VOZ(ボズ)のスケッチ

インディーズ・レーベル「VOZ Records(ボズレコード)」を主宰する堀克巳の「考える」日記


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 この間、TV番組で小室哲哉氏が今は「ヒット曲の法則がない時代」だと言っていて、

ホントその通りだよなあ、と思った、.、、。

 

 ただ、僕はピコ太郎の「PPAP」は今のヒット曲の法則でこそないが、余計なものを最小限に削ぎ落としてむき出しになった「最新のヒット曲の骨格」のようなものだと思っている。しかも世界仕様だ。これはとても貴重なものだ。一芸人の流行語、一発ギャグなんていうものではとてもすまされない。

 

 ではその骨格とは。

 まず、「ダンスミュージック」である。ビートが「主」であり、メロディーと言葉が「従」である。

 歌詞については、いわゆる三要素「音」「意味」「映像」(by佐野元春「ソングライターズ」)の中で、圧倒的に「音」(ひびき)に特化している。(その中でも、乳児、幼児がもっとも好きだと言う「P」の子音をうまく使っていることが効いている、と僕は思う。)

 

 そして、メロディーに関しては、ビートに載せることだけを考えたややラップっぽい、反復的なもの。ウィルアイアムが言って、ピコ太郎が意識したように、音階の起伏は少ない。ラップに近い。

 

 明快なダンスビートに、刷り込まれやすい反復系で高低差のないメロディー、意味よりノリ重視の歌詞。ただ、これは骨格なので、そこにどんなアイディアで肉付けするかが、もちろん重要になる。

 そして、”一緒に踊りたくなる振り付け”、これが胆だ。

 

 今の日本の音楽界の主役と言っていい「振り付け」。

 三代目J Soul Brothersの「R.Y.U.S.E.I.」は、歌自体じゃなく、間奏の、しかも振り付けだけが飛び抜けて印象に残る曲がレコード大賞をとったということで象徴的な存在だし、JPOPとしても最高の水準にあると思う星野源の「恋」にしても、振り付けなくしてはヒットはなかったわけだ。(ちょっと前だったら、曲調的には槇原敬之のような感じで歌ってそうな曲だ。)

 

 あと、80年代の女性アイドルはイントロやサビで軽く振り付けがある程度だったのに、今の女性アイドルは、まず例外なく曲全体に振り付けがある。ウェイトは振り付けが「主」で曲が「従」と言っていいくらいだ。

 

 かつて流行を左右した「カラオケ」の位置に「振り付け」がある。(というか、カラオケに行ってもおなじみの振り付けをやることが、歌うより大事になっていると思うが)流行歌の核は「カラオケで歌える」じゃなく「振り付けを踊れる」になっているのだ。

 いま、世の人々は「歌いたい」欲求より「踊りたい」欲求のほうが勝ってるのではないか?という気すらしてくる。

 

「国民みんなが歌える曲がないよなあ」とか「最近の歌は覚えづらい」とかという言葉をよく耳にするが、これは、それなりの理由というか、流れがあってのことなのだ。ほんとにみんな、心からそれ(「国民みんなが歌える曲」)を欲しがってるのだろうか?そんなでもないでしょ。

 

 そんな中、近年では数少ない国民みんなが知っている曲と言っていい「世界にひとつだけの花」が昨年末であういうかたちで、オリジナル・シンガーが歌い続けることが封印されてしまったのも、僕にはすごく象徴的な出来事に思えた。

 

 

 さて、ここで唐突に飛躍する。

 イギリスの考古学者のビートリーという人は、どの文明でもその中の芸術は

「建築」→「彫刻」→「絵画」→「文学」→「音楽」→「舞踏」の順番に連鎖反応的に栄えたという説を唱えている。その後は芸術は衰え「経済と技術と富」の時代になるらしく、現代はまさしく芸術が終焉したあとの「経済と技術と富」の時代だという。

 

 さて、この芸術の推移の法則、僕の良くない頭で感じたことは「静的なものから動的なもの」、構築された固形が流動的な揺らぎのあるものになってゆく、というイメージだ。

 大きなくくりでは現代は「経済と技術と富」の時代ではあるが、その中の文化、芸術の流れの中でも、この「静的なものから動的なもの」という流れはあるように思える。

 音楽に関しても、鑑賞するものから、自ら演奏し歌うものへ、そして現代では、自ら歌い演奏するよりも、踊ったり、既存の作品をダンスミュージックとしてミックスしたりコラージュするような流れになっている。

 

 ともかく、この「踊る」というのは、単なる流行じゃなく、何か文明的なもっと大きな流れとしてとらえたほうがいいかもしれない。そして、その現象としてダンスミュージックをベースにしたいろいろなスタイルのヒットが出てくる。

 

 で、肝心のメロディーはどうなるのだろう?

 まず、良いメロディーというのも主観的なものだし、当然その時代によって変わるものだ。僕の一番好きなバート・バカラックだって、もちろんエヴァーグリーンなものは多いが、やはりその当時の風俗、時代の空気を知っている方がより味わいは深くなる。

そういう時代性はやはり最優先されるわけで、その中でメロディーに課せられたテーマは、まず、ダンス・ミュージックとフィットすること。ダンス・ビートと仲良くしなさい、ということなのだろう。

 

 その次は本来のソングライティングの核である、歌詞、言葉としっかり繋がる曲。

その場合、バランス的には歌詞が主になりそうな感じは昨今強く感じるのだが、、。

 

 ただ、僕が注目したいのが、大きな傾向に対して、反動、揺り戻しというのは必ずあるということ。音楽の世界はひとつの流れにみんな後追いする習性があるので、かならず空いたスペースが生まれるのだ。

 「365日の紙飛行機」はAKBのレパートリーの主流ではないが、ダンス曲ばかりの中でああいう曲がぽんっと出てくると目立つ、そんな感じだ。


 

 メロディアスな曲は今後主流になることはもうない気はするが、反動として今後もヒットするチャンスはあると思う。

 情緒的なもの、ノスタルジックなもの、そういう心や記憶に訴えるものということではメロディーが最大限に本領発揮できる、と僕は思う。その中でも心を和らげ慰める、という効用はずっと必要とされると思う。日々殺伐としていくムードで満ち始めたこの世界の中ではそれはより大切だ。

 

 

 

 

 

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 今頃、ピコ太郎の話ですみません。

 

 ネットのニュースで「PPAP」がなぜ1分未満なのかについてのピコ太郎本人のコメントがのっていて、これには思わず唸ってしまった。

 

「ブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムさんが数年前のインタビューで、『今後の曲はよりシンプルに、より音階もなく、1分ぐらいになるんじゃないか』と言っていたのが、頭のどこかに残っていたのかもしれません。」

 

 このソースとなるウィル・アイ・アムのインタビューを探したけど残念ながら見つけられなかった。

 

 で、僕がひっかかったのは「1分ぐらいになる」というところより「よりシンプルに、より音階もなく」のくだりだ。

 

 というのも、依然このブログで取り上げた1990年頃のポール・サイモンの予言(?)

 

「人はメロディーが何なのかもわからなくなるんだ」

 

という”メロディー衰退論”がずっと頭にあって、実際僕が音楽の仕事に従事しながら、それを裏付けるようなことを頻繁に目の当たりにするからだ。

 

 

 例えば、作曲家の楽曲を誰かアーティストやレーベルや事務所の人などにプレゼンをするときに、昔は主旋律をシンセのガイドメロにして聴かせればよかったものが、いつからかラララ〜と歌う仮歌を入れなければならなくなって、今ではかなり本気で書いた仮歌詞まで入れるのがほぼマストになっている。デモアレンジのクオリティーは当然高くなければいけない。9割がた完パケに近いような、出来上がっているものを聴かせなければいけないのだ。

 

 そこには、素のメロディーを聴いてそこから自由にサウンドや歌詞のイメージを膨らませる、という行程が完全に欠落している。それは、音楽制作の”肝”ですらあったものだと思うけど、かつては、、。

 

 もちろん、人が口ずさめるようなメロディーのパターンはもう出尽くした感はあって、その差別化や新味は歌詞やサウンドに頼らざるを得ないということもあるだろう。

 

 そして、音楽に限らず漫画でも小説でもドラマでも何でも、わかりやすく直接的な表現が求められる現在では、言葉やビートはダイレクトに伝わるが、メロディーはそこまでダイレクトなものではない。メロディーを味わうには想像力の助けとある程度の慣れ(聴いてきた量、経験)が必要とされる、というのもある。あと、心の余裕みたいなものも必要な気もする。軽い白日夢を見れるような心の余裕が。どこをみても世知辛く、不安な要素であふれている世の中では、メロディーを味わう余裕がなくなってきているようにも思う。

 

 

 それから、昔から仕事で若いクリエイターのデモを聴く機会がけっこうあって、最近とみに痛感するのが、その大半が、アニソンのフォームを踏襲したものばかりでメロディーが均一だということだ。ネットで古今東西あらゆる音楽を楽しめるはずなのに、どんどん多様性が失われていっている。いま流行している音楽の多様性がなくなっているわけだから、そういう音楽だけ受動的に接していればみんなアウトプットされる音楽も似たり寄ったりになってしまうのは、仕方ないと言えば仕方ないのだが。

 

 いよいよ、メロディーの時代の終焉になっているのか、と僕が思っている矢先にこのピコ太郎のコメント(正確にはウィル・アイ・アム)だ。

 

 ウィル・アイ・アムは、HIP・HOPにハウスミュージックをミックスさせることにより、ここ数年の音楽界の最大の流行「EDM」の大爆発のきっかけを作り、IT産業、先端科学の分野にもいち早く参入した、音楽業界きっての先見の明を持つ男である。21世紀は最新科学が音楽の謎を解明していき、音楽は、エンタテインメントの枠に限られず医療などでも役割を担うものになるとも以前語っていたのを読んだことがある。

 

 彼の言うように、これからの音楽がシンプルに音階の動きも少ないものになるのなら、いわゆる僕らのイメージする「メロディアス」な音楽は廃れていくということだろう。

 

 ポールサイモンの予言とウィル・アイ・アムの予言がここで繋がるわけだ。

 

 もちろん、そこに音階の連なりがあればメロディーというのは成立するわけだがから、メロディーはなくなってしまうわけではないが、少なくともメロディーから多様性や豊かさは失われていくことになる。ストーリー性やドラマ性のある楽曲というのは主流じゃなくなる、ということで、実際今ではそうなってきている。中高年にとってはわりと味気ないものに。

 

 わかりやすい例で言えば、AKB→乃木坂→欅坂と歌われるメロディーは”平坦で”低温な”ものになってきていると思うが、今の時代にフィットしているのはその平坦なメロディー、というのもこの中高年の僕にもわかる。

 

 でも、メロディーの豊かさはずっとあってほしいなあ、と切実に思う。なんか、歴史的建造物や素晴らしい美術品などは後世に伝えるべき、みたいなスタンスになりそうだから、ちゃんとそれを今に必要な物として語らなければいけないけど。

 

つづく

 

 

 

 

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 最後のリリースからもう6年も沈黙を守っている、わがVOZ Records(ボスレコード)。沈黙を守っているというより、声の出し方を忘れたといったほうがいいくらいだけど、、。VOZ(スペイン語、ポルトガル語で”声”)をレーベル名にしているのに、皮肉というかなんというかお恥ずかしい限り。

 

 そんな中、レーベル出身者のピアノマン川合辰弥が、このたび自力でニューアルバムを作って、SOUND CLOUDで無料配信をはじめた。この「僕の居場所」は彼にとっても6年ぶりとなる作品だ。自力とはまさに文字通りで、ギター以外は、録音、ミックスまで自分でやりきったとのこと。

 

 彼の持ち味はポップセンス。良質な洋邦楽ポップスを目いっぱいインプットして、それを気負うことなく自分の身の丈の言葉と声で自分の世界にちゃんと落とし込んでいる。

 

 ポップスの制作はほんと難しいものだ。巨大な才能とエゴを持つか、思いっきり大衆的に仕上げるか、でなければ尖鋭的におしゃれにふりきるか。それしかなかなか生き残れない。

 

 そうじゃなくて、センスもありながらも、日常的で人間味のあるポップ・ソングを作ろうというのが

ボズレコードのテーマでもあったわけだけど、彼はまさにそれを体現しているひとりだ。

 

 このニューアルバムでは、10年以上前あるライヴ会場で聴いて、僕が”ひと耳惚れ”して

彼に声をかけるきっかけとなった「ため息」という曲も入っている。

 

 無料配信なので、お時間のある方はぜひ聴いてみてください。

 

川合辰弥 「僕の居場所」SOUND CLOUDのページ

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