村上春樹の「羊をめぐる冒険(上下)」と、マイケル・ポーターの「競争戦略」を持ってゆく。ちょっと性格の違う二種類だけど、選択と集中とあう戦略の基本はさておき、ぼく自身の飽きっぽさをカバーするには、このくらいのブレがあった方が良い。
本当は「羊」だけでも良いのだけれど、「ついで」に、次の未来の戦略が思い浮かんだらラッキーだ。自由に想像力を働かせること。ここの所、その時間も取れなかったな、とも思う。
村上春樹は、この物語で野間文芸新人賞を取った。初期の作品らしい荒削りな話であり、文書だ。
どこが荒削りかというと、それは描かれるべきであろうと作者が想定している物語の広大な背景の中から、語るべき物語を言葉で削り出して文脈をつなげて形にしてゆくその様が、とても荒削りなのだ。正確無比にそれを削り出すことが出来ず、狙いの半分も実現出来ていない文脈や比喩に満ちあふれている。その後の小説群に比べると、当たり前ながら、雲泥の差だ。けれど、描くべきものを持っている作家なのだと人に訴えるものがあるし、この話でもこれ以外の話でも、村上春樹の対象物は根本的に同じだ。
さてこの物語は、主人公の「僕」が29歳の頃から徐々に始まってゆく。そして妻と別れ、共同経営する広告事務所の代表はアルコールにハマり始め、北海道に渡ったらしい昔の相棒の「鼠」からの手紙に誘われるかのように、奇妙な冒険に足を踏み入れてゆく。
こうやって書いて変な誤解を招きたくはないけれど、興味深いシュチエーションだ。現実のぼくは39歳で、物語の中の「僕」よりもよっぽど現実的には可能性が少なく、選択肢がない。ただ、次の年代に象徴されるものの足音に焦りを覚えながら、足掻いていることは一緒だ。
だから作家としての村上春樹の物語の中の可能性と、物語の外の可能性が、僕にとって必然的にクロスし、リンクするように錯覚してしまう。ただし、より正確に言えば、「僕」は焦っているわけではなくもっと傍観者的に、その焦りを「眺めて」いるだけで、ぼくはもっと現実寄りに生きているビジネスマンなので、実際に「ほぼ焦って」いる。
もうひとつこの冒険に対しての注釈は、一般的な自立心をもった人たちと同じように、ぼくは誰かに、何かへ、導いてほしいわけではない。村上春樹は答えや結論を提示しようとするような作家から遠く離れている。知的好奇心と参考意見として、ぼくは「羊」に興味があるだけだ。それに、本もなしで一人で離島なんかに行ったら、いくらなんでも暇つぶしにほと困るに決まっている。
人間は、そう思いたい、という思い込みから始まることがほとんどだけれど、だから逆にどう思いたいのか、ぼくはぼくに騙されずに、その答えを手に入れなければならない。
冒険とは、日常から逸脱することだ。それも「ほんの少し」だけ。人工的な衛星には自分の姿も自分の軌道も象徴的な姿でしか見えないが、同じくらいのサイズで同じような速度で似たような軌道を辿るそれがあれば、普通でいるよりも少しだけ自分自身のことが見えてくるかもしれない。軌道から離れすぎてはいけない。大気圏を飛び出してはいけない。ほんの少し、自分をズラすことが大事だ。アルコールや水や女の子に溺れたり自暴自棄になったり周りに多大な迷惑をかける「冒険」はよろしくない。
ともあれそんな風に冒険の程度には個人的な差異が多分にある。ぼくは比較的常識に疎いが我慢強いししっかりした人間のはずだから、車で1時間半の漁港から船で30分もあれば到着できる離島あたりで十分だろうだろう。

漁港から船が出発した。

AD
泣けてくるくらいに、ダメな自分ってどこかにいるんだろう。強がることも、格好つけるのも嫌になるとき。
ダメすぎて、笑うしかないとか、逆に笑ってもらえたら、救われるときとか、そういうときって、ある。全てただの勘違いであっても。

だからみんな、星みたいにきれいなんだ、っていうのは、ただの願いの類に過ぎないかもしれないけれど。
誰かのダメなところを、みんな星みたいだと思えたのは本当のこと。

今日はダメすぎると言われてほっとした。笑ってもらえて安心する。ハレンチ王子と言われようが、もうなんでも良いし。イケメン詩人とおだてられようが権威があろうが経験があろうが、この世界ではそんなことなんの足しにもならないとコンプレックスすら感じながら、もうアラフォーですよ。欠陥品のまま完成を目指すさ。

現実はリアルで具体策講じて前に進んでいかなきゃいけないものだけど、
だからそこにはめ込めない、忘れてなくちゃやってられないこともある。多少しゃべりすぎも読みすぎも、みんなそんな現れでした。


影踏み2DAYズ。
今までの影踏みと比べても、これは凄かった。何で凄かったのかと、その理由を聞かれてもよく答えられないが。

1DAYは、芯がおんなじくらいの強さの音楽が揃っていた。それぞれその強さを凄まじく光らせた。レモンくんの日記によると、バラバラの方向で、みたいにいっていて、確かに、と思ったから、その両方あっての面白さだったのかも知れない。そしてぼくは全部好きだったから、楽しいことこの上なかった。音に言葉に踊れた一日。そもそもchoriバンドの音楽は超好みであり、鈴木実貴子ズは歌もドラムも自分にとってピンポイントすぎる。満足感ハンパない。コトナは言うまでもがな。次いつやるの?って、なるね。ただの観客であれる幸せ。

2DAYは、揃ってなかったと思う。いや、揃っていたが、それはわかりにくかったはずだと思う。だからそれぞれの朗読に色んな解釈と好みと場の空気があって、たぶんそのどれもが誰かのどこかで成立した。強い詩の言葉の一日だった。
前半でういさんのJKスカートをびしゃびしゃにしちゃって申し訳なかった。三原千尋が部長芸じゃなかったのは反骨か。江藤さんはなんやだとすごリラックスしてるのが嬉しい。三木悠莉ちゃんととも9の朗読には本当にきゅんとした。若原くんにあそこまでもってかれて悔しい。choriは小賢しくセンスフルなところが今も昔もキュートである。パシャマス、フルフィルメント。荻原さんとの朗読談義の会話に最後少し混じれたのも楽しかった。分析屋な素も顔を出す。場に合わせて自分も、色とりどりだった。

ケツフェストから、ここまで、奇跡みたいな半月だったな。
ひと息つかないと、壊れちゃいそうだ。


AD
ポップコーンのギネスビールは、本当は少し冷やしすぎだと思う。

本来はギネスはもうちょっとぬるい温度で出すべきであって、そうするとあの細かい泡のクリーミーさがさらに引き出されるし、ローストの香りが死ぬこともない。
でも猫が洞さんに言わせれば、ポップコーンのそれは「名古屋で一番旨い」級だそうで、たぶんそれも正しい意見だと思う。
確かに日本人のビール観で行くなら、ビールとは「キンキンに冷やした」ものであるべきであり、実際自分たちの舌はそういう好みになっているのだろうから。

そしてビールに限らず、こだわりや評価についてうんちくをぶつけ合うことは男的な楽しみとしては勿論ありだが、最後の結論は、結局は好みの問題だし、それで十分だと思っているから、とにかく全部ひっくるめて、一番楽しめる方法を取るべきだ。


6.11、詩のあるからだ、八事ポップコーン。
今日は東京から、先月ケツフェストを成功させてポエトリーフェスの新しい形を示した三木悠莉ちゃんが来ていて、「外せない」日だった。いつもと違う何か、に、いつもより、さらに期待できる日だ。
毎月、仕事を早く切り上げて駆けつける自分だが、今日は職場の誰よりも早く会社を出てしまう。その甲斐あってか、良いオープンマイクだった。

けいこさんは相変わらず良識があって安心。寺山が好きなので、けいすけさんの朗読もなかなか気にいっており、アングラな役者臭い雰囲気も好きで、青流星ゆうこさんのポエムはちゃんと願いを唄っていた。
瀬戸口くんがカントリーロードの歌詞を何度も確認しながら歌って、最後は小山田荘平みたいに吠えるようにしたのは特に好みに思え、ういちゃんはライブパフォーマーとしての資質を今日はまたいつもと違う意味で特に発揮していた。えとうさんはいつもより景色が近く見えて、ひだなつさんはバースデーを無職で迎え、レモンくんと若原光彦の目に見えない絆らしいものを羨ましくも思った。

そしてトリを務めたみきゆーりは朗読の途中で咳をしたのだけど、それを普通なら惜しいなとか残念だなとか思うはずなのが、嫌だなと咳を憎む気持ちが生まれてそれを自分でも不思議に思った。それは、みきゆーりの今日の詩が良かったからなんだろう。アルチュール・ランボーみたいな夏の水辺のイメージといつものピー。そんなに豊潤にパンチラインはなかなか繰り出せないぜ、と感心しながらうっとり聞いた。夜空にスピカの光を見上げるように。

なんでもかんでも否定したくなるほど自分が嫌だったり逆に特別に思えないとやっていられない日もあるけれど、ぬるいビールもキンキンのビールも、ビールはビールで、ぼくはどっちも認めて敬意を払いたい。

今日も名古屋のみんな+みきゆーりの朗読が好きだった。
それで良い、雨が降って星の見えない気持ちの日もたくさんあるけれど、これは幸せなことだと、思った。

AD