【明治5年】
【明治9年】
狂犬病対策のため山形県で高安犬を大量駆除。
【明治10年】
四国へ移入されたブルドッグと土佐犬を交配。
【明治11年】
高知県が闘犬を禁止。
【明治14年】
警視庁が畜犬取締規則を施行(この規則には繋留飼育の項目がなかったので、ハチ公も放し飼いを許されていました)
【明治16年】
高知県で闘犬禁止令撤回運動。
【明治18年】
秋田県大館町根下戸で横山勇喜代議士(後の東京府知事・横山助成の父)が闘犬大会を開催。
鉄路や海路の整備とともに洋犬が全国へ普及し、秋田犬との交雑化も進行。
【明治34年】
臼井哲夫氏が米国からマスチフを輸入(当時、土佐闘犬と交配されたかは不明)。
畜犬税の導入が進み、未納税犬の殺処分で和犬が消滅。
【明治36年】
田山彌一郎氏が「農休日の園遊会」と称して秋田県闘犬大会を開催。四国からは土佐闘犬が遠征参加し、秋田犬との交雑化が拡大。
秋田県側は闘犬禁止を検討するも、一頭あたり闘犬税二円(一般ペットの畜犬税は50銭)を納めることで月例闘犬会開催を承認。
【明治37年】
日本犬(既にこの呼称がありました)の調査を計画していた足立美堅が日露戦争で戦死。
足立美堅の死後、彼の遺稿で紹介された猟犬型と闘犬型の秋田犬。日露戦争前から交雑化していたことがわかります。(明治40年)
【明治41年】
森正隆秋田県知事が闘犬を禁止し、大舘の闘犬大会がアンダーグラウンド化。
【明治44年~】
東京方面で土佐闘犬とグレート・デーンを交配。
土佐闘犬の品種改良が進み、現在の姿に近づきます。
秋田犬の仔を送つて呉れる様、世間瀬千代松氏へ申し送り候間澁谷驛へ到着の節は早速御受取りなされ度。また面倒なれど夜分は内玄關へでも入れて風引かぬ様になされ度候。まづは右一筆申上げ置き候。かしこ大正十二年十二月卅日夜 葉山にて 英三郎東京市外澁谷町中澁谷大向 上野英三郎内 つる子(※博士の養女)殿※避寒先の葉山より、ハチ公受領を依頼する手紙
東京澁谷驛着(※上野駅の誤り)、當時澁谷大向に居住の駒場帝大農學部教授上野英三郎博士の愛犬となり、ハチと命名さる。博士に熱愛され、博士が西ヶ原農事試驗場に出勤の際は、何時も澁谷驛まで随伴するを例とした(斎藤弘)
病身なので、手數のかゝることも一通りでなく、主人の存命の頃は、主人が面倒な食事の世話を焼き、肉は上肉を撰び、脂身を一筋づつ抜くやうな手數をかけ、牛乳は二合づつ日に三回、御飯はお粥の様なものをあてがつてをりました。病氣は胃腸でござゐます。肉は生まのをやつてをりましたが、寄生蟲の心配がありますので、御飯に交ぜてセメン(※現在の駆虫薬サントニン、当時の商品名セメンエンのことです)を月二回、人間の赤ン坊にやる位與へました。宅へハチが來る前、私共では四頭の秋田犬を飼ひましたが、いづれも短命で、一番長命なので九ヶ月といふレコードでした。ですからハチの健康には出來るだけの注意を拂ひ、これだけは長生きさせたいと主人も骨を折つたのでござゐます(上野宅の歴代飼犬は、フリッツ第一、フリッツ第二、フリッツ第三、タマ、ワイ、マル、ジャック、五郎、エス、太郎第二、シロ、デコ、チビ、ケル、チイ、六、ジョン、エス、ハチ公)。病が進んで生死の境をさまよつたことも幾度か、その度に膽を冷やしましたが、主人の丹精でやつとそれも突破し、二歳の頃ハチも丈夫になつたと喜んだのもつかのま、突然主人が亡くなつてしまつたのでござゐます。まるでハチの健康と入れ代りに逝つてしまつた様な形になりました。上野八重子『忠犬ハチ公を悼む ハチ公の思ひ出(昭和10年)』より
私が最初ハチ公を見たのは大正十三年秋頃であつて、當時學生で乗馬に凝つて居つた私は、一日駒場農大の中を散歩して正門の處に出るとばつたりとハチ公に遭つた。實に均整のとれたすばらしい犬と見とれたのであつたが、馬上且つ數人連行であつたので、飼育主も聞かず其のまゝ行き過ぎてしまつたのであつた(斎藤弘『ハチ公のことども』より)
上野農學部教授會議出席中腦溢血に倒れ不歸の客となつたため、ハチは上野家の親戚淺草高橋子之吉氏に預けらる。しかし屢々故主を慕つて澁谷に向ひ逸走す。この間約一年半に及んだ。
私にとつて、すべてが忘れられぬハチですが、一番深く印象に殘つたハチは、主人の亡くなつた時の悄げ方でした。主人の遺骸には防腐剤の注射を施しましたが、その夜具に血でも多少付いてゐたものか、夜具を物置へ蔵ふと、ハチも夜具を慕つて物置へはいつてしまひ、どうしても出て來ないのです。蒲團をなつかしがるハチの姿は本當に哀れでした。初七日の夜、棺を祀つて御通夜を營んでゐる時でした。庭をシヨボ〃歩いてゐたハチが急に縁側のガラス戸を押しあけ、座敷へスタスタ上つて参りました。そして棺の方へ歩いて行つたかと思ふと、棺を安置した臺の下へドシドシ這入り込んで行くのです。ハチは其處で肢を伸ばして腹這ひとなり、さも安住の地でも見出したかの様に、グツタリ首うなだれ、呼ばうが、追うはが、どうしても棺の下から出て來ないのです。かうして一晩ハチは頑張つてゐましたが、その根強い思慕の情には、誰も彼も思はず泣かされてしまひました(上野八重子)
竟に再び上野家に返されたが、同家轉居のため平常出入りしてハチに親和せる植木職の澁谷區代々幡町代々木小林菊三郎氏に再び預けらる。こゝでも落つかず大向の故主宅を訪づれ、家人の居住せぬを知るや、澁谷驛に至つて行人を視、餓ゆれば小林氏宅に歸つて再び出向くを例としたが、何時か澁谷驛を安住の地とする に至つた。
大正十四年同博士死去後、淺草の親族の家に預けられたが、どうにも居つかず、再び博士未亡人のもとに歸つたのであつたが、御遺族轉居のため平常出入りしてハチ公を馴れて居つた植木屋さんの小林菊三郎氏(澁谷區代々木八幡)に再び預けられる身となつた(白木正光)
昭和三年四月、齋藤弘氏が大舘町へ秋田犬探査に来られた時、「當時大舘町は闘犬飼育者ばかりで、自分の探し求める秋田犬を飼つてたのは同町々長であつた泉茂家氏と、畜犬商の越前新吉君だけであつた。それから二井田村の一関氏よりなかつた」と云はれて居ります。越前氏は養鶏と薬草を本業とし、もともと好きだつた秋田犬を、薬草蒐集に縣内は勿論岩手、青森方面に出掛けて、そのついでに認めたものを買ひ求めて連れて歸つた事もあつた様だつた。秋田犬保存会長 平泉栄吉(昭和21年)
昭和三年六月犬籍簿作製の際は、一日ハチ公の跡をつけて歩いて、漸く預り主の小林君を探し出した時「半年以上もつないで牽運動させましたがどうにも居つきません。今でも放せば澁谷驛に飛んで行つてあの通りですが、夜は歸つて寝る様になりました」と云つて居つた。主人を送つて行つては歸りを待つて居つたなつかしい澁谷驛に、毎日〃雨の日も雪の日も日参する様になつたのであつた。私はあまりの不憫さに引きとつて愛育し様と色々交渉したが、あの犬は亡くなつた博士が非常に可愛がり、犬が死んだら自分の墓側に埋めよと云ふ遺言までしてある程で、お譲りすることは出來ぬとの小林君の言であつた(斎藤弘)
日本犬保存會第一回犬簿に齋藤弘氏の調査にかゝるハチの來歴が掲載さる。ハチの記録はこれが最初であつた。
昭和三年六月、日本犬保存會を創立して、第一回の犬籍簿を作る際、ハチ公の履歴を苦心調査したところ、次の様な事情が判明した。駒場農大教授故上野英三郎博士は實に無類の愛犬家で、しかも日本犬の愛好者でもあつた。秋田から度々仔犬を取り寄せられて愛育されて居つたが、最も優良のものを入手され様と、もと同博士の門下生であつた縣廳畜産課某氏(世間瀬氏ならんか)に依頼、自身秋田まで出かけて探査等せられた結果、遂に入手されたのが 此のハチ公であつたと云はれる。博士の寵愛は非常なもので、ハチも實に主人をしたひ、當時の邸の澁谷大向から博士出校の時は學校へ供して來て歸らるゝまで待ち、外出さるる時は澁谷驛迄供して何時までも博士の歸りを待つて居つたと云ふ。私が最初遇つた大正十三年秋頃は、ハチ公の最も幸福な時代であつたと想像される。昭和三年八月三十日發行の日本犬保存會第一回犬簿には、簡單乍この事を記して置いた(斎藤弘)
「農商務省には公衆衛生の知識がないだろ」「家畜防疫の知識がない内務省は黙ってろ」という四年間にわたる省庁間のケンカが終結し、家畜伝染病予防法から狂犬病対策のみを内務省へ移管(以降、東京府では警視庁が狂犬病対策を管轄)。
東京オリンピック誘致活動に伴い、昭和12年にかけて飼育マナーの啓発や野犬駆除方法の改善に着手。
ハチ公が重度の皮膚病に感染。
昭和四年春にひどい皮膚病にかゝつて衰弱甚だしく、既に死亡は免れぬものと思はれたので記念寫眞を撮つて居いた。第三圖はその寫眞である。尾の細くなつて居り、肩、背の毛並の惡いのは皮膚病のためである。此の當時立派に兩耳の立つて居たことが此の寫眞で判明する。小林君宅の前で私が撮つたものである。其の後小林君の丹精が効いたか、不思議に全快したが、もう昔の元氣がない。あの犬は他の犬が互に喧嘩を始めると、直に仲に入つて引き分け、若し一方の犬が強く中止しない時は、自分が相手になつても必ず引き分けると云ふ昔の侠者の風があつた。今や老衰甚しく、嚙傷のために耳も垂れ、眼も霞みながらもなほ澁谷驛に舊主をなつかしみまつ姿は、涙ぐましい有様である(斎藤弘)
夜の渋谷駅で不思議でならなかったのは、いっつもホームにねそべっている大きい秋田犬である。時におそくなっての空腹を東横食堂(ガードの宮益坂寄り二階にあった)でみたしていると、くだんの犬もノッソリ入って来る。ライスカレーの肉片を投げると鮮やかに受けとめはするが、すぐものうくねそべってしまう。大分老犬だなと犬好きの私は判断した。学校に通っている間中(※昭和5~7年頃)なじんだ犬だったが、名前はおろか後日さわがれるほどの名犬とも知らなかった(押本正義氏「忠犬ハチ公像によせて」より)
内務省の後を継いだ文部省が秋田犬を天然記念物に指定。日本犬飼育ブーム到来。
満州事変勃発当夜に関東軍がシェパードを実戦投入、三頭が戦死。
日本犬保存會々報「日本犬」第一巻第二號誌上にハチの寫眞を掲げ、齋藤氏の筆でハチの詳しい履歴が出され、同時に朝日新聞の鐡箒欄にハチのことが投書されたので、一般人のハチに對する愛情は翕然として集まり、そろ〃澁谷驛の名物化した。當時のハチは年齢十歳、性別牡、毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫、尾左巻と、前記「日本犬」に記されてゐる。
名稱ハチ號年齢十歳性別牡毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫匁、尾左巻産地 秋田縣以上のことを日本犬誌に描くと共に、當時犬殺しにおそはれた等のことを聞いたり、いくらよい首輪胴輪をさしても、何時の間にか取りはづして盗んで行く人間がある等の事を聞いて居つたので、廣く世人に事情を知つて貰つて愛護して貰ひたく、東京朝日新聞に投書したところ、早速大きく報導して下れたのはハチのために嬉しいことであつたが、現在の耳垂れの状態を見た記者氏が、秋田雑種と書いてしまつたため、折角の記事が誠に殘念なものになつた。直に抗議を申込んだところ、社の方には諸方から抗議あり申譯ありませんと早速數度に渡つて訂正して下れたので、ハチも冤罪がぬぐはれたわけである(齋藤弘)
銀座松屋屋上で開催した日本犬保存會の第一回日本犬展にはハチを唯一の招待犬とした所、ハチを見様との來觀者が大變な數であつた。ある人はわざ〃次の様な和歌を詠じて會に贈られた人もあつた。忠犬ハチに寄せて 石谷嵯峨亡き主の歸りますかと夕な夕な 澁谷の驛に老ひ犬の待つ前逓信大臣山本悌次郎氏はわざ〃澁谷驛まで出かけられ、ハチ公の頭を撫で感慨おく能はず、次の様な詩を賦された。義狗行 山本二峰有狗大似虎兒、秋田之産更無疑、纍然彷徨澁谷驛、名曰八公人皆知、聞説放主官主簿、日把刀筆入城府、狗也送迎車站前、不問寒暑與風雨、主人得病俄捐世、狗哀宛如喪慈父、黄毛長尾為誰揮、形容漸衰似抱腓、來就車站不復去、零飯残菜纔凌飢、眷恋悲呻朝又暮、翹首猶待主人歸、豪冨之家佳公子、欲将好餌馴致此、寧知坫心難可移、堅臥大地不肯起、吾聞感義行視之、手撫其頭中惻悱、如今澆世士道淪、眼有榮祿無君親、忍言高義卻在狗、人情何譌爾何眞、吁嗟八公之義可以激頽俗、我歌誦罷涙如雹
先日安藤氏の處でハチ公と製作中の彫像とを拝見して居つた所に、丁度未亡人が御出になられた。今迄暑熱のため土間に横臥して動うともしなかつたハチ公、急に起き上つて夫人の側に寄りそひ嬉し喜ぶ様子。又夫人の辞去せらるる時、小林君の制止も聞かず、一緒について行うとする有様、實に涙なしに見られぬことであつた。あまり犬好きとも見えぬ夫人にして斯の様である。地下の故博士がハチの目前に現れたらどの様であらうかと想像するだに涙である(斎藤弘)
齋藤弘氏が最も詳しくハチ公のことを執筆したが、この頃よりハチ表彰の氣運が次第に濃厚となつた。
十一月三日、上野動物園前廣場に日本犬保存會主催の第二回日本犬展覧會を開催、詳細は板垣博士が別項に述べられたが、折柄の好晴に恵まれて人出多く、殊に家族連れの婦人子供の多いのは愛犬の趣味が一層家庭的に普及した証左として力強い限りであつた。一般審査犬のほかに、渋谷驛の忠犬ハチ公も來賓格で招待され、その他日本犬付属訓練場の種牡五頭、前年の推奨犬二頭、板垣博士や齋藤、田山、塩原氏等審査員の愛犬も陳列され、一般觀衆に多大の感興を與へて夕刻閉會した。なほ同夜銀座菊正ビルに開いた懇親會は久々で上京した地方會員も加つて出席者四十餘名に上つた
今から四年前、僕が澁谷驛へ下車した事があつた。其時に、眞白な犬が驛前に居たから友達に「此犬、とても大きな犬だが、何犬だらう」と訊ねて見ると、「これは澁谷驛の名物犬で、故上野博士の愛犬であつたのだが、博士が物故せられて後も、博士在世の當時と同じ様に、朝は九時に此所へ恰も博士を送るかのやうに現はれ、夕刻四時から五時半迄斯うして歸らぬ主人を待ち受けて居るのだ」。初めて知つた犬の身の上に甚く同情して、試に呼んで見ると、尾を振りながら僕の前に來て、ちよこなんと坐つた。此時の印象がとても良くて、爾來僕の頭から離れないので、今度の銅像の原型の依頼を受けた時も喜んで此名物犬―否、世界的の名犬ハチ公の爲めに、と思つて快く承諾して、製作することにした。ポーズは僕が初めて彼を見た時の印象を其儘―、僕の前に來て坐つた其型と表情を其儘に、出さうと思つて作り上げたのが、これなのだ。サイズはハチ公の等身―、高さ二尺五寸位、それを高さ四尺二寸の山出し其儘の花崗岩の臺の上に建てることにしたのだ。臺石の側面には山本悌次郎氏の義狗行を彫りつけることになつて居る。帝展審査員 安藤照『忠犬ハチ公の銅像製作に就ての感想』より
安藤照氏と私とは美術學校時代からの知人である。氏は彫刻、私は洋畫と科は異なり、氏は先輩、私は後輩と年代が違つて居たのであつたが、氏は剣道私は柔道好きであつたため同一の道場で毎日顔を合せていたものであつた。氏は彫刻界の鬼才として年若くして帝展審査員となられた人。薩摩隼人の出身、剣道の猛者、剛毅な反面に實に涙もろい人であり、大の愛犬家であり、狩獵好きであり、熱心な日本犬保存會員である。ハチ公の像を作つて下れるには、最もふさわしい。此人を置いて他にない人と思ふ。立派なハチ公の像が出來る日が待ち遠しい(斎藤弘)
ハチ公銅像建設會が吉川澁谷驛長、板垣博士、齋藤弘氏、安藤照氏その他の發起で生る。
二月十五日午後五時から澁谷驛長室に第一回發起人會を開いたが、その後のハチの人氣は愈よ爆發して續々醵金が集るほか、ハチの物語を浪花節、童謡にしてレコードに吹込んだものが賣出される。驛前の明治製菓ではハチのチヨコレート像が出來ると云ふ騒ぎ。三月十日は神宮外苑の日本青年會館で忠犬ハチ公銅像基金募集の夕を行ひ、それらの浪花節、童謡の披露その他がある。
午後六時から例によつて銀座四丁目菊正ビル食堂に開催。今回は特に澁谷の忠犬ハチ公の話を聞くことゝし、會食後板垣博士のハチの生ひ立を初め、わざ〃出席された吉川澁谷驛長からハチの近況を聞いて一同感動し、ハチ今後の保護方法や、ハチ像の耳をどうするかなどゝ云ふ問題で十時過ぎ散會。因に齋藤弘氏等日本犬の専門家は純粋秋田犬を永久に傳へるため、耳の立つてゐた壮時のハチを作ることを主張するに對し、像の制作者安藤照氏や一般民衆は親しみの多い現在のハチ像を作ることを切望し、目下兩説對立の形である(犬話會)
銅像建設會主催の「ハチ公の夕」が神宮外苑日本青年館で催され、舞臺上でも人氣を博す。この頃レコード、民謡、彫像等にハチの人氣は更に急騰す。
此のハチ公は當年十六歳で、すつかり老衰してゐるけれども、まだ、澁谷驛に通ふことを忘れない。此のハチ公の主人は七年前にアメリカで客死した農大教授上野英三郎博士(※上野教授は日本で亡くなっています)で、それとも知らぬ彼は、亡き主人の姿を求めて雨の日も風の日も澁谷の人なだれの中に、シヨンボリと立ちつくしてゐる。主人思ひの純情が人々の感激するところとなつて、その感動の波が東京中に廣まつたのである。勿論、あれは多年主人を記憶してゐて、その歸宅を待つものではなく、自分の家にゐるよりも、停車場へ行つた方が貰いが多いからなど惡口を云ふ人もあるが、厳正な意味の犬の記憶力から考へると何か理屈を付けたくなる。けれども、ハチ公の場合には、理屈を付けたつて、大東京の人が、そんな事をきくものではない。理屈を抜きにして犬を愛する心から、彼れハチ公をいたはることが必要なのである。白井紅白『犬の趣味物語(昭和9年)』より
澁谷のハチ公は持ち主が虐待したのに、澁谷驛付近で可愛がつて食事をやる人があつたために行つたのだ。斎藤はうそを云つて、忠犬にした等と昔から知つてる見て來た様なことを云ふ人間も居る。ハチ公の有名にならぬ前に誰か食事を與へた人が驛付近に居つたと云ふのか。驛員達に如何にむごく取扱はれたか、恐らく知るまい。未亡人が犬嫌いであつため澁谷に行つて野良犬になつたのだ等と云ふ者さへ出て來る。莫迦々々しくてお話にならぬ。澁谷に行く様になつたのは、未亡人の處からではない。小林菊三郎君の手に移つてからであつて、小林君は代々幡署に鑑札も受け、犬牽まで頼んで主家の犬を大切にして來たのだが、小林君の家が昔の主家の近くであつたため、舊主がなつかしく、舊主家に行つも人が異るため自然澁谷の驛に行つたものであつて、勿論後には習慣性となつたものであらう。然しあののつそりした犬が未亡人を見た時の飛び上つての嬉しさは、やはりいつまでも舊主人を忘れなかつたものと思ふ。決して野良犬でもなんでもない。立派な飼主のある犬である。 私はハチ公のことではあまりに世の人の軽薄な心を見せられて、なるたけふれまいとつとめ來てた。事實、有名ならぬ前に驛付近では誰もあの犬を可愛がつた人などなかつた。あの犬を付近の人が可愛いがつて居たら、黙つて、胴輪までとらせては置かぬ筈ではないか。我々はもつと眞面目に、研究者はそれに没入、此の犬族の研究をして一つの獨立した學問にまでなす可きであり、蕃殖者はこれに没入、益々優秀なものの作出に努力す可し。今のままでは、此の犬の世界が現代の笑ひ物となつてるばかりでなく、次に來る者に失笑されるだけのものであらう(斎藤弘 昭和12年)
おなじくルンペン犬でも、忠犬ハチ公となれば忽ちあらぬ傳説の尾鰭までつけて之を神とも崇め、銅像まで建設して業々しく担ぎ廻らねば承知の出來ぬお祭騒ぎのいとも好きな日本人である。私は廿年あまりもこの澁谷に居住してハチ公のまだいたいけな幼少時代から、華々しいその青・壮年時代を經、やがて主なき慇れな一介のルンペン犬にまで成り下り、一朝又時を得て無比の忠犬として一世の視聴を聚めるに到つた最近彼の死ぬ迄の十數年の經緯を最もよく知つてゐるものだが、熟々之を見て日本人の動物に對する智識のあまりにも浅薄でオツチヨコチヨイなのと、生きた傳説の眼のあたりでつち上げられてゆく巧みなカラクリには呆然として眼を睜つてゐる一人で ある。と云つてもあまりにその過大な賛辞や、阿附追從に憤激して何も知らぬハチ公にムキになつてケチをつけてゐる大人氣ない連中など見ると、愈々その莫迦らしさ、情なさが嵩じて來る。ハチ公は決して世間で思つてゐるほど無比の忠犬でもなければ、之をクソミソにやつつけてる連中の言ふやうなバカ犬でもない。彼は犬として生前實に温厚篤實な、柔しい性情の持主で、しかも秋田犬としては近來稀に見る體型を持つた立派な犬であつた。秋田犬の禮讃者ならずとも犬好きが一目見れば彼のあのどつしりした、どことなく鷹揚な態度や風貌の中に何か萬人に慈しみ慕はれるやうな柔しい、可憐な徳望を備へてゐた事に氣付くであらう。一時、ハチ公を廻つて犬界一部の人々の間に犬の記憶力の永續性の可否云々に就て論争があつたやうだが、これには私も別に一家言を持つてゐて、いづれ何等かの機會には發表したいと思つてゐる。ともかくこのハチ公騒ぎは、世の社會批評家にとつては近來閑却することの出來ない興味ある好箇の題目たるを失はぬものがある。秦一郎『犬の去勢實施に共鳴して偶感二三(昭和10年)』より
簡單な犬の習性もいろ〃の典型で現はれるもので、それを人間が勝手に解釈して、人間心理で犬の心理を理解しようとすることは、動物研究の實験的方法に錯誤を來す重な原因であるとして動物心理學者などの繰り返し警めてゐることである。ハチ公の態度も實は簡單な犬の習性があゝした形で現はれてゐるので、道徳ではなく本能なのである。ハチ公の停車場通ひも恐らくこの簡單な習性の現れの一つの型であつたらう。良種の犬ほどその型をよく守るので、秋田犬などは可なりその點で優秀であると見える。ハチ公の場合にも、それは問題なのであるが、然し人間は主觀的に、それに道徳的價値を與へることによつて、個人的の又は社會的の道徳的効果を生ぜしめるのである。だからハチ公の物語も一つの創作である。それは過去の人間の歴史が、それ〃後の時代の要求に応じて、ある程度まで創作化されるのと同じである。 人々はハチ公との間に心理的交渉を生ずるやうに直接の關係を少しも持つてゐないもので、ただ新聞の大活字に刺激され、その巧みな記事を通してハチ公の概念を得、それを彼等自身の心理で再生産して、觀念的ハチ公を作りあげたのである。彼等は自己の作つたハチ公の幻影に大騒ぎをしてゐるのである。私はそれを咎めるのではない。蓋しそれは動物愛といふよりは、人間愛の一つの現はれで、たゞその表現にハチ公なる犬を借りてゐるに過ぎないのである。彼れらは主人に忠實な犬を求めてゐるのではなく、實は人間を求めてゐるのである。それが人間に求められないで却つて犬に求められたとして、彼等は感激してゐるのである。人間の場合と犬の場合との道徳的價値の根本的相違などは、この際問題ではないのである。場合に依つては、石塊にそれを求めることをさへ憚らないのであり、それはそれでいゝのである。『ハチ公を中心として(昭和10年)』の抄録より
澁谷驛頭のハチ公銅像除幕式が盛大に擧行され、驛頭は人の黑山を築く。銅像は安藤照氏の帝展出品をその儘五尺の御影石臺上に安置した。尚一般から集まつた銅像建設基金は千二百十三圓餘。
岸一敏氏著『忠犬ハチ公物語』公刊さる。このほかハチの物語、刊行物等頻りに現はる。
ハチ銅像建設會からハチ像を、天皇、皇后、皇太后三陛下に献上した。
國定教科書の挿畫を依頼されて忠犬ハチをスケツチするため、一日、ハチが徘徊する澁谷驛を訪れて、驛長さんに「ハチを描かして頂きたい」と頼み込んだ。驛長さんは「きつとその邊に居ませうから……」といふことで、見付かるのを待つてゐると、間もなく當のハチが、階段を上つてのこ〃と驛長室に現れた。ハチは、初めのうちは弱り氣味で、伏した儘なか〃立姿や圖のやうな姿をして呉れなかつたが、驛員の世話で、牛肉をやつたりなどして居るうちに元氣を回復した。左耳は、老犬のせいか、垂れてゐるが、身體の大きく、落着いた犬だと思つた。描いた場所は改札口の前のところで、大體あの邊で、亡くなつた主人の歸りを待つてゐるのださうであるが、あの驛のラツシユ・アワーの雑踏を見越してお晝に行つた。が、それでも中々乗降が激しいので、可成り弱らされた。私は、餘り犬に關心を持たず、飼つたこともないから、犬に就いては何も言へないが、シエパードなどは未だよいとして、無理に造られたやうなグロテスクな犬は嫌ひだ。そこへ行くと、ハチのやうな日本犬には、無理がなくてよいと思ふ。石井柏亭『ハチを描く(昭和9年)』より
澁谷のハチ公の名は遠く海外へまで傳はり、昨年秋は義理視野(※ギリシャ)の新聞「祖國」にハチ公のことが掲載され、次いで米國ボストン市の動物虐待防止會の機關誌「吾等の無言の動物」十月號に、寫眞共々掲載されてゐる。ギリシヤ新聞に出たハチ公の記事は、長く扱はれたが、そこに出てゐる寫眞はハチ公のではないらしい。
これ等の記事の出所は實は私である。昨年夏のこと、私宛にギリシヤのアデン市にある動物虐待防止會から「この頃、東京で忠犬ハチ公の名が高くなつたさうだが、その忠犬振りを正確に書いて送つて貰ひたい。寫眞も是非頼む」といふ手紙が來た。
日本の忠犬に、外國が興味を持つのは面白いことだし、國際親善の上から云つても有意義であると考へ、早速調査に着手し、長い記事に寫眞六葉を添へて、ギリシヤの同會へ送つた。どうせ外國へ送るなら、各國の動物愛護會へも送つた方がよいと思つたので、米國紐育市のアメリカ人道教育會、ボストン市の動物虐待防止會、獨逸ベルリン市の獨逸動物保護聯盟、英國ロンドン市王立動物虐待防止會等へも寫眞を添へて同文の記事を発送した。ところが、本家のギリシヤ動物虐待防止會の機關雑誌に掲載されないで、新聞に出た譯であるが、この方が一般的に知れ亘つて、却つてよかつたと思つてゐる。動物愛護會 廣井辰太郎『國際親善に役立つハチ公の存在(昭和9年)』より
映畫「あるぷす大將」にハチも出演、銀幕の王者にもなる。
竟に逝く。その報は各新聞夕刊紙上に大々的に報道され、澁谷驛前ハチ銅像は忽ち花輪、花束で埋まり、弔問者蝟集し、香煙累々として絶えず。行人をして思はず純情の涙を催させた。
昨年の十二月中旬頃から今年の一月にかけて、ハチはメツキリ弱つて、衰えが目立ち、今にも仆れさうなので、一方ならず心配しました。が、心を痛めた程の事もなく、二月へかけてソロソロ肥つて來たので、この分なら、とまづ胸を撫ぜ下ろしたものです。と、三月初旬になつて又一寸具合が惡く、嘔吐が劇しくなつて來たので、「又、惡いな」と思つてゐました。運動の方は普段とさして變りはなく、食物も平生の調子で摂つてをりました。ところが、三月三日、四日頃から殆んど物を食べぬやうになり、同時に嘔吐も酷くなり、腹に水が溜つて、恰度お腹に仔が出來たやうに膨れ、如何にも苦しさうでした。「もうハチもいけないのではないか……」とハチ公の姿を見る毎に左様思ふやうになつて來ました。すると、五日のこと、全く力がなくなり、立つこともやつとと云ふ弱り方なので、「ああ、もうこれは長いこともあるまい。しかしせめて四月二十一日のハチ公 像除幕一周年記念の日まで生かして置きたいものだが……」と念願してゐると、八日の朝五時、皆さんも既に御承知の通り、驛から三丁ばかり離れた八幡通り の加藤さんといふ酒屋の露路で、ハチ公の死骸が發見されました。當驛へ來て再び歸らぬ故、上野博士を待つこと十一年目、私も永いことハチ公とはお馴染みでしたが、到頭彼も故博士の膝下へ戻つて行くことになつてしまひました。死ぬ前晩―七日夜のハチ公の行動は、とても不思議なものでした。酷く病に冒されたあの大儀な體をノソ〃運んで、驛の各室を順に経巡り始めたものです。改札の部屋や小荷物の部屋へはよく這入り込むので、この時も驛員達は何とも思つてゐませんでしたが、その夜に限つて、出札の部屋へノソ〃這入り込んで行くには、驛員も目を丸くしました。と云ふのは、十一年間當驛とは馴染み深いハチではありましたが、今まで出札へ這入つたことは只の一度もなかつたからです。尤もこの部屋は現金を扱ふので、無闇に人も入れなく、ハチ公も自分から近づかなかつたのですが、その夜はどうしたものか、初めて出札部屋へ這入つて行きました。「お可笑なこともあるものだな……」と皆奇異の思ひに打たれたのでした。その夜は、驛の部屋々々を訪れたばかりでなく、重い足を運んで驛から出て、驛前の各商店十軒餘りを一軒残さず巡つて歩きました。何處の商店でもハチ公の這入つて來るのは珍らしいことではないので「あゝ、又ハチ公が來た」位で平氣でゐた様ですが、最後に「甘栗太郎」の店へ這入つて行つたのださうです。何でも十一時頃のことで、これを見た甘栗太郎の主人公は非常に不思議な氣に打たれたと云ひます。この店だけは、ハチ公、これまで一度も這入つたことがなく、その夜初めての訪問だつたのです。ハチ公は既に死を豫知してゐて、顔馴染へ挨拶して歩いたらしく、これは私も不思議なことだと思つてゐます。驛の出札部屋はハチ公が這入つて來て皆を驚ろかしたのは、七日も深夜のことで、そこにづつと寝てをり、八日午前二時頃までゐたことは確かです。その内驛員も寝に就きましたが、寝静まる頃、いつかこの部屋を抜け出して、遂に朝五時頃八幡通りで、ハチ公の死の發見となつたのです。この又八幡通りといふのが、普段ハチ公の行つたことのない場所で、大體彼は線路を越して行くことはありませんでした。その夜に限つて知らない土地へ行つたといふことは、しかも露地の中で仆れてゐた點などを思ひ合はせると、犬は死ぬ時近所の土地を汚さぬ、醜い死骸を見せたがらない、と云ふ言ひ傳への通りで、これも私には不思議に思へます(吉川忠一澁谷驛長)
青山墓地故上野博士墓前の一隅に埋葬され、その毛皮は剥製として永く上野の科學博物館に保存されることゝなつた。
奉仕の性能を極端に發揮した名犬ハチコーを、私ははからずも、澁谷に住む友をたづねて、死ぬる一ヶ月前の白い頭を右の手で撫でてやつたのであるが、尉のやうになつたこのハチコーは、別段何の感応もないらしく、朗らかな鈍さをもつて焼鳥屋のまへにうづくまりつづけてゐたつけ。 その次に澁谷へ行つた時には、ハチコーが死んでから二日目で、澁谷驛頭のその銅像は、溢れるやうに、花で飾られて、線香があたりにひろい煙をたゞよはし、押すな、押すなで、犬のやうに善良になつた老若男女が、争つて焼香するのであつた。生田花世『傳説の犬(昭和10年)』より
ハチは上野博士の墓の傍らに埋められましたが、場所は青山墓地を葬場前から這入つて左に折れた左側で、右側は濱口雄幸、犬養毅、その他政界名士の墓が並んでゐるごく判りやすい場所です(昭和10年)
小學修身巻の二「恩を忘れるな」にハチの物語が収められ、その挿畫を石井柏亭氏が描いた。
ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 來ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。カウシテ、月日 ガ タチマシタ。一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)
尋常小学修身書掲載『オン ヲ 忘レル ナ(昭和10年)』より
小川さんの今月の論文は僕も大いに賛成するです。八公(原文ママ)についても全く正しい見方です。八公が野良犬に近いものである事は明らかで、澁谷驛はオマンマにアリツケルからに過ぎないですよ。〇〇未亡人(※上野八重子氏のこと)は恐らく八公にオマンマを與へなかつたに違いないですよ。犬が好きでない婦人が、大型犬に滿足出來る程オマンマを與へる筈がないですからね。〇〇未亡人のケチンボーが(ケチンボーは一寸皮肉ですが、果してケチンボーであつたか犬嫌ひであつたか、將又轉居であつたか、何れにしても犬に對して愛情が淡き爲め犬を捨てたか、或は犬の方で主人を捨てたかどちらかでせう)八公をして日本一の忠犬にした分ですね。(註釈:忠犬にしたのは〇〇未亡人ではなく、日本犬保存會が宣傳の材料とした分です。何しろ宣傳博士がゐるからね。それは今度富山の各新聞に學務部長を會長に社會課長を副會長として越の犬保存會を組織し、その保存登録をやると書いてあつた事によつても分かる事で、中々宣傳がうまいです)日本犬協会 有漏烏木『雑記帳 古市さんよりの近信(昭和11年)』より
忠犬ハチ公として澁谷驛頭永く旅客の心を捉へる故上野博士の愛犬ハチ公は、その後老衰病にかゝつて人々の手厚い会報を受けつゝ、亡き主人の跡を追ふ寂しい旅路にのぼつたが、ハチ公の剥製を永く傳へたいと上野の東京科學博物館では先般剥製の大家阪本喜一氏に依嘱して忠犬の全貌を傳へる爲め製作中であつたが愈々完成。六月十三日午前中、同博物館でこれが披露式を行つた。當日は、上野博士未亡人、澁谷驛長、文部省局課長及その家族一般關係者約六十名を招待して盛大に擧式し、翌十五日より一般に公開した(『ハチ公再生』より)
午後一時から大舘驛頭で櫻庭大舘町長、澁谷區代表久保川貞節氏他小學兒童その他千餘名の町民参列の下に行はれたが、銅像は故主上野博士未亡人他各方面から贈られた花環で埋つくされて、ハチ公の生家大舘町新開地桑田常太郎氏の長女光さんによつて除幕された。銅像は安藤照氏製作の澁谷驛前のものと同型である。同日は扇田町助役麓勇吉氏の愛犬五郎號以下代表秋田犬十數頭も参列し、又男子校尋常二年の兒童の修身書「恩を忘れるな」のハチ公忠節物語の讀誦を行つた。
東北地方における宣伝手法を巡って日本犬保存会と「アキタランドケネル(猟犬系秋田犬協会)」が衝突。この抗争が北海道へ飛び火し、日本犬保存会と「アイヌ犬保存会」との対立も発生。
澁谷驛の忠犬ハチ公の一周忌に當るので、主人の上野未亡人その他で青山墓地のハチ公墓前で追悼會を催し、秋田大舘でも銅像前で盛大な一周忌祭を催した。澁谷驛のハチ公銅像前も香華、賽錢が續々供へられてゐた。又ハチの剥製のある上野科學博物館では同日午後一時から犬の映畫會を催し、帝犬及び日本犬保存會提供の犬の映畫を公開した。
【昭和12年】
我々は、何氣なく忠犬八公を感心な犬だと思つてゐるが、よく考へて見ると、八公と日本人の精神と、どれほど異つてゐるであらうか。一般日本人は、日本には日本獨特の精神文化があると思つてゐる。それは歐米の理知的科學文化に對して、何か精神性の勝つたものであり、感情の美しさがあると思つてゐる。それは一体何であるか。多くの人々が口を揃へて自讃するところは、詮じつめると、家族主義と皇室に對する忠誠心といふことに歸着する様だ。この家族主義と皇室中心主義とは、小家族と大家族との關係として説明され、家族的感情が私生活と公生活とを一貫する指導理念であるとされてゐる。即ち忠孝一致とか、義は君臣にして情は父子とかいふ様に宣傳され、これを基礎付ける爲めに、祖先崇拝や神道やらが背景に採用されてゐる。然し、現實の生活に於て、家族主義と忠君主義とは一致してゐたであらうか。否、日本ほど家庭生活と忠君との矛盾した國は無いだらう。天皇の命令に從ふことによつて、如何に日本の家庭生活が破壊され、家族が悲惨な目にあつたか。それはこの戰争が、何よりも雄弁に物語つてゐるであらう。まさき・ひろし『忠犬八公と日本人(昭和21年)』より
戦争のために万事休止の状態であり、各犬も皮となり食肉となつたが、其の中にもあつても吾々は種族の保存に苦斗を続けて来た。終戦後も食糧難は解決することなく、此れが飼育には並々ならぬ苦心にさらされて来た。間もなく進駐軍に「秋田ドツグ」として愛好され、その要望は日に日に激増し、日米親善のため我々の努力は保存のみならず、蕃殖につとめそれが直接に祖国発展の一翼として、クローズ・アツプされつつあるのです。昭和二十二年十一月には第十一回(終戦第一回)の展示会を開催し、文部省に優良犬牌の申請をし、又第十二回展示会を昨年四月二十九日に開催して、出陳犬六十三頭に及び盛会を極め、本春、又第十三回全国展覧会をドツグタウン(大舘町の進駐軍の称)に於て開催し、秋田犬の質の向上と正しい認識を普及し、それが振興発達に努力致したいと存じます。又、近々中、大舘駅前に忠犬ハチ公の銅像の再建を図り、五月下旬に総会を開催して、新役員によって、大活躍をいたしたいとおもうのであります。会員の秋田犬愛好家が本会のために、積極的に御協力あらせられんことを、希う次第であります。秋田犬保存会会長 平泉栄吉(昭和24年)
平和三周年の思出深き日。ハチ公の銅像除幕式は澁谷驛前で盛大に行はれた。此日前日の豪雨で洗ひ浄められた式場には定刻前から觀衆續々と詰めかけ、ハチ公の人氣益々盛んである。式場は未だ紅白の幕をかけられたハチ公の銅像を中心に數々の供物、後部には各方面より贈られた多數の大花輪、右手には役員諸氏、左手にはアメリカ、イギリス、中華、朝鮮等の來賓、實に國際的の式典である。やがて開會の辭終れば、内藤清五氏の指揮による東京都吹奏樂團の吹奏理に、紅白の幕の綱は可愛らしい男女の子供達の手によつて引かれ、滿場の大拍手のうちにハチ公のあの懐しい姿は此處に再現された。次に忠犬ハチ公銅像再建會の會長小林來氏の挨拶、黙禱、澁谷驛長川崎氏の經過報告、制作者安東士氏の紹介等があり。來賓祝辭は日本交通公社會長荒井氏、澁谷區長佐藤氏等の日本側に次で、英國大使ガスコイン夫人代理、ジヤツク・ブリンクリン少佐、パーロット夫人、ワイルズ博士、中華民國湯長玉、朝鮮金己哲の諸氏のハチ公を賞讃する言葉は續いた。その間アメリカニユース班の撮影があり、ハチ公の名は世界中の人々に知られ、そのいじらしい行爲は世界中の人々からたゝへられる事になつた。最後に銅像題字入選者の商品授與式が終れば再び泰樂理にこのほゝえましき除幕式は終つた。式後、銅像前でシエパード犬訓練士による、訓練の供覧がありハチ公の靈を慰めさせた(「ハチ公銅像澁谷に再建」より)」
本当に主人を待っていたのか、ただの日課だったのか、焼き鳥が目当てだったのか。ハチが何を考えて駅に通っていたのかは、誰にも分かりません。