犬達-足往
足往とムジナの闘い。「犬の草紙」より 嘉永7年


日本人の大好きな忠犬談が記されるのもこの頃から。
587年、物部氏の武将であった捕鳥部萬(ととりべのよろず)が蘇我氏に敗れ自刃した際、最期まで主の首を守り抜いた白犬の話あたりが初期のものでしょう。
犬の忠誠心は、「義犬」として当時の人々にも讃えられたのです。

帝國ノ犬達-捕鳥部萬
「有真香村に義犬、主の首を埋む」より(※左半分のみ掲載)、捕鳥部萬の愛犬。「犬の墓ハ萬の墓の北にあり」と伝えられる通り、萬と白犬は並んで葬られました。

やがて平安時代になると、犬の話も増えてきました。
有名なのが、「枕草子」に登場する翁丸。
当時の宮中でも犬を飼っていた事、犬よりも猫の「命婦のおとど」が官位を授かるなど珍重されていた様子を窺い知ることができます。
可哀想な翁丸は、命婦のおとどを脅かしたことを帝に咎められ、宮中から追出されてしまうのでした。
揚句、戻ってきたところをボコボコに殴られるという……。

帝國ノ犬達-犬の草紙

「上東門院一条院の女御とならせ給ふの時、御帳の中に小さき犬子の一疋あるを、官女たちの見つけたり。何地よりか入りたりけん、斯る所がらには甚あやしく、将おそろしき事なり」
朱雀天皇が誕生する直前、御所に迷い込んだ仔犬。後で女性たちのマスコットとなります。
「狗児御帳の内に遊ぶ」より

同じく平安時代には、宗教に結び付けた犬物語も現れます。弘法大師を高野山へ導いたという、狩場明神の黒白の犬もそうですね。
宗教話に取り上げられるほど、猟犬の存在はありふれたモノだったのでしょう。

平安時代末期の1160年に武家階級が政権を握り、時代は中世へと移っていきました。
それに伴い、日本人と犬の関係も更に変化していきます。

(第二部へ続く)
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2010-01-31 20:16:56

第二部:中世~近世の日本畜犬史

テーマ:日本人と犬達
或る諸侯の家来に生類(イキモノ)を好む人あり。
鳥類猫狗何くれとなく畜ひをけり。
狗は猫を見ればかならず齧みころすものなれども、同じ家にやしなわる故にや、つねに相たはぶれてむつまじく暮せり。
ある日この猫ほかの狗あまたにおひせまられ、のがれがたくなりし時、この狗遙かにこれを見て、飛が如くに走り来り。
猫を己が腹の下にかこひ、眼をいからし尾をまきあげ、他の狗を寄つけず。
其のうち主人来りて他の狗をおひ退け、狗をほめて猫をいだきて皈りしとぞ。
もの好きなるものある者なり。

 「公私雑報」より 慶應4年4月

帝國ノ犬達-犬
寛政元年の「頭書増補訓蒙圖彙大成」より、当時の犬の種別について。
江戸時代の犬は、土着の(けん:いぬ) 獒犬(ごうけん:たうけん)、農犬(のうけん:むくいぬ。※農はけものへん)などに分類されていました。
立耳巻尾の和犬、垂れ耳で体高が四尺以上もある唐犬、長毛で水浴を好むムク犬と、それぞれの特徴が解説されています。
加賀にいた前田犬のルーツは、渡来したグレイハウンドか細狗あたりの唐犬かもしれませんね。
高価で取引されていた狆に関しては、「犬とは別の愛玩動物」という扱いだったとか。

それでは第一部からの続き。

平安時代から鎌倉時代にかけて武家階級による支配が確立されると、娯楽としての狩猟も拡大。
武家には鷹部屋や犬部屋が設けられ、鷹狩犬や猪狩犬が飼育されるようになりました。猟犬訓練法についてはそれぞれの流派も編み出されていった様です。

犬に関する行事として有名なのが犬追物。これは当時の一大イベントであり、街中から百数十頭の犬が集められました。
犬を射る矢(犬射引目)には鏃が付いておらず、命中しても殺傷能力はありません。
ただし、犬追物が終ったあとの犬は食用として処理される場合もあったのだとか。大量の犬を調達し、開催日まで飼育し、催事中に運用管理するために「河原ノ者」と呼ばれた人々も重用されました。

南北朝時代から戦国時代にかけては犬の軍事利用が始まります。
畑時能が斥候犬、太田資正が伝令犬をそれぞれ実戦に用いた話が有名ですね。
西洋の軍用犬は戦闘犬から徐々に発展していったのですが、日本の軍用犬がいきなり高度な運用法からスタートできた理由は不明。
犬の能力を正確に見極め、それを正しく訓練して使役する。
あの時代に、それだけの専門知識を有する者が存在したという証でもあります。


犬
吠える犬を追い払う人

戦乱の時代にも、犬は人間と共に暮し続けました。
しかしその関係は殺伐としていった様です。相次ぐ戦や飢饉、疫病などによって打ち捨てられた遺体は、野犬やカラスの食糧となります。
スカベンジャーとしての役割も担っていた彼らも、いっぽうでは、犬も「食べられる側」でした。
人の周囲をうろつき回る犬はカンタンに入手できる食肉だったのです。薩摩のえのころ飯が有名ですが、実際は一地域の風習とかではなく、日本全国で犬を食べていました。
武家屋敷や城の跡からは解体された食用犬の骨が発掘されていますし、江戸時代に入ると町から犬の姿が消えていきます。
「落穂集」には、「下々の食べものには犬に増りたる物はこれなく、各冬向になり候へば見掛次第に打殺して賞翫仕る」と記されているとか。
太平の世へ入ったばかりの頃、日本人と犬は喰ったり喰われたりの関係を続けていたんですね。

「天明三年諸國飢饉、奥羽諸國殊に甚しく、米麦は勿論雑穀野菜の収穫も無かりしが故に牛馬鶏犬の肉を始めとし雑草樹皮迄も食ひ、果ては親は子を棄て子は親を失ひ夫は妻に別れ或は他郷に赴くもあり。
又妻子手を携へて路頭に彷徨するものあり。而して亦道路に斃死するもの其数を知らず、初めは之を取りて處々に埋めたりしも、後には誰ありて之を顧みるのもの無く屍累々として、犬又は鴉の餌となれり。而して犬の如きはすでに其味を知り往來の人を咬殺しゝこと尠からず。然るに人を食ひし犬は後には又悉く人の食物となるに至り、此の如くにして数里の間人犬の白骨散乱して一として人影を見ざりしこと尠なからざりしと」
天明年度凶歳記より

その食習慣も200年間で次第に薄れ、「江戸にて飢饉の時狗を食ふ事を知らずかゝる時にも狗食はれたる方がよし(紫野栗山)」と書かれるまでになります。


犬
江戸時代の絵画には、斑模様の犬が数多く描かれています。これも「昔の和犬」の姿でありました。
現代人が思い浮かべる「日本犬」の姿とは、大正以降に定着したイメージでしかありません。

その関係がひっくり返ったのは貞享4年(1687年)のこと。所謂、「生類憐みの令」が施行されたのです。
宝永7年までの24年間に亘って続いたこの法令は、社会を混乱させました。庶民や猟師などは許可を得ての害獣駆除を継続できましたが、武士階級では鳥獣を殺めたことで死罪や遠島となった人もいます。
極端な動物愛護の強制は、人々に犬への反感を植え付けるだけの結果となりました。
綱吉死去に伴って法令が廃止となった途端、犬への虐待が再開されたそうです。

モチロン、生類憐れみの令だけで260年に亘る江戸の畜犬史を語られては困ります。
江戸時代には、犬を食った人も、犬を愛玩した人も、犬を虐待した人も、犬を使役した人もいました。ただ、それだけのことです。
また、生類憐れみの令には一応の「功績」もありました。
例を挙げますと、犬の登録制度(犬毛付帳)整備や野犬収容施設の設置、公の動物愛護精神や犬専門の獣医師を生んだことなどです。
江戸時代の犬用内服薬としては解熱剤、腹腫治療薬、眼薬、咽喉の薬、駆虫薬、堕胎薬、産後の栄養剤などの薬が記録されています。
漢方薬ならマシな方で、多くはアヤシゲな材料を組み合わせたもの。実際の効能は殆んど無かったんでしょうね。

この時代に編み出された犬の治療法は、その後明治時代に至るまで民間療法として伝えられる事となりました。尤も、主たる治療法は「小豆を煮て食わせる」「小豆を患部に塗る」「それでダメなら諦める」というシロモノでしたが。
「公的な犬」の飼育訓練・医療技術や作法はマニュアル化され、各方面へ普及していったのです。
獣医学を含めた初期の国内ペット界はこうして構築され、明治時代に西洋式獣医学へ世代交代するまで継続していきました。

帝國ノ犬達-御犬毛付帳
江戸時代の御犬毛付帳 



帝國ノ犬達-浮世絵2
●狆を抱く女性

一方で、「民の犬」はどうだったのでしょうか?
喰ったり喰われたりの関係は別として、猟師にとって犬は大切な猟友でしたし、一般民衆の中にも多くの愛犬家がいました。昔話にもよく出てきますよね。


江戸の浮世絵にも、庶民と犬の姿が描かれています。民間の愛犬家へ向けた飼育マニュアル「犬狗養畜伝」
が出版されたのもこの時代。
この本を著した大阪の浮世絵師・暁鐘成は、別著「犬の草紙」でも国内外の愛犬物語や義犬談を取上げました。
彼は犬への虐待や闘犬を禁止するよう主張しており、一般庶民にも動物愛護精神が定着していたことが分かります。
この手の本に需要がある程、関西地方には愛犬家も多かったのでしょう。

しかし、大部分の人々にとっての犬は群をなして塵芥を漁り、遺体を食い荒らし、人に吠えつく薄汚い獣に過ぎませんでした。


帝國ノ犬達-名呉町
暁鐘成が母から聞いた忠犬談「義を守つて犬主の子を育む」より、関西の名呉町で愛犬と暮す一家。 嘉永7年
奥さんに先立たれた夫は、残された赤ん坊の世話を愛犬に托します。母犬は仔犬たちを殺し、人間の子を育てるのでした。
亭主はこれに仰天し、大声を掲げて歎(なき)叫び、偖(さて)は吾子を頼みし故、恩愛の狗児をころし、斯はからひし事よとて、犬の頸を撫擦り、屢々なみだにくれるとぞ。實に忠義なる事人をも及ばざる事どもなり

忠犬・義犬談が広まるいっぽう、その辺にいる駄犬は粗末な扱いを受け続けたのでしょう。
この意識が変わるのは、一般庶民が洋犬を飼育するようになった明治時代から。
洋犬を含む唐犬自体は、結構古くから日本に渡来していました。
但し、それらは上流階級しか飼えない高価な希少犬だったのです。

弥生犬以降も外国からはさまざまな犬が渡来しています。732年(奈良時代)に朝鮮からの使節団が小型犬(スチァン・パイ・ドッグ)と猟犬、騾馬、鸚鵡などを連れてきたのが初期の記録。
この小型犬は上流階級の女性達から熱狂的に受け入れられ、値段も高騰したとか。

鎌倉時代、北条高時によって犬合せ(闘犬)が流行すると、「お犬様」は錦を着せられ、籠で運ばれるようになりました。
子牛のような大型犬も現れたそうですが、これは大陸から持ち込まれたチベタン・マスティフではないかという推測もあります。

更に時が過ぎると、ヨーロッパからも犬が渡来してきました。
17世紀、イギリスのサリス将軍が日本駐在員に宛てた手紙には、「壱岐、平戸といった大名にオッタースパニエルやマスチフ、グレイハウンドを贈るように」と書かれています。
これら見栄えのする品種が、「献上品」として大名に喜ばれたのでしょうね。
来日した唐犬や南蛮犬は、いずれも大名などが飼育していたもの。一般庶民が飼えるような代物ではありませんでした。
幸か不幸か、これで和犬との交雑が抑止されたのでしょう。
もしも一般庶民まで唐犬を飼っていたら、江戸時代に日本在来犬種は消滅していたかもしれません。

庶民が唐犬を飼い始めたのは江戸後期になってから。町人が住む町屋跡から大型犬の骨が出土したケースがあります。
幕末には外国人の持ち込む洋犬の数が増え、「カメ」と呼ばれるようになりました。
文久4年の「横浜奇談」にも記されているので、それ以前から存在した呼称だと思われます。

異国の犬をカメ〃といふ事と心得、其犬を見てカメ〃と呼ぶものあれども、左には非ず。
彼方にて都て目下の者を呼招くの言葉にて、犬の惣名には非ず

「横濱奇談」より

帝國ノ犬達-カメ
小型犬と外国人女性。年代不明

江戸末期、幕府は開国へと踏み切ります。
それまで鎖国政策をとってきた我が国にも西洋文化が流れ込んできました。
犬についても同様で、外国犬といえば唐犬や狆しかいなかった日本にも様々な洋犬が流入します。
日本の犬にとっても「鎖国」は終り、「黒船」たる洋犬がやって来たのでした。


やがて、日本の犬にとっても激動と変革の時代である明治が訪れます。

(第三部へ続く)
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2010-01-31 20:04:20

第三部:明治の畜犬史

テーマ:日本人と犬達
元来犬を飼育する費用は頗る高金を要し、又其生育法に於ても頗る手数を費し、注意の肝腎なると常人の知らざる所なり。
故に欧米人は数百金数千金を惜まずして良犬良種のものを買求すれども、我邦にては貰ふと號し一片の木葉一株の草花を人に望請するが如く一銭の費も拂はず、一片の謝意も表せず、空手良犬を得んとするの風あるも決して左る可きものに非ず。
因て余が飼養する方法に就て試に左に其計算を立ん。

前項粉米一升五銭五輪と仮定し、一升二合にて六銭六厘。
牛肉臓腑中ハス一個八銭。是れに薪塩等を入れて凡そ十八銭となる。
然れバ一ヶ年に付六拾五圓七拾銭を要し、是れに冬期のワラに於ける傳染病豫防薬及ビ清潔に要する薬液に於ける疾病の治療費、犬舎、鎖、首輪、修繕シヤボン、ブラッシ、食器の取替の如き猟僕の給料等は悉皆合算すれば、一ヶ月一頭に付金弐圓七拾銭となる。
莫大の費用なり。
豈曖昧雑種の不良犬を飼育すべけんや。

高井太三郎「猟犬飼養法實験」より 明治24年

帝國ノ犬達-湿板

(第二部からの続き)

私の手元にあるちいさなガラス板。
そこには、チョンマゲ姿の男性と明らかに日本犬ではない黒いワンコの姿が記されています。
所謂「湿板写真」というものですね。
湿板写真技術が日本に伝わったのは安政4年(1857年)頃。断髪令が公布されたのは明治4年(1871年)。
画像の写真が撮影されたのはその10年チョイの間ということになります。
知識を持つ人ならば人物の服装や家具から時代を絞り込めるかもしれませんが、悲しいかな、私にそんな学や教養はありません。
犬を紐で繋ぐというのも、斎藤弘吉が紹介した江戸時代の資料で知ってはいましたが、実際にこの時代からやっていたんですねえ。
カメの種類はレトリバー?セッター?写真からではよくわかりません。

カメといっても、爬虫類の亀ではありませんよ。
明治時代の日本人は、洋犬のことを「カメ」と呼んでいました。
近代日本畜犬史は、カメの渡来と共に幕を開けたのです。

【カメの渡来】

「邦人、洋犬を呼びてカメとなすは、洋人の、犬を呼ぶにカムイン〃といへるを聞きて、犬のことゝなし、転化して終に其の名となしゝなりといふ。
面白き語源なり」

とあるように、横濱在住の外国人が「Coming」と犬を呼んでいたのを「洋犬の名称=カム」と誤解し、それがカメと変化して広まったというのが一般のカメ語源説。

しかし、洋犬が渡来する以前より、日本の一部地域では日本土着犬を「カメ」と呼称していた様です。
勿論、その語源は「カムヒア」ではありません。
ひとつが、「咬む犬」「咬めない犬」を縮めて「カメ」と呼んだ東北地方のケース。
また、村上和潔氏の著作「紀伊山中の日本狼」では、「狼(オオカメ)」を縮めて「カメ」「カメさん」と呼んでいた紀伊半島のケースが紹介されています。
これらの呼称が何時頃から使われていたのか、詳しい事は分りません。

「散切頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」。
とあるように、それまで鎖国政策をとってきた我が国にも西洋文化が流れ込んできました。
犬についても同様で、外国犬といえば唐犬や狆しかいなかった幕末の日本にも様々な洋犬が持ち込まれ始めます。
日本の犬にとっても「鎖国」は終り、「黒船」たる洋犬がやって来たのでした。

明治11年に東北・北海道を旅したイザベラ・バードは、在留外国人が飼っていた洋犬について記しています。

「召使いは誰もが、全くしゃくにさわる波止場英語しかしゃべれないが、利口で忠実に仕えてくれるので、そのめちゃくちゃな英語を補って余りあるものだ。
彼らは、玄関の近辺から姿の見えぬことはめったにないし、来客名簿の受付や、すべての伝言や書信を引き受ける。
二人の英国人の子供がいる。六歳と七歳で、子供部屋や庭園の中で子どもらしい遊びを充分に楽しんでいる。
その他に邸内に住んでいるのは、美しくてかわいらしいテリア犬である。
これは、名をラッグズといって、スカイ種であり、家庭のふところに抱かれるとうちとけるが、ふだんは堂々たる態度で、大英帝国の威厳を代表しているのは彼の主人ではなく彼自身であるかのようである(東京にて)」

「私が新潟を去るとき、大勢の親切そうな群衆が運河の岸までついてきた。外国の婦人と紳士、二人の金髪の子ども、長い毛をした外国の犬がお伴をしてこなければ、人目を避けることもできたであろう。
土地の人たちはその二人の子どもを背にのせてきた。ファイソン夫妻は、私に別れを告げるために、運河のはずれまで歩いてきた」
イザベラ・バード著 「日本奥地紀行」より 高梨健吉訳

古来、野犬やカラスは生ゴミや排泄物、果ては遺体を片付けるスカベンジャーとしての役割を担ってきました。
明治にかけて制度が整うと、「我死なば 焼くなうめるな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹をこやせよ」なんて優雅な(?)死に方は不可能となります。
しかし、多くの日本人にとっての犬とは町を徘徊する薄汚い獣に過ぎませんでした。
そこへ登場した洋犬は、犬への評価を一変させます。

「町をうろつく獣」だった土着の和犬と違い、長年の品種改良により「人間の友」となった洋犬。
そのフレンドリーな性格と奇異な外見によって、カメは日本人から熱烈に受け入れられます。
江戸時代までは高嶺の花だった唐犬が、庶民でも飼えるペットとなったのです。
それまで、唐犬や狆以外の犬は拾ってくるか勝手に居着くだけでした。
明治になって「お金を払って犬を購入する」という事が広まるにつれ、カメは(それなりに)大切に扱われるようになります。

「珍奇鏡」には「家々に洋犬を養ふ、ニ(※明治2年)ヨリ」とあるそうなので、明治期になるとカメ達は一般庶民のペットとして、そして優秀な猟犬として急速に普及していったのでしょう。

明治初期に外国人が連れて来たカメとしては、ポインターやセッター、愛玩用の小型テリア、ブルドッグ、牧羊事業に必要なラフコリーあたりが記録されています。
和犬と洋犬の交配も盛んで、明治元年からの10年間でポインターやブルドッグが持ち込まれた高知県では土佐闘犬の作出が始まりました。
これが明治20年代になると、海外から犬を輸入する日本人も現れます。

「外國種犬が初めて我國へ輸入せられたのは、多くは海外へ旅行された人々が、趣味のまゝに持帰つたのが始りで、犬の売買とか、採算とか、蕃殖とか云ふ上からの考慮は全然無かつたので、従つて各種が輸入せられても、各自が嗜好に適した牡なり牝なりを輸入されたので、其種の改良とか保存とか増殖とか云ふ様な事の望み難きは當然です。
そして多くは其犬一代で雑種となつてしまつたのです。
狩猟界でも西洋犬は能く主人の云ふ事を聞くとか、耳が垂れて珍らしいとか云ふ様な事で、地犬に其れ等の犬を配したと云ふ様な事が進歩の始まりとも云へば云へ様と思ひます。
今から四十余年前(明治20~30年代)に、其當時の茨城縣知事が英吉利セツターの黒二毛斑の牝牡を持帰られて其れが病気となつたのを同地農学校長をして居た義兄が一時預つて居り、全快の御禮として其仔を一頭贈られたので飼育して居つた事がありました。
其れから英吉利ポインターでは、其頃英國大使館にレモン斑の見事な牝牡と、同じく英セツターの黒二毛が飼育せられて居りましたので、其ポインターの仔が得たい為に傳を求めて漸く望みを達する迄になりましたが、其犬は遂に仔が出来ずに仕舞ひました。
コツカースパニエルは三十余年前(明治後期)に相馬子爵が黒二毛の牝牡を輸入せられて、其仔を一頭飼育致しましたが、不幸にして成犬とならぬ内に失いました。
其頃佛國大使館員がダツクスフンドの茶色の牝牡を飼つて居りましたが、其牡を貰ひ受けて飼養致した事がありました。
獨逸ポインターでは神戸の鈴木商店主が犬の研究に獨逸に行かれて居つた田丸亭之助氏(このブログの警察犬編で登場した猟犬訓練士です)に依頼して、牝牡を帰朝の節に輸入せられた。
之れ等が牝牡揃つて輸入せられた最初の様に思ひます」
華蔵界能智「私の見た帝國畜犬発達史」より 昭和9年

カメの伝来は、一方で深刻な影響をもたらしました。
まず、1850年代末には外国からジステンパーが伝播し、多数の在来日本犬がバタバタと死んでいきます。
これに関しては、幕末に北海道へ寄港したブラキストンが、現地で猛威を振うジステンパーについて記していますね。

そして、和犬やニホンオオカミにとって最大の敵となったのがカメでした。

【和犬の消滅】

明治初期、日本に高性能の猟銃と西洋式ハンティングが持ち込まれます。
それまで食糧獲得手段の生業や武士階級の娯楽であった狩猟が、一般庶民の趣味として普及したのでした。
同時にポインターやセッターなどのガンドッグ(鳥猟犬)も続々と来日。明治15年には、陸軍に招聘された獣医のアウギュスト・アンゴーによって詳細な西洋式猟犬訓練法が紹介されます。

舶来モノが大好きな日本人は、今迄使っていた和犬など放り棄てて西洋の猟犬に飛びつきました。
その更新速度は凄まじいものであり、和犬は明治20年代迄には駆逐され、主力猟犬種の座はポインターやセッターに占められてしまいます。
偶に和犬有能論を唱えているハンターも見かけるのですが、彼等の主張も「和犬とポインターを交配すればもっと優れた猟犬が生れる」という内容ばかり。

勿論、この時代にも日本土着犬の再評価に取り組もうとした人もいました。

和犬が消滅の危機に瀕していることを憂い、それらが日本独自の貴重な犬種であることを訴えたのです。

明治の和犬保護論者を代表する人物が農学士の足立美堅。

愛犬家だった彼は、洋犬の研究と共に「日本犬の調査も期している」と明治30年代に書き残しています。

しかし、残念ながらその調査は実行されませんでした。

日露戦争へ出征した彼は、明治37年年11月28日、熾烈を極めた203高地の攻防戦で戦死を遂げたのです。

日本犬保護運動の停滞により、各地に暮らしていた和犬たちは次々と姿を消していきました。


帝國ノ犬達-m26
明治26年

スポーツハンティングが流行するにつれ、大型の猟犬達はニホンオオカミのテリトリーへ侵入し始めます。
里の飼い犬とニホンオオカミの間には、長年にわたって棲み分けが守られて来ました。
山へ迷い込んだ犬はオオカミに駆逐され、人里へ現れたオオカミは人間に追払われていたのです。
しかし、西洋の猟犬たちは易々とその境界を突破していきました。山中で迷子になったりハンターが棄てて行った猟犬たちは、やがて野犬の群れを形成。
こうして餌である鹿や小動物を巡って、オオカミとの衝突が始まりました。
どちらも群れで行動する事が仇となり、狂犬病やジステンパーが山中の狼達に伝染したケースがあったのかもしれません。

また、日本の近代化もオオカミ絶滅に大きく影響しています。
明治に入って畜産・牧羊業が拡大すると、牧場はオオカミたちにとって新たな餌場となりました。
家畜への食害は深刻化し、オオカミは富国強兵を邪魔する敵と見做されます。
北海道では毒餌や狩猟によって徹底的にエゾオオカミを駆逐。
畏敬の対象であったニホンオオカミやエゾオオカミは害獣へと格下げされ、容赦なく狩られていきました。

オオカミの姿が消えて、慌てた頃には時既に遅し。
明治時代、ニホンオオカミとエゾオオカミは相次いで絶滅しました。
近代化に邁進する日本人は、オオカミと共存できなかったのです。

オオカミが絶滅した頃、各地で独自の系統を保ってきた和犬達も姿を消していきました。
猟犬以外に、ペットとしてのカメも明治20年代までに全国へ勢力を拡大。土着の地犬達とカメが交雑化することで、古くから維持されてきた形質は失われます。
当時の日本人にとって、何の価値も無かった和犬。
明治中期の記録には地域ぐるみで柴犬の保護活動をしていた秩父の村などもありますが、こういうケースはあくまで例外です。和犬が消えていくのを憂う人など殆んどいませんでした。
こうして、ポインターの入り込めない山奥の村落に残された和犬だけが細々と生き延びる事となります。

日本在来犬は無視され続け、本格的な保存運動が始まるのは昭和3年になってからです。
貴重な日本犬を絶滅寸前へ追いやった過去すら忘れてしまったのでしょう。その頃から、日本犬に武士道精神だの日本人の美徳だのを重ねて美化する人々も現れます。

帝國ノ犬達-子守犬

【畜犬行政と狂犬病対策】

明治時代には、行政が飼犬取締りへ介入します。
江戸時代の「生類憐令」ほど極端ではありませんが、カメを飼う人が爆発的に増えたことによる弊害が原因でした。
要するに、マナーの悪い飼い主がいっぱい居たということです。

江戸時代から高価な唐犬や狆のような座敷犬以外は基本放し飼い状態でしたから、「飼育マナー」なる概念は日本に無かったのでしょう。
ワラワラと殖えて行くカメたちは、そこかしこで悪さをはじめました。
残飯を食い荒らす、通行人に吠えつく、畑を踏み荒らす、路上に糞尿を垂れ流す。
余りの酷さに堪えかねた人々が訴え出たのか、遂に各地方公共団体は犬の取締りへと乗り出しました。
先鞭をつけたのは京都府です。
明治5年、京都府は府布令第94号を以て悪犬打取り(野犬駆除)を開始。
翌年には「飼犬には住所と名前を記した畜犬札を付けよ」と通達。その取締は邏卒(巡査)が担当します。

それでも全く改まらなかったのか、明治8年には遂に槇村正直知事がキレました。

京都府布令書明治八年九月番外第三十二号
府下市街に従来犬多くして路傍の塵芥を掘散し人家垣壁を損じさせ、田畑之作物を踏荒し、又は家畜鳥獣を噛殺し、動(やゝ)もすれば人に喰付吠廻り杯種々之悪犬あり云々。
去る五年壬申四月、當府第九十四号を以市中へ相達市街之分追々為打取候處
郡中にも右様之悪犬数多有之人之妨害を為し候由相聞候條自今無洩可為打取候
最悪犬に無之有用之飼犬は何郡何区何郵某と飼犬を表せる札を付置
過六年三月相達候通一ヶ月金廿五銭宛邏卒(※巡査の事です)助費金差出すべし。
若し今後其犬前顕之悪業をなさば飼主之越度(おちど)たるべくに付時冝に因り可為打取候條
此旨可相心得事。
右之趣山城丹波郡中ヘ無洩相達者也。

明治八年九月
京都府權知事 槙村正直

飼育マナーなんか知った事ではないという愛犬家と、飼育ルールを守らせようとする行政の鼬ごっこはこうして始まったのです。
続いて明治9年には山形県も畜犬行政に着手。これは狂犬病対策が目的だったらしく、野犬・飼育犬が大量駆除されました。同年には千葉の下総牧場(後の下総御料牧場)が、牧羊場周囲四里の町村での野犬撲殺及び銃殺規則を制定。
これは、国家事業である牧羊への被害を防ごうとしたものです。翌年から、下総では野犬と鳥獣の駆除が実行されました。

更に、高知県では当局が闘犬取締に動いています。
闘犬が盛んだった高知には明治元年にポインターが持ち込まれ、其の後はブルドッグ、ブルテリア、マスティフなどが続々と移入されていました。
これらを在来犬と交配して誕生したのが土佐闘犬です。
当時の闘犬は番付表が発行されるほどの人気娯楽。しかし、それ自体が野蛮であり、賭博行為も目に余るモノがあるとした行政は規制に乗り出したのです。
闘犬を抑え込もうとする高知県側と、規制撤回を望む闘犬家との対立はその後も続きました。
一部には、土佐出身の板垣退助に闘犬認可を陳情しようという話もあったそうです。

そして東京が畜犬取締規則を制定したのは明治14年のこと。
畜犬行政の始まりについては東京ばかり語られますが、実際は後発組だったんですねー。

このような流れの中、明治34年頃からは地方公共団体で「畜犬税」が導入され始めます。
畜犬税とは犬の飼育者にかけられる税金で、要するに「犬を飼いたければ地域の役所に登録のうえ税金を納めよ」というもの。
納税者の犬は畜犬登録手続きの上で一定の保護を受け、未納者の犬は未登録の野犬扱いされて駆除の対象にもなり得ました。

「何で犬に税金がかかるんだ?」「そんなモン拂えるか!」などと無視する人も多かったのですが、一部の自治体では違反者に厳罰をもって対処しました。
ひとつの町や村で警察が一斉に未納税犬を集め、纏めて殺処分してしまった事例も多々あるのです。
其の過程で、地域に根付いていた和犬たちも殲滅されていったのでしょう。

一連の飼育ルールの導入は、ナニも庶民を虐めるのが目的だった訳ではありません。
狂犬病対策に苦慮する当局にとって、畜犬行政は必然の措置でもありました。

古くは「ハシカ犬」と呼んで恐れられた狂犬病感染犬。
明治になって統計がとられ始めてからも狂犬病の犠牲者は増え続け、行政は感染源たる犬の取締に躍起となっていたのです。
「狂犬出現!」の報が入ると警官が駆け付けるのですが、駆除する側も命懸け。ちょっと引っ掛かれたり噛まれたりしただけで狂犬病に感染する危険があるのですから。

行政と共に日本獣医界も狂犬病対策へ力を注ぎますが、「敵」はあまりにも強大でした。
放し飼いや捨て犬の横行で野犬の数は一向に減らず、それらを感染源とした狂犬病も全国各地で頻発。
そして明治26年、長崎県で狂犬病の大流行がはじまります。
被害を食い止める為に700頭以上の飼犬を殺処分したのですが、翌年になると感染は周辺各地へ拡大。
明治28年になっても狂犬病の勢いは衰えず、長崎医学専門学校の医師らは遂にパスツール氏予防注射法の實施に踏み切ります。
人体実験に等しい強行策でしたが、効果は絶大でした。
こうして、日本獣医界は狂犬病へ対抗する術を手に入れたのです。
奇しくも、明治28年はルイ・パスツールが亡くなった年でもありました(日本でもパスツールの追悼集会が開催されています)。

しかし、その後も狂犬病との戦いは続きます。
島国という有利な地理的条件を備えた日本でさえ、狂犬病の根絶までには長い年月と多大な犠牲を費しました。
畜犬飼育へ行政が介入したのには、このような人命に関わる事情もあったのです。

獣医界の進歩は日本犬界の発展にも繋がりました。
愛犬が病気になれば、治療してくれる人が必要ですからね。
ペットとしての犬猫が激増すると共に、それまで牛馬しか診て来なかった獣医師の許へ病犬が持ち込まれるようになりました。
纏まった「顧客」が出現したことで、日本獣医界でも犬猫を対象とする医療研究が盛んにおこなわれるようになります。
犬や猫を専門とする家畜病院が現れたのもこの頃。
こうして「かかりつけの病院」を得られたことで、愛犬の健康を守ろうとする意識も定着していきました。

また、明治時代には目端の利く商人の中からカメを取り扱う者も出てきます。
洋犬を輸入し、繁殖させた仔犬を愛犬家へ販売するという商売で、後のブリーダーのはしりですね。
ここで働く人の中にはこっそり蕃殖させた仔犬を横流ししたり、蓄えた知識や人脈を元手に独立したケースもありました。
畜犬商の増加によって、カメを飼う人も更に増えていきます。

こうして明治時代に現れた畜犬商や家畜病院が、明治の愛犬家たちを支える柱となったのでした。
日本畜犬界が急成長していく為の条件が、遂に出揃ったのです。

扨て。
冒頭に書いた通り、明治の人々は貪欲に外国の知識を吸収していきました。
それまで犬の用途といえば、猟犬や闘犬に見世物の芸当犬くらいだった日本。
明治の40年間に海外から多くの知識を学んだことで、使役犬の分野は飛躍的に発展しました。
それらを列挙してみましょう。

犬
滅亡直前の清国を訪れ、ワンコと一緒に記念撮影する古谷さん一行。
明治四拾弐年十二月、於九江採影。

荷役犬
牛馬を使う程ではない量の物資を運ぶ「運搬犬」が登場したのもこの時代。
明治になって物流が拡大したことにより、コマゴマしたモノの運搬も増えていきます。
まだ鉄道や自動車での物流は発達途上であり、物資運搬は駄馬や輓馬中心でした。
牛馬を使う程ではない量のモノを運ぶのに用いられたのが、荷役犬でした。
樺太を領土とした日本は、現地で使われているノソ(犬橇)に注目します。
日清戦争の頃までは「樺太の珍しい風物」扱いだった犬橇ですが、やがて北海道を中心とする地域で冬季の物資運搬法として導入されていきました。同時に、優れた輓曳犬であるカラフト犬も持ち込まれています。
更には農作物などを積んだ荷車を曳く犬、林用軌道や鉱山軌道のトロッコを曳く犬たちも現れました。

牧羊犬
富国強兵・殖産興業の方針と共に新たな使役犬も登場します。
明治政府は羊毛増産を目的に外国から農事指導者を招き、下総御料牧場をはじめとした種畜場を全国各地に設置。
羊を輸入する貨物船に乗って、アメリカやオーストラリアから牧羊犬も來日しました。
日本で牧羊犬の記録が現れるのは相当早く、明治5~10年頃のこと。
犬種は不明ですが、下総ではラフコリーを使っていたそうです。
この時代が日本牧羊犬の出發点であり、大正期にオーストラリアからケルピーが来日し始めると牧羊犬を採用する牧羊業者の数も増えていきました。


救助犬
レスキュー犬は最近になって使われ始めたイメージもありますが、明治の日本人だってちゃんと存在を知っていました。
明治30年代の犬本には、アルプスで遭難者を救っていたセント・バーナードの逸話も紹介されています。
日本救助犬の初舞台となったのが、明治35年に発生した八甲田山雪中行軍遭難事件。
凄まじい吹雪と酷寒の中、八甲田山中に消えた青森第五聯隊員の捜索は困難を極めました。
その際、東京からセントバーナードを連れた民間人が捜索活動に協力を申し出ています。
結局セントバーナードは役に立たなかったのですが、続いて協力要請を受けたアイヌの弁開凧次郎氏らが北海道犬を連れて現場へ到着。
弁開隊と犬達は深雪をものともせず山中を歩き廻り、遭難者の遺体を次々と発見していきます。
因みに、これは特異な事例ではありません。
戦前の日本では、災害や事件・事故における捜索活動に犬が投入された事例は幾らでもあるのです。

「公的機関の犬」が登場したのもこの時代。

軍用犬
明治37年、日露戦争が勃発。
戦地へ赴いた日本兵たちは、そこでロシア軍の近代的軍用犬部隊に遭遇します。
ロシア軍は開戦前より英独の軍用犬専門家を招聘し、彼等の指導で警備犬や負傷兵捜索犬を訓練。
開戦と共に、大量の軍用犬を日本軍との戦いに投入したのです。
日露戦争は、日本人が近代的軍用犬と対峙した最初の戦いとなりました。
しかし、日本軍には軍馬の智識しかありません。
大正時代になる迄、その価値を理解することはできなかったのです。

警察犬
日本の公的機関が正式に訓練した犬を実戦投入したのは明治末期のこと。
明治43年、台湾総督府蕃務署は11頭の犬を購入。
これらを訓練し、対ゲリラ戦用の山岳斥候犬に育て上げます。
当時、台湾では山岳民族(高砂族)による激しい抗日運動が頻発していました。
それに対し、日本軍や総督府の警察部隊は武力鎮圧で臨みます。
しかし、密林を自在に動き回る高砂族相手には近代兵器も効果は薄く、逆襲を受けた警察部隊が全滅するといったケースも続出。
理蕃対策に悩む蕃務署は、警察犬の導入を決定したのです。
購入された11頭のうち、最初に1年間の訓練を終えた3頭が眉原社討伐作戦へ投入されました。
この「蕃人捜索犬」こそが、日本人の使った最初の警察犬。

日本の警察犬は、血で血を洗う台湾の山岳戦でデビューを飾ったのです。


洋犬

日本社会が大きく変化した明治時代。
その時代に豊かな犬の世界が形成されていきました。

次回は大正犬界のお話を。

(第四部へ続く)
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2010-01-30 23:49:48

第四部:大正の畜犬史

テーマ:日本人と犬達

閥族と謂ふ大泥棒を頭と頼む官僚盗あれば、政盗と申す公盗あり。
市に市盗出でゝ銀行の蔵にペストが棲む。
軍人は國庫を狙ふジゴマで坊主は仏盗教育家に教盗あり。
其他府盗、県盗、郡盗等と数へ来れば社会は是れ泥突の集合體のみ。
斯の秋、この際畜犬に撲殺的税を重課するは遠慮のないとこ御互様のレコ的安寧と利福とを増進する所以で有らうと存するは奈何に。

記事・イラストとも報知新聞より 大正元年

帝國ノ犬達-畜犬税


江戸時代にはどうだったのかよく分りませんが、明治時代になると日本の愛犬家達は結束し始めます。
インターネットや愛犬雑誌などはありませんから、その範囲はとても狭いものでした。

最初に組織化されたのは闘犬界でしょうか。闘犬は、当局からの指導もあって度々禁止の憂き目にあっていました。
そのような時代にも、闘犬愛好家たちは秘かに連絡を取り合って闘犬大会を開催し続けていたそうです。
闘犬家に続いて、明治20年代からは全国のハンターたちが交流の場を形成していきました。
彼等は狩猟雑誌などを通じて猟犬の飼育訓練知識を交換しており、明治末期になると猟犬団体も設立された様です。
「纏まった顧客」が生まれたことにより、犬を対象とする家畜病院や商人も出現。
愛犬家・獣医界・ペット業界という、日本犬界が大きく成長するための条件は揃いました。

日本の愛犬家が団結して行動を起したのは大正元年のこと。
畜犬税増税に反対する動物愛護団体と猟犬団体は日比谷に集結。政府に対し猛然と抗議しました(画像)。
以降、日本の愛犬家達はそれぞれの地域で、更には全国規模へと交流を広げていきます。
日本犬界の分厚い基礎が築かれたのは、大正から昭和にかけての時代だったのです。

相互交流の場となったのは、それまでは狩猟団体や闘犬団体でした。
大正時代になると、ペット商がそれに加わります。
世間一般に「商品」である犬を宣伝するのが目的でしたが、こうして始まったのが犬の品評会でした。
最も有名なのが、大正初期から東京で開催されていた「畜犬共進會」。
木下豊次郎氏らが設立したこの展覧会には、愛犬自慢の人々が挙って参加します。
営利・宣伝目的の主催、しかもマモトな基準や規定など無い時代ですから、その審査では不正が横行していました。
要するに、審査員への“袖の下”が入賞を左右していたのです。
それでも人々は共進會へと押しかけました。誰だって、自分のワンコを自慢したいですからね。
畜犬共進會に続く団体も続々と誕生します。
大正7年には中央畜犬協会が発足、富山県でも畜犬同志會を設立。          
翌年には東京畜犬の會が設立され、畜犬団体の数は徐々に増えていきました。 

このような状況が長く続く筈もなく、畜犬共進會は内部対立の果てに分裂・消滅していきます。
全国の都市部で開催されるようになった犬の展覧会も、似たり寄ったりの状況だったのでしょう。
大正10年に設立された大阪畜犬協会も、内紛によりすぐ解散していますし。

きちんとした審査基準が無いので、当時の品評会ではトラブルも多発しています。
初期の事件となったのが、大正4年に國民新聞不忍池家庭博にて開催された犬の展覧会。この際、審査結果にクレームをつけた土佐犬出陳者との揉め事が発生しました。
厳格な審査基準を持つ欧州の品評会では審査結果は絶対であり、審査員にクレームをつける出陳者はいません。
しかし形ばかり真似た日本の品評会では、出陳者が審査結果へ文句をつけるという悪癖が定着してしまいました。
このマナー違反は、日本畜犬界の問題点として昭和になっても継続します。

だからといって、畜犬共進會が碌でもない展覧会だったと批判する気はありません。
この展覧会に出陳された犬達のリストによって、大正元年から多種多様な犬種が日本に輸入されていた事実を知ることが出来るのです。
愛犬家が集結する犬の展覧会は、まさにその時代を映す鏡となっていたのでした。


帝國ノ犬達-愛犬
満州の撫順にて、新井文子さん(五歳)とロシア産セッター種仔犬(生後二ヶ月) 大正14年

大正元年に開催された第一回畜犬共進會展示會には、セントバーナードやブルドッグ等が出場。この年初輸入された村井吉兵衛氏のボルゾイも出陳されています。 
翌年の第二回は参加する犬も増加。ポインター、アイリッシュセッター、トイテリア、ブルテリア、スパニエル、セントバーナード、ダックスフント、プードル、ポメラニアン、狆、ボルゾイが出陳されました。
其の他、明治~大正時代に輸入されていた犬としては、ダルメシアン、レトリヴァー、ラフコリー、オールドイングリッシュシープドッグ、ビーグル、ホイペット、グリフォンなどの写真や名前が記されています。

大正2年には畜犬品評会が東京で2回、大阪で1回開催されましたが、あくまでマニア達による内輪向けの会でしかありませんでした。
大正4年に開催された大正博覧會に於ては、家畜と共に85頭の犬が出陳されています。
尚、1頭は生後3か月の幼犬であった為に規定上除外となりました。
アイリッシュ・セッター 24頭
イングリッシュ・セッター 10頭
ゴードン・セッター 1頭
ポインター 6頭
ビーグル 3頭
レトリバー 2頭
スパニエル 2頭
アイリッシュ・ウォーター・スパニエル 1頭
ジャーマン・ポインター 1頭
ダックスフント 2頭
コリー 3頭
イングリッシュ・グレーハウンド 1頭
ボルゾイ 1頭
フォックステリア 6頭
グレート・デン 1頭
ブルドッグ 3頭
ブルテリア 1頭
ボストンテリア 1頭
パピヨン 1頭
秋田犬 3頭
樺太犬 2頭
土佐犬 8頭
雑種 1頭
出品者は東京府から47名、神奈川県1名、茨城県1名、秋田県2名でした。
パピヨンなんかも、こんな頃から輸入されてたんですねー。
因みに、ボルゾイと一緒にパグも大正元年に来日しています。
コリーやダックスフントなんかは明治時代に渡来していました。

大正時代の畜犬団体は、雑多な犬を対象とするものが中心。
特定の犬種の愛好家が集まり始めるのはもう少し後のことです。
畜犬団体の増加による効果として挙げられるのが、蕃殖・飼育訓練・医療に関する情報共有化。
インターネットなど無いので会報を通しての情報交換となりましたが、団体同士の交流が広がることによって一挙に多数の愛犬家へ情報が伝達されるようになっていきました。
それらの会報には、ペット用品や家畜病院などの広告も掲載されていきます。
こうして全国各地に散在する愛犬家やハンターや闘犬家やペット商や獣医師たちは、徐々に「犬のネットワーク」を構築して行ったのです。

帝國ノ犬達-大正
鹿児島在住の川畑さん父子と猟犬ジョイ號(セッター)。大正10年頃の撮影。

闘犬団体の活動も衰えず、公式・非公式の闘犬大会は各地で開催されていました。
多くの闘犬愛好者は当局の目から逃れる為に郊外の山中に集まっていましたが
大っぴらな闘犬大会としては、土佐犬愛好団体と猪飼宗逸氏の東京ケンネル・木下氏の朝日クラブが開催した闘犬大会などがあります。

大正時代には、もう一つの大きな動きがありました。
大正元年、警視庁と朝鮮総督府が直轄警察犬の採用へ踏み切ったのです。
明治43年に台湾総督府が運用を開始した警察斥候犬。
不幸な事に、台湾の警察犬達は血で血を洗う山岳ゲリラ掃討戦の現場でデビューしました。
警察犬本来の仕事をするには、大正時代を待たなくてはならなかったのです。

そして遂に、日本本土に登場した治安機関の犬達。
勿論、彼等は犯罪捜査を主任務とする「探偵犬」でした。

警視庁警察犬係に指名されたのが、明治時代から警察犬の研究に取り組んでいた荻原警部補。
荻原警部補は、畜犬共進會の木下氏からラフコリーのバフレーとグレートデンのスターを譲り受け、独学で得た知識を元に警察犬としての訓練を開始します。
大正2年にはバフレーを強盗事件現場へ初投入しますが、結果は惨敗でした。
「科学的捜査」「現状保存」などという概念が無かった当時、捜査員たちは証拠を捜して現場を踏み荒らし、バフレーの為に犯人の臭跡を保存しようなどと思いもしませんでした。
多数の臭いが入り乱れた現場に着いても、バフレーが犯人の手掛かりを探すのは不可能だったのです。
それ以降も成果を挙げられないバフレーに対し、周囲の目は段々と冷たくなっていきました。
焦った荻原警部は即応態勢を改善しようと犬舎の移動までおこないます。
しかし、捜査担当の刑事たちと鑑識担当である警察犬の溝は、遂に埋まりませんでした。

一向に活躍しない警察犬を見た新聞は、「探偵犬無能」と書き立てます。
実際の記録を見ると、バフレーやスターは犯人の遺留品や不審者発見などの功績を挙げていました。
しかし「警察犬の役目とは何ぞや」すら理解していなかった当時の人々にとって、警察犬本来の地道な捜査活動なんか評価の対象外。

因みに、大正時代の警察犬の概念としては
捜査用の「探偵犬」、警備用の「警邏犬」、そして救助犬という分類が既にされています。
まあ、大正時代の人を笑うことはできませんよね。
「犯人を咬み伏せるのが警察犬の主任務」などと捜査犬と警備犬を混同している人は現在でも居ますから。

結局、荻原さんの犬たちは真っ当な評価を受けないまま大正8年に廃止されてしまいます。
「大正時代の探偵犬は無能だった」という、無責任な伝説だけを残して。

周囲の無理解に苦しんだ挙句、愛犬達を無能呼ばわりされた荻原警部。
失意の彼にも、僅かながら理解者が存在しました。
警視庁直轄警察犬が廃止された大正8年、ある公的機関が荻原警部に接触してきます。
それが、同年から軍用犬実地研究に着手した日本陸軍歩兵学校でした。

日本軍の軍用犬研究は、第一次大戦の戦例を元に大正8年度から始まったのである
……という通説とはちょっと違い、実際に歩校が軍用犬研究を開始したのは大戦前の大正2年のこと。
新兵器や新戦術の研究・教育機関として大正元年に設立された陸軍歩兵学校は、日露戦争で遭遇したロシア軍用犬部隊や欧州各国軍隊の採用する「軍事用の犬」の情報収集を早期から開始していたのでした。
また、第一次大戦後にヨーロッパを視察した日本の軍事調査委員会も、西部戦線で大量投入された軍犬や軍鳩について詳しく調べています。

残念ながら、馬の知識しか持たない軍上層部に犬や鳩の軍事的價値を理解してくれる人は居ませんでした。
委員会の欧州軍用犬に関する報告は「児戯に等しい」と一蹴されたそうです。

但し、新戦術の開発に取り組む陸軍歩兵学校の考えは全く違いました。新たな軍用動物として、既存の伝書鳩に加えて軍用犬が役立つと信じていたのです。
しかし、日本陸軍が有するのは馬の飼育訓練技術だけ。
警視庁の警察犬訓練・運用ノウハウは、陸軍歩兵学校にとって喉から手が出る程欲しいモノだったのです。

失意の荻原警部に対し、歩兵学校は協力を要請。
犬の寄贈や訓練のアドバイスを受けながら軍用犬研究に取り組みます。

現代の日本人が持つ軍用犬のイメージといえば「日本軍犬=格闘戦用」というモノ。
そんな現代人とは違い、陸軍歩兵学校は「近代的軍用犬とは何ぞや」という事を正しく理解していました。
旧世代の戦闘犬の時代はとっくに終り、火力中心の近代戦で必要とされる犬の任務を知っていたのです。
その証拠に、歩兵学校は闘犬種を悉く排除。
テストを受けた土佐闘犬は、早々に失格となりました。

大正3年の青島攻略戦以降、ドイツ租借地であった青島から牧羊犬が輸入され始めます。
これは20世紀初頭に警察犬としてドイツから移入された犬種であり、現地でブリードされた結果「青犬」という一族を形成していました。

陸軍歩兵学校も、この青犬2頭を「獨逸護羊犬」としてテストしていました。
荷車牽引研究ではパッとしなかったこの2頭が、文書運搬テストへ研究が移行した段階からズバ抜けた能力を発揮し始めます。
2頭の名前は「エス」と「エイチ」。
後に日本陸軍の主力軍用犬種となる獨逸護羊犬、要するにシェパードはこうして日本陸軍軍用犬としてデビューしたのでした。
ドイツ本国では牧羊犬としての源流をもつシェパードは、牧羊業がそれ程発達しなかった我が国では初めから軍事目的として採用され、戦争に歩調を合わせて発展して行きます。

続いて、大正11年にはドーベルマンが来日。この3頭も陸軍歩兵学校へ寄贈され、そのまま軍事演習に参加しました。
現在、「ドーベルマンの初来日は昭和3年頃」とする説が一般的。でも、大正12年の東京朝日新聞には陸軍演習に参加したドーベルマンの写真が載っているんですよね。

こうして警察犬と軍用犬という公的機関の犬が日本に登場したのです。
残念ながら、警察犬は不当な評価の末に消えてしまったのですが。

帝國ノ犬達-犬と子供


日本の畜犬界は、大正時代に大きく発展する筈でした。
しかし、ある出来事によってそれは一気に崩壊します。

大正12年9月1日。
関東地方を襲った巨大地震により、10万名もの人々が犠牲となりました。
この関東大震災は、日本畜犬界にも多大な影響を与えます。
畜犬団体や輸入された珍しい犬は東京に集まっていたのですが、地震は日本畜犬界の中枢を破壊したのでした。
地震によって多くの愛犬家や犬が犠牲となります。関東のコリー愛好団体などは犬や飼主もろとも消滅。
焼け出された被災者の中には、ペットと共に避難した人も少なくありませんでした。
困り果てた彼等の向かった先が、上野動物園です。
震災後の上野動物園では、被災者が「預かってくれ」と持ち込んだ大量の犬猫や小鳥の為に大混乱。
震災で犠牲となったのは人間だけではなかったのです。
浅草花やしきの動物園では、被災者収容のために飼っていた動物を殺処分していますよね。

震災記念日のサイレンの響を聞くと毎年思ひ出すことが一つある。
十三年前、震災直後の十一月、災後の東京に灰を交へた寒い木枯しが吹いてゐた。
或る日の夕景、私は日比谷の焼跡に灰にまみれて鳴いてゐた仔犬を拾つて来て育てたことがある。
バラツクの中で配給米を頂いて喰ふや喰はずの生活をしてゐた私たちに、棄てられた仔犬を育てゝ楽しむ餘裕は勿論あらう筈はないが、好きなものはどんな場合であつてもやめられないのが人間の本能であるらしい。

宮本佐市 昭和11年

関東大震災で愛犬を喪った飼主、そして飼主を亡くした犬は夥しい数に上ったのでしょう。

震災直後から焼跡で医療活動をしていたお医者さんの証言に、犬が役に立ったという話があります。
地震直後から、情報を遮断された被災者の間で様々なデマが飛び交い始めます。
有名なデマが「震災のドサクサに紛れ、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」というもの。
これによって無実の人々が自警団に殺害・暴行されるという惨劇が発生しています。
「毒入り井戸水」のデマを打ち消すのに役立ったのが、飼主とはぐれて診療所へ集まっていた犬の群でした。
ある時、毒が入った井戸水を飲んでしまったという少年が担ぎ込まれます。勿論、少年の健康に異常などナシ。
デマを信じ込んでいる人々をなだめるべく、お医者さんはその「毒水」を犬達に飲ませて見せました。
いつまで経っても元気な犬達を見て、狼狽していた人々も漸く落ち着いてくれたそうです。
この毒味役の犬達、震災の復旧が始まると元の飼主に引き取られていきました。

関東大震災により、それまで発展してきた関東畜犬界は壊滅します。生き残った犬を元に翌年から復興が始まりますが、それには時間を要しました。
代わりに日本畜犬界の中心となったのが、国際港神戸を有する関西犬界。
震災の直撃を受けた関東犬界とは対照的に、神戸には外国から多種多様な洋犬が続々と輸入され続けました。
こうして関西地方の愛犬家たちは、海外直輸入の名犬・珍犬をずらりと揃えていったのです。
以降、「関東の人間が審査し、関西の犬が受賞する」と揶揄された西日本への名犬集中が始まりました。
この流れは昭和の時代にまで影響を及ぼす事となります。

白木正光
それでは最後に京都の犬界に就いて、西川さんから御説明を願ひます。
西川甚三郎
さあ、どう云ふことを話したらよろしいか。
白木
ありのまゝ仰言つていたゞけば結構です。私は犬界はずぶの素人ですが、この頃東京及び阪神地方の愛犬家にお會ひして感じたことは、阪神の方がずつと熱が高く、名犬も澤山ゐて、この點では東京は立遅れの感があります。しかし一面、阪神の愛犬家は算盤高いと云つては云ひ過ぎですが、どんな恵まれた家庭の愛犬家でも、まあ購入費位は銷却が出来ると云ふ見當を立てゝからお買ひのやうです。
ところが尠くも、今日までの東京人は、犬に金をかけることもしないが、それかと云つて犬で儲けるなどと云ふ気振りを見せることを極端に嫌つてゐます。
そこに東西愛犬家気質の大きい開きがあるやうに思ひますが、京都はその名にれに傾いてゐませう。
西川
まだ京都には阪神程の名犬がゐませんし、又東京のやうに学者揃いでもありませんが、育成に就いては大分熱心家があります。又今後は訓練を大に奨励する考へでゐます。
一體京都のシエパード界は帝犬支部とJSVの一團と日本飼育犬協會の三つのグループがあつて、まだ本當に一致協力して事に當ると云つた融和の域に達してゐませんので、なにかとやりにくいことが沢山あつて遺憾ですが、帝犬支部ではこの秋には是非軍犬の宣傳をしたいと思つてゐます。それから獨逸に倣つて理想的の展覧會もやる考へです。
白木
それでは東山の灯も大分すんで参りました。夜も遅くなりましたからこの辺で。

白木正光「シエパードの育成と京都犬界の實情を聴く」より 昭和9年

日本犬界が花開き、そして大打撃を受けた大正時代は終りを告げ
犬のネットワークが日本全国、そして極東全域へと拡大していく昭和の時代がやってきます。

(第五部へ続く)

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2010-01-30 22:27:04

第五部:戦前日本の畜犬史

テーマ:日本人と犬達
白木正光記者
官憲で現在犬に関係のあるのは、軍用犬は陸軍省馬政課が、一般畜犬は内務省で、僅かに狂犬病取締をやつてゐる位のものです。農林省は往年の行政整理の時、内務省へ畜犬事務を全部移管したと云ひ、内務省は狂犬病取締事務丈けを引取つたと云つて、宙に迷つた状態です。
坂本健吉陸軍少将
地方長官や有力者に接すると、犬についての認識不足は實に驚き入つたものです。そこで私は元を動かすべしといふ意見で、認識を深める計畫を考へてゐるが、それはまだ遺憾乍ら発表の時期ではないのです。
白木
発表を楽しみにしてゐます。
坂本
―ある地方の市で軍用犬展覧會を催したところが、市から支部長の所へ税を納めろと云つて来た。私は怪しからんこともあるものだと思つて市長を訪問したことがある。又支部長が展覧會の時、知事を訪れて、知事賞を依頼したところが、知事の曰く軍用犬とは一體何だ、といふ質問。支部長は呆気にとられて帰つて来たといふやうなこともある。長官會議に陸軍大臣はちやんと軍用犬について話してゐるがこの始末で、私は長官に會つて色々話して来た。かういふ方面から説き伏せて行かねばならぬ。本元に認識を與へることが必要です。
有坂光威騎兵大尉
それは確かに必要です。この間の帝犬の講習會に際し、上の人に出席して貰はうと思つて大分招待状を出したが、警視廳の荒木獣医が一人来られたばかりで出が悪い。
永田秀吉帝犬理事
認識不足だ。そこに力を注ぐ必要がある。
坂本
さうだ。さうすれば行き詰ることはない。
永田
日本犬は歴史を古く、いろ〃の面白い傳説もあるやうで、さうしたものを集めたら。
平岩米吉日本犬保存会理事
子供や婦人にも知らせたいと思つて、斎藤弘氏や私などで色々調べました。犬が忠誠を盡した話は我が國に多いのですよ。
「犬界時事検討の集ひ」より 昭和10年

大正末期、日本在来犬種は消滅の危機に陥ります。
ペット商への入荷も途絶え、そのまま放置していればニホンオオカミに続いて絶滅していたことでしょう。

しかし、ゆっくりではありましたが日本畜犬界は着実に進歩を続けていました。
それは、新たな時代の訪れと共に大きく動き出したのです。


イメージとしてはこんな感じで↓
帝國ノ犬達-飛越
びよ~ん

元号が昭和へ変る頃、大正時代に芽生えた畜犬団体は次の段階へと向かいます。
それまでのペット商主催による犬の展覧会は、マトモな審査基準すら無いシロモノ。
犬種別の審査など行われず、入賞が審査員への「袖の下」で決定されるケースすらあったのです。
入賞を逃した参加者が審査員に暴言を吐くなどといった、目に余る行為も珍しくありませんでした。

これが大きく方向転換したのは昭和3年のこと。
この年、畜犬団体の日本シェパード倶楽部(NSC)と日本犬保存会(日保)が設立されます。
明治時代から60年を経て、遂に犬種別の畜犬団体が誕生した瞬間でした。
これを機に、「ペット商主導の畜犬展覧会」は犬種ごとの審査基準による「畜犬団体主導の品評会」へと大きく変化。
ペット商や出陳者の利益が目的ではなく、純粋に犬を審査することが可能となったのです。
昭和の時代に日本畜犬界が発展していく上で、営利主義の排除は極めて大きな意味を持っていました。

また、日本犬保存会の設立は絶滅しかけていた日本在来犬を救う事にもなりました。
明治38年で途絶えた日本犬保護活動は、日保の設立と共に復活します。
洋犬に比べて「何の價値も無い駄犬」だった地犬は、貴重な国犬たる「日本犬」として再評価される存在となったのです。
秋田犬にはじまり、北海道犬、柴犬、紀州犬、四国犬が続々と天然記念物へ指定され、更なる調査によって山間部に残存していた甲斐犬や越の犬も發見されていきました。
統治下にあった朝鮮半島でも、朝鮮総督府が珍島犬を天然記念物に指定。
他の地犬は交雑によって回復不能の状態にありましたが、何とか日本犬の形質は廃れずに済みました。

帝國ノ犬達-日本犬
日本犬のこどもたち。昭和8年

日保には全国から日本犬愛好家たちが参加し、「日本犬とは何ぞや?」という大変難しいテーマについての検討を始めます。
一家言ある人達がイロイロと討論した結果、日本犬種を大(秋田犬)、中(北海道、甲斐、紀州、四国犬)、小(柴犬)の3タイプに分ける日本犬基準が決定されました。
この決定に猛反発したのが高久兵四郎氏らの日保會員。
彼等は「各地で多様化した日本犬の資質を、体のサイズで区分など出来ない。撤回しろ」などと抗議した挙句、それが聞き入れられないと知るや一斉に日保を脱退。
そして、関西地方で新たな日本犬保存団体「日本犬協會(日協)」を設立します。
これ以降、東の日保と西の日協は鎬を削る活動を展開していくのでした。

……となれば面白かった(失礼)のですが、実際の日協は日保に対するアンチ活動にムダな労力を費やしております。
立派な日本犬保存活動をしていたのですから、日協は堂々と我が道を歩むべきだったのです。
それなのに、コソコソと日保の展覧会へ潜入しては「審査方法がダメだ」「あれはダメだ」「これもダメだ」「あんな事ではイカン」等とスパイ活動に勤しむ始末。
残念ながら、他団体との連携や海外への日本犬PR活動にまで範囲を広げていく日保との差は広がるばかりでした。

そう。
日保の設立によって、「NIPPON INU」の存在は海外でも知られるようになったのです。
昭和10年、日保は海外の畜犬団体へ向けて日本犬の宣伝パンフレット送付を開始。
その結果、カナダ、フランス、ドイツ、イタリアから大きな反響が寄せられます。ケンネルガジェット誌では、日本在来犬をShishi Inu(ボーアハウンド)、Shika Inu(ディアハウンド)、Shiba Inu(ターフドッグ)に分類して紹介するようになりました。 
それと共に、海外へと渡っていく日本犬も現れます(それまで輸出されていたのは狆ばかりでしたが)。 
日本在来犬種は、狆に続く「国犬」へ昇りつめたのでした。

日本犬の再評価は、日本犬の産地に対する深刻な「採集圧」を生む結果となります。
降って湧いた日本犬ブームに「立耳巻尾の犬なら何でも買うぞ!」と人々は大騒ぎ。
日本犬が金になると見るやペット商たちは山間部へ押しかけ、片っ端から猟犬を買い漁りはじめます。
買取られた日本犬は都会へ流出し、それまで棲息していた山間部で姿を消すという逆転現象が発生。
自分達の活動によって地域の特色ある犬が消えていくことは、日保にとっても意外の結果でした。

まあ、「犬の産地」側も名犬や良犬は隠しておいて、テキトーな犬を高値で売っていましたけどね。
ニワカ日本犬愛好家にとっては、犬の良し悪しより「〇〇産の日本犬」という肩書こそが大事だったのです。

兎にも角にも、この日本犬ブームは日本犬復活にとって最後のチャンスでした。
ブームが過ぎ去る迄に、飽きっぽい日本人へ日本犬の価値を植え付ける必要があったのです。
それに失敗すれば、今度こそ本当に日本犬は消滅することになるでしょう。
日本犬保存会は、日本犬復活の為に「時代」を利用しました。
国粋主義の流れへと急速に傾いていく戦前の日本で、日本犬こそが日本国を代表する犬だとPRしたのです。



この時代、日本畜犬界には三頭のスターが誕生しました。
少年倶楽部に連載された漫画の「のらくろ」
満州事変で戦死した軍犬「那智」
そして渋谷駅の忠犬「ハチ公」です。

帝國ノ犬達-ハチ
生前のハチ公。昭和7年春、平島氏撮影

日本犬保存運動に多大な貢献をしたのが、忠犬ハチ公でした。
大正末期、この秋田犬は主人である上野教授を亡くします。
三番目の主人に引き取られるも、以前の習慣通り渋谷駅へ通い続けていたハチ。
日本犬保存会に登録されるも、それ以降はずっと無名の存在であり、渋谷駅でも「通行の妨げになる駄犬」として邪険に扱われています。

ハチ公の運命は、秋田犬保存会の創設で大きく転換します。
闘犬の盛んな秋田県では秋田犬の交雑化が進み、良い個体が皆無の状態でした。
そこで、秋田犬保存会は日本犬保存会の齋藤弘理事へ「全国の優良個体を紹介してほしい」と依頼します。
二つ返事で引き受けた齋藤理事は、かつて駒場附近で見かけた秋田犬を調べに出掛けました。
目的の犬はすぐ見つかり、その家の主人・小林氏から秋田犬「ハチ」の過去を聞いた齋藤さんはいたく感激。
彼のことを広く知ってもらおうと東京朝日新聞へ投書した時から大騒動が始まります。
朝日新聞は独自にハチ公の取材を開始し、それを「いとしや老犬物語」という記事にしたところ、読者の大反響を呼びました。
渋谷駅の邪魔者は一夜にして「忠犬ハチ公」へと変身し、人々に感銘をあたえる存在となったのです。
それと同時に「ハチは只の野犬だ」「齋藤は嘘つきだ」「渋谷駅通いは餌目当てだ」「上野夫人に棄てられた」などと、ハチとその周囲への心無い中傷も始まります。
まあ、本物の忠犬なのか餌目当てなのか、ハチの真意が何だったかはハチにしかわからないんですけどね。
周りの人間たちがキャンキャン罵りあったり銅像を建てたりする中、ハチは静かにその生涯を終えました。
人々はハチ公を忘れることなく、忠犬として語り継ぎます。

日本犬愛好家にとって、復活のチャンスとなった日本犬ブーム。
この期間に、洋犬に負けない「日本犬ならではの長所」を見つける必要がありました。
そうでなければ、ブームが去ると同時に見捨てられて、日本犬は消滅してしまうでしょう。
日本犬はハチ公のように忠誠心の高い犬、日本国固有の貴重な犬、世界に誇るべき優れた犬。
日本犬保存運動家たちは、「日本犬はひとりの主人に尽くす忠誠心の高い犬」という宣伝を開始します。
国粋主義の時流に乗って、このイメージ戦略は見事に的中しました。

真っ当な日本犬普及活動とは、日本犬の素晴しさをPRし、理解者を増やすこと。
しかし、それを全く理解していない日本犬専門家(自称)も、次々とこのブームに飛び付きます。
時流に乗ってトンチキな主張が出て来るのはいつの時代も変りません。
国粋主義は西洋盲拝への揺り戻しとして自国文化の再評価から始まりました。「外国文化と日本文化は等しく価値がある」という国粋主義の考えは、いつしか「日本文化は外国文化より優れている」というドングリの背比べに変貌。
日本犬の世界も同じで、「軟弱な洋犬と違い、日本犬は武士道精神を持っているのだ!」などと真顔で叫ぶ幼稚で下劣で偏狭な思考の和犬優能論が台頭してきます。
たぶん、洋犬を貶めることで日本犬の地位が上がるとでも勘違いしていたのでしょう。
日本犬保存活動に於て、彼等の存在は害悪でしかありませんでした。



日本犬は、やがて児童教育の教材としても利用されるようになっていきました。
当初は単純な感動物語であったハチ公のエピソード。
しかし、それは昭和10年の児童用尋常小学修身書に「オンヲ忘レルナ」として掲載された頃から国家の軍国主義教育へと利用され始めました。
「主人に忠義を尽くしたハチのように、軍人として御国の為めに忠義を尽くせ」と子供達に教え込んだのです!

……などと「オンヲ忘レルナ」を読んでもいない癖に怒りまくっている不思議な人達がいますけれど、 
↓コレの何行目あたりが「軍国教育」に該当するのでしょうか?私には単なる哀犬物語にしか見えないのですが。


ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル
年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)
尋常小学修身書掲載「オン ヲ 忘レル ナ」より 昭和10年

ここで話を整理します。

そもそものハナシとして、犬を題材にした教材で児童への軍国教育に使われたのは
尋常小学修身書掲載の「オンヲ忘レルナ」ではなく
尋常科用小学國語讀本掲載の「犬のてがら」「軍犬利根」に代表される軍犬物語の方です。
 
「オンヲ忘レルナ」と「犬のてがら」が児童教育に使われた昭和10年。
それは、日本軍犬が大規模に実戦投入される時代の幕開けでもありました。

犬
「尋常科用 小学國語讀本巻一」より 昭和7年

昭和5年、昭和恐慌と呼ばれる深刻な経済危機は社会の疲弊と政治の腐敗と軍部の台頭を招きます。
やがて、日本は資源と権益を求めて大陸への進出を加速していきました。

そして、この時代の犬達にも「国家の犬」としての價値が求められるようになったのです。
ひとつは、上で述べたような日本国を代表する「日本犬」として。
もうひとつは、戦争で使われる「軍用犬」として。

満洲國(現在の中国東北部)で軍事用の犬が配備され始めたのは、昭和4年のこと。
この年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の宇佐美理事は、社内の反対を押し切ってドイツからシェパード36頭を購入しました。
これらの犬は、満鉄所有の撫順炭鉱へ配備されます。
同炭鉱では毎晩の如く出没する石炭泥棒対策に頭を痛めていました。警備員も配置したのですが、相手が多過ぎて逆に恐喝される始末。
そこで、宇佐美理事は警備犬の配備を思いついたのです。
炭鉱警備犬の効果は絶大であり、盗んだ石炭で営業していた周囲の鍛冶屋がバタバタ潰れる程でした。
満鉄では、これらのシェパードを鉄道警備任務へと応用していきます。
抗日運動の激化と共に、日帝の象徴ともいえる満鉄は匪賊やゲリラの攻撃対象となりました。
当初は電線や鉄道資材泥棒に対処していた警備犬たちも、次第に対ゲリラ戦へと任務を切り替えていきます。
これが、鉄路総局の国線と満鉄の社線を護る「満鉄警戒犬」誕生の経緯です。
周水子をはじめとする鉄道警戒犬訓練所では多数の犬とハンドラーが育成され、各地へ配備されていきました。
更に、満鉄では鉄道沿線に「鉄路愛護村」を建設。これらに愛護村警備犬を貸与して鉄路の防衛ゾーンを構築します。

また、愛護村へ入植した牧畜家には牧羊犬が貸与されました。
東洋のジャーマン・シェパード・ドッグ(「ドイツの羊飼いの犬」の意)は、満州の広野で漸く本来の牧羊勤務に就くことが出来たのです。

いっぽう、ラフコリーとケルピーが主力だった日本牧羊界ではジャーマンシェパードを使う牧場など数える程度。
内地のシェパードには、日本軍という「就職先」しか選択できませんでした。

昭和3年、陸軍歩兵学校は青島のドイツ人警察官から訓練済みのシェパード11頭を購入。対象の軍用適合犬種を絞り込み、実戦化に着手します。
これを機に、歩兵学校の主力犬種はシェパードが占めることとなりました。

設立されたばかりの日本シェパード倶楽部に、歩校軍用犬研究班が接触したのもこの頃のこと。
NSCの持つドイツの最新訓練理論を学ぶため、歩校軍用犬班メンバーはNSCに入会します。
NSC側も、日本陸軍が軍用犬を大量配備することでシェパードが全国へ普及するメリットを期待していました。
両者の思惑が一致した事で、日本陸軍の軍用犬研究は「独学」から「協学」へと段階を進めます。

NSCの協力を得た事で、歩校の軍用犬研究は実用段階へと到達しました。
昭和5年頃にはコリーやカラフト犬が候補から脱落し、日本の軍用犬適合種はシェパード、エアデール、ドーベルマンの3犬種に決定。
こうして、「実戦デビュー」の準備は整いました。

帝國ノ犬達-歩兵学校
陸軍歩兵学校の伝令犬班 昭和8年頃

昭和6年、大陸に展開する日本軍は、満州での権益拡大を狙って秘かに動き出します。

同時期、満鉄の警備にあたる奉天獨立守備隊では、軍用犬の配備拡大を決定。
その為、歩兵学校から軍用犬の専門家として招聘されたのが、日本シェパード倶楽部會員でもある板倉至中尉でした。
愛育していたホープ號の大陸同行を歩校側に拒否された中尉は、困り果ててホープを献納してくれた青島在住の浅野浩利氏に相談を持ちかけます。
ちょうど浅野さん宅では小夜丸が仔犬を産んだばかり。
その中から、特に賢かった牝の「那智」、その弟「金剛」が板倉中尉へ寄贈されることとなります。
奉天ではこの姉弟とNSCから贈られた「メリー」も加わり、伝令犬としての訓練が開始されました。

同年9月18日夜。
満鉄の線路を爆破した日本軍は、それを中国側の仕業として北大営の張学良軍兵舎を攻撃します。
所謂、満州事変のはじまりでした。
その夜、板倉大尉(直前に昇進)は3頭の愛犬を連れて北大営攻撃に参加。
最初は伝令任務に服していた3頭ですが、戦闘の混乱と共に姿が見えなくなります。
何日か後、那智とメリーは射殺体で発見されました。金剛は行方不明の儘でしたが、大尉は3頭が戦死したものとして懇ろに弔います。
この段階では、単に3頭の犬が戦死したというだけの話。
そんな事に関心を寄せる人など誰もいませんでした。
同年11月27日、板倉大尉が白旗堡の装甲列車戦で命を落とすまでは。

板倉大尉戦死の一部始終は同行記者によって取材され、それと共に9月18日に死んだ3頭の犬についても大々的に報道されました。
これを発端として、「国に殉じた主人と愛犬」の悲話は様々な思惑で利用され始めます。
軍犬の配備拡大を狙う陸軍は、この悲劇を勇ましい武勇伝に脚色した上で宣伝素材として活用しました。

これを児童教育の題材としたのが「犬のてがら」。
北大営での伝令任務中に戦死・行方不明となった那智・金剛・メリーの史実は
那智と金剛が敵兵と勇ましく格闘し、揃って戦死するという武勇伝へ作り変えられてしまいました。
こうして、通信文書を運んだだけの那智・金剛姉弟は、敵兵に襲いかかる獰猛な戦闘犬として語り継がれる事となったのです。
現代の日本人が持つ軍用犬=戦闘犬のイメージは、昭和10年の段階で子供たちに植え付けられていたのですね。

會員の板倉大尉を喪ったNSCでも、「軍への協力路線へ転換しよう」という軍犬報国が声高に主張され始めます。
しかし、NSCの幹部は「NSCはシェパードの同好会であり、軍部とは一定の距離を置くべきである」として親軍派の主張を却下。
メンツを潰されたNSC親軍派は倶楽部を脱退し、陸軍を後ろ盾に社團法人帝國軍用犬協會(KV)を設立しました。

KVが設立された目的は、民間の軍用犬資源を拡大することに尽きます。
・犬を売りたい民間のシェパード飼育者
・犬を購入したい陸軍
・両者の橋渡し役となるKV
この三者の関係によって、軍用犬の大量調達が可能となったのです。
しかし、緊迫の度合いを高める国際情勢を鑑みると時間的余裕はありません。
勢力拡大を急ぐKVにとって、NSCの持つ日本全国の会員名簿とネットワーク、そして登録犬のリストは是非とも必要でした。
しかし、KVからの執拗な合併交渉をNSCは拒否し続けます。
終には荒木貞夫陸軍大臣が仲介(殆んど強迫でしたが)に乗り出した事で逃げ場を失ったNSCは、とうとうKVに吸収合併されてしまいました。
更に、KVはドーベルマン倶楽部や全日本エアデール連盟をも次々と合併し、日本のシェパード、ドーベルマン、エアデールに関する大量の登録犬リストと會員の獲得に成功。
また、帝國軍用犬籍簿(KZ)へ登録するのはこの3犬種のみと決めることで、KZ登録犬から調達される日本軍犬も3犬種に絞られることとなります。
こうして、日本陸軍は訓練済みの優秀な民間犬を購買調達するシステムを確立したのでした。
勿論、KV會員には様々な特典が与えられます。
畜犬税の免除、飼糧配給(戦時中の話ですが)、様々な資格試験の受験、展覧會や競技會での栄誉、種犬交配の優先権など、それは多岐に亘りました。

こうして、KVには多数の愛犬家が挙って入会。延べ5万頭もの犬が登録されるに至ったのです。
海外の最新情報を積極的に吸収し、愛犬家の心理を上手に利用する事で、KVは日本最大の畜犬団体へ成長しました。

周到な計算の元に構築されたのが、日本の軍犬調達システムなのです。


帝國ノ犬達-購買

昭和6年の満州事変から昭和12年の日中戦争勃発までの間、満州での匪賊討伐作戦や鉄道警備任務につく日本軍犬の数はどんどん増えて行きます。
日本各地の陸軍師團も次々に軍犬班を設置。
また、昭和7年の第一次上海事変では、陸軍犬の活躍を目にした日本海軍も軍用犬配備に着手します。
同年末までに陸軍から移管されたクマ號と青島シェパードドッグ倶楽部から寄贈された11頭を呉海軍軍需部が配備し、やがて全国の海軍軍需部へと広げていきました。

こうして、まだ「戦前」の段階で、多数の軍用犬が実戦レベルに訓練されていきます。
いつの間にか、日本は東洋最大の軍犬運用国へと成長を遂げていたのでした。
それは来るべき中国との戦争、そして満州国境で対峙するソ連への備えでもあったのです。



次第にキナ臭さを増して行く大陸情勢、経済不況、政治の腐敗、軍部の台頭。
ひたすら暗い時代として描かれがちな昭和初期の日本。
しかし、内地の畜犬界が最高潮を迎えたのもこの時代でした。

国家を挙げての軍用犬普及活動の余波は、日本畜犬界に思わぬ影響をもたらします。
軍犬報国運動の基礎となったのが、欧米の最新理論に基づく犬の飼育・訓練法。
軍犬報国活動で積極的に広められたこれらのノウハウにより、民間犬の飼育訓練技術も飛躍的な進歩を遂げました。

犬の飼育や訓練なんて、基本となる部分は犬種を問わず共通していますからね。
基礎知識を共有できれば、後は各々が好きな犬種について「応用」を学べば済むのです。
こうして、戦前の日本にはシェパード、日本犬、秋田犬、甲斐犬、紀州犬、土佐犬、ポインター、セッター、狆、ドーベルマン、日本テリア、エアデールテリア、ワイヤーヘアードテリア、グレートデンといった犬種別の愛犬団体が雨後のタケノコの如く乱立し始めました。
その数は無数といっても過言ではありません。
現に、いくら調べてもその全容を把握する事は不可能なのです。
調べれば調べる程に新たな愛犬団体が発掘されるので、結構困っています。

帝國ノ犬達-ワイヤー
大阪にて、ワイアーヘアードフォックステリア愛好団体の行進。 昭和8年

膨大な数の顧客が出現した事で、ペット業界と獣医界も隆盛を極めます。
多種多様な品種を扱うペットショップや訓練所が出現、畜犬通信販売のネットワークは全国はおろか大陸にも伸び、犬猫専門病院の数も増加、犬猫を供養する動物霊園、動物愛護団体による不要犬の里親探し会、犬用の 各種医薬品、舶来のドッグフード、總合ビタミン剤をはじめとするサプリメント、様々な飼育訓練用具、各種の訓練マニュアル、各愛犬団体の審査マニュアル、 情報交換の場である愛犬雑誌が全国に溢れかえりました。

また、この時代には様々な使役犬の存在が知られるようになりました。

此の頃、盛んに上映された洋画には様々な俳優犬が登場。
当時の日本人から愛された外国の俳優犬に、あのリン・チンチンがいます。
やがて、洋画の俳優犬たちに倣うかのように、和製リン・チンチンたちが次々とデビュー。
我が国でも、犬が出演する映画や演劇は急速に増えていきました。

また、医療福祉分野における使役犬が知られるようになったのも此の頃。
昭和4年、作家の桜井忠温と電通の中根榮がベルリンを訪問します。
そこで彼らは、ホテルの近くに佇む失明軍人とシェパードに遭遇。
当時のドイツは、第一次大戦で失明した軍人に失明軍人誘導犬を貸与していました。
二人が出会ったのも、この誘導犬だったのです。
桜井さんは傷痍軍人福祉事業の一例として、中根さんはシェパードの新たな可能性として
ベルリンで出会った盲導犬の話を日本に紹介します。
その甲斐あって、欧州で使われている盲導犬の存在を知る人も増えて行きました。
よく「戦前の日本人は盲導犬を知らなかった」などという解説を見かけますが
当時の世界的ベストセラー作家、桜井忠温の著書を読んでいればそんな主張など出来ない筈です。

帝國ノ犬達-盲導犬ポスター


現代の日本人は忘れてしまいましたが
戦争の時代へ向かう前の12年間、日本では豊かな畜犬文化が花開いていました。

明治時代より海外からの情報をたっぷりと吸収してきた日本犬界は、蛹から羽化への段階を迎えます。

様々な種類の犬が日本に定着し、国家・行政・団体・個人がそれぞれ犬に関与し、幾つもの分野が繋がって、巨大な流れとなっていきました。

こうして構築されたのは、日本列島のみならず台湾、樺太、朝鮮半島、満州国を範囲とする「東洋畜犬界」。
余りにも巨大で、その全容すら把握困難な戦前の日本犬界を、忠犬ハチ公一頭で解説するなど不可能なのです。


帝國ノ犬達-日テリ
仔犬と子供 昭和8年


そして昭和12年。
盧溝橋事件を契機に日中は再び軍事衝突します。
泥沼の日中戦争から太平洋戦争へと戦線は拡大。
戦争の時代、日本で暮らす犬達も否応なしに戦時体制へ組み込まれていくのでした。

(第六部に続く)



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2010-01-30 21:54:49

第六部:戦時の畜犬史

テーマ:日本人と犬達
皮革統制のため、犬皮も粗末に出来なくなりました。
その結果犬皮や犬肉目的の犬泥棒が随所に横行するやうになり、愛犬家の苦労が又一つ増えました。
一方かやうに大切な犬皮を粗末にするのは勿體ない。愛犬が死んだら犬死させず、犬皮は是非残すやうにしたいと云ふ意見も現はれて来ました。
従来の愛犬家心理としては、正に青天霹靂で百八十度の大旋回ですが、これも非常時なればこそです。
すべての人にこれを強ゆることは無理でせうが、さうした心構へは必要でせう。
この時局に際し、犬も単なる愛玩に終始するのは不可で、それ〃の特性をもつと強調したいものです。
戦線に活躍する軍犬は云ふまでもありませんが、農村の労働不足の際、もつと輓曳に利用するのも犬の一つの用ひ方と思ひます。
そしてかく犬がお役に立つから、一層飼育に注意し、良犬の普及に努め、愛護精神を徹底させる必要があると思ひます。
これは愛犬家に課せられた最も大きい責任とも云へます。
輓曳にしても単に犬をつれて来て引つぱらせるのでは能がなく、輓具の研究、輓曳限度、休養等に就いて十分の研究が必要です。


白木正光「愛犬観念の大旋回」より 昭和14年


帝國ノ犬達-軍犬報国
戦時中の「写真週報」より

ペットを守ろうとする白木さんの訴えは、しかし戦時体制下では通用しませんでした。
商工省による皮革統制が始まった昭和13年、犬の毛皮は「国家が管理する資源」に指定されました。
贅沢品である三味線への使用が禁止され、駆除野犬の皮は皮靴や手袋といった日用品へ回されたのです。

やがて、物資や食料の不足は深刻化。人々の不満はペットへと向けられます。
「有能の犬を飼いましょう」
「無駄飯を食む無能犬は駆逐せよ」
明治時代から築き上げられた日本犬界は、戦況悪化と共に崩壊へと向かいます。

日本畜犬史上最悪の時代、戦時の畜犬史について。

【日中戦争勃発】

満洲事変から6年後の昭和12年7月、日中両軍は盧溝橋にて軍事衝突。
それ以降も次々と小競り合いが頻発した挙句、遂には第二次上海事変へと至ります。戦線の拡大と共に内地の軍犬班も続々と出征していきました。
第二次上海事変では日本陸海軍と中国軍の双方が軍犬を投入。激しい市街戦の中で、多数の犬が犠牲になっています。
続く日本軍の南京侵攻で中国軍伝令犬部隊「特種通信隊」は壊滅しますが、日本軍側の状況も同じく悲惨でした。
戦前から充分な訓練を積んでいたベテラン軍犬班は、凄まじい上海市街戦の損害に続く戦線の拡大によってあっという間に枯渇します。
戦力不足を補うために、2週間程度の促成訓練を受けた素人軍犬班がそこかしこで乱立。日本軍犬班のレベルは急速に低下していきました。
まだ緒戦の段階からこの徴候は見られ、昭和12年の戦地便りにも未訓練犬の多さを憂う内容が書かれています。それを糊塗するかの如く、内地ではハデに脚色された軍犬武勇伝が報道され続けました。

大陸に移住していた愛犬家にとっても、戦争は大きな影響を及ぼしていました。
まずは、急速な治安状況の悪化に伴って上海と青島の在留邦人に対し一斉退去命令が下されます。
大勢の人々が着の身着のままで脱出するという混乱の中、多くのペットたちが現地へ置き去りにされました。
日本人が退去した青島では、海軍による奪回作戦までに青島系シェパードが消滅。
また、上海の中国人ブリーダーたちも―国際都市上海には、日本を凌駕する畜犬界が構築されていました―犬の世話をするどころではなくなってしまいました。日本で知られていた上海デニスチェン・ケンネルも、チェン氏が抗日運動へ身を投じたことで活動を停止しています。

帝國ノ犬達-軍用犬出征
昭和15年、茨城県から出征する軍犬達の記念撮影。

【銃後犬界事情】
こうした中でも、内地の愛犬家は普通にペットを飼い続けていました。
まだ戦争は海の向こうの話であり、生活に余裕はあった訳ですね。
しかし、状況は次第に悪化し始めます。大陸の戦いは互いをノックアウトできないまま泥沼状態へ陥り、それに伴って内地も疲弊していきました。
物資の欠乏も顕著となり、昭和14年に節米運動が始まった頃から、人々の不満はペットへと向けられ始めます。
一部地域では、飼い犬を廃して食糧増産へと動いたところもありました。

「人間の食糧すら足りないのに、無駄飯を食む駄犬を飼うとはナニゴトか!」
軍犬や猟犬を御国の為めに役立てようという軍犬報国・猟犬報国運動と共に、「国家の役に立つ有能犬だけを飼え」と強要する声が次第に高まっていったのです。
普通に犬を飼う事すら許されない時代が、そこまで迫っていました。

当初、駄犬駆逐論の旗振り役だったのが政治家と官僚。
商工省の野犬毛皮統制に便乗したのか、過激な意見が目立ち始めました。
民政党の北議員が「この際だから国家の役に立たない犬は撲殺してしまえ」と主張したのに対し、畑俊六陸軍大臣が「愛犬家の気持ちを考えると……」と、やんわり拒否しています。
また、犬の飼糧問題について軍、警察、官庁、畜犬団体関係者が意見交換会を開いた際、「役に立たぬペットは毛皮として利用すべき」と強硬に主張したのが農林省の役人でした。
この際の反応は、狂犬病対策に苦慮する警察関係者が賛同、軍用犬飼育者の減少を懸念する軍関係者が静観、畜犬団体が絶対反対となっています。

あまりにも乱暴な北代議士の駄犬駆逐論に、世の愛犬家たちは激怒しました。
しかし「そんなことしたら犬が化けて出るぞ」などと集中口撃を浴びせる彼等は、個々に怒りをぶちまけていただけ。残念ながら、「全国の愛犬家が結束して対抗しよう」という流れにはなりませんでした。
軍用犬団体と猟犬団体では、自分たちの犬だけを護ろうと自己防衛策へ走ります。「我々が飼っているのは国家の役に立つ有能犬であり、他のペットとは違うのだ」と。

愛犬家同士の不毛な対立は、後年になって取り返しのつかない事態となってしまうのです。

無論、畜犬団体側も非常時における犬の飼糧問題について真剣に取り組んでいました。
糧友會などでも、カイコの蛹やネズミ肉など様々な代用飼糧が研究されています。

帝國ノ犬達-飼料
この頃までは、何とかマトモな代用飼糧が調達できていました。翌年以降、これが乾燥芋へと代わります。
昭和18年

戦時下の日本畜犬界は、ひたすら暗い時代だったという訳ではありません。ペット店や犬猫病院は大いに繁昌していましたし、「犬の研究」や「月刊ドッグ」といったペット雑誌も発行を続け、ドッグショーも盛んに開催されています。
そして、アメリカから本物の盲導犬が来日したのも戦時下である昭和13年のことでした。
同年3月、世界一周旅行の途中に横浜へ上陸したのが米国盲学生ゴールドン氏と盲導犬オルティ號。
噂に聞いていた盲導犬の来日に、新聞社や畜犬団体は競ってゴールドン氏への取材を申し込みました。
盲導犬団体シーイング・アイからPR活動の要請を受けていたゴールドン氏も、快くこれに応じます。こうして、関東と関西を巡ったオルティ號は各地で大歓迎を受けました。
中でも大きな影響を与えたのが、東京第一陸軍病院での医療スタッフと失明軍人を前にしたゴールドン氏の講演会です。

講演に感銘を受けた病院長の三木良英軍医中将は、その年の夏に陸軍省医務局主導による戦盲軍人誘導犬輸入計画をスタート。
ドイツ側との交渉窓口を日本シェパード犬協會に委託し、ポツダム盲導犬学校との盲導犬輸入手続きに入りました。
翌14年にドイツから盲導犬ボド、リタ、リチルト、アルマが来日し、再訓練の上で(訓練担当のJSV関係者に不幸が重なり、日本語習熟訓練には失敗)、陸軍病院の失明軍人へ貸与されます。
世間では盲導犬への賛否両論がありましたが、陸軍病院では雑音を無視して粛々と研究を重ね、フロードや千歳といった国産盲導犬の作出にも成功。
更には、少なくとも4頭の民間盲導犬アルフ(シェパード)、勝利(紀州犬)、エルダー(シェパード)、示路(北海道犬)等も誕生しています。

残念ながら、日本の盲導犬事業は戦況の悪化と陸軍省の中途半端な姿勢によって頓挫してしまいました。
昭和14年を最後にドイツからの盲導犬輸入ルートは途絶。更に、陸軍省内部では「盲導犬より戦地へ送る軍犬の確保を」という声が強くなります。
昭和16年、遂に陸軍省医務局は盲導犬事業の継続を断念。
「盲導犬事業は国家が責任を持つ」というドイツ側との約束を反故にされ、激怒したJSV側は全面撤退を表明します。
陸軍盲導犬の拠点であった東京第一陸軍病院は陸軍省とJSVから見放され、孤立無援の状況に陥りました。それでも、陸軍病院の盲導犬ハンドラー達は驚嘆すべき努力で奮闘し続けます。

帝國ノ犬達-飼育用具
「代用皮」とあるように、戦時の物資不足は犬の飼育用具にも影響していました。 昭和15年

【太平洋戦争突入】

昭和16年、日本海軍機動部隊はハワイの真珠湾を攻撃。遂に、アメリカを相手にした太平洋戦争へと突入します。
南方や北方の島々には、続々と軍犬が送り込まれました。対ソ・対中戦を想定して訓練してきた日本軍犬にとって、酷暑の南方戦線は苛酷な環境でした。損害も増大し、戦地へ向かう輸送船もろとも撃沈され、海の藻屑と消えた日本軍犬も多数にのぼります。
キスカ島撤退作戦のように、放棄された島へ軍犬だけが置き去りにされるケースもありました。

戦争の影響は、やがて国内にも及んできました。
困窮する市民生活の中、犬を飼いきれなくなった人々は愛犬を手放しはじめます。
シェパードやドーベルマンを飼っている人は最寄りの陸軍部隊へ「御国の為に使ってください」と愛犬を寄贈し
それ以外の犬を飼っていた人々は、殺すに忍びないと犬を棄てたのです。
戦時下における警視廳獣医課の発表では、飼犬の登録頭数が激減すると同時に野良犬の数が急増したと記録されています。

犬
ガダルカナル戦敗北、連合艦隊司令官山本五十六戦死、アッツ島玉砕、キスカ撤退、そして学徒出陣が始まった昭和18年。
この年の8月、ヘチマ棚の下で日差しを避ける鈴木喜代志氏の愛犬。千葉縣にて。

また、いきなり大量の犬を寄贈された陸軍側も困り果てていました。
基礎訓練を習得した上で厳しい審査をパスした「購買犬」と違い、「寄贈犬」の場合はきちんと訓練を受けたかすら怪しい個体も混じっていたのです。
役に立たない犬を何頭も押し付けられ、訓練に支障をきたした部隊もありました。

「一般社会の食糧事情が厳しくなるにつれ、犬の献納が出て来た。
シェパードの成犬ともなれば、人間一人前の物は食べる。とても飼い切れないというわけである。
そういう献犬を軍の何処が受付けるのかは知らないが、シェパードならなんでもいいみたいな調子で犬が送り込まれて来る。とうとう全部で十五頭になってしまった。
軍用犬というものは、伝令に使うにせよ、捜索、警備に使うにせよ、兵一人で犬一頭が原則である。特に傳令の場合は二人二頭が一組になるので、犬同志も仲の良い気の合うのでなければ任務が遂行できない。
それが兵六人のところへ犬が十五頭になったのである。一人が二頭ずつ受け持っても三頭余る計算だ。
種オス三頭は訓練の必要はないが、犬舎に入れっぱなしというわけにもいかない。
犬は増えても兵は増えない、それに自分の訓練もできていない兵も混じっているのである。くれでは訓練どころか、犬の世話で手一杯の有様になってしまった。
かくて、訓練、演習は書類の上だけということになってしまった。犬の方も怠け癖がついてしまって、たまに伝令訓練をやると途中でニワトリのあとを追っかけたりする始末」
福山靖 「営門上等兵始末記抄」より


犬

この頃になると、国内畜犬界も悲壮な覚悟で自己防衛に乗り出しています。
「物資輸送に貢献するため輓曳犬の研究を」
「少ない飼糧で済む小型犬を飼いましょう」
「犬を展覧会へ出陳する際は燃料節減の為め複数頭乗り合わせで……」

このような努力にも拘らず、急速に悪化していく戦況は人々の心を追い詰め
やがて、あの「駄犬駆逐論」が復活します。

北代議士の時と違い、こんどは「犬を護ろう」という声など殆んどありませんでした。
太平洋戦争以降、会員の出征などによって愛犬団体は次々と活動を休止。組織的抵抗の術を失った愛犬家たちは、各個撃破されていったのです。
鏑木博士など勇気ある一部の人々が、「せめて日本犬だけは駆除対象から外してほしい」と表明したのみ。
それ以外の愛犬家は、「これも御国の為だ」と犬への敵意を黙って受け入れました。

伊豆下田


戦況激化と共に、軍用原皮の需要は増大していきました。
しかし、安過ぎる原皮公定買取価格を嫌い、軍需品となるべき毛皮の多くが闇市場へ流出してしまいます。
不足分を補おうと、全国規模で毛皮用兎の飼育が奨励されました。兎だけではとても足りず、各種の野獣や海獣の毛皮も片っ端から集められます。

毛皮増産のためには、野生動物よりも入手しやすい家畜が必要でした。
そして、次なる標的とされたのが、国民のペットだったのです。
太平洋戦争へ突入以降、愛犬家の間では「最悪の状況」を憂う声が高まっていました。遂にそれが、現実となって日本犬界を襲ったのです。

物資・食糧事情は厳しさを増し、昭和15年には都市部での生活必需品や食料が配給制に。
同時期の大阪毎日新聞では、「駆除された野犬の肉が中部地方で市場流通している」という記事も報道されています。

昭和16年前後、一部の地域では野犬の毛皮だけでは足りなくなり、庶民のペットまで毛皮供出の対象とし始めました。
商工省が軍需省へ改編されると、犬の皮革統制は更に強化されます。
昭和19年12月、軍需省と厚生省は全国の地方長官(知事)に対しペットの皮革供出を通達。
20日から翌年3月にかけて、全国の自治体でペットの毛皮供出が実施されす。
これが悪名高き「犬の献納運動」。

因みに、戦時の犬毛利用には陸軍管轄によるものと地方自治体管轄による2種類がありました。
陸軍はシェパードの抜け毛の収集、行政はペットの毛皮供出が目的。
下に掲げた2つの資料は全くの別物なので、区別しておきましょう。

陸軍省兵務局馬政課通達214號による在郷軍用犬の脱毛蒐集運動 
昭和16年~
犬
陸軍省から帝國軍用犬協會と日本シェパード犬協會に対して通達された、在郷軍用犬の脱毛蒐集要請。
会員登録犬の抜け毛を集め、四日市の製絨本廠で研究材料に利用されました。
陸軍の犬毛収集運動は脱毛のみが対象で、貴重なシェパードの皮を剥いだりはしません。

地方自治体によるペットの毛皮献納運動 
昭和19年通達 昭和20年全国一斉実施(一部自治体では昭和16年頃から実施)
帝國ノ犬達-犬の献納

警察署から地域の隣組へ回覧された犬の献納運動要請チラシ。八王子警察署発行なのは、当時の畜犬行政が保健所ではなく警察の管轄だったから。
地方公共団体による「犬の献納運動」では、軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物指定の日本犬以外のペットは毛皮として殺処分されました。

ペットの毛皮供出を「軍部が実行した」とする主張もありますが、おそらく軍需省(旧商工省)と陸軍省を混同しているのでしょう。
上記のとおり、犬の戦時供出ルートは複数存在します。
そもそも日本軍は毛皮の需要者であり、生産者ではありません。犬皮の生産・加工・流通は社会的分業であったことを前提としましょう。

飼犬や飼猫は最寄りの警察署へ集められ、警察の監督下で野犬駆除業者によって殺処分されました。
愛犬の供出を逃れようとしても、地域の飼育犬リストは登録窓口である警察が把握していたのでとても不可能。拒否すれば「非国民」と白眼視される恐怖が待っていました。

戦争末期の日本に、犬の逃げ場所は無かったのです。



この献納運動、名目は「軍用毛皮にする」というものでしたが、大量の毛皮を調達した處で輸送・製革する能力が十分だった筈がありません。
戦時金属供出と同様、「集めたはいいが処理できない」という状況が一部にあったとも伝えられています。
前年夏からスタートした神奈川県などでは夏毛の犬皮まで集めていたそうですが、それだと防寒具としての價値は低かったでしょう。

いっぽうで軍用犬種を飼う人々は安心だったのかというと、勿論そうではありません。
飼犬たちが虐殺されていく異様な状況下で、「私が飼っているのは軍用犬です」などという正論は通用しませんでした。彼等には、別のかたちでの犠牲が強要されます。

昭和19年末、社團法人帝國軍用犬協會は会員に対してこのような呼びかけをおこないます。
「KV會員とその所有犬は、民間義勇軍部隊“国防犬隊”へ参加せよ」と。
これを最後に、日本最大の畜犬団体である帝國軍用犬協會は活動を停止します。

KV会員は、それまでも防空演習に協力する民間義勇軍犬隊をボランティア編成していました。
しかし、国防犬隊は米軍本土上陸に備えた準軍事組織です。
シェパードの登録団体が、いつの間にか義勇戦闘部隊に組込まれていたのでした。
もしも本土決戦が行われていたら、陸軍軍犬班と共に民間の国防犬隊も地上戦に投じられたことでしょう。

そんなことはお構いなしに米軍の無差別空襲は拡大。日本の都市部は焦土と化します。
その中で、空襲の犠牲となった犬達も多数にのぼりました。

今考えてもぞつとする……。
あの五月二十五日の大空襲で、着のみ着のまゝ焼け出された僕は、虎の子の―と云つても大したものもなかつたが―家財道具と、いやそれよりも僕のフアミリー メムバーとして眼の中に入れても痛くないほど可愛いがつて居たカロー、―やつと生後四ヶ月になつたばかりのシエパードだつた―を失くして、一時は全く呆然 として途方に暮れてしまつたが、幸い妻とがんぜない二人の坊やが無事だつたのにせめてもの元気をとりもどし、當分親戚に當るSの家にやつかいになることに なつた。
僕はそれから文字通り血みどろな奮闘を續けた。一時は肩に喰ひ込む様なリユツクの痛さもこらえてヤミ芋などをかついで、一日の糧をかせいだこともあつた し、家内は末の坊主をおんぶして、寒い冬の日、木枯らしに襟をちゞめながら古着屋の手代をしたり、石鹸の行商などもして僕を助けて呉れた。
狭い三畳の薄暗い電燈の下ですやすやと無心に睡る二人の愛児―上のは六つ、下のはやつと三つになつたばかりだつた―の寝顔、僕を元気づけやうとしてか少しも弱音をはかない健気な妻の淋しくやつれた襟元、後れ髪が黄色く逆光を受けてほのかに淡い光をなげている。
噫、何というみじめさだ。
たつた一発の爆弾は、たつた一瞬の時間は、人間の境遇をかくも大きく変化させるものか。

佐京謙「市民の夢」より 昭和24年

一億玉砕へと突き進んだ戦争末期の日本。
少数の愛犬家たちが、周囲の圧力に堪えながら日本犬や日本テリアや狆を守り続けたのです。
日々の食事にすら事欠く状況下、その苦労は想像を絶するものだったでしょう。
彼らのおかげで、昭和20年のジェノサイドを生き延びた犬達は戦後に復活を遂げます。


帝國ノ犬達-軍犬
戦地の日本軍犬。
警戒犬なのか伝令犬なのかは判然としません。

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
敗戦によって、戦地に展開していた軍用動物はそのまま遺棄されます。敗けた軍隊に、動物たちを連れ帰ることなど許されませんでした。
中国戦線の日本軍馬は返納式を経て中国軍に引き渡され、幸運な一部は現地で農耕馬としても使われました。
いっぽう、イギリス軍は日本軍馬の「処刑」を命令、膨大な数の馬が殺処分されています。
関東軍軍犬育成所には八路軍が進駐、収容されていた日本軍犬も接収されてしまいました。
各戦線に配備されていた日本軍犬がどのような最期を遂げたのか、今となっては誰にも分りません。

国内に残っていた軍犬は無事だったのかというと、そちらの運命も苛酷でした。
今まで世話をしていた日本軍が消滅してしまった以上、犬も処分される他ありません。
近隣住民に譲られたり、市場放出された犬はまだマシな方で、薬殺、射殺、溺死(ケージごと海に沈める)などで殺処分された軍犬も少なくなかったそうです。

戦時中の記録を調べても、戦地からの帰国を果たした軍犬は10頭程度。敗戦時は1頭も帰ってきませんでした。
国内残留していた軍犬も、敗戦後に飼主宅へ帰宅できた犬の記録は僅か2例のみ。

「戦争が終われば、戦地の軍犬たちも凱旋帰国して来る筈」
愛犬を軍へ献納した人々はそう思っていたのです。
しかし日本は敗れ、敗戦国の犬達には過酷な運命が待ち受けていました。


犬
戦争末期にも結構な数の犬が残っており、空襲警報の合間を縫って展覧会も続けられました。
世間では「敵性語の自粛」が叫ばれたものの、犬界では横文字が飛び交って違いますね。まあ、大部分が友邦のドイツ語ですけど。昭和19年

日本畜犬史上最悪の時代はこうして終わります。
数えきれない程の犬が犠牲となり、あれほど隆盛を極めた日本犬界は焼け野原から再出発することとなりました。
15年間の戦争と、それに続く10年間の戦後復興期。そこへ流れ込んで来た米国のペット文化の眩しさに幻惑され、戦前に花開いた日本犬界の記憶は忘れ去られます。
過去をリセットした戦後の日本人は、次の世代にウソの歴史を伝えました。
「日本のペット文化は、戦後にアメリカから持ち込まれたのだ」と。

しかし、明治時代から積み重ねられたノウハウだけは、戦後の日本へと受け継がれたのです。

(第七部に続く)








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2010-01-29 20:51:06

第七部:戦後の畜犬史

テーマ:日本人と犬達
戦いが終って五年、他を憎み、他を呪うことを強いられて来た長い習慣は、容易に、私達にまことの人間性をとり返させようとしなかつた。
しかし、近頃になつて、街に村に、犬を飼う家のめつきりとふえたことに気付く。
人々はようやくに、他を愛する心を思い出して来たのだ。
そうだ。
地上は美しいもの、生きることは楽しいことでなければならなかつたのだ。
犬は、何時も無邪気に、あくまでも忠實に、そして、人の心を正直に反映する。賞歴燦然たるシエパードや、珍重されるコツカースパニールを傍に侍らし得る人は、申し分なく幸せである。
だが、平凡な柴犬の目に、尋常なスピツツの尾に、美と愛を感じとつて生きる人も、亦多幸と云はねばならない。
人々よ、失われた愛することのよろこびをとりもどし、じつくりとそれを抱きしめようではないか。

伊藤治郎「愛することのよろこび」より 昭和25年


犬
出征していた愛犬家が復員すると共に、戦争を生き延びた犬達も疎開先から戻り始めます。
戦後の混乱は続いていましたが、自由に犬を飼える時代が再び訪れたのです。
昭和24年の広告より

昭和20年8月15日。
国家の総力を挙げた戦いは無惨な敗北に終りました。
15年に亘る戦争の間、軍犬の出征、空襲や食料難、そして犬猫献納運動によって多数の犬が命を落とします。
戦地に展開していた何千頭もの軍犬たちは敗戦によって置き去りにされ、混乱の中で姿を消しました。国内のペット毛皮献納運動ではどれだけの犬が殺処分されたのか、把握することすら出来ません。

日本の敗北と共に、傀儡国家であった満州国は崩壊しました。朝鮮・臺湾・樺太を始めとする海外の領土も失い、多くの海外移民が日本に引揚げてきます。
しかし、国内の農業・漁業・畜産業界は働き手を失い、生産能力は大きく低下。工業地帯や物流システムもズタズタに破壊されていました。
こうして敗戦直後の日本は大混乱に陥ります。
犬を飼うどころか、日々の食糧を得るので精一杯。餓死者すら出る悲惨な食糧難の中で、食用となった犬もいました。

それでもなお、少なからぬ数のペットたちが戦争を生き延びたのです。敗戦直後の記録でも、既にペットの話が幾つも見つかります。
比較的食糧事情のよかった北海道などでは、まとまった数のシェパード群が温存されていました。

戦後復興が進む中で、再び犬を飼う余裕もでてきます。混乱がおさまりつつあった昭和23年頃からは、ペットの数も徐々に増加。
日本犬界の復興スピードは驚異的なものでした。ヨーロッパ各国も戦災からの復興が進み、犬の輸出が再開されたことも助けとなりました。

「昭和十六年といえばあのいまわしき太平洋戦争のおきた年ではあるが、この年に独逸からチンテイスとシャルクの二頭が輸入されてから十年、その間全く独逸とは隔絶されていた。
戦争が終つて私が一番知りたかつたのは、あちらの様子である。S犬はどうなつただらうか。両国のS犬を比較し得る日が一日も早く来る事を楽しみに熱望して いた所、東京にロードv.ツエンタール(カール・ミューラー氏)、大阪にウジロv.プロイセンプルート(斉藤氏)の二頭が、前者は昨年後者は今夏輸入され た。
私はこの二頭を親しく拝見し、血統書をも見せて貰つたが、非常に興味あるものを覚えた。
期せずして両者の母方三代組にルートv.シュトルツツェンフェルスを持ち、ボードをも含み五代組にフィキィv.ベルンを持つ等、その血液構成には興味のつきないものがある。
体形的にも多分に研究の価値あるものと思い、今後も出来るだけ外国からの輸入によつて我国S犬界の発展に貢献してもらいたいものだと念願しつつ擱筆としよう」
榊原茂年「無題」より 昭和25年

戦地へ出征していた愛犬家が復員してくると共に各畜犬団体は活動を再開。壊滅寸前だった日本シェパード界などは昭和25年までに復活を遂げ、全国各地で展覧会を開催するに至っています。
時を同じくして日本犬保存会も活動を再開。何とか護り抜いた犬達を元に日本犬再興へ動き始めました。某全国紙が「日本犬は絶滅した」などと報道し、「事実誤認も甚だしい」と日保を激怒させたのもこの頃のことです。
もしも戦時中に日本の犬が消滅していたら、現代の我々は日本犬を飼えなかった訳ですね。
また、JKC、HSAなどの新団体も続々と設立されていきました。

犬
戦後の人気犬種となるスピッツも、敗戦直後から復活。

犬
マルチーズも、戦後復興期から再び飼育されるようになります。

犬
戦前から人気者だったスコッチテリアも、蕃殖が再開されました。

犬
ポメラニアンの輸入も、戦後3~4年で再開されました。

「終戦後日本の畜犬の数も次第に殖え、愛玩犬も、ぽつぽつ良いものが観られる様になりましたが、戦前あれ程盛んだつたワイヤーは一時姿を消し、フワンを歎かして居ましたが、其後東京では、ロケツト系其他二、三の種犬が發見され、最近では進駐外人のペツトも現はれ、漸くちらほら姿を見掛るようになりました。
数に於て、質に於て、戦前の水準には未だ道遠しの感があります」
奥津クニ「ワイヤーヘヤードテリヤ雑感」より 昭和25年


犬
ドーベルマンも再び姿を現しました。この子は敗戦の2年後に生れていますね。

犬
こちらは敗戦の翌年に生れたグレートデン。

「あの惨憺たる原爆の災禍を蒙り、世界の全人類を戦慄せしめ、今以てその後の御動静如何にやと御案じ申上げて居たわがJSAの広島支部が、森信支部長を中心として雄々しくも立上り、1953年度の西部準ジーガー展の主催を買つて出られ、しかも模範的な大展覧会を開催せられたことはわれわれの驚異であり、より一層の感激でありました」
有坂光威 昭和29年

犬
モチロン日本犬の再興も図られています。

人々の生活にも、僅かながら余裕が生まれてきたのでしょう。

異国日本で暮す進駐軍の兵士達にとっても、日本の犬はよいペットになりました。拾ったり寄贈されたりした犬、特に秋田犬は人気の的となり、やがてアメリカへと持ち帰られます。
戦前、海外に輸出された日本犬は少数でした。熱烈に受け入れられたのは狆くらいですか。
それが戦後になると、アキタ、カイ、シバなどが続々と欧米へ進出。
我が国の犬たちは、ようやく世界に認められたのです。

一方で、戦時に設立された多数の畜犬団体は終戦と共に消滅していきました。
会員に国防犬隊への参加を呼び掛けて活動を休止した帝國軍用犬協會はそのまま解散。
メンバーは新たに日本警察犬協会を設立し、かつては敵対していた日本シェパード犬登録協会と協同で活動範囲を広げていきます。

混乱が収まると共に、戦前から続く動物愛護運動も復活しました。
「在留外国人や宗教家の啓蒙による動物愛護運動」であった日本人道会や動物愛護會は役目を終え、日本人主導による新世代の動物愛護運動が始まります。
海外からの動物虐待批判もあって、犬への虐待禁止や飼育マナーの向上、野犬の安楽死処分などが次々と導入されていきました。

犬
もちろん、多数の飼育者を支えるペット業界も復興を果しています。
昭和24年の広告より

決定的だったのは、昭和31年に狂犬病を撲滅できたことです。「死の病を運んでくる犬」への敵視は、これによって大きく低減しました。
犬は、再び日本人の友となったのです。
経済白書に「もはや戦後ではない」と記された昭和30年代を最後に、各地に残っていた犬肉食も忌むべき行為として廃れていきました。

こうして蘇えった日本畜犬界ですが、その姿は戦前と戦後で大きく変化しています。

軽車両の普及によって、荷役犬は姿を消しました。
通信技術の進歩によって傳令犬も役目を終えました。
賽犬の復活は、賭博行為への反対から頓挫しました。
陸軍の負傷兵捜索犬はレスキュー犬へ世代交代しました。
満州国崩壊によって失われた税関犬も、海外からの逆輸入によって復活。
殖産興業のメインであった牧羊業の縮小によって牧羊犬の働く場は激減しました。
失明軍人誘導犬の跡を継ぐ盲導犬や介助犬は、少しずつ広がっていきます。
猟犬はハンターの友であり続け、闘犬も相変らず開催されています。

内務省から国家地方警察へ体制が変わる中、戦時を生き延びた警察犬たちも活動を再開します。
中部・中国・四国・九州方面の各県警本部では、敗戦直後の昭和21年から警察犬を再配備。
彼らは、治安が悪化した戦後日本で犯罪捜査に従事します。摘発された闇業者が警察犬の毒殺を謀った事すらあり、正に命懸けの任務でした。
警視庁の犬達ばかり語っている「日本警察犬史」のせいで、国家地方警察の犬達は存在すら忘れ去られました。
その警視庁警察犬が復活したのは、昭和31年のことです。

敗戦で消えた筈の軍用犬も、アジアの戦いで復活を遂げます。
日本に進駐した極東米軍は、復活した日本シェパード犬界から軍犬を大量調達。台湾軍やフィリピン軍も、日本で軍用犬の購買調達を実施しています。
こうして調達された日本生れの軍犬たちは、朝鮮戦争や中台の紛争、フィリピンのゲリラ掃討などに従事しました。

戦後日本も、新たな武装組織として警察予備隊を創設。
その頃から、軍用犬の復活が計画されます。警察予備隊が保安隊へと改編された際、保安隊は日本シェパード犬登録協会へ要請して保安隊ハンドラーを育成。「保安犬」と呼ばれる警備犬チームを発足させます。
保安隊が陸上自衛隊になった後も、幾つかの駐屯地では警備犬を配備していました。
現在、陸自の犬は廃止されて海上自衛隊と航空自衛隊で運用中。各種センサーや通信技術が発達した現在、軍用犬の役目も限定的なものとなりました。



戦後の復興期を経て、日本は高度経済成長期へ移行。
それに伴って多種多様な洋犬が輸入され、たくさんの愛犬団体が設立され、豊富な飼育用具が販売され、医療体制や医薬品も整えられ、ペット霊園が整備されました。
人々は流行の犬種としてスピッツやハスキーやミニチュアダックスやチワワや北海道犬に飛び付き、すぐに飽き、捨てていきました。
警察や駆除業者がおこなっていた野犬や不要犬の殺処分は、保健所の担当となりました。殺処分の方法も、撲殺から炭酸ガスによる「安楽死」へ転換。
「愛犬家」が飼育放棄した不要犬はゴミのように行政へ押しつけられ、命を奪われて続けています。

一万年に亘って積み上げられてきた「日本人と犬との関係」の、これが現在の姿。
日本畜犬史は、今もなお構築の途中なのです。

戦前の日本に巨大な畜犬界が存在した史実は、戦時の辛い記憶と共に忘れ去られました。
戦前から受け継がれた成果も「戦後にアメリカから持ち込まれた」と歪じ曲げられます。
それが語られる中、ウソはやがて「真実の歴史」として定着しました。

結果として、戦後の日本畜犬史は忘却と思考停止の産物と化しています。
悲劇ばかりクローズアップされた、薄っぺらで殺伐とした犬の年表。
壊れたレコードのように繰り返される忠犬ハチ公論。
妄想とイメージだけで美化・批判される軍用犬。
他府県警の犬達を無視し、警視庁の犬しか見ようとしない日本警察犬史。
ペット医療の過去を見ようともしない獣医学史。コマ切れの動物愛護史や畜犬行政史。
本筋とやらを語る上で隅へと追いやられた、猟犬の、愛玩犬の、野犬の、運搬犬の、牧羊犬の、救助犬の、盲導犬の、闘犬の日本史。

普通に暮していた犬達の記録を「無価値なもの」と切り捨てる傲慢な歴史家たちが、我が国の大切な畜犬史を捻じ曲げ続けているのです。



こうして、戦後畜犬界は「戦前とは断絶した世代」と勘違いしたまま、21世紀を迎えました。
それは悪い事ばかりではありません。お蔭で、戦後の畜犬界は過去に引きずられる事なく発展してきました。
「お国の為に犬を捧げろ!」と喚く人もいません。
日本犬に武士道精神を押し付ける、トンチンカンな国粋主義も見かけなくなりました。
狂犬病の撲滅に成功し、犬への敵意も激減しました。
戦前は10年以下だった犬の平均寿命も、獣医学の進歩で十数年を共に暮らす事が可能です。
おそらく、日本畜犬界は最も幸福な時代を迎えたのでしょう。

さて、日本人と犬との関係はこの先どうなってゆくのでしょうか?
機械技術の発展に伴って警察犬・軍用犬・レスキュー犬が廃れ、医学の発達で盲導犬や介助犬も不要となり、自然破壊で猟犬が消えた近未来を想像してみましょう。
その世界で、犬の存在意義とは一体何なのでしょうか?
幾つもの犬種が廃れつつ、人と犬との生身の関わりは維持されるのでしょうか?
バーチャルな世界のペットや(電脳コイルのデンスケみたいなのね)、アイボみたいなロボット犬へ代替されるのでしょうか?飽きて棄てられた野良ロボット犬が、主人を求めて街を徘徊するような未来社会が訪れるのでしょうか?
そういう電気羊みたいな未来は味気ないなあ、とも思う訳です。あの小説には「人間のレプリカ」まで登場していましたけど。
ロボット犬については、現段階で既に問題が発生し始めています。
ロボット犬に対して本物のペットのような愛情を注ぎ、長年に亘って「飼育」しているオーナーさんは少なくないとか。企業にとっては製品でも、飼主にとってはかけがいのないペット。製品サポートが終了した場合、その「ペット」の修理は不可能となります。
開発側が想定すらしていなかった、生身の犬との死別とは違う、新たなペットロス問題が生れたのです。
犬の存在って何なんですかね?

私の妄想はともかく、さまざまな可能性のある未来へのステップとして、現在はあります。
その現代日本の犬達は、今もなお粗末に扱われ続けています。このツケはいずれ愛犬家へと跳ね返り、自分達の首を締める結果にならないとも限りません。

温故知新という言葉がありますよね。
今迄辿って来た道程を学ぶことによって、現状に至った経緯を把握することも、過去の失敗を繰り返さず、それを糧としてより良い将来へ向かう事もできる筈。
日々積み重ねられる「日本畜犬史」を、偶に振り返ってみては如何でしょう。人と犬のより良き未来のため、何かのヒントが見つかるかもしれません。

以上です。

イヌ、そして、イヌ。
イヌに夢中になっていた。この愛すべき動物は一体、どこからきたのだろう。
多くのイヌの本にまず書かれているのは“イヌの先祖は、オオカミです”ということである。本当にそうだろうか。
何か秘密がある。どこかにある。

畑正憲「ムツゴロウの 続 生きているひみつ」より
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