自分の息子が成長するとその年齢の時に考えていたこと、将来どうあるべきか、などいろいろ考えさせられる。
特に日本での学校では、先生も学童、生徒同士も人を点数制で評価してしまうためか、「自分はダメだ」と思う人たちが多いのかもしれない。
それが学校で見る視野だとか、そこで生活する世間の目線や親の価値観などなどであるから、そこで多くの人々が劣等感を抱き自分という貴重な人間の可能性に挑戦することなく人生を終える人は多いだろう。
だからと言って、漠然とした憧れだけで海外に出て行ったても、何も変わらない人もやはり多いだろう。

オレは、息子の年齢の頃(15歳)には、心の中では自分がつまらない人間だと知る反面、野望だけは大きく、決められたレールを走ってこのまま何処へ辿り着くのだろうと疑問を持った。
親は家庭を支え、父は真面目なサラリーマンだったが、それがつまらないというのではなく、自分の人生だとすることに違和感を感じたのだ。

時代もそうだったが、田舎で育ったために周りにあるもので魅力があったのが「料理」「食」という世界。料理店、旅館、食品卸売そしてレタスの農園などのアルバイトのおかげでその世界の仕事はもちろん、日本のいろんな土地を旅することが出来た。
その頃から「海外」が視野に入って来たのだ。

知らず知らずだが、日本の独自の文化を身につけることに大いなる価値観を抱いていたオレは、マンガ、柔道と空手、指圧などを習得していたし、それらの知識はあとでたいへん役に立った。

海外で暮らし始めた、まずスペイン、そしてイタリアでは、まずその国の文化に圧倒され夢中でそれらを吸収したものだった。
イタリアに移ってすぐに現地で彼女が出来て、イタリア人の彼女が日本文化にたいへん興味を持っていることと、自分はそれらを教えてあげられると同時にイタリアの文化の吸収を優先させていたことを同時に出来る組織あるいは事業は出来ないものかと、当時はまだ漠然と考えながらのその名前まで決めて構想が始まったのだ。今でも覚えているその名前はNIPPONERIAと言う。

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時は流れ、息子が生まれる1年前の頃、ツキは向こうからやって来た。

ある人が日本とイタリアを結ぶアソシエーションをやりたいが、会長になってくれと打診して来た。またある人は別の日本愛好家たちのアソシエーションを持っていて入会するものの、すぐに閉鎖してしまい、今度はこちらから続けたいというと自分で設立すればいい、とアドバイスしてくれ、それからはまるで自動的にというくらい人がやって来て、まるで生き物でもあるかのようにその組織自体が自分で形を変えていきながら成長してくれたのだ。
やはり事業は、組織はある意味「生き物」なのだ。
オレはその親であるから、うまく育てる助けをする必要があるのだ。

イタリアのことを知るうちに、マルコポーロやコロンブスの事業に魅了されていたのは、大旅行者には彼ら自身よりも彼らの事業が残した影響は何世代も超えて伝えられ世界を変えたということが「ちっぽけな存在」である自分にも出来るのではないか、と考えたからである。

この世界のツボを押さえることで、信じられない大きな力が働き世界をより良き方向に変えることはできるのである。
そして多くの人々がそれを実践してくれることを望む。



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