さすがの具井戸も、文化の違いというか、メンタリティーの違いを、大いに思い知った瞬間がある。


それというのも、具井戸が住んでいる町からミラノまで電車で通勤するのだが、この電車駅は、少し大きな町の手前なだけに、電車が空いているうちに乗り、同じ駅で乗る乗客同士、あるいはご近所同士座ることが多い。


ちなみに具井戸以外すべて女性なのだが・・・。


ある朝、ご近所さんのパオラおばさんが、ミラノの勤め先の話を始めた。彼女は、ブラジル人整形外科医のところで働いている。TVに登場する人たちのほとんどが、整形手術をしているのは、ある番組で暴露されて有名だが、好奇心を刺激されて、具井戸はその実態を知りたくなった。 


彼女のよると、かなりのお年寄りまでが整形手術を受けるそうだ。たとえば72歳の男性だって、皺伸ばしのリフティングしたり、いろいろやるという。この感覚は具井戸の日本人性を引き出した。70歳を過ぎて整形手術していったいなんのために?実は、このご老人イタリア人典型の「チョイ悪」で、若い愛人がいるのだという。 

整形手術するくらいだから、お金持ちだろう。そしておじいさんで、若い愛人がるということはなおさらそうだ。日本にだってそういう人はいるだろうが、更年期を過ぎて「性」への執着していたら、ある日ポックリ行く可能性が高い。日本人は、仏教の影響からか、年をとると、「人」よりも「植物」に関心を覚え、植木や盆栽に精を出す。西洋にもガーデニングを始める人はいるが、この「整形手術」は、やはり西洋独特だ。サイボーグのように、若々しく見せている肉体の中身は、老化した老人なのだから、とても不自然で、考えただけで気持ち悪い。男性なら、ジムに通うとか、フィットネスとかやって、かっこよく年をとればモテるとおもうのだが・・・。

日本人がイタリアに来ると、「年をとると肉より魚がいい」という。イタリア人には当てはまらず、亡くなるまで肉を食べ続ける。  


具井戸は、イタリアどっぷりには、疑問を持つ。日本人は整形しなくても、若さは保てる。日本人の整形は、だいたい鼻を高く、目をパッチリと、大部分女性が「西洋的」にあるためのもの。

イタリア人女性の整形で流行っているのは、唇を厚くすることだそうだ。 でも、日本人は最近お洒落をして、その人にあった美しさを引き出している。日本人は日本人のよさを見直したほうが絶対に得だ。ファッションでも、食事でも、イタリアから取り入れられるところを取り入れても、自分を見つめて「選択」する力を持ちたい。

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  誰かさんは「せっかくイタリアに来たのに、イタリア人があまりいない・・・。」と嘆いていたが、そりゃ8月にミラノのような都市にやって来たら、130万人の人口の町で、残っている人は70万人くらい(2000年は40万人)空っぽになった町なんだから仕方がない。   今週に入り、続々イタリア人たちが帰って来た。休み明けの9月からは、100万人の通勤者が追加される。   さっそく町で働く人々を見るのは懐かしい。 涼しくなってもやはり夏だけあって、ミニスカートなどの露出系の、しかも俗に言う「イイオンナ」が歩いていると、ラテンの血が体内を流れているイタリア人らは、あちらでもこちらでも視線を向ける。   だからイタリア女性のファッションはセクシー系になりがちだ。彼らは単なる「オンナ好き」なだけではなく、かつてこれらの国々が、たいへんロマンチックだった時代があったわけで、そういう遺伝子や環境によるもので、単なる「スケベ」ではないようだ。

  ロマンティシズムは、文献によると日本語でロマン主義、英語のromanticism、ドイツ語 Romantikは、ヨーロッパの精神運動。ドイツに始まり、ドイツおいてもっとも力強く展開されたとなっている。
  内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、「異国的なもの」「未知のもの」「隠れたもの」「はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)」「神秘的なもの(言葉で語れないもの)」「夢と現実の混交」
  ロマン主義とは、古典主義の対概念としてとらえられるもので、主として18世紀末から19世紀にかけての運動であり、その影響はヨーロッパ全域に広まったそうだ。ドイツにとっての古代文化はギリシア、ローマであり、しかしながらドイツはローマ帝国の文明化しえなかった野蛮な地であり、ローマ帝国を破壊して中世を作った張本人でありながら、その古代を回顧し、しかも「ローマ」と言う言葉がその中にすでに入っているというイタリアから見ると逆輸入的観念である。
 そういう世界に憧れたグイドは、ラテン世界のことをよく研究し始めた。それは男性側から見ると「このようにしないといけないな」という甘い生活の手本のようなもので、女性側から見ると「こういうことをしてほしい」という会ってみたい人たちに位置づけられている世界で、その習慣で面白いものに「ピロポ(PIROPO)」と「セレナータ」がある。前者は、女性が通ったら、囃し立てるような言葉を浴びせるもので、スペインや南米のものは、女性に顔を向けて話しかけるようにやるが、イタリアではひとりごとをいっているようにやり、それでもみんなが聞こえるくらいの大声で、日本のナンパのように歩いている女性を立ち止まらせ口説くようなものでなく、ラテン系の口説きはもっと自然なものである。 ただし、このピロポにしてもイタリア人の投げかける言葉にしても、女性として悪い気持ちもしないが、イタリア女性は、ほとんど反応を見せない。こういう習慣がない外国人は、話しかけられたらそれに答えるので、タナボタ式に落ちる。  街中にセクシー系の「イイオンナ」が通った時は、結構マジメ系のイタリア人でさえ、「大事な話や仕事などの手を止めてまで、その女性を見る」。 通り過ぎたあと何もなかったように日常に帰る。

ピロポは、スペイン語でイタリアでは特にこれに当てはまることばはない。

「ピロポというのは、ロマンチックな口説き文句、みたいなもの。」(ある女性の説明)

「ピロポっていうのは、女の子の注目を引くような、粋な一言、とでもいうのか。」(ある男性の説明)


セレナータ

日本で使われるセレナーデは独語Serenadeで、英語はセレネイドserenadeフランス語ならセレナードsérénadeは、もともと恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景のことを指して使う。
  その他の称賛すべき人物のために、夕方しばしば屋外で演奏される音楽を指す。このような意味によるセレナーデは、中世もしくはルネサンスにさかのぼりイタリア語のセレナータserenataが、バロック時代から、そのまま音楽の用語で使われることになる。日本語では、「小夜曲(さよきょく)」と訳されていたが、すでに死語となっている。音楽用語(オペラのアリアに見受けられる。たとえばモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、シューベルトやリヒャルト・シュトラウスの歌曲に、「セレナーデ」、恋人や女性に歌って聞かせる)としてカタカナ名の方が使われることと、その習慣さえもなくなってきているからだろう。
セレナータが野外の音楽だったので、ギターやリュートという携行可能な楽器小部屋ではうるさすぎて使い物にならない楽器でも利用された。
 イタリアで、このセレナータの演奏のバイトをしたという人にはじめて出会ったのが最近で、彼はナポリ出身で、すでに70歳を越えた人である。

 時代が変わったのは確かだが、こういう本場の国で衰退したことを、「逆もまた真なり」で、例えば日本で復活させると言うのはどうか。

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  今朝は、6時35分と言う、少し早めの電車に乗ってミラノに出勤して見た。いつも7時から8時の時間帯であれば、スーツ姿で、一目でオフィスに勤めているとわかるような人々が多く、自宅の近くの駅は、普通各駅停車でないと止まらないのに、唯一この電車は、その逆で、小さな駅で止まって、そのあとの大きな駅を通過してミラノ市内の駅だけ各駅停車する。 その理由は、この電車に乗る通勤客の服装を見ればわかる。 ポロシャツにジーンズと言う感じの人たち、この時間に電車に乗ると言う事は、7時過ぎにはミラノで仕事を始める。つまり工員さんたちである。

  かれこれ20年ほど前、グイドがイタリアに渡る以前にある人が言ってくれた。「アメリカではイタリア人は労働者階級なんだよ」と・・・。ある意味でステレオタイプな意見だが、一理ある。今から1920年代にはアメリカにおけるイタリア移民イタリア人は、白人第2の勢力となる。その移民の大部分がイタリアでも南部の人々で、彼らは、ドイツ、イギリス、フランス、アルゼンチン、ヴェネズエラなどなど仕事のある国々に渡ってもイタリア人として(あるいはナポリ人、シチリア人として)の生活スタイルを変えずにいた。今となってはイタリア文化がもてはやされているが・・・。イタリア国内でも、南部の人々はイタリアの北部、特にパダナ平野に移民した。統一してからの歴史が浅いイタリアでは、その違いがあまりにも目立って、人々の話題に上るし、イタリアの映画ではよく登場する。南部の人たちを軽蔑して呼ぶ「テルン=イタリア語のTERRONEは土のTERRAからきている。日本語ならさしずめ「泥臭い」と言う言葉が近い)と第三諸国から来た外国人移民と同じように見られることすらある。 

  これは、南の人でさえ認めていることなのだが、南では学歴の低い人の割合が多く、北に就職するとすると、肉体労働で低賃金が当たり前だった。 ここまではいろんな本からも知っていたことだったが、ミラノの周辺の人たちも、農業の機械化と共に大都市に通勤して下働きのような労働力を提供しているのを住見ながら知った。 戦後60年の後半は、南の移民者では世代交代、大都市の周辺郊外の人々は大都市以上に教育を受けられる環境になり、イタリア人の生活は向上した。かくして肉体労働力は不足でありながら失業率は下がらない。 その補充を外国人に頼る時代になった。

  夏で暑いので、コットンパンツにTシャツ姿でいると乗客が親近感を持ってくれているように感じる。 グイドが外国人である「移民」だという連帯感かもしれない。 南部の人々は、都市にも郊外にもいるが、都市では闘って、田園では、この新しい血が歓迎されてきた。イタリアの都市民も大都市に嫌気をさし、休みがあるごとに郊外に出る。 イタリア人といえば、中流階級でも別荘を持っていたり「平均給料はともかく、バカンスを取りながらも優雅に生活している。

  昨日のRAI1のテレビ番組「PORTA A PORTA」では、右派のフィーニや左派のルテッリなど4人がテレビに出て、イタリアの主相の権力に関する憲法改正のための国民投票について激しくやりあっていた。 イタリアは、少し前から左派が与党で、考えて見たら、彼らは労働者の味方ではある。 南部の人は郵便局や警察、大きな病院で働くなど「安定した仕事」を、しかもコネで入れば、一生安泰を目指す。北部の人は、学歴や資格で「DOTTORI=大学の学士号を持った人々」が「弁護士」だとか「公証人」「建築家」などの肩書きで事務所をもっているか、小さな会社やお店の商売を営み、しっかり溜め込んでいる。

 ローマ帝国崩壊以来イタリアは常に、どこかで分裂してきた。サッカーと言うスポーツでは、それぞれの町がそれぞれのサッカーチームを持っていて、実力次第でセリエAに上がれる資格を持つ。 日本のような中央集権国家で、プロ野球ではセリーグだけで強制的に楽しませられた土壌とは違う。

  Jリーグによってシステムを取り入れたとき、開国以前の地方分権時代の誇りが蘇ったのだ。 そういう背景を持つイタリアにおいてユーベントスの八百長は、あまりにもショックなことだった。 そんな時ちょうどW杯で「イタリア」が各国と戦う団結の時が来た。 しかしである、皮肉にも権力でねじ伏せられてきたアメリカ戦では、双方怪我人続出のエキサイティング試合ながら、最初に得点をいれ好調子だったイタリアがアウトゴール(自分のチームにゴールする)し、1X1の引き分け。 この試合くらいはスカッと勝ってほしかった。 

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baci

海外での生活で、現地の人たちと対等でありたいだけに、グイドは「ギブアンドテーク」を保つことを心がけてきた。 特にイタリアのように自分たちの文化に、これほど誇りを持った民族もいないくらいだが、いつも書いている通り、アジア方面についての知識は恐ろしく低い上、最近は神秘的な珍しさと共に注目を集めている。 日本でも西洋文化や西洋医学が絶対的だと誰もが疑わない今日、当の西洋が行き詰っている。 例えば治安について言えば、法治国家の手本になった西洋自身が、時代の変化について行けなくなり、「法」の力だけでは犯罪を減らせないと言う限界を見た。 病気が精神と関係あり、心理学や精神病理学が発展して、原因がわかっても、それをどうすれば治療できるか? いわゆる科学が「万能」とされる遥か昔、東洋では、ヨーガーや鍼灸が自然治癒力の増進、座禅などの「瞑想」が、心の治療にも効果があると、最近では、西洋の方が積極的に研究している。 このような分野で我々アジアの文化が尊敬されていることを我々はあまり気がついていない。 「和魂洋才」と言う言葉がある。 日本人の考え方は守りながら、西洋文化を取り入れるということで、「和洋折衷」と言う場合は、あまりいい意味でないこともある。海外生活で、現地の文化もどんどん取り入れて、自分の文化もどんどん伝えて、偏らない知識を独自の道としたらどうだろうか? 日本語の先生募集!!

日本人って、いまだに外国で時代錯誤な偏見で見られるようだが、イタリア人にも、そういう偏見があるという。 まず「マフィアの国」だと思われるそうだ。 実際はどうなのか?日本では、誰でもすぐにそれとわかるヤクザをイメージするだろうが、そういう外見からわかる暴力団の方が特殊な存在であって、マフィオーゾ(マフィアの一員)は、一見普通の人だから余計に怖いのだ。 これがイタリア国内での意見では「南イタリアは・・・」となるのだが、厳密に「マフィア」はシチリア人であって、ナポリ人なら「カモッラ」カラブリア人なら「ンドランゲタ」プーリア人なら「S.C.U(サクラ・コロンナ・ウニータの略)である。 南イタリアの人たちは、とても暖かく我々外国人がイメージする「イタリア人」そのものだろう。 町並みもむかしのままのところが多く、食べることへの情熱や、よそから来た人へのもてなしには脱帽なため「南をそんな風に言わないで」とかばう南イタリアファンも多いだろう。  ミラノに住んでいるグイドのイタリア人の友人は南伊人が多数を示す。 今では西洋社会の暴力組織の代名詞にもなっているため、イタリアではロシア人なら「マフィア・ルッサ」中国人なら「マフィア・チネーゼ」と呼ぶ。実は日本のYAKUZA=マフィア・ジャッポネーゼなのだから、それだけシチリアン・マフィアのアメリカでも勢力が特に映画「ゴッド・ファーザー」以来、さらに世界的に知られたということだろう。 シチリア出身の友人に言わせると「国に帰って来たが、やっぱりマフィアの存在が感じなくないよ」という。 南の場合は、イタリアの国家とは別にマフィア社会が確立されている。 以前シチリア人について理解できる映画のシーンを集めたビデオテープを買って研究したことがある。 シチリア人は、シチリア人であることをいつも口にするし、その様に振舞う。 具体的な特徴としては「ジェスチャーが超激しい」「典型的シチリア男は口髭をはやしている」「男はサルヴァトーレ、女はマリアと言う名前がやたら多い」「笑う時は、腹を抱えて顔を口にして笑う」「嫉妬深く、血が熱いために浮気相手はまず殺される対象になる」「テレビにさえ挨拶を返す」などだが、ここで生きてゆくためにまず第一に知っておくべき事は「OMERTA`=沈黙の掟」であって、密告は「死」に値する。しかも本人だけではなく、家族全員を意味する。 北イタリアでも、公衆の面前で「マフィアは・・・」なんて大きな声で話をするものではない。イタリア人なら、回りを気にして「シッ!」と、人差し指を口の前に立てる。 シチリア人の場合は、すごい「目で合図」するのだ。 彼らはマフィアなんて存在しないごとくに知らぬ顔をしている。 こんな映画のシーンがある。 ある男が床屋の前を歩く。知る人ぞ知るマフィオーゾで、誰もが挨拶をする。「ドン・サルヴァトーレ!」突然バイクに乗って二人の男が彼の前にはだかり「友達からの挨拶だ!」と言ってマシンガンで彼は撃たれる。 その時、路上で挨拶していた人達は、一斉にいなくなる。 自分が撃たれるからではなく、「見なかったことにするためだ」。   ここでオチがある。 まだ息がある撃たれた男を助けに来た警官が「誰がやった?」と訊ねた。 死に間際に男は「オレを撃っただって?それ何のこと?」と言って息を引き取ってしまう。 このシーンをシチリア女性マリアにも見せた。 最後のオチは、深い事情とはいうものの笑いを取る場面だと思っていたグイドに、彼女は少し笑っただけで「家族のことを考えた彼の言動は、事実に基づいているのよ」という。 イタリアで車を運転していて、傲慢な運転をする。 郵便局や銀行、床屋で、列があるのを無視して、先に用事を済ましてしまう。 こういう行動をする人をも「マフィオーゾ」とイタリア人は呼ぶ。 日常にも、堂々とずるいことをする人がいる。 それを抗議する人がいる。 しかし、時にはそういう行動を暗黙し、誰も抗議しない。何も見なかった、何もなかったように振舞う。 その違いの意味、あなたはもうお解りだろう。  
 イタリアの普通の新聞の最近の記事。 第1面: イタリア人の10人のうち8人までがセックスに不満。  27カ国でのアンケートでは、最後から2番目という「ラテンラバー」の伝説も驚くほどの低下。 3人に二人のイタリア人は、インターネットを使ったこともない。その割合は、62%。ヨーロッパ平均は43%がインターネットを使ったことがない。イタリアの後に続くのは、ギリシア、キプロス、そしてポルトガルのみ・・・。 (CITY参照)
プラス思考で海外生活(最初の1年数ヶ月は、半バックパッカー)を始めて17年、イタリアに定住して16年を過ぎた今、イタリアの食事はノープロブレム。洋服はすべてイタリアで買うので、イタリア人と出会い、彼らが同じものを着て、同じモノを見かけることがよくある今日この頃。16年の間の前半の5年は、イタリア人や他の外国人で、日本人と出会うことの方が少なく、真ん中の5年から日本人にも、また、日本に住む友達にも通うようになり、最後の5年からは、半々と言うバランスを保つようになってきた。研究者たちは、最初の5年を「グイドの古代」続いて「グイドの中世」そして「グイドの現代」と呼んでいる。昨日マルコと言うTOIZAIのプロモーターが、パンフレットとTシャツを引き取りに来た。着物ショウのマルティーナの悪評を話を長々とし始めるので、グイドは「グイドや日本について、まったく知らないか、よ~く知っている人には、説明しやすい。一番厄介なのは、半分知っていて、知っているつもりになっている人たちである」と一言。190cmの長身でブロンズヘヤにグレーの瞳のマルコは、ハッと気がついて、無駄な話をしていたことに気がついたようだった。イタリア人には、日本に無知な人がたくさんいるが、日本から来てしばらくの人は、自分をどう見ているかに腹を立てたりするが、グイドはとっくにそういう時期を、プラス思考に加えて、多方面の時間と空間からの観点によりすっかり越えてしまっていた。今でも電車でよく顔をあわせる女性たちと同席することがあり、31日に予定している「寿司の夕べ」のためにイタリア語の本「SUSHI」を読んでいたら、退屈そうにしていたその中のお母さんに同行する娘さんに読んでもらおうかと、その本を渡すと、もう一人の女性が「『中華料理』の本を見ても、まだ仕方ないんじゃない?」という。日本の読者にはピンと来ないかもしれないが、イタリア人の中には、日本人は中国語を話し、中華料理とほぼ変わらない食事をしている」と言う知識が大多数を占めている。確かに日本語はアルファベットでなく、漢字は中国のものと共通している。日本人も中国人もお米、豆腐、醤油、お茶など、同じ食材もたくさんある。イタリア人にとって、ドイツ料理、イギリス料理は問題なくまずい。フランス料理はイタリア料理の弟子。ギリシアやスペインも、名物料理の他にはバラエティーがない。(この地方のブロガーさん、誤解しないで下さい。無知な人の意見です。)こうしてヨーロッパを見回して、たどり着いた意見は「イタリアは、地方、各州、各都市、いや、各家庭がそれぞれ独自の料理を持っている。しかも、料理に対する独特の好みとこだわりを持つ。これは、服やインテリアへのこだわりにも、同じことが言える」と言うものだ。まるでイタリアは世界の縮図で、何でもありの国で、他のヨーロッパましてや他の大陸では、だいたいモノトーンな世界しかない。言葉だけを聴くと確かに納得させるものがある。イタリアでは「反グローバル運動」が盛んなのも、うなずける。地中海の中央に位置するこの国から世界を見ていると、もしグイドが、イタリア人としてここで生まれ、他を知らなければ、そう思っていただろう。しかし、グイドには日本の誇り高きサムライのDNAが、日本に対しての愛情から、それを否定した。彼らは、GIAPPONE(日本)という奇跡的な神国の正体を知らない。グイドがイタリア人を日本に連れて行ったそれぞれの旅で、彼らのリアクションを調査、分析へとその機会を無駄にしたことはなかった。特にナポリのピッツァ職人を、東京のピッツェリアに案内できる機会があり、数世紀に及ぶピッツァの王国から来たアルドが、この極東の国で数年のうちに増え始めたピッツェリアで味わった、自分のステイタスシンボルとも言えるピッツァと言う食べ物を通して、この国に「神」を見た。それは、日本人の厳しすぎるほどの向上心の現れであり、時には、その部分が自分たちの住みにく環境にしていることあり、行き過ぎにはブレーキが必要だが、西洋スタイル、イタリアスタイルが、世界のスタンダードになったこの2千年紀の彼らのグロリアを認めながらも、それを見事に同化しながら、さらに磨きをかける新しい日本人は、もはや「日本人」を越えた新人類として生存の権利を得られるわけだ。グイドの習性として「イタリア」のようなキャラクターに出会うと、そこから遠ざかる気がぜんぜんしなくて、まずは懐に入り「水戸黄門」や「遠山の金さん」のように、心地よく鼻っ柱をへし折ってさし上げたいところがある。「イタリア大大大好き派」ももちろん認める。しかし、恋愛と同じで、「大大大好き」では、足元を見られる。対等にお付き合いしたいものだ。ならば、心底自分に自信を持つためにも、自分の国の文化の自信を固めなければならない。

b1 この時期のイタリアでは、選挙ポスターでイタリア語の勉強 が出来ます。


イタリアのテレビにはうんざりだ!どの局でも、4月9日の選挙で、右派のリーダーベルルスコーニが再選され、あと5年間主相の座を君臨し、重要職の特権で裁判を中止することのよって自分が改正した法律で、時効を半分に縮め、無罪になり、権力を乱用できるか。現時点でのように左派の高い投票率を維持することによって、ロマーノ・プローディが政府主相になるかの瀬戸際で、しかもベルルスコーニは、テレビ局3局のオーナーでもあり、政治家のパロディーよろしく、政治家同士が子供の喧嘩のようなことをやっているのを、テレビ視聴者は見させられている。


  グイドが毎回髪の毛を切りに行く床屋さんは「テレビなんか、くだらないことしかやらないから見ないよ」と言っていた。グイドが、髪の毛を切る時は、グイド自身がテレビに出演する時が何度かあったので(最近このブログを読んで人。詳しくは、過去のブログを溯って下さい。)テレビのくだらなさについて言わなくなったが、本心は思っている。しかし、この床屋さんは、骨の髄までのミラニスタ(サッカーACミランのサポート)だけに、そのクラブのオーナー(正式には息子)でもあるベルルスコーニのテレビ局については控えめであり、結局ベルルスコーニを認めてしまうのである。


  あの手この手で投票率を逆転させたいのはわかるが、強引過ぎる。言論の自由なんてあったもんじゃない。ほとんど独裁とかわりない。

  古代ローマの元老院派と民衆派の闘争(あのカエサルは、そのために暗殺された)や中世の教皇派と皇帝派(ロメオとジュリエットはその被害者ということになっている)を持ち出すまでもなく、世界はいつも二派に別れて闘ってきた。イタリア人やイギリス人は、政治の話が好きだと言うが、それは本当だ。だからある程度はテレビや新聞に影響されずに、自分の立場から政治議論で熱くなる。(日本人は「政治、宗教、歴史が苦手だが、我々にとって魅力的なイタリアを知るのは、実はこの3苦手科目が鍵になる。)しかし、テレビのカモフラージュによる虚像や目先の利益に実像が見えないときもある。イラク戦争の時だってサダムフセインの悪行をテレビで映し出す。アメリカ軍やアメリカの政治家はいたって「正義の味方」のまま、おまけにスーパーヒーローの映画で洗脳されてしまう。

 

  海外に住んでいる我々外国人だからこそ見えることもある。日本で生まれて日本で生活していたら、恐らく、マスメディアに洗脳し続けられていただろう。片方の頭脳では、他の国の情報を常に意識するからだ。

  例えば、悪天候でこの時期特に電車が遅れる。イタリア人乗客は「悪天候だからな」と言う情報をそのまま信じているが、日本の鉄道ダイヤの正確さを思い出すグイドは「そんなわけねえだろ!」とイタリアの鉄道の怠慢さが手を取るように見えてくるのだ。


  世の中に違和感を感じ、なんかおかしいなと思ったら旅に出てはいかがだろうか?

  「イタリアのテレビが怖い!」(古典落語「饅頭が怖い」と同じメカニズムだったりして。)

Toshi2スカイで出演

以前のブログ でも書いたように、大部分の日本人には牛乳にふくまれる乳糖を分解する酵素(ラクターゼ)が欠損しているために、乳製品は味においしいために、大好きでも消化できずに、胃がもたれるわけで、実はと言うとイタリア人でさえ、フレッシュなミルクがダメな人、乳製品を控える人。さらにはベジタリアンになって、動物性の食品を一切受け付けない人がいるくらいだ。

 それでもイタリア料理といえば、地中海の海の幸がたくさん食べられ、オリーブオイルは体にいい。ワインは体にいい。と、バランスのよさを売り物にしてきた。

 時代によって、地方によっても違ってくるが、日本にあるイタリア料理店と比べると、本場ではかなりの肉と乳製品を使う。


  グイドは、イタリアにやってきた頃、イタリア料理を研究したくて、食品関係の会社で仕事をしていた。イタリアの旅行中にラザーニャのおいしさを知り、ぜひつくってみたくて、ラザーニャを作る部門を希望したくらいだ。

  ミートソースでしられるラグーは、解凍された牛肉をミンチにして、これまた解凍されたにんじん、セロリ、たまねぎといった野菜、トマトソースでつくられる。それから毎朝、大量のミルクがタンクから大鍋の中に波波と入れられ、べシャメッラソースが作られる。溶かしたバターにミルクを注ぐと小麦粉が溶かさせる。

  この会社では、ニョッキ・アッラ・ロマーナもミルクたっぷりで作る。ローストビーフの巨大な肉の塊が焼ける匂い。

  

  これより2年はあと、イタリアから食品を日本で輸入して、その頃筍のように増えていたイタリア料理店で使ってもらおうと販売をして回った。取引先では、時々食事をご馳走になることがあった。

  メニューを見ると、パスタと魚料理が目立つ。日本でのイタリア料理を飛び越して本場でゼロから見てきた料理と同じモノを使っていても、献立の内容がかなり違うのに驚いた。日本で食べた後、イタリア料理なのに、おなかがやけに軽い。

 あるとき、一番お世話になっていたシェフとマネージャが食事中のときに訪ねてしまった。それでも、にこやかに迎えてくれたのだが、彼らが食べているのは、なんと日本そばだった

  つまり、イタリア料理は、仕事用に作るものの彼らにとっては、日常の食生活には取り入れられてはいなかった。

  その頃「イタリアが懐かしい」なんて思っていた。


  あれから10年以上が過ぎた。イタリアのイタリア料理に慣れたグイドも、頭と舌はイタリア料理バンザイなはずだったのに、消化器はヘルプ~である。

  中には、イタリア料理をずっと食べ続けるだけで、イタリア人みたいになると漠然と思っている人がある。

  そうなる前に、何世代という先祖が、何世紀にも渡って食べてきた食生活でつくられた体がついて行かない。

  それでもイタリア料理は大好きだから、ミルクや乳製品などを控えてゆく。肉よりも魚を積極的にメニューに登場させる。(実際魚のたんぱく質や脂肪は、陸の動物のものより体にいいといわれている)女性の場合、ダイエットとしてカロリーなどを控えているのが幸いしているかもしれないが、イタリア料理を食べながらもある一定の法則が生まれた。


  気がついたとき、ここイタリアでグイドが食べているイタリア料理は、日本のイタリア料理にとても似ているのだ。そもそも、イタリア料理に使われているトマト、茄子、トウモロコシなどなど500年前にコロンブスがアメリカから運んできて以来の食品もあるし、ここ50年の間に、イタリア人がメニューに肉を取り入れるのが増えてきただけであって、バランスを失いはじめてベジタリアンになったり極端な例も登場するのだ。


  イタリア料理も、最近かなりヘルシーで、ライトになってきた。日本のイタリア料理が逆輸入されつつある。そんな時、グイドは日本におけるイタリアに興味を持っている。

forestとグイド forest女性たくさんと

昨夜の「生放送」はサイコーだった。司会者フォーレストゥは、意外にも緊張気味。せりふを練習する俳優のように口をパクパク動かし、同じところを言ったり来たり・・・。


  イタリアは時間にルーズだと思い込んでいる人がいる。ところが、劇場での演劇やオペラコンサートでは、秒刻みな時間の正確さを要求される。

  テレビの生放送は、そんな感じなのだ。編集に時間がかかり、忘れた頃に放送される収録とは違い、放送されている時は、自分がどんな風にやっているか見ることが出来ないものだ。


  しかもフォーレストゥのようなコメディアンは、笑いをとることが命。音楽と似ていて、ゼロコンマ数秒のタイミングのズレで笑いを取れるかどうかの緊張感は、真剣勝負である。

  (そもそも「真剣勝負」の由来は、武士がホンモノの剣を使って、切るか切られるか、勝利者として生きるか、殺されて敗北するか、と言う勝負をするように厳しく物事を行なうと言うたとえで使われるようになった。だから、まさに真剣さが背中にも伝わっていた。)


  「うる星やつら」の諸星あたるノリのデレッとしたオンナたらしのシーンをテレビカメラに見せるのは、スタッフが秒読みを始めて「2、1!」で、眉毛は下がり、鼻の下は伸びる。

  プロだ。バカ騒ぎだけでは、この高視聴率番組をこれだけ維持は出来ない。


  昨日のブログで、実はわざとピンボケした写真を使ってみた。すると、コメントをくれるべにまとさんは「本当にピンボケですね。」と心配してくれた。申し訳ないが、罠にかかりましたな。実は、取り直した写真が、ちゃんとあったのだ。

  このフォーレストゥは、デジカメでうまく取れないので、かおりさんに残念そうにしているグイドを見て、忙しい最中にも関わらず、ちゃんと撮ってもらえよ」と2度目の撮影に応じてくれたのだ。写真のように女の子に囲まれるのが、嬉しいのはイタリア人の性だが。


  しかし、昨夜の撮影終了後、グイドは、自分を入れずに、フォーレストゥだけを写真に撮って、数人しかいなくなったところで握手して帰ろうと思った。「次回も来ていいですか?」と聞いたら、彼はスタッフに振り向いて、koisiteruさん、なんと「来週来れるって言ってる。彼を使わせてくれ」と言ってくれたのだ。忙しい彼は、その言葉のあと、もう取り巻きと話を始めた。かわりにスタッフが「マリカ から電話で連絡があるから!」と一言で打ち合わせをした。

  そのあとグイドの日伊交流協会TOZAIのチラシを渡そうとすると「昨日もらった。家にあるよ。これ何するところ?」と聞かれ、「私がつくった組織で・・・」「あー。残念・・」とジョークが飛ぶ。「日本人とイタリア人が出会う組織です」「女の子いる?」というノリ。


  この後の話になるが、ツイていることに、3日後の明日は、国営放送の番組で2回目に歌を歌いに出演することになった。ここでの出演は3度目になるが、これまでの2回とも放送日、時刻を報告忘れされて、ビデオテープで見ている。だから、歌を歌っているシーンの写真をこのブログにアップ出来ずに 来てしまった。


  このようにイタリアの生放送番組は、何分何秒という世界であり、そういう世界があることを知っていることに満足している。


  そう思った矢先、今朝、駅でミラノ行きの電車が、それぞれ15分(実際は20分)45分遅れることが構内アナウンスされた。