うまくいってないなぁと感じるとき

自分が自分の思う通りにならないとき

人と交わることが億劫だったり怖くなるとき

好きなことなのに、やりたくないとき

何をしていてもつまらなく感じるとき

心地よさを拒否したくなるとき

いいとわかっていることが、なぜかできなくなるとき

訳がわからないけど、生きていることが面倒になるとき

ただ不安で泣きたいような氣分になるとき

・・・・・・・・・・

 

延々と書けるんですけれど

とにかく行き詰っちゃう時があるんですね、私たちには。

 

私にももちろん時どきあって

そんな時はやっぱりツラいなぁ(´д`)と思います。

 

以前と大きく違うのは

こういう状態の自分の心の底には

「恐怖」がある、っていうことが“視えている”ところです。

 

ある時期、ある出来事をきっかけに

自分の内に(あらゆる人の心の中に)

「恐怖」というものがあるんだ、と氣づいてしまい

それと真っ向対峙してしまう、という「事件」が起こりまして

その時のことをブログにも書きました。

⇒『両側が見える

⇒『恐怖にコントロールされてきた自分を見る

 

このことがあって以来

私の中の「恐怖」が格段に勢力を弱めていることに

度々氣づいた、と書いて

そのことに間違いはないと今も感じています。

 

けれど、すべての人間が根源的に持っている

この「恐怖」ですから

私の中からも消えて無くなりはしないんです。

残念ながら、生きている限り・・・・。

 

だから今も冒頭上差しに書いたような状態に陥っては

「んっもぉ~!ツラいじゃんか!!むかっ」とむくれたり

へなへなと弱腰になってヘコタレたりしています。

 

ただ、そういう状態の根元にあるものが「恐怖」であることが

視えているので

陰からコントロールしようとしてくる「恐怖」に

操られてしまうことはなくなりました。

 

 

その「恐怖」の存在を知らず、“視る”ことができなかった頃

私は知らず知らず「恐怖に駆られて」行動していました。

 

ほぼすべての行動の動機は

「恐怖感からの逃走」だったんですね。

言ってみれば「逃げまくり」の人生だったんです。

私が逃げるから、どんどん追ってくる

それが「恐怖」と私との「鬼ごっこ」の原形でした。

 

追って来るものに背を向けて逃げ回っていると

その姿の全貌を捉えることができません。

ちらっと目の端に写ることもありますが

それは指先であったり、つま先の一部であったり

なびいている髪の先であったり

とにかく、全貌は視えないのに

自分をダメにしてくる邪悪なものである

という確信的な感覚があります。

 

「恐ろしく巨大で、おぞましいものであろう」という予感は

それから逃げたい!という氣持ちばかりを煽ります。

 

けれど、全貌を視てはいないので

実のところその姿かたちを本当には知らない訳です。

そこで、人の持つ想像力が自動的に起動して

本当には捉えていないソレの像を心の中に作り上げます。

 

作り上げながら、自分を追ってくる相手から逃げまくっていると

その像は、想像の中でますます巨大化し

とても太刀打ちできない相手になっていくんですね。

 

こんなふうにして、「恐怖」そのものと

人が感じる「恐怖心」というものとは

微妙に違ったものになっていくんだな、と思ったりします。

 

私たちの持っている「恐怖心」の中の「恐怖」は

実際の「恐怖」そのものより

ずっとずっと過大に見積もられているんじゃないか

というのが、私の今持っている感覚です。

 

 

で、肝心のそのあとです。

その「無限鬼ごっこ」から抜けるには?

恐怖心から脱する力を私たちに与えてくれるものは何か??

ってことなんですが

 

まず

【鬼ごっこをやめる、私なりの方法】

 

① 逃げるのを一時的にでも辞めてみる(怖いですよぉ~爆弾

② 立ち止まって、くるっと後ろを振り返る(もっと怖いよぉ~ドクロ

  できれば、首だけで振り返るんじゃなくて

  身体全体で方向転換する

③ とことん相手を視てやる!(ぎゃぁぁぁああ~ドンッ

④ 恐怖に向かって一欠片でもいいから勇気を投げつけ

  1mmでもいいから恐怖に向かって移動するあし

 

・・・・死ぬほど、怖いです叫び

なにしろ、相手は「恐怖」そのものなんですから。

 

でもね、これをやってみると氣づくことがありますよ、きっと。

 

私が感じたことは以下の通り。

 

自分の方から恐怖に向かって1mm近づいてみると

ヤツは しゅるるっ と小さくなります。

ひと回りコンパクトになって、よわっちくなります(笑)

 

そして、その時「恐怖」はもう「恐怖」ではなくなっているんです。

違うもの、別なものへと姿を変えているんです!

 

それさえたった一度でもいい、体験できたら

そのあとは要領がわかります。

どういう具合になっているのか

どういう仕組みになっているのかが朧気ながらわかる。

 

ただ、私の場合、「怖い~~」という氣持ちは

その都度変わらないんですよねぇ┐(´д`)┌ヤレヤレ

今のところ・・・・ですけれど。

 

そのうち、「恐怖、キタナ!エイッ!」(振り向く)

➡じぃぃっとヤツを視ながら

➡こともなげにズンズン近づいてやる

➡踏み越えて「得意げへへんビックリマークってなもんよ」

っていうふうに

手慣れていくといいなぁと思ってるんですけど・・・・

 

 

次に

【恐怖心から脱する力を私たちに与えてくれるもの】

について。

 

明確に、一言「勇気」です。

それは、「自分で自分を信じること」です。

 

自分で自分を信じる力が湧かないとき

それが「勇気が湧かない」とき、ですね。

 

当たり前のことなんですが、これを明確にしておく。

 

私が長い長い間、自分自身を信じられなかったのには

(だから必然的に「勇気」が一欠片も持てなかったのには)

母親から「あなたは生きていていい」という安心感を

与えてもらえなかったという成育歴に原因があります。

(これのことを【虐待】と呼ぶ訳です。)

 

母親に原因があるからと言って、母親のせいだ、とか

恨むとか、憎むとか、不思議ともうすっかり「無い」です。

 

嘘のようだけど、本当に、嘘のように、もう無いんです。

(わかりにくっ!)

 

これは完全に私自身の問題になりました。

清々しいです。煩いがなくなりました。

だって、私のことを、私自身が

誰の所業に拠らなくても、感じていけばそれでいいんだから。

 

私の「わたしは生きていていい」は、私が感じる。

私の「安心安全」は、私が作る。

私の「自分で自分を信じ切る」力は、私が得る。

私の「勇気」は、私が持つ。

・・・・のです。

 

それは、すべてを独りでやる、ということとは違います。

 

私の安心、信頼できる人に

頼り、信じ、委ね、頼み、願い、尋ね、任せ

手助けを求めていくんです。

 

その代表格 師匠 高橋和巳先生と

今年7月の納涼会で(^-^)

あ、あと夫もね(^▽^;)

 

そうすることによって

これまでも私は回復してきたのです。

実際、それを応援してくれるたくさんの人と巡り合いました。

 

同時に、不思議と私を応援してくれる「出来事」も

数多く起こりました。

偶然と言えるかもしれないし、必然とも言えるのかもしれない。

 

「自分で自分を信じる力」 「勇気」

ここから出発する今があることに

だから、私は感謝を感じない訳にはいかないのです。

 
 

 

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