生年月日 大正12年11月生まれ
犬種 秋田犬
性別 牡
地域 秋田縣→東京府
飼主 上野英三郎教授→小林菊三郎氏

 

帝國ノ犬達-ハチ

 

忠犬ハチ公は近代日本を代表する犬です。
それは間違いないのですが、ハチ公だけで近代犬界を語るのも大間違い。犬の日本史は、全国各地に暮した無数の犬たちとそれに関わる様々な出来事の集合体です。
虚像の忠犬へまつり上げられたハチ公の生涯を、秋田犬の歴史と絡めて時系列で辿ってみましょう(秋田犬との交雑化という意味で、土佐闘犬史とシェパード史も加えてあります)。
 

帝國ノ犬達-ハチ公

生前のハチ公と上野八重子氏。
 
【寛永7年~】
秋田藩が闘犬を奨励。
 
【安政6年】
箱館、横浜、長崎が開港、洋犬の大量流入がスタート。
 
【明治元年】
土佐赤岡町の小松氏がポインター「エス」を四国犬と交配。土佐闘犬の作出開始。
 
【明治4年】
土佐犬とブルテリアを交配。
 

【明治5年】

 高知県が闘犬手飼ひの儀停止を布達。

 

【明治9年】

狂犬病対策のため山形県で高安犬を大量駆除。

 

【明治10年】

四国へ移入されたブルドッグと土佐犬を交配。

 

【明治11年】

高知県が闘犬を禁止。

 

【明治14年】

警視庁が畜犬取締規則を施行(この規則には繋留飼育の項目がなかったので、ハチ公も放し飼いを許されていました)

 

【明治16年】

高知県で闘犬禁止令撤回運動。

 

【明治18年】

秋田県大館町根下戸で横山勇喜代議士(後の東京府知事・横山助成の父)が闘犬大会を開催。

 

【明治20年代】

鉄路や海路の整備とともに洋犬が全国へ普及し、秋田犬との交雑化も進行。

 
【明治26年】
狩猟界が芝犬(後の柴犬)のレポートを掲載。洋犬の台頭に対し、和犬保護論が登場。
 
【明治29年】
三年間に亘る長崎県の狂犬病大流行が終息せず、人体へのパスツール式予防注射を強行導入。
 
【明治30年】
廣井辰太郎ら宗教家主導で動物虐待防止会を設立。
 
【明治31年】
高知県が闘犬を公認。上野の西郷像除幕式で薩摩犬ツンを銅像化。
 
【明治32年】
シュテファニッツが理想の牧羊犬を目指してジャーマン・シェパードを作出。
 
【明治33年】
大舘中学校が東宮殿下に秋田犬を献上。
 

【明治34年】

臼井哲夫氏が米国からマスチフを輸入(当時、土佐闘犬と交配されたかは不明)。

畜犬税の導入が進み、未納税犬の殺処分で和犬が消滅。

 

【明治36年】

田山彌一郎氏が「農休日の園遊会」と称して秋田県闘犬大会を開催。四国からは土佐闘犬が遠征参加し、秋田犬との交雑化が拡大。

秋田県側は闘犬禁止を検討するも、一頭あたり闘犬税二円(一般ペットの畜犬税は50銭)を納めることで月例闘犬会開催を承認。

 

【明治37年】

日本犬(既にこの呼称がありました)の調査を計画していた足立美堅が日露戦争で戦死。

 

犬

 

犬

足立美堅の死後、彼の遺稿で紹介された猟犬型と闘犬型の秋田犬。日露戦争前から交雑化していたことがわかります。(明治40年)

 

【明治41年】

森正隆秋田県知事が闘犬を禁止し、大舘の闘犬大会がアンダーグラウンド化。

 

【明治44年~】

東京方面で土佐闘犬とグレート・デーンを交配。

土佐闘犬の品種改良が進み、現在の姿に近づきます。

 
【大正2年】
関東と土佐の闘犬団体が交流を活発化。
 
【大正3年】
大正博覧会に秋田犬二頭を出陳。
東京の各闘犬団体を統合し「旭倶楽部」を結成(大正元年設立という説も)。
大舘町にて田山彌一郎会長が「秋田ケンネル倶楽部」を設立。東京から旭倶樂部を招待し、秋田犬と土佐闘犬の対抗試合を開催。
青島攻略戦を機にジャーマン・シェパードが来日。
在日外国人による動物愛護団体「日本人道会」設立。
 
【大正4年】
帝大の渡瀬庄三郎教授が日本犬に関する論文を発表。
 
【大正5年】
北関東における旭倶樂部の闘犬興行によって秋田犬の戦績が認められ、東京闘犬界に秋田犬が進出。
同年7月26日には警視庁が闘犬・闘牛・闘鶏を禁止。
 
【大正8年】
内務省により史跡名勝天然記念物保存法が施行され、渡瀬庄三郎博士が第一回目の秋田犬現地調査を実施。しかし闘犬目的での雑化がひどく、秋田犬の天然記念物指定は見送り。
 
【大正9年】
秋田県を訪問した山崎蘇人が秋田犬の減少を報告、国犬改造論を提唱。
 
【大正中期】
秋田県湯澤町星華園の京野兵右衛門氏(後の土佐犬普及会および日本犬保存会メンバー)が、品種改良のため四国から土佐闘犬(横綱雷電號ほか吉良小、高陵館、久保、次郎丸など)を大量移入。
 
【大正10年】
大正8年度からスタートした陸軍歩兵学校の軍用犬研究が完了。秋田犬や土佐闘犬をテストしたものの「良種を得るの機會なかりしを以て、輓曳の外研究を實施せず(日本陸軍)」との結果で失格。
「 各種の能力卓越し、各種の役務就中傳令捜索及警戒に優秀なる能力を有し、軍用犬として好適のものと認む」とされたジャーマン・シェパードを軍用適種犬に選定。
 
【大正11年】
東京方面で秋田犬の人気が高まり、秋田県大舘町での販売価格が高騰。最高800円を筆頭に、成犬牡100円、牝80円、仔犬20~30円が相場。
 
【大正12年8月】
闘犬団体「大舘愛犬協会」設立。
 
【〃9月1日】
関東大震災発生。国際港横浜を有する関東犬界が壊滅し、日本犬界の中心は国際港神戸を有する関西犬界へ移行。
 
【〃11月】 
秋田県北秋田郡二井田村、斎藤義一氏宅にて父犬大子内山・母犬ゴマの間に四頭の仔犬が誕生。
秋田県庁の世間瀬千代松耕地課長が、恩師である帝大農学部上野英三郎教授へ仔犬の寄贈を決定(他の兄弟二頭は岩手県、一頭は東京の加藤氏へ譲渡)。
 
【〃12月30日】 
秋田犬の仔を送つて呉れる様、世間瀬千代松氏へ申し送り候間澁谷驛へ到着の節は早速御受取りなされ度。また面倒なれど夜分は内玄關へでも入れて風引かぬ様になされ度候。まづは右一筆申上げ置き候。かしこ
大正十二年十二月卅日夜 葉山にて 英三郎
東京市外澁谷町中澁谷大向 上野英三郎内 つる子(※博士の養女)殿
 
※避寒先の葉山より、ハチ公受領を依頼する手紙
 
【大正13年1月14日】
世間瀬課長の命で、部下の栗田礼蔵氏が二井田村で仔犬を受領。雪の中を大舘駅まで運んで上野へ発送。
 
【〃1月15日】 
東京到着は、15日5時50分に発生した大地震(関東大震災の余震と推定)によって遅延。上野駅止めにて、植木職人の小林菊三郎氏が仔犬を受領。既に上野宅で飼育されていたポインターのジョンおよびエスと合流。
3月までは屋内で飼育され、上野八重子夫人によりハチと命名(上野家書生・岸一敏の証言より)。たびたび大病を患うも、上野博士一家の献身的な飼育で成長。
 
東京澁谷驛着(※上野駅の誤り)、當時澁谷大向に居住の駒場帝大農學部教授上野英三郎博士の愛犬となり、ハチと命名さる。博士に熱愛され、博士が西ヶ原農事試驗場に出勤の際は、何時も澁谷驛まで随伴するを例とした(斎藤弘)
 
病身なので、手數のかゝることも一通りでなく、主人の存命の頃は、主人が面倒な食事の世話を焼き、肉は上肉を撰び、脂身を一筋づつ抜くやうな手數をかけ、牛乳は二合づつ日に三回、御飯はお粥の様なものをあてがつてをりました。
病氣は胃腸でござゐます。
肉は生まのをやつてをりましたが、寄生蟲の心配がありますので、御飯に交ぜてセメン(※現在の駆虫薬サントニン、当時の商品名セメンエンのことです)を月二回、人間の赤ン坊にやる位與へました。
宅へハチが來る前、私共では四頭の秋田犬を飼ひましたが、いづれも短命で、一番長命なので九ヶ月といふレコードでした。ですからハチの健康には出來るだけの注意を拂ひ、これだけは長生きさせたいと主人も骨を折つたのでござゐます(上野宅の歴代飼犬は、フリッツ第一、フリッツ第二、フリッツ第三、タマ、ワイ、マル、ジャック、五郎、エス、太郎第二、シロ、デコ、チビ、ケル、チイ、六、ジョン、エス、ハチ公)。
病が進んで生死の境をさまよつたことも幾度か、その度に膽を冷やしましたが、主人の丹精でやつとそれも突破し、二歳の頃ハチも丈夫になつたと喜んだのもつかのま、突然主人が亡くなつてしまつたのでござゐます。まるでハチの健康と入れ代りに逝つてしまつた様な形になりました。
 
上野八重子『忠犬ハチ公を悼む ハチ公の思ひ出(昭和10年)』より
 
私が最初ハチ公を見たのは大正十三年秋頃であつて、當時學生で乗馬に凝つて居つた私は、一日駒場農大の中を散歩して正門の處に出るとばつたりとハチ公に遭つた。實に均整のとれたすばらしい犬と見とれたのであつたが、馬上且つ數人連行であつたので、飼育主も聞かず其のまゝ行き過ぎてしまつたのであつた(斎藤弘『ハチ公のことども』より)
 
【〃10月】
京野兵右衛門氏の土佐闘犬が増加し、秋田県湯沢町で第一回全国闘技犬大会開催。闘犬の本場である大舘や土崎へ湯沢の雷電系・久保系が進出。
 
【大正14年5月21日】 
上野農學部教授會議出席中腦溢血に倒れ不歸の客となつたため、ハチは上野家の親戚淺草高橋子之吉氏に預けらる。しかし屢々故主を慕つて澁谷に向ひ逸走す。この間約一年半に及んだ。
 
私にとつて、すべてが忘れられぬハチですが、一番深く印象に殘つたハチは、主人の亡くなつた時の悄げ方でした。主人の遺骸には防腐剤の注射を施しましたが、その夜具に血でも多少付いてゐたものか、夜具を物置へ蔵ふと、ハチも夜具を慕つて物置へはいつてしまひ、どうしても出て來ないのです。蒲團をなつかしがるハチの姿は本當に哀れでした。
初七日の夜、棺を祀つて御通夜を營んでゐる時でした。庭をシヨボ〃歩いてゐたハチが急に縁側のガラス戸を押しあけ、座敷へスタスタ上つて参りました。そして棺の方へ歩いて行つたかと思ふと、棺を安置した臺の下へドシドシ這入り込んで行くのです。ハチは其處で肢を伸ばして腹這ひとなり、さも安住の地でも見出したかの様に、グツタリ首うなだれ、呼ばうが、追うはが、どうしても棺の下から出て來ないのです。
かうして一晩ハチは頑張つてゐましたが、その根強い思慕の情には、誰も彼も思はず泣かされてしまひました(上野八重子)
 
【大正15年】
竟に再び上野家に返されたが、同家轉居のため平常出入りしてハチに親和せる植木職の澁谷區代々幡町代々木小林菊三郎氏に再び預けらる。こゝでも落つかず大向の故主宅を訪づれ、家人の居住せぬを知るや、澁谷驛に至つて行人を視、餓ゆれば小林氏宅に歸つて再び出向くを例としたが、何時か澁谷驛を安住の地とする に至つた。
 
大正十四年同博士死去後、淺草の親族の家に預けられたが、どうにも居つかず、再び博士未亡人のもとに歸つたのであつたが、御遺族轉居のため平常出入りしてハチ公を馴れて居つた植木屋さんの小林菊三郎氏(澁谷區代々木八幡)に再び預けられる身となつた(白木正光)
 
【昭和元年】
狂犬病対策機関として警視庁に獣医課設立。
 
【昭和2年】
秋田県大館にて、泉茂家氏が在来型秋田犬復活のため「秋田犬保存会」を設立。
 
【昭和3年】
横山助成警保局長(後の東京府知事・父は闘犬家の横山勇喜代議士)が、故郷の秋田県における闘犬取締規制緩和を画策。大舘町では闘犬場常設化と興行開催が黙認され、春夏二回の闘犬大会を開催。
 
【〃6月】
秋田犬保存会を訪問した斎藤弘吉が日本犬消滅の危機を知らされ、東京で「日本犬保存会」を設立。全国規模での日本犬保存運動がスタート。
3月には「日本シェパード倶楽部」も発足し、日本犬より先にシェパードの飼育ブームが到来(以降、独逸番羊犬の日本呼称を「ジャーマン・シェパード・ドッグ」へ統一)。
 
昭和三年四月、齋藤弘氏が大舘町へ秋田犬探査に来られた時、「當時大舘町は闘犬飼育者ばかりで、自分の探し求める秋田犬を飼つてたのは同町々長であつた泉茂家氏と、畜犬商の越前新吉君だけであつた。それから二井田村の一関氏よりなかつた」と云はれて居ります。越前氏は養鶏と薬草を本業とし、もともと好きだつた秋田犬を、薬草蒐集に縣内は勿論岩手、青森方面に出掛けて、そのついでに認めたものを買ひ求めて連れて歸つた事もあつた様だつた。
 
秋田犬保存会長 平泉栄吉(昭和21年)
 
日本犬保存会へ登録する犬を捜していた斎藤弘吉は、路上でハチ公に遭遇。餌で釣ろうと煎餅片手に追跡し、逃げ込んだ小林菊三郎宅にてその来歴を訊き取り調査。
 
昭和三年六月犬籍簿作製の際は、一日ハチ公の跡をつけて歩いて、漸く預り主の小林君を探し出した時「半年以上もつないで牽運動させましたがどうにも居つきません。今でも放せば澁谷驛に飛んで行つてあの通りですが、夜は歸つて寝る様になりました」と云つて居つた。主人を送つて行つては歸りを待つて居つたなつかしい澁谷驛に、毎日〃雨の日も雪の日も日参する様になつたのであつた。
私はあまりの不憫さに引きとつて愛育し様と色々交渉したが、あの犬は亡くなつた博士が非常に可愛がり、犬が死んだら自分の墓側に埋めよと云ふ遺言までしてある程で、お譲りすることは出來ぬとの小林君の言であつた(斎藤弘)
 
【昭和3年8月】
日本犬保存會第一回犬簿に齋藤弘氏の調査にかゝるハチの來歴が掲載さる。ハチの記録はこれが最初であつた。
 
昭和三年六月、日本犬保存會を創立して、第一回の犬籍簿を作る際、ハチ公の履歴を苦心調査したところ、次の様な事情が判明した。
駒場農大教授故上野英三郎博士は實に無類の愛犬家で、しかも日本犬の愛好者でもあつた。秋田から度々仔犬を取り寄せられて愛育されて居つたが、最も優良のものを入手され様と、もと同博士の門下生であつた縣廳畜産課某氏(世間瀬氏ならんか)に依頼、自身秋田まで出かけて探査等せられた結果、遂に入手されたのが 此のハチ公であつたと云はれる。
博士の寵愛は非常なもので、ハチも實に主人をしたひ、當時の邸の澁谷大向から博士出校の時は學校へ供して來て歸らるゝまで待ち、外出さるる時は澁谷驛迄供して何時までも博士の歸りを待つて居つたと云ふ。私が最初遇つた大正十三年秋頃は、ハチ公の最も幸福な時代であつたと想像される。
昭和三年八月三十日發行の日本犬保存會第一回犬簿には、簡單乍この事を記して置いた(斎藤弘)


帝國ノ犬達-ハチ
 

【昭和4年】

「農商務省には公衆衛生の知識がないだろ」「家畜防疫の知識がない内務省は黙ってろ」という四年間にわたる省庁間のケンカが終結し、家畜伝染病予防法から狂犬病対策のみを内務省へ移管(以降、東京府では警視庁が狂犬病対策を管轄)。

東京オリンピック誘致活動に伴い、昭和12年にかけて飼育マナーの啓発や野犬駆除方法の改善に着手。

ハチ公が重度の皮膚病に感染。

昭和四年春にひどい皮膚病にかゝつて衰弱甚だしく、既に死亡は免れぬものと思はれたので記念寫眞を撮つて居いた。第三圖はその寫眞である。尾の細くなつて居り、肩、背の毛並の惡いのは皮膚病のためである。此の當時立派に兩耳の立つて居たことが此の寫眞で判明する。小林君宅の前で私が撮つたものである。
其の後小林君の丹精が効いたか、不思議に全快したが、もう昔の元氣がない。
あの犬は他の犬が互に喧嘩を始めると、直に仲に入つて引き分け、若し一方の犬が強く中止しない時は、自分が相手になつても必ず引き分けると云ふ昔の侠者の風があつた。今や老衰甚しく、嚙傷のために耳も垂れ、眼も霞みながらもなほ澁谷驛に舊主をなつかしみまつ姿は、涙ぐましい有様である(斎藤弘)
 
【〃4月26日】
秋田県警察部が闘犬黙認を撤回、大舘闘犬会の春場所中止を通告。抗議活動に備え、大舘署は闘犬場周辺に私服警官を配置。
 
【昭和5年】
昭和恐慌によって飼育放棄されるペットや猟犬が激増。東北における貧困農村の救済策として、養兎業や秋田犬の繁殖販売などを提唱。
夜の渋谷駅で不思議でならなかったのは、いっつもホームにねそべっている大きい秋田犬である。時におそくなっての空腹を東横食堂(ガードの宮益坂寄り二階にあった)でみたしていると、くだんの犬もノッソリ入って来る。ライスカレーの肉片を投げると鮮やかに受けとめはするが、すぐものうくねそべってしまう。大分老犬だなと犬好きの私は判断した。
学校に通っている間中(※昭和5~7年頃)なじんだ犬だったが、名前はおろか後日さわがれるほどの名犬とも知らなかった(押本正義氏「忠犬ハチ公像によせて」より)
 
【昭和6年】

内務省の後を継いだ文部省が秋田犬を天然記念物に指定。日本犬飼育ブーム到来。

満州事変勃発当夜に関東軍がシェパードを実戦投入、三頭が戦死。

 
【昭和7年】
満州建国によって関東軍のシェパード調達が拡大。陸軍省主導の軍犬報国運動(シェパード普及活動)がスタート。
これを機に日本犬界も親軍路線へ転換し、軍犬調達窓口として社団法人帝国軍用犬協会が誕生。
東京府への闘犬復活請願運動を動物愛護会が阻止。
 
【〃9月】
斎藤弘が東京朝日新聞にハチ公の話を投書。
日本犬保存會々報「日本犬」第一巻第二號誌上にハチの寫眞を掲げ、齋藤氏の筆でハチの詳しい履歴が出され、同時に朝日新聞の鐡箒欄にハチのことが投書されたので、一般人のハチに對する愛情は翕然として集まり、そろ〃澁谷驛の名物化した。
當時のハチは年齢十歳、性別牡、毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫、尾左巻と、前記「日本犬」に記されてゐる。
 
【〃10月4日】
東京朝日新聞に『いとしや老犬物語』としてハチ公取材記事掲載。忠犬ハチ公デビュー。
 
名稱ハチ號
年齢十歳
性別牡
毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫匁、尾左巻
産地 秋田縣
以上のことを日本犬誌に描くと共に、當時犬殺しにおそはれた等のことを聞いたり、いくらよい首輪胴輪をさしても、何時の間にか取りはづして盗んで行く人間がある等の事を聞いて居つたので、廣く世人に事情を知つて貰つて愛護して貰ひたく、東京朝日新聞に投書したところ、早速大きく報導して下れたのはハチのために嬉しいことであつたが、現在の耳垂れの状態を見た記者氏が、秋田雑種と書いてしまつたため、折角の記事が誠に殘念なものになつた。直に抗議を申込んだところ、社の方には諸方から抗議あり申譯ありませんと早速數度に渡つて訂正して下れたので、ハチも冤罪がぬぐはれたわけである(齋藤弘)
 
【〃11月】
銀座松屋屋上で開催した日本犬保存會の第一回日本犬展にはハチを唯一の招待犬とした所、ハチを見様との來觀者が大變な數であつた。ある人はわざ〃次の様な和歌を詠じて會に贈られた人もあつた。
 
忠犬ハチに寄せて 石谷嵯峨
亡き主の歸りますかと夕な夕な 澁谷の驛に老ひ犬の待つ
 
前逓信大臣山本悌次郎氏はわざ〃澁谷驛まで出かけられ、ハチ公の頭を撫で感慨おく能はず、次の様な詩を賦された。
 
義狗行 山本二峰
有狗大似虎兒、秋田之産更無疑、纍然彷徨澁谷驛、名曰八公人皆知、聞説放主官主簿、日把刀筆入城府、狗也送迎車站前、不問寒暑與風雨、主人得病俄捐世、狗哀宛如喪慈父、黄毛長尾為誰揮、形容漸衰似抱腓、來就車站不復去、零飯残菜纔凌飢、眷恋悲呻朝又暮、翹首猶待主人歸、豪冨之家佳公子、欲将好餌馴致此、寧知坫心難可移、堅臥大地不肯起、吾聞感義行視之、手撫其頭中惻悱、如今澆世士道淪、眼有榮祿無君親、忍言高義卻在狗、人情何譌爾何眞、吁嗟八公之義可以激頽俗、我歌誦罷涙如雹
 
【昭和8年】
文部省が甲斐犬を天然記念物指定。
 
【〃8月】
先日安藤氏の處でハチ公と製作中の彫像とを拝見して居つた所に、丁度未亡人が御出になられた。今迄暑熱のため土間に横臥して動うともしなかつたハチ公、急に起き上つて夫人の側に寄りそひ嬉し喜ぶ様子。又夫人の辞去せらるる時、小林君の制止も聞かず、一緒について行うとする有様、實に涙なしに見られぬことであつた。
あまり犬好きとも見えぬ夫人にして斯の様である。地下の故博士がハチの目前に現れたらどの様であらうかと想像するだに涙である(斎藤弘)
 
【〃10月】
齋藤弘氏が最も詳しくハチ公のことを執筆したが、この頃よりハチ表彰の氣運が次第に濃厚となつた。
 
新派劇壇の巨頭井上正夫氏とハチ公(昭和8年)
 
【〃11月】
十一月三日、上野動物園前廣場に日本犬保存會主催の第二回日本犬展覧會を開催、詳細は板垣博士が別項に述べられたが、折柄の好晴に恵まれて人出多く、殊に家族連れの婦人子供の多いのは愛犬の趣味が一層家庭的に普及した証左として力強い限りであつた。
一般審査犬のほかに、渋谷驛の忠犬ハチ公も來賓格で招待され、その他日本犬付属訓練場の種牡五頭、前年の推奨犬二頭、板垣博士や齋藤、田山、塩原氏等審査員の愛犬も陳列され、一般觀衆に多大の感興を與へて夕刻閉會した。
なほ同夜銀座菊正ビルに開いた懇親會は久々で上京した地方會員も加つて出席者四十餘名に上つた
 
安藤照がハチ公像を帝展へ出陳。
 
今から四年前、僕が澁谷驛へ下車した事があつた。其時に、眞白な犬が驛前に居たから友達に「此犬、とても大きな犬だが、何犬だらう」と訊ねて見ると、「これは澁谷驛の名物犬で、故上野博士の愛犬であつたのだが、博士が物故せられて後も、博士在世の當時と同じ様に、朝は九時に此所へ恰も博士を送るかのやうに現はれ、夕刻四時から五時半迄斯うして歸らぬ主人を待ち受けて居るのだ」。
初めて知つた犬の身の上に甚く同情して、試に呼んで見ると、尾を振りながら僕の前に來て、ちよこなんと坐つた。
此時の印象がとても良くて、爾來僕の頭から離れないので、今度の銅像の原型の依頼を受けた時も喜んで此名物犬―否、世界的の名犬ハチ公の爲めに、と思つて快く承諾して、製作することにした。
ポーズは僕が初めて彼を見た時の印象を其儘―、僕の前に來て坐つた其型と表情を其儘に、出さうと思つて作り上げたのが、これなのだ。
サイズはハチ公の等身―、高さ二尺五寸位、それを高さ四尺二寸の山出し其儘の花崗岩の臺の上に建てることにしたのだ。臺石の側面には山本悌次郎氏の義狗行を彫りつけることになつて居る。
 
帝展審査員 安藤照『忠犬ハチ公の銅像製作に就ての感想』より 
 
安藤照氏と私とは美術學校時代からの知人である。氏は彫刻、私は洋畫と科は異なり、氏は先輩、私は後輩と年代が違つて居たのであつたが、氏は剣道私は柔道好きであつたため同一の道場で毎日顔を合せていたものであつた。氏は彫刻界の鬼才として年若くして帝展審査員となられた人。薩摩隼人の出身、剣道の猛者、剛毅な反面に實に涙もろい人であり、大の愛犬家であり、狩獵好きであり、熱心な日本犬保存會員である。ハチ公の像を作つて下れるには、最もふさわしい。此人を置いて他にない人と思ふ。立派なハチ公の像が出來る日が待ち遠しい(斎藤弘)


帝國ノ犬達-安藤照

安藤照とハチ公像
 
【〃11月21日】
日本人道会理事会で、「ハチ公を東京ポチ倶楽部名誉会員へ推薦したい」という金子登幹事の発案が満場一致で可決。
ハチ公には、東京市ポチ倶楽部加入の証としてチェコスロバキア領事アントニー・レイモンド会長愛犬「ジュールス」の足跡が刻印された真鍮製会員章を授与。
 
【昭和9年】
文部省が紀州犬と越の犬を天然記念物指定。
関西で「秋田犬愛護会」設立。東北大凶作の救済策として秋田犬の高価買取・関西への移入を計画。
 
【〃1月】
ハチ公銅像建設會が吉川澁谷驛長、板垣博士、齋藤弘氏、安藤照氏その他の發起で生る。
 
二月十五日午後五時から澁谷驛長室に第一回發起人會を開いたが、その後のハチの人氣は愈よ爆發して續々醵金が集るほか、ハチの物語を浪花節、童謡にしてレコードに吹込んだものが賣出される。驛前の明治製菓ではハチのチヨコレート像が出來ると云ふ騒ぎ。三月十日は神宮外苑の日本青年會館で忠犬ハチ公銅像基金募集の夕を行ひ、それらの浪花節、童謡の披露その他がある。
 
【〃2月10日】
午後六時から例によつて銀座四丁目菊正ビル食堂に開催。今回は特に澁谷の忠犬ハチ公の話を聞くことゝし、會食後板垣博士のハチの生ひ立を初め、わざ〃出席された吉川澁谷驛長からハチの近況を聞いて一同感動し、ハチ今後の保護方法や、ハチ像の耳をどうするかなどゝ云ふ問題で十時過ぎ散會。
因に齋藤弘氏等日本犬の専門家は純粋秋田犬を永久に傳へるため、耳の立つてゐた壮時のハチを作ることを主張するに對し、像の制作者安藤照氏や一般民衆は親しみの多い現在のハチ像を作ることを切望し、目下兩説對立の形である(犬話會)
 
【〃3月10日】
銅像建設會主催の「ハチ公の夕」が神宮外苑日本青年館で催され、舞臺上でも人氣を博す。この頃レコード、民謡、彫像等にハチの人氣は更に急騰す。
 
有名になった反発から、「ハチ公はただの野良犬だ」「焼鳥目当てで駅へ通っている」との誹謗中傷が始まります。
 
此のハチ公は當年十六歳で、すつかり老衰してゐるけれども、まだ、澁谷驛に通ふことを忘れない。此のハチ公の主人は七年前にアメリカで客死した農大教授上野英三郎博士(※上野教授は日本で亡くなっています)で、それとも知らぬ彼は、亡き主人の姿を求めて雨の日も風の日も澁谷の人なだれの中に、シヨンボリと立ちつくしてゐる。主人思ひの純情が人々の感激するところとなつて、その感動の波が東京中に廣まつたのである。
勿論、あれは多年主人を記憶してゐて、その歸宅を待つものではなく、自分の家にゐるよりも、停車場へ行つた方が貰いが多いからなど惡口を云ふ人もあるが、厳正な意味の犬の記憶力から考へると何か理屈を付けたくなる。
けれども、ハチ公の場合には、理屈を付けたつて、大東京の人が、そんな事をきくものではない。理屈を抜きにして犬を愛する心から、彼れハチ公をいたはることが必要なのである。
白井紅白『犬の趣味物語(昭和9年)』より
 
無名時代のハチ公を知る日本犬保存会の秦一郎や斎藤弘らは、時系列無視のヤキトリ説に反論しています。
 
澁谷のハチ公は持ち主が虐待したのに、澁谷驛付近で可愛がつて食事をやる人があつたために行つたのだ。斎藤はうそを云つて、忠犬にした等と昔から知つてる見て來た様なことを云ふ人間も居る。
ハチ公の有名にならぬ前に誰か食事を與へた人が驛付近に居つたと云ふのか。驛員達に如何にむごく取扱はれたか、恐らく知るまい。
未亡人が犬嫌いであつため澁谷に行つて野良犬になつたのだ等と云ふ者さへ出て來る。莫迦々々しくてお話にならぬ。
澁谷に行く様になつたのは、未亡人の處からではない。小林菊三郎君の手に移つてからであつて、小林君は代々幡署に鑑札も受け、犬牽まで頼んで主家の犬を大切にして來たのだが、小林君の家が昔の主家の近くであつたため、舊主がなつかしく、舊主家に行つも人が異るため自然澁谷の驛に行つたものであつて、勿論後には習慣性となつたものであらう。
然しあののつそりした犬が未亡人を見た時の飛び上つての嬉しさは、やはりいつまでも舊主人を忘れなかつたものと思ふ。決して野良犬でもなんでもない。立派な飼主のある犬である。 私はハチ公のことではあまりに世の人の軽薄な心を見せられて、なるたけふれまいとつとめ來てた。事實、有名ならぬ前に驛付近では誰もあの犬を可愛がつた人などなかつた。あの犬を付近の人が可愛いがつて居たら、黙つて、胴輪までとらせては置かぬ筈ではないか。我々はもつと眞面目に、研究者はそれに没入、此の犬族の研究をして一つの獨立した學問にまでなす可きであり、蕃殖者はこれに没入、益々優秀なものの作出に努力す可し。今のままでは、此の犬の世界が現代の笑ひ物となつてるばかりでなく、次に來る者に失笑されるだけのものであらう(斎藤弘 昭和12年)
 
おなじくルンペン犬でも、忠犬ハチ公となれば忽ちあらぬ傳説の尾鰭までつけて之を神とも崇め、銅像まで建設して業々しく担ぎ廻らねば承知の出來ぬお祭騒ぎのいとも好きな日本人である。私は廿年あまりもこの澁谷に居住してハチ公のまだいたいけな幼少時代から、華々しいその青・壮年時代を經、やがて主なき慇れな一介のルンペン犬にまで成り下り、一朝又時を得て無比の忠犬として一世の視聴を聚めるに到つた最近彼の死ぬ迄の十數年の經緯を最もよく知つてゐるものだが、熟々之を見て日本人の動物に對する智識のあまりにも浅薄でオツチヨコチヨイなのと、生きた傳説の眼のあたりでつち上げられてゆく巧みなカラクリには呆然として眼を睜つてゐる一人で ある。
と云つてもあまりにその過大な賛辞や、阿附追從に憤激して何も知らぬハチ公にムキになつてケチをつけてゐる大人氣ない連中など見ると、愈々その莫迦らしさ、情なさが嵩じて來る。
ハチ公は決して世間で思つてゐるほど無比の忠犬でもなければ、之をクソミソにやつつけてる連中の言ふやうなバカ犬でもない。彼は犬として生前實に温厚篤實な、柔しい性情の持主で、しかも秋田犬としては近來稀に見る體型を持つた立派な犬であつた。
秋田犬の禮讃者ならずとも犬好きが一目見れば彼のあのどつしりした、どことなく鷹揚な態度や風貌の中に何か萬人に慈しみ慕はれるやうな柔しい、可憐な徳望を備へてゐた事に氣付くであらう。
一時、ハチ公を廻つて犬界一部の人々の間に犬の記憶力の永續性の可否云々に就て論争があつたやうだが、これには私も別に一家言を持つてゐて、いづれ何等かの機會には發表したいと思つてゐる。
ともかくこのハチ公騒ぎは、世の社會批評家にとつては近來閑却することの出來ない興味ある好箇の題目たるを失はぬものがある。
 
秦一郎『犬の去勢實施に共鳴して偶感二三(昭和10年)』より
 
くだらない言い争いから外れ、客観的だったのは長谷川如是閑の見解でしょうか。
 
簡單な犬の習性もいろ〃の典型で現はれるもので、それを人間が勝手に解釈して、人間心理で犬の心理を理解しようとすることは、動物研究の實験的方法に錯誤を來す重な原因であるとして動物心理學者などの繰り返し警めてゐることである。
ハチ公の態度も實は簡單な犬の習性があゝした形で現はれてゐるので、道徳ではなく本能なのである。
ハチ公の停車場通ひも恐らくこの簡單な習性の現れの一つの型であつたらう。良種の犬ほどその型をよく守るので、秋田犬などは可なりその點で優秀であると見える。
ハチ公の場合にも、それは問題なのであるが、然し人間は主觀的に、それに道徳的價値を與へることによつて、個人的の又は社會的の道徳的効果を生ぜしめるのである。だからハチ公の物語も一つの創作である。それは過去の人間の歴史が、それ〃後の時代の要求に応じて、ある程度まで創作化されるのと同じである。 人々はハチ公との間に心理的交渉を生ずるやうに直接の關係を少しも持つてゐないもので、ただ新聞の大活字に刺激され、その巧みな記事を通してハチ公の概念を得、それを彼等自身の心理で再生産して、觀念的ハチ公を作りあげたのである。彼等は自己の作つたハチ公の幻影に大騒ぎをしてゐるのである。
私はそれを咎めるのではない。蓋しそれは動物愛といふよりは、人間愛の一つの現はれで、たゞその表現にハチ公なる犬を借りてゐるに過ぎないのである。
彼れらは主人に忠實な犬を求めてゐるのではなく、實は人間を求めてゐるのである。それが人間に求められないで却つて犬に求められたとして、彼等は感激してゐるのである。人間の場合と犬の場合との道徳的價値の根本的相違などは、この際問題ではないのである。場合に依つては、石塊にそれを求めることをさへ憚らないのであり、それはそれでいゝのである。
 
『ハチ公を中心として(昭和10年)』の抄録より
 
【〃3月24日】
両国国技館にて、新国劇の怪作『ハチ公vs.キングコング』が上演されました。


帝國ノ犬達-キングコング
 

【〃4月21日】
澁谷驛頭のハチ公銅像除幕式が盛大に擧行され、驛頭は人の黑山を築く。銅像は安藤照氏の帝展出品をその儘五尺の御影石臺上に安置した。尚一般から集まつた銅像建設基金は千二百十三圓餘。
 

帝國ノ犬達-ハチ公像

 
【〃4月】
岸一敏氏著『忠犬ハチ公物語』公刊さる。このほかハチの物語、刊行物等頻りに現はる。
 

帝國ノ犬達-忠犬ハチ公物語
 

【〃5月】
ハチ銅像建設會からハチ像を、天皇、皇后、皇太后三陛下に献上した。
 

帝國ノ犬達-ハチ公
 

國定教科書の挿畫を依頼されて忠犬ハチをスケツチするため、一日、ハチが徘徊する澁谷驛を訪れて、驛長さんに「ハチを描かして頂きたい」と頼み込んだ。驛長さんは「きつとその邊に居ませうから……」といふことで、見付かるのを待つてゐると、間もなく當のハチが、階段を上つてのこ〃と驛長室に現れた。
ハチは、初めのうちは弱り氣味で、伏した儘なか〃立姿や圖のやうな姿をして呉れなかつたが、驛員の世話で、牛肉をやつたりなどして居るうちに元氣を回復した。左耳は、老犬のせいか、垂れてゐるが、身體の大きく、落着いた犬だと思つた。
描いた場所は改札口の前のところで、大體あの邊で、亡くなつた主人の歸りを待つてゐるのださうであるが、あの驛のラツシユ・アワーの雑踏を見越してお晝に行つた。が、それでも中々乗降が激しいので、可成り弱らされた。
私は、餘り犬に關心を持たず、飼つたこともないから、犬に就いては何も言へないが、シエパードなどは未だよいとして、無理に造られたやうなグロテスクな犬は嫌ひだ。そこへ行くと、ハチのやうな日本犬には、無理がなくてよいと思ふ。
 
石井柏亭『ハチを描く(昭和9年)』より


帝國ノ犬達-ハチ公

石井柏亭による『オン ヲ ワスレル ナ』の下絵
 
【〃10月】
 
澁谷のハチ公の名は遠く海外へまで傳はり、昨年秋は義理視野(※ギリシャ)の新聞「祖國」にハチ公のことが掲載され、次いで米國ボストン市の動物虐待防止會の機關誌「吾等の無言の動物」十月號に、寫眞共々掲載されてゐる。
ギリシヤ新聞に出たハチ公の記事は、長く扱はれたが、そこに出てゐる寫眞はハチ公のではないらしい。
これ等の記事の出所は實は私である。
昨年夏のこと、私宛にギリシヤのアデン市にある動物虐待防止會から「この頃、東京で忠犬ハチ公の名が高くなつたさうだが、その忠犬振りを正確に書いて送つて貰ひたい。寫眞も是非頼む」といふ手紙が來た。
日本の忠犬に、外國が興味を持つのは面白いことだし、國際親善の上から云つても有意義であると考へ、早速調査に着手し、長い記事に寫眞六葉を添へて、ギリシヤの同會へ送つた。
どうせ外國へ送るなら、各國の動物愛護會へも送つた方がよいと思つたので、米國紐育市のアメリカ人道教育會、ボストン市の動物虐待防止會、獨逸ベルリン市の獨逸動物保護聯盟、英國ロンドン市王立動物虐待防止會等へも寫眞を添へて同文の記事を発送した。
ところが、本家のギリシヤ動物虐待防止會の機關雑誌に掲載されないで、新聞に出た譯であるが、この方が一般的に知れ亘つて、却つてよかつたと思つてゐる。
 
動物愛護會 廣井辰太郎『國際親善に役立つハチ公の存在(昭和9年)』より
 
帝國ノ犬達-hachi
 
【〃12月】
映畫「あるぷす大將」にハチも出演、銀幕の王者にもなる。
 
帝國ノ犬達-あるぷす大将
『あるぷす大將』スチルより、本犬役で出演したハチ公と主人公の於兎。
 
【昭和10年】
帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会の大規模抗争が勃発。日本犬保存会などが仲裁に乗り出すも、ことごとく失敗。
東京府下の畜犬飼育登録数43351頭、捕獲野犬16886頭、咬傷犬3101頭、去勢申込950頭(実施423頭)、避妊手術0。
秋田県内の闘犬品種改良がほぼ完成。秋田犬三割、土佐闘犬七割の交雑犬が主流に。

 

【〃1月】
前年末より秋田県でジステンパーが大流行、「全滅」と言われたほど多数の秋田犬が病死。
 
【〃2月】
帝国軍用犬協会と日本犬保存会の共催による秋田犬軍用化研究スタート。
 
【〃3月7日】
大正13年に大舘駅からハチ公を送り出した秋田県庁の栗田礼蔵氏が、農林省へ出張のため上京。3月10日、渋谷駅でハチ公慰霊祭に遭遇。
 
【〃3月8日】
竟に逝く。その報は各新聞夕刊紙上に大々的に報道され、澁谷驛前ハチ銅像は忽ち花輪、花束で埋まり、弔問者蝟集し、香煙累々として絶えず。行人をして思はず純情の涙を催させた。
 
昨年の十二月中旬頃から今年の一月にかけて、ハチはメツキリ弱つて、衰えが目立ち、今にも仆れさうなので、一方ならず心配しました。が、心を痛めた程の事もなく、二月へかけてソロソロ肥つて來たので、この分なら、とまづ胸を撫ぜ下ろしたものです。
と、三月初旬になつて又一寸具合が惡く、嘔吐が劇しくなつて來たので、「又、惡いな」と思つてゐました。運動の方は普段とさして變りはなく、食物も平生の調子で摂つてをりました。
ところが、三月三日、四日頃から殆んど物を食べぬやうになり、同時に嘔吐も酷くなり、腹に水が溜つて、恰度お腹に仔が出來たやうに膨れ、如何にも苦しさうでした。「もうハチもいけないのではないか……」とハチ公の姿を見る毎に左様思ふやうになつて來ました。すると、五日のこと、全く力がなくなり、立つこともやつとと云ふ弱り方なので、「ああ、もうこれは長いこともあるまい。しかしせめて四月二十一日のハチ公 像除幕一周年記念の日まで生かして置きたいものだが……」と念願してゐると、八日の朝五時、皆さんも既に御承知の通り、驛から三丁ばかり離れた八幡通り の加藤さんといふ酒屋の露路で、ハチ公の死骸が發見されました。
當驛へ來て再び歸らぬ故、上野博士を待つこと十一年目、私も永いことハチ公とはお馴染みでしたが、到頭彼も故博士の膝下へ戻つて行くことになつてしまひました。
死ぬ前晩―七日夜のハチ公の行動は、とても不思議なものでした。酷く病に冒されたあの大儀な體をノソ〃運んで、驛の各室を順に経巡り始めたものです。改札の部屋や小荷物の部屋へはよく這入り込むので、この時も驛員達は何とも思つてゐませんでしたが、その夜に限つて、出札の部屋へノソ〃這入り込んで行くには、驛員も目を丸くしました。
と云ふのは、十一年間當驛とは馴染み深いハチではありましたが、今まで出札へ這入つたことは只の一度もなかつたからです。尤もこの部屋は現金を扱ふので、無闇に人も入れなく、ハチ公も自分から近づかなかつたのですが、その夜はどうしたものか、初めて出札部屋へ這入つて行きました。「お可笑なこともあるものだな……」と皆奇異の思ひに打たれたのでした。
その夜は、驛の部屋々々を訪れたばかりでなく、重い足を運んで驛から出て、驛前の各商店十軒餘りを一軒残さず巡つて歩きました。何處の商店でもハチ公の這入つて來るのは珍らしいことではないので「あゝ、又ハチ公が來た」位で平氣でゐた様ですが、最後に「甘栗太郎」の店へ這入つて行つたのださうです。何でも十一時頃のことで、これを見た甘栗太郎の主人公は非常に不思議な氣に打たれたと云ひます。この店だけは、ハチ公、これまで一度も這入つたことがなく、その夜初めての訪問だつたのです。
ハチ公は既に死を豫知してゐて、顔馴染へ挨拶して歩いたらしく、これは私も不思議なことだと思つてゐます。
驛の出札部屋はハチ公が這入つて來て皆を驚ろかしたのは、七日も深夜のことで、そこにづつと寝てをり、八日午前二時頃までゐたことは確かです。その内驛員も寝に就きましたが、寝静まる頃、いつかこの部屋を抜け出して、遂に朝五時頃八幡通りで、ハチ公の死の發見となつたのです。この又八幡通りといふのが、普段ハチ公の行つたことのない場所で、大體彼は線路を越して行くことはありませんでした。
その夜に限つて知らない土地へ行つたといふことは、しかも露地の中で仆れてゐた點などを思ひ合はせると、犬は死ぬ時近所の土地を汚さぬ、醜い死骸を見せたがらない、と云ふ言ひ傳への通りで、これも私には不思議に思へます(吉川忠一澁谷驛長)
 
【〃3月12日】
青山墓地故上野博士墓前の一隅に埋葬され、その毛皮は剥製として永く上野の科學博物館に保存されることゝなつた。
 
奉仕の性能を極端に發揮した名犬ハチコーを、私ははからずも、澁谷に住む友をたづねて、死ぬる一ヶ月前の白い頭を右の手で撫でてやつたのであるが、尉のやうになつたこのハチコーは、別段何の感応もないらしく、朗らかな鈍さをもつて焼鳥屋のまへにうづくまりつづけてゐたつけ。 その次に澁谷へ行つた時には、ハチコーが死んでから二日目で、澁谷驛頭のその銅像は、溢れるやうに、花で飾られて、線香があたりにひろい煙をたゞよはし、押すな、押すなで、犬のやうに善良になつた老若男女が、争つて焼香するのであつた。
 
生田花世『傳説の犬(昭和10年)』より

 


帝國ノ犬達-ハチ
ハチは上野博士の墓の傍らに埋められましたが、場所は青山墓地を葬場前から這入つて左に折れた左側で、右側は濱口雄幸、犬養毅、その他政界名士の墓が並んでゐるごく判りやすい場所です(昭和10年)
 

【〃3月度】
小學修身巻の二「恩を忘れるな」にハチの物語が収められ、その挿畫を石井柏亭氏が描いた。
 

帝國ノ犬達-恩を忘れるな

修身教材『オンヲ忘レルナ』挿絵より
 
ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 來ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル

年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)

 

尋常小学修身書掲載『オン ヲ 忘レル ナ(昭和10年)』より
 
小学2年生向けの忠犬ハチ公物語と同時に、小学5年生向け教材には軍犬那智號の武勇伝『犬のてがら』も掲載されました。『犬のてがら』のシェパードは軍犬報国運動、『オンヲ忘レルナ』の秋田犬は日本犬保存運動のシンボルと化します。
 

犬のてがら1

同年度の小学5年生向け国語読本に掲載された軍国教材『犬のてがら』。戦後になって『犬のてがら』と『オンヲ忘レルナ』が混同された結果、「ハチ公は軍国教育に利用された」という誤解が広まりました。

 

【〃3月10日】
大阪で「日本犬協会」設立。日本犬保存会へのライバル心からハチ公への誹謗中傷を展開。
 
小川さんの今月の論文は僕も大いに賛成するです。八公(原文ママ)についても全く正しい見方です。八公が野良犬に近いものである事は明らかで、澁谷驛はオマンマにアリツケルからに過ぎないですよ。
〇〇未亡人(※上野八重子氏のこと)は恐らく八公にオマンマを與へなかつたに違いないですよ。犬が好きでない婦人が、大型犬に滿足出來る程オマンマを與へる筈がないですからね。
〇〇未亡人のケチンボーが(ケチンボーは一寸皮肉ですが、果してケチンボーであつたか犬嫌ひであつたか、將又轉居であつたか、何れにしても犬に對して愛情が淡き爲め犬を捨てたか、或は犬の方で主人を捨てたかどちらかでせう)八公をして日本一の忠犬にした分ですね。
(註釈:忠犬にしたのは〇〇未亡人ではなく、日本犬保存會が宣傳の材料とした分です。何しろ宣傳博士がゐるからね。それは今度富山の各新聞に學務部長を會長に社會課長を副會長として越の犬保存會を組織し、その保存登録をやると書いてあつた事によつても分かる事で、中々宣傳がうまいです)
 
日本犬協会 有漏烏木『雑記帳 古市さんよりの近信(昭和11年)』より
 
【〃5月19日】
中山競馬場にて帝国軍用犬協会・日本犬保存会・日本陸軍獣医学校が持久走試験を共催。単なる体力検定のはずが、和犬愛好家による「日本犬はシェパードより優れた軍用適種犬」という謎の主張が誕生。
 
【〃6月13日】
忠犬ハチ公として澁谷驛頭永く旅客の心を捉へる故上野博士の愛犬ハチ公は、その後老衰病にかゝつて人々の手厚い会報を受けつゝ、亡き主人の跡を追ふ寂しい旅路にのぼつたが、ハチ公の剥製を永く傳へたいと上野の東京科學博物館では先般剥製の大家阪本喜一氏に依嘱して忠犬の全貌を傳へる爲め製作中であつたが愈々完成。六月十三日午前中、同博物館でこれが披露式を行つた。
當日は、上野博士未亡人、澁谷驛長、文部省局課長及その家族一般關係者約六十名を招待して盛大に擧式し、翌十五日より一般に公開した(『ハチ公再生』より)
 
帝國ノ犬達-ハチ
剥製となったハチ(国立科学博物館にて)
 
【〃7月8日】
故郷の秋田県大館市にハチ公像が完成。

 

帝國ノ犬達-ハチ公
大舘ハチ公除幕式風景
 
午後一時から大舘驛頭で櫻庭大舘町長、澁谷區代表久保川貞節氏他小學兒童その他千餘名の町民参列の下に行はれたが、銅像は故主上野博士未亡人他各方面から贈られた花環で埋つくされて、ハチ公の生家大舘町新開地桑田常太郎氏の長女光さんによつて除幕された。銅像は安藤照氏製作の澁谷驛前のものと同型である。同日は扇田町助役麓勇吉氏の愛犬五郎號以下代表秋田犬十數頭も参列し、又男子校尋常二年の兒童の修身書「恩を忘れるな」のハチ公忠節物語の讀誦を行つた。
 
【昭和11年】
文部省が柴犬を天然記念物指定。
海外の畜犬団体へ向けて、日本犬保存会がNIPPON INUの宣伝を開始。
大舘町の秋田犬保存会に続き、秋田県全体を対象エリアとする「秋田犬保存協会」が発足。

東北地方における宣伝手法を巡って日本犬保存会と「アキタランドケネル(猟犬系秋田犬協会)」が衝突。この抗争が北海道へ飛び火し、日本犬保存会と「アイヌ犬保存会」との対立も発生。

上野動物園クロヒョウ脱走事件にて、帝国軍用犬協会、日本シェパード犬協会、日本犬保存会が捜索に参加。
日本犬保存会の板垣四郎教授が琉球犬を現地調査。
 
【〃3月8日】
澁谷驛の忠犬ハチ公の一周忌に當るので、主人の上野未亡人その他で青山墓地のハチ公墓前で追悼會を催し、秋田大舘でも銅像前で盛大な一周忌祭を催した。澁谷驛のハチ公銅像前も香華、賽錢が續々供へられてゐた。
又ハチの剥製のある上野科學博物館では同日午後一時から犬の映畫會を催し、帝犬及び日本犬保存會提供の犬の映畫を公開した。
 
【〃11月度】
東京府で登録されたペット42328頭のうち、最大勢力である雑種犬24538頭を筆頭に日本テリア5316頭、シェパード2902頭、ポインター2169頭、セッター1296頭、柴犬600頭の順位。秋田犬は335頭、土佐闘犬570頭。

【昭和12年】
文部省が北海道犬を天然記念物指定。
警視庁が直轄警察犬制度を復活、シェパードやエアデールテリアに加えて秋田犬も訓練中。
 
【〃7月】
日中戦争勃発、内地からも軍犬班の大規模出征がスタート。
 
【〃8月】
訪日したヘレン・ケラーが秋田犬「神風」を寄贈されて帰国。
 
【昭和13年】
国家総動員法が施行され、皮革業界も戦時経済体制へ移行。翌年度には軍需皮革確保のため、商工省が「皮革配給統制規則」の対象に三味線用の犬革(加工革)を追加。
 
【昭和14年】
青森の陸軍第8師団および秋田の西田部隊が秋田犬「十和田」「工(たくみ)」「勇」「四つ車」「晴」を満州国の前線部隊へ配備。
蒙彊政府包頭予公署巴盟畜産課がオオカミ対策のため日本犬を購入。
渡米後に死亡した「神風」の代りとして、ヘレン・ケラーに秋田犬「剣山」を寄贈。
 
【〃2月26日】
前年の放火事件で焼失した秋田県の老犬神社を再建。
 
【昭和15年】
食糧難の到来を予測した農林省が「国民精神総動員運動を利用してペットを毛皮にすべき」と提唱。犬皮(原皮)の確保を狙う商工省も、警察が管轄する畜犬行政への介入を画策。一般市民の間ではペットの飼育を白眼視する同調圧力が蔓延。
 
【昭和16年】
太平洋戦争突入により、欧米からの畜犬輸入ルートが途絶。飼育放棄されるペットが増加。
 
【昭和18年~19年】
戦況悪化により、日本犬保存会や日本シェパード犬協会が活動を休止。
軍用犬調達維持策として、陸軍保有シェパードの民間貸付による繁殖推進活動を展開。シェパードと秋田犬の交配研究にも着手。
 
【昭和19年10月】
渋谷ハチ公像、戦時金属供出により撤去。
 
【〃12月】
厚生省と軍需省が全国の知事宛にペットの毛皮供出を通達(軍用犬、警察犬、猟犬、日本犬は保護対象)。
帝国軍用犬協会が活動を停止し、敗戦を待たずに日本犬界は崩壊。
 
【昭和20年1~3月】
全国の警察署でペット毛皮献納運動を実施。
本土決戦に備える準軍事組織として、民間義勇ペット部隊「国防犬隊」を設立(帝国軍用犬協会・日本シェパード犬協会メンバーおよび登録犬で編成)。
 
【昭和20年5月】
安藤照、東京大空襲で死亡。
 
【〃8月15日】
日本がポツダム宣言を受諾。
 
【昭和21年】
ハチ公に絡めた戦時総括がスタート。
 
我々は、何氣なく忠犬八公を感心な犬だと思つてゐるが、よく考へて見ると、八公と日本人の精神と、どれほど異つてゐるであらうか。一般日本人は、日本には日本獨特の精神文化があると思つてゐる。それは歐米の理知的科學文化に對して、何か精神性の勝つたものであり、感情の美しさがあると思つてゐる。それは一体何であるか。
多くの人々が口を揃へて自讃するところは、詮じつめると、家族主義と皇室に對する忠誠心といふことに歸着する様だ。この家族主義と皇室中心主義とは、小家族と大家族との關係として説明され、家族的感情が私生活と公生活とを一貫する指導理念であるとされてゐる。
即ち忠孝一致とか、義は君臣にして情は父子とかいふ様に宣傳され、これを基礎付ける爲めに、祖先崇拝や神道やらが背景に採用されてゐる。然し、現實の生活に於て、家族主義と忠君主義とは一致してゐたであらうか。否、日本ほど家庭生活と忠君との矛盾した國は無いだらう。天皇の命令に從ふことによつて、如何に日本の家庭生活が破壊され、家族が悲惨な目にあつたか。それはこの戰争が、何よりも雄弁に物語つてゐるであらう。
 
まさき・ひろし『忠犬八公と日本人(昭和21年)』より
 
【昭和22年】
秋田犬保存会が活動を再開。
 
戦争のために万事休止の状態であり、各犬も皮となり食肉となつたが、其の中にもあつても吾々は種族の保存に苦斗を続けて来た。終戦後も食糧難は解決することなく、此れが飼育には並々ならぬ苦心にさらされて来た。間もなく進駐軍に「秋田ドツグ」として愛好され、その要望は日に日に激増し、日米親善のため我々の努力は保存のみならず、蕃殖につとめそれが直接に祖国発展の一翼として、クローズ・アツプされつつあるのです。
昭和二十二年十一月には第十一回(終戦第一回)の展示会を開催し、文部省に優良犬牌の申請をし、又第十二回展示会を昨年四月二十九日に開催して、出陳犬六十三頭に及び盛会を極め、本春、又第十三回全国展覧会をドツグタウン(大舘町の進駐軍の称)に於て開催し、秋田犬の質の向上と正しい認識を普及し、それが振興発達に努力致したいと存じます。又、近々中、大舘駅前に忠犬ハチ公の銅像の再建を図り、五月下旬に総会を開催して、新役員によって、大活躍をいたしたいとおもうのであります。会員の秋田犬愛好家が本会のために、積極的に御協力あらせられんことを、希う次第であります。
 
秋田犬保存会会長 平泉栄吉(昭和24年)
 
【昭和23年】
日本犬保存会が活動を再開。某全国紙が「純粋な日本犬は戦時中に絶滅した」というトバシ記事を報道(優良日本犬章受賞犬が老衰で死亡した話を拡大解釈した模様)。
 
【〃8月15日】
安藤照の息子、安藤士の手により渋谷ハチ公像再建(地鎮祭は5月20日)
 
平和三周年の思出深き日。ハチ公の銅像除幕式は澁谷驛前で盛大に行はれた。此日前日の豪雨で洗ひ浄められた式場には定刻前から觀衆續々と詰めかけ、ハチ公の人氣益々盛んである。
式場は未だ紅白の幕をかけられたハチ公の銅像を中心に數々の供物、後部には各方面より贈られた多數の大花輪、右手には役員諸氏、左手にはアメリカ、イギリス、中華、朝鮮等の來賓、實に國際的の式典である。
やがて開會の辭終れば、内藤清五氏の指揮による東京都吹奏樂團の吹奏理に、紅白の幕の綱は可愛らしい男女の子供達の手によつて引かれ、滿場の大拍手のうちにハチ公のあの懐しい姿は此處に再現された。
次に忠犬ハチ公銅像再建會の會長小林來氏の挨拶、黙禱、澁谷驛長川崎氏の經過報告、制作者安東士氏の紹介等があり。來賓祝辭は日本交通公社會長荒井氏、澁谷區長佐藤氏等の日本側に次で、英國大使ガスコイン夫人代理、ジヤツク・ブリンクリン少佐、パーロット夫人、ワイルズ博士、中華民國湯長玉、朝鮮金己哲の諸氏のハチ公を賞讃する言葉は續いた。その間アメリカニユース班の撮影があり、ハチ公の名は世界中の人々に知られ、そのいじらしい行爲は世界中の人々からたゝへられる事になつた。
最後に銅像題字入選者の商品授與式が終れば再び泰樂理にこのほゝえましき除幕式は終つた。
式後、銅像前でシエパード犬訓練士による、訓練の供覧がありハチ公の靈を慰めさせた(「ハチ公銅像澁谷に再建」より)」
 
【〃9月5日】
訪日中のヘレン・ケラーがハチ公像と対面。
 
【昭和31年8~12月】
『週刊新潮』に戸川幸夫の「忠犬像紳士録」が、続いて『週刊朝日』も「動物の愛情をねじ曲げて行った、当時の日本の世相が浮かび上がる」とするハチ公批判記事掲載。これらハチ公批判への反論記事も週刊朝日誌に掲載され、愛犬雑誌も「ハチ公ヤキトリ目当て説」への批判を展開。
 

本当に主人を待っていたのか、ただの日課だったのか、焼き鳥が目当てだったのか。ハチが何を考えて駅に通っていたのかは、誰にも分かりません。

犬について記録するのは人間の仕事ですが、残念ながら、我々はモノゴトを誤魔化したり脚色したり捻じ曲げたり色眼鏡で見たり、あまり信用できない「記録係」だったりします。
他の日本犬と違い、軍用犬や闘犬との交雑化に直面した秋田犬の歴史。そのような時代背景を時系列で整理するところから始めましょう。