「また、こんな大きな家」
クロアチアのドゥブロブニクについて、僕はため息
家の外観見たときに呆気にとられたけど、広いリビング・ダイニングルーム、キッチン、ラウンジ、ベッドルーム、バスルーム、ゲスト用バスルーム・ベッドルーム、テラス。そして、僕の練習室まで
「いいじゃないか。それなりに設備は整えているし、あの古民家だって、最初は託生、大きい広いって言ってたけれど、なんだかんだと使ってただろ」
「それはそうだけれど、だって、ずっと毎日住む家だったからね。でもさ、ここは違うだろ」
そうなのだ。今はまだ、僕は桜ノ宮坂音大の学生で、仕事を始めるとか言っても、ごく限られた期間のみ
本格的にここを拠点にするとしても来年だ
それに、仕事を始めたらたぶんホテル暮らしがほとんどで、この家に月にどれぐらいの頻度で帰れるのかはわかったものじゃない
なのに・・もう、ギイったらあ
「まあまあ」
とか言って、にやにやと笑いながらドアを開ける
まったく、僕の言ってることわかってないね、ふう
それでも・・・
リビングに入って、ここが極上の立地だということはわかった
なんていう眺め
クロアチアは、山にへばりつくようにして一軒家や集合住宅が立っているんだけれど、だから坂道はとても多いのだけれど
おかげで、世界遺産にもなっている旧市街地を眼下に見下ろして向こうにアドリア海がひろがる風景が飛び込んできて
「すごい・・・」
「旧市街地に住むことも考えたけれど、そうなると世界遺産だから手を加えるのにずいぶんと手続きが必要なんだよ。それに、歩く道が狭かったり階段をずいぶん登らないと家につかなかったりな。旅から旅で疲れてる託生にそれは酷だし、だから、新市街地だけど」
「こっちの方が整ってて住みやすそうだし、いいんじゃない? でも、僕は言葉がわからないから、あまり外には出ないと思うけれど」
「どうせ外出する時は俺が一緒だし、それは気にすることはないだろ」
「まあねえ」
それを見越してここを選んだんだから、ギイは
気候が温暖で、住んでる人の人柄が穏やかで、適度に日本人もいて
「週に一度、掃除に入ってもらうことにしたから、託生は何もしなくていいから」
「え? お掃除を人に頼むの?」
それこそ、どんなに広くったって、日本ではギイはしなかった
「こっちでは、人を使うのは当たり前だから。大丈夫、信頼のおける相手だから、何かを盗まれたりすることはないよ」
「別に、そういうことは心配しないけど」
「向こうはプロだから、どんな汚れがついてても、なにも口出しはしないし」
なんとなーく、ギイが言いたいことはわかるけど
うーむ。自宅に他人が入る、定期的に。慣れるまで、ちょっと時間かかりそう
それにしても、先に送った荷物、きちんと整理されて、もうそれぞれの場所に収まっている。これも人に頼んだのかあ
ギイが言うには、やっぱり日本製が使い勝手が良くて、好みのものはもっていくべきだし、食器とかそう言うのもクロアチアのセンスはちょっと肌に合わないからとかでほんとに一式買い込んで送っちゃったらしいしなあ
まあ、ここもギイの家だから、僕がどうこう言うことはないけれどね
ということで、今回の僕はトランク等一切持ってきてない
ギイからプレゼントされたセカンドバッグとSub Rosaだけを抱えてここに来た。トランクを持たない渡航なんて初めてだ。そして、とてもギイっぽい。ギイも飛行機で日本に来るときはいつも身軽だった
「託生の本とスコアだけはそのままにしてある。託生なりの並べ方のこだわりはあるだろうしな。それはおいおいやってってくれ」
「うん、わかった」
こういうところ、痒い所に手が届く感じ
僕が一番何が気になるのか、ギイにはちゃんとわかってるんだ
「じゃ、シャワー浴びて着替えてくつろぐか。託生は音出ししたい?」
「それは、明日でいい。余裕をもってここに来たから、焦る必要もないし。まあ、ここでSub Rosaがどんな響きをするのかは興味があるけれど」
「そっか。じゃ、それは明日のお楽しみっと」
ベッドルームに行って着替えを取ってきて、それからバスルーム。うん、ここもそれなりの広さ
お湯を貯めてる間に、ざっとシャワーで頭から全部洗ってスッキリしてからバスタブに身を沈める
はあ、来ちゃったんだなあ、ヨーロッパ
それも、ギイが用意してくれた拠点のクロアチア
今日から、ここも僕の家になっていくわけで
なんというか、まざまざと移り変わる現実を思い知らされるというか
旅行じゃないんだ。僕は本当にこっちに根を下ろして、演奏家として活動する道を選んだんだなあって
日本でそれが出来ないことはないんだろうけれど、やっぱりこちらで活動する回数やレベルや規模を考えたら、これがベストな選択だということはわかるんだけれど
佐智さんならわかるけれど・・って、心のどこかでまだ思ってしまう
でも、それは、まだ、僕の心構えがプロになってないからかもしれない
実際に活動を始めてみたら、だんだん実感していくことなんだろうな
そして、ギイの配慮がどんなにありがたいことなのか、身に沁みてわかってくるんだろうな
ギイは、そういう点ではいつも僕の先を行く。僕とは経験がまるで違うから
いずれ、それがわかったときに、僕は改めてギイに感謝するんだろうな
今はまだ、戸惑いの方が大きいけれど、それはそれとして、そのままにしておこう。そういう気持ちに蓋をするのも自分を捻じ曲げるような感じがして気持ち悪い。段階を踏んでいくのは悪いことじゃないんだろうし
たっぷりのお湯でくつろげたせいか、なんとなく気持ちが楽になって、僕はさっきよりは軽い感じでリビングに戻る
「ああ、来たか。じゃ、俺が次にはいるから。託生、コーヒー入れてあるから」
「ありがとう、ギイ」
ギイがお風呂に行ってる間、リビングで一人、外を眺めつつコーヒーを飲む
ほんとに、いい眺め
アドリア海の真珠って言われるだけのことはあるよね。さんさんと降り注ぐ太陽の下、オレンジ色に統一された屋根と白い壁。その先に広大な海と青い空
地球って、ほんとに大きくて広くて、日本に居たら感じることも知ることもできないことだらけなんだなあ
そして、僕が演奏するクラシックはこういう土地で生まれたものなんだ
あの、海の向こう側はイタリア
だから、このドゥブロブニクはとてもイタリアの影響が色濃いとも聞いたし
イタリアは、いろんな有名作曲家が関わっている
住んでいる人もいたし、旅行で立ち寄って作曲を残した人もいる
そして、僕のSub Rosaが生まれたのもイタリア
あの向こうにその地がある
ギイと旅行で立ち寄って楽しい体験をいっぱいしたけれど、また、行けるだろうか。できれば行って、あのときみたいに路上演奏とかもしてみたいし、もちろんきちんとしたホールで演奏もしてみたい
こちらの山並みを超えてずっと行けば、そこにはオーストリア
ウィーンまで、飛行機で2時間もかからないなんて
オーストリアもドイツも音楽とは密接に絡んでいて、生活に馴染んでいて
クラシックが普通の生活の底辺にあるって、なんてすてきで贅沢なんだろう
ここに来るまで車から見た家々の窓辺には必ず零れ落ちるように花々が植え込まれて飾られていた
石畳の広場があって、歴史ある建物が並んでいて、街なのにどこかしらのどかで
東京とは比べられないぐらいゆったりとした時間がたぶん流れている
だからこそ、クラシックがいまだに似合う
世界遺産としての市街地があるぐらいだもの、古都だよね、ドゥブロブニクは
弾いてみたいな、ヴァイオリン
あのアドリア海に似合う音を響かせてみたいな