前世は存在するか。

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人が生きる目的のひとつに「自分探し」の要素は大きいと思う。
そして、それが現実世界で説明できることもある。人生経験がまだな若い頃、それを自分のおいたちだとか、両親や家族を見て自分に説明しようとするのが自然なことだった。
その分析をする道具として「心理学」の本を読んだり、「宗教」「哲学」から何かわかるだろうかと追求してみたこともあった。

たとえば、ここイタリアに住むようになってから、何度それは「なぜイタリアに?」という質問をされたことかわからない。そして、それを聴かれなくても自分自身で「なぜ?」を考えて「こうだから」と言ってみても、なぜか物足りなさを感じていた。

私のほかにも、イタリアが好きでここにやってきて、そして住んでいる、という人がいる。その中でも自分と同じだ、と思う場合もあれば「ファッションがかっこいいから」「人がかっこいいから恋愛したい」「こういうことをやるための勉強できた」という人々は、自分とはどこか違う違和感があった。
フェイスブックの友人、日本人で日本に住んでいる人だが、「ゴッドファーザー」の映画を観てからイタリアにはまり、日本でイタリアワインを売っているNさんは「オレはシチリア人の生まれ変わり」だという。こういうせりふを聞くと私の心のスイッチがONになるのだ。

私がイタリアに出会ったいくつかの場面というと・・・

小学生の頃、地区のマラソン大会があり、止まっていた軽トラックから聴こえるラジオの音楽が外国語だがなぜか耳に入ってくる歌声だった、それがドメニコ・モドゥーニョの「ヴォラーレ」だった。

これも小学生の頃なぜか気になって頭から離れないテレビのCMがあった。それが「ホンダ・タクト」で、ソフィア・ローレンが出演しているものだった。


これはいつ頃からかは覚えていないがなぜか「イタリア人の南米への移民」という話にはどうも興味をもっていた。映画の「ゴッドファーザー」もそうだが、実在の人物だったアル・カポネだとか、アメリカの映画俳優らで「イタリア系」といわれる人々、刑事コロンボ、スタローン、デ・ニーロ、アル・パチーノ。

ただ単に「かっこいいからそうなりたいと憧れていただけだ」と言われればそれまでだが、今では日本料理をイタリア人に教える仕事をしていることもあり、日本の文化をきちんと知っておいて説明することのほうが忙しくなってきたから、イタリアには必要があって住んでいるだけ、のようになってきたし、「なぜイタリアに?」の質問に、より特になるような、納得してもらえやすいことばかり答えていればいるほど、こころのどこかで「違う」と感じていた。

昨日の料理教室でもプーリアの女性が一人いた。以前にもプーリアの女性に出会うととても魅力を感じたものだが、それは特別美人だと言うわけでもなく、説明できない魅力なのだ。
昨日の女性は、女性としての美しさなどは感じないタイプだが醜くもない。しかし、なぜか話をしたいと思う。

あくる朝の今日、いつも朝のカプチーノを飲む私の仕事場前のバールに行った。ここのバーテンダーふたりともプーリア出身だが、特に一人のほうとは、彼が私の事業を知って、外国の料理を学ぶことの無意味さを私にぶちまけてきたときから議論を交わすようになり、それがなぜか心地よくなってきたのだ。

今から思えば、24、5年前、イタリア人で最初の友人もプーリア人で、その彼を日本に連れて行ったとき出会った女性と結婚までゴールインしてしまったと言うエピソードまである。
その当時の私が付き合っていた女性がシチリア人で、そのあとにも別のシチリア女性と恋に落ち合った。他にプーリアの女性と恋愛もした。プーリアと同じくらいこの感覚を与えるのがシチリア人とであったときだ。
ようするに、私の前世はプーリア人で、シチリア女性と一緒にいたか、あるいはその逆だったという感覚を想像するとだんだん「自分探し」が本番に入ってきた気がするのだ。

今年の7月は生まれて初めてプーリアに旅行した。イタリアでは、仕事で訪れたことない州なのでバカンス気分を満喫できるという表向きの理由もあったのだが、この土地で過ごした頃、眠っていた感覚が目覚めたのをはっきり覚えている。
そしてこの魂の感覚をもっと味わうようこれから試すつもりなのである。



前世の記憶を思い出す方法(リンク)
http://matome.naver.jp/odai/2142501072151372801


イメージ「プーリアの風景」


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突然の貧困世界のはざまで。

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歴史は繰り返すというが、あの欧米が、本に書かれているように本当に「没落」するとは誰が想像しただろうか。日本の経済が低迷し、韓国、中国が台頭してくると誰が予想していただろうか。

それは、世界の歴史を知れば知るほどよくわかってくる栄枯盛衰の摂理なのだ。



47年(1968年)も前に手塚治虫が描いた作品「地球を呑む」の1ページだ。
自動車はすでに走っていなくて、馬車でやってくる主人公の関五本松と妻のミルダが走ってゆく道に舞い上がる紙切れのようなものはかつては誰もが命にかけてほしがったお金、札束だ。黄金を世界中にばら撒かれたために、金融恐慌のあと世界中の経済は破綻し、人々は物々交換で生きてゆくことになった。そして狂ったこの世の中で誰もが求めるのは「酒」。
山奥で暮らし、山芋で酒を醸造し、かつて大都市であった東京の集落に売りに来る。

この頃の日本は高度経済成長期で、誰もがゆるぎない経済大国日本の存続を信じていた。

この世はサバイバルだ。もしある人が生まれ、彼の幼少時代は貧しい戦争体験で過ごしたとする。でも戦争が終わった日本の経済の発展や社会福祉の恩恵を受け結局はいいこともあった人生だったと、あとで調整される。
またある人は、豊かな国の豊かな時代に生まれ苦労などまったく知らないとする。ところが世の中がとんでもなく変わって突然貧困がやってくるとする。
前者は我々の父母の世代で、後者は我々の世代だと言える。そのどちらの人生が幸せだったといえるだろうか。そして、どんな時代のどんな国にも、大多数とは逆にそういうときこそうまく生きていける人たちがいる。

そもそも我々はいったい誰で、この世界でどのように生きていけるのだろうか。

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