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「登… オマエ 人からお金を借りてるか?」

「いや… 借りてないよ」

「そうか ならいい」

「じゃあ 誰かに貸してるか?」

「うんん… 貸してないけど どうして?」

「登…」

「うん…」

「人には 金を貸すなよ…」

「うん  えっ!?」

「金は貸すな」

「でも どうしても貸さなきゃならないときは…」

「うん…」




「あげろ」




えっ? あ… うん 分かった







父は 私に 

幾つもの言葉を

残してくれた

その中の 一つ

『金は貸すな 貸すなら あげろ』



これは

父が 息を引き取る

一週間程前に 病院のベッドで

私に伝えてくれた 言葉だった



私は

この言葉の意味が

その時は 分からなかった

分からなかったけど

ただ 今 この人が

この状況で この話をするということは

きっと とても大切なことなのだろうと

なんとなくだったけど そう思っていた








四十九日も終え 少し落ち着いた頃

母方の叔父が 家にやって来た そして

おもむろに 分厚い封筒をテーブルの上に差し出し

叔父は 母と私に こう言った

「これ 兄さんに借りてました」

母も 私も このことはまったく知りませんでした


その時

父が私に伝えた あの言葉

『金は貸すな 貸すなら あげろ』 

思い出されました



「叔父さん これ受け取れない…」

お金は そのまま持ち帰って貰いました


あとで分かったことなのですが

叔父は それから約10年後 病気にかかって亡くなり

その葬儀の時に叔母(叔父の妻)から こう聞かされました

当時 自営の会社が倒産したとき 父には大変世話になったこと

サラ金から融資を受けるのに 保証人になって貰ったこと

現金も沢山借りていたこと

その借金も なかなか返済できず

そのこうしている内に 父が他界してしまい 

慌ててまた方々から借金をして

そのお金を持って 私たちのところへ返済しに行ったこと

しかし それは受け取っては貰えず

でも そのお金を持ち帰って来たことで

実はその時も 本当はかなり厳しかったらしく

その後をなんとか 乗り越えられたということ

もしも あの時に そのお金が無かったら…

どうなっていたか 分からない

きっと 

保証人になってくれた父にも迷惑掛けていたと

(既に他界していたので 結果的には私たちに)



あの時 父は 何を考え 何を想い

私に あのことを伝えたのか…

『金は貸すな 貸すなら あげろ』



その 真意は

この時の私には まだ 

「本当の意味」は 分からなかった


だけど

ただ 一つだけ 言えることは

これは 私の妄想の域を越えないが

もしも あの時

あのお金を私たちが受け取っていたとしたら?

回りまわって結局また 叔父の借金の肩代わりは

私たちがすることになっていたかも知れない

だから あのお金は受け取らなくて正解だったのだと

そんな“損得勘定”で物事を捉えることしか

あの時の 私にはできませんでした


でも

今なら 分かります

あの頃の父が 私に 

本当に 伝えたかったのは

そのお金に 乗せられた

『苦しみのエネルギー』 を 

受け取るな ということ


このことに 私が 「本当に気づく」のは

ここから 更に10年ほど 経ってからのことです






「お金を使う」 ということ


それは

「喜びを循環させる」 
ということです



お金というツールに

“喜びのエネルギー”を乗せて 自らが放つ

そして そのエネルギーは

様々な人を経由して

再び 自分に 戻って来る


なので この逆も然りです

そこに

“苦しみ”や“怒り”のエネルギーを乗せれば

当然 再びそれを受け取ることになるのです


どちらの場合であっても 見た目や効力は 

「お金」であることには 違いありません


しかし 「お金」というのは

“エネルギー”を循環させるためのツールなのです

そこに“喜びのエネルギー”を乗せれば「喜びが」

そこに“苦しみのエネルギー”を乗せれば「苦しみが」

やがては 回りまわって 

再び 自分のところへ 返ってきます


だからこそ

自らの元へ 「喜びを」流れ込ませたければ

自らが 「喜びを」放てばいいのです


「お金」はどんなエネルギーを乗せても

その見た目も 効力にも 違いは殆どありません

なので 

たとえそこに“苦しみのエネルギー”を乗せたとしても

その場は その「金額の役目」だけは 

しっかりと果たしてくれます

そして 

それは循環した先でも一緒です

同じことが繰り返され いつかまた 

自分の元へ 返って来たときも

やはりまた その「金額の役目」は果たしてくれますが

同時に“苦しみのエネルギー”

受け取ることになってしまうのです



手元に お金は入って来るが

何故だか 一向に よくならない…

・入って来ても いつも 右から左

・努力に見合った 収入が得られない

・想定外の出費が 頻繁に発生する

・買い物で よく損をする

・支払った金額に見合った満足感が得られない

・夢の実現に資金が必要だが 集まらない(貯まらない)

・苦しい思いをしながら いつも支払いをする


などなど…

上げれば きっと 切りがないでしょう


お金は しっかりと入って来ているにもかかわらず

前記のようなことから

一向に 抜け出せないのは

それは 自らが放った

“苦しみのエネルギー”の仕業なんです






なので

話は簡単です

循環してくる“苦しみのエネルギー”

受け取りたくなければ

自らが その“苦しみのエネルギー”を放たず

“喜びのエネルギー”だけを放てばいいのです



自分が 何かのために「お金を使うとき」

いつもの買い物で「代金を支払うとき」

水道光熱費や家賃 またはローンの支払い等々

その代金を支払う 正に「その瞬間」

お金というツールに

『喜びのエネルギー』を乗せて放出する





でも そうはいっても

すべてのものに

“喜びのエネルギー”を乗せて「お金を支払う」

それは なかなか 大変です


自分自身や家族 大切な人の喜びに直結することには

割りと… 

というより ごく自然に

喜んで「お金を支払う」ことは出来ても

たとえば

そうですね…

罰金とか?

これは なかなか「喜んで」は払えないですよね

あとは 

パチンコや競馬など ギャンブルに負けているときとか

または 借金の取り立てとか!

どうですか?

これも かなりキツイです


人それぞれ 思い当たことはあると思います

「喜んで支払えない」ことの数々が


そうでもないですか?

では 

こんなのは どうです?

「苦しんで」とは いかないまでも

「喜べない支払い」 だったら?

結構 思い当たることが あるのではないでしょうか



では

どうすれば 

その「苦しい思い」「喜べない思い」


『喜 ん で』 に 変えられるのか?





それは

自分の中に

どうあっても「認められない」ものがある


なにがあっても

それだけは「譲れない」ものがある



どうしても

「許せない」 こと…




それが あるからなンです





言い方を変えれば

『あなたが あなた自身を許していない』


あなたが あなたの中に

それだけは絶対に認めたくないこと


あなたが あなたの中に

「そんなものは無い!」と存在自体を認めていないか

見ないフリをしていること


それが あなたの中に在る限り

すべてのことに

「喜 ん で」お金を支払うことは

絶対に 出来ません






それは 何故か?


そういった 自分では

あなたを取り巻く

あなたに関係する

すべてのモノ そして

すべての人へ 

『感 謝』が 出来ないからなのです






私は

私自身も 「奥さん」から

『言 魂 行』を受行しました



その結果 私は

私を取り巻くモノ

私に関係するモノ

その殆どに「感謝」の念が 芽生えはじめました

この感覚は 本当に不思議なのですが

今まで 嫌悪感を抱いていたこと

他者のどうしても認められなかったこと

そういったことの殆どが もう本当に

言い方は悪いですが

『どうでも よくなってしまった』のです

そこに フォーカスすることが無くなったんです


そして そうなると

なにが起こるのかというと

そこに在るのは 『空』

若しくは『無』なんです

これは おかしな表現ですが

そこに在るのは「空」であり「無」である

在るのは ただ 

「何も無いこと」だけが 在る


言い換えれば

「事象」は確かに起こってはいるが

「感情的」には なにも起こっていない


ただ そこに起きた「事象」

あるがままを 捉えられる

それに対して 私の感情が

意に反して 左右されることが

極めて 少なくなった

と いった感じでしょうか


そうなると

あと そこに感じるのは

『感 謝』しか ない




だって

それらは すべて

私を 取り巻いており

私に 関係すること なのですから

そのお陰で 今の私が 此処にいる

だったら…

そう思えることの方が 自然じゃないですか?


すべての感情が

「感謝に変わった」とは 言い難いですが

少なくとも

それらに対して

「苦しみ」や「怒り」

「嫌悪感」や「罪悪感」 といった感情は

すべて 

消え去ってしまったんです









生前 父が

「伝えてくれた言葉」そのものではありませんが

私は 父のその背中を見て

子どもの頃から このことも 

とても心に残っています


『ご馳走する』 ということです





記憶の積み重ねや 意識の中で

この『ご馳走する』

前述の『貸すな あげろ』

きっと どこかで“融合”していたのだと思います 


お祭り事や 賑やかなことが大好きな父は

もてなすこと 振る舞うことが とても好きな人でした

好きというよりも それをしている父は

とても 嬉しそうでした


そして

私は そんな父が とても好きでした

そんな 父の顔を見るのが

堪らなく 好きだったのです


そんな父の背中を見て 育った私は

いつしか 私も あんな風に 

人に 振る舞えたら いいな

人を もてなせたら いいな



自分がしたいときに したいことが出来る 

そんな力強さ

そんな豊かさ 

そんなかっこよさを


父のように 身に付けたい

そう 思うようになっていったのです



それが 後に

父が言った

『貸すな あげろ』

「あげてしまう」 という部分と

重なっていったのだと思います



出何処が同じ人物の言動なので

同じような意味合いだったのかと

私は ずっとそう思っていたのですが

どうやら それとこれとは

まったく 違っていたようです





私は

言 魂 行 をやった結果

普段のあらゆる 「お金の支払い」

“喜びのエネルギー”を乗せて放つことが

出来るようになりました



それは また

言い換えれば

“喜びのエネルギー”を 乗せられないような

「お金の使い方」が

出来なくなってしまった

ということなのです



たとえば

今までなら

仕方なく 使っていたこと

手っ取り早く 手短に済ませていたこと

自分の「好き」よりも 「損得」を優先していたこと


つまり

自分の気持ちを優先して 使おうとしたとき

少しでも「罪悪感」が感じられた場合

「でも~」 「だって~」を発動させて

その「罪悪感」が少しでも無くなるような

そんな使い方を していたのが

それが 

今は 出来なくなってしまいました


だって

その使い方で 乗せられるエネルギーは

“悲しみのエネルギー”なんです


それによって 残されるのは

自分自身に対しての

「罪悪感」
だったのです





「エネルギーは循環します」

やがて それは

回りまわって

「自分の元へ 返ってきます」

だから

自らが放つのは

“喜びのエネルギー”でありたい


お金というツールを使って循環はさせている

だから また 回りまわって

お金というツールは手元に戻って来ている

貰った分だけ 使って

使った分だけ また貰って


そのステージを 徐々に高めていくことが

私たち共通の 望みですよね?

しかし

そのステージが一向に高まらない

それどころか

低くなることさえ ある

それは すべて

自らが “苦しみのエネルギー”

放っているからなンです


放つエネルギーを

“喜びのエネルギー”だけにする

今まで“苦しみのエネルギー”を乗せて支払っていた

「お金の使い方」を止める


これは どうせ使うのなら

“苦しんで”ではなく

“喜んで”使う という意味です


いつものスーパーで買い物をして

レジでお金を支払うときでも

「やったー!好きなものがいっぱい!!」

そして

レジのおばちゃんにも

「ありがとう!!」って 

その買い物が出来ることへの

純粋な 感謝の気持ちを

素直に 味わう


そんな風に

自分を取り巻く

自分に関係する

すべてのことへ

「感謝」の念が抱けるようになると

周りは なに一つ変わってはいないけれど

そんな 自分にとって

「喜びを純粋に感じられる」ところしか

見えなくなって来るものなのです


「喜び」を循環させれば

「喜び」が戻って来ます


「苦しみ」循環させれば

「苦しみ」が戻って来ます



同じ「お金」を使い

同じ「お金」を貰っても


その状況は「雲泥の差」です



自分の元へ流れ込んでくるエネルギーを

「喜び」でいっぱいにするために

“喜びのエネルギー”だけを放つ


もう二度と

“苦しみのエネルギー”が流れ込んでこないように

「自らはそれを放たない」




これは

私たち夫婦が 

この身を挺して 実際に「人体実験」をしてみて


素晴らしい確証が得られた 

『循環の法則』なのです




しかし

ここに 一つの疑問が生じてしまいました

自らは 放たなくなった“苦しみのエネルギー”

もう循環され受け取ることは無くなりました

そして 何処かの誰かが勝手に放つそのエネルギー

私たちへの経路は これで「絶たれたはず」だと

思っていたのですが

なにか 違和感が残ります

まだ なにか “苦しみのエネルギー”が流れ込んできている 

そんな気がしてなりませんでした


そのことに気がついたのは 「奥さん」でした

こんなに見事な「循環の法則」を実践しているのに

なにか まだ今一つ スッキリしない

なにか“苦しみのエネルギー”

私たちは まだ受け取っているようだと…


そして 妻は 私に

ある一つの提案を持ちかけました



私たちは

自らが“苦しみのエネルギー”を放たないことで

循環される「苦しみ」は 

既に受け取らないようにして来た

それは 

何処からか

「勝手にやって来る それをも同様に防いでいる」


だけど

もしも それが 

私たちに向けて

「直接 意図的に放たれた」
ものだとしたら?

私たちが それを

「当然の権利」 だと認識して

本当に何気なく当然のように受け取っていたとしたら?



前述の「レジでの話」ではないですが

あれを 私たちが

「なんだ!こんな粗悪なものを高い値で売りやがって!」

と “苦しみのエネルギー”を乗せて代金を支払ったとしても

あのスーパーは それを「商品代金」として

「当然の権利」として 受け取らざるを得なくなる


結果 あのスーパーは その意に反して

商品代金を支払う 私たちから いつの間にか

“苦しみのエネルギー”を 受け取ることになるのです



妻の この言葉に 私は ハッとさせられました

思い当たることが 幾つも浮かび上がってきたからです


そして

さらに 妻がこう言いました



「それらも すべて 断ち切らない?」



妻の言動は いつも 華麗にぶっ飛んでいます

「社会不適合者」である この私の

周囲からは「非常識だ!」と言われる「私の常識」なんか 

いとも簡単に崩壊させます

まさに 「あり得ない選択」です




「スーパーが“商品代金”の受け取りを拒否する」


こんな「あり得ない」こと 

まさに それと同じようなことを 


「しない?」って…


提案してくるのです





私たちにとっての「商品代金」 それは…

今 「スーパーヴェリータ」のレジには

何人ものお客さんが 列を成して並んでいます

その中には たった今 商品を買い物カゴに入れ

これから その代金を支払おうと並んでいる方


既に買い物は終わったが まだ支払いは済んだおらず 

商品は先に持ち帰っており 後日なってですが 

また 店へ代金を支払いに来た方
がいます


私たちは その「前者だけ」を残し

あとの方たち(後者)には 全員


「そのまま お帰りいただくことを告げました」




「代金は お支払いいただかなくて結構です」




…と いうようなことを



私たちは 選択することに しました




このときになって 

私は 

22年経って

やっと あの「本当の意味」に 

辿り着けたのです



妻にも 言いました

これって もしかすると

父は あの当時 既に

こういった「エネルギーの循環」 ってことを

分かっていたのかも 知れないね


だから 

あの時 こう言ったんだ

『金は貸すな 貸すなら あげろ』 


あの「あげろ」

「おごる」とか「ご馳走」するって意味じゃなく


「出したお金は 返して貰うな」って…

「返してくるお金は 受け取るな」って意味だったんだ


返ってくるお金には「様々な念」が込められている

その中身は 

必ずしも「貸してくれて ありがとう」という

「感 謝」だけではないことを 

父は あの時 既に 分かっていたのだ

そして 

その思いは 「決して受け取るな」

私に 

そう伝えたかったのだと

この時になって はじめて気がつきました


それは

お金の貸し借りだけじゃない

クレジット決済での後払いやローンも同様

その商品は「先に手に入れて」既に使用済み

しかし その代金支払いだけが あとに残っている

この時間差が 長ければ長いほど

その商品を受け取ったときの「新鮮な喜び」

使ったときの「純粋な感動」が 少しずつ

徐々に 「薄れていく」のでしょう


それを 今も常に使っており 

日々 その商品の良さを「実感している内」は 

まだいいのですが

既に 過去のものとなってしまった場合は



実に 「ツライ…」





もう 既に 終わってしまったものへ

その 代金だけを 支払っていくこと

きっと その思いには

当時の「喜び」や「感動」だけじゃない

別のものが 混じってしまっていると

そう 思うのです


そうです これは

私たちが そう思うから

だから「そうなのだ」と 

勝手に思っているだけですが…

少しでも その可能性があるのなら

私たちは それを 絶ちたかった



私たちが

“苦しみのエネルギー”は受け取りたくないと

その可能性が含まれていると思われる


「返ってくるはず」だった 

本来は「受け取ろうとしていた」

その金額は


総額で 約100万円 ありました





この「100万円」は

私たちが「当然の権利」として

受け取っても 何ら不思議の無い

なにも問題の無いお金です

しかし

このお金を受け取るということは

「100万円」分の“苦しみのエネルギー”も同時に

受け取ることになるのです



また

この支払いをする側としては

「100万円」分の“苦しみのエネルギー”を放出

しなければなりません


そのことが その人たち自身で 分かっていたとしても

自分から「それを止めたい」とは言えないのも事実

だったら

それは こちらから

絶ってしまえば いい



…ということで

絶ってしまいました 


あっさりと





そして

そのあとに残った 気持ちはというと







正直にいいます










「ああああああっ 100万損したー!!」







では ありませんでした!








とても



とても



清々しい 気分でした

( ´▽`).・: ゚ ・。'.













エネルギーは

お金というツールを使って循環させる


だから また 回りまわって

お金というツールに乗って 手元に戻って来る

貰った分だけ 使って

使った分だけ また貰って

そのステージを 徐々に高めていくことが

私たち共通の 望みです


だから

その為にも

より“喜びのエネルギー”だけが 欲しい

出来る限り“苦しみのエネルギー”には来て欲しくない

そうすれば

私たちが 望む そのステージへ

より早く 上がることが出来るのです




私たちは

その“苦しみのエネルギー”の侵入経路を

私たちの独断で 絶ちました

更に

出来ることなら

私たちへ支払おうと計画していた

その「100万円」分のエネルギー

どうか あなたたち自身が

「喜ぶことのために」使って欲しい

これ以降は“喜びのエネルギー”として

放出して欲しいと 伝えました


彼らが それを どのようなことに使うかは

もう 私たちの意図するところではありません

私たちは 確かに手放しました

手放した先の その行く末は 

私たちの 関知するところではないのです

私たちの 意図は

これで すべて完了しました






『金は貸すな 貸すなら あげろ』





この言葉の「本当の意味」は





“苦しみのエネルギー”は受け取るな

だったのです













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