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ブログの説明を あとで そのうち 入力します。

#survival

#DryCell & #DryBattery #乾電池

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Rechargeable #Battery #充電式電池

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Do Not Use To Be Like An Dry Cell. (from Bad Life 2038

乾電池というモノを発明した日本人はすごいとおもう。
単5・単4・単3・単2・単1と‥
(中国などで雑に造られた物や充電式など特殊な型を除けば)
暗い処を照らすライトや
ポケットへ収まるトランジスタ・ラジオを奏でるために用意された
世界共通の規格だ。
レコードやCDが廃れても乾電池は廃れない。
しかも子供から年寄まで
その乾電池の遣い方が判らないというマヌケはめったにいない。
自分が産れる以前から世の中にあったモノなら
自分以外の人間も大勢が使ってきたから安全?なモノとして
世界中に拡まって今日に至る。
停めていても、動かすならさらに危険な原子力発電所とは大きく違う。
生きるために必要な生活の道具として
創る前に使う目的や構造もすべて決められ設計され
そのような乾電池という素晴しいモノが大量に生産・消費される世の中で
もしもその構造に欠陥や故障があるなら
事故を起したりする前に「これは駄目だ」とヒトは気づく。
そんな乾電池ひとつ遣い方を間違えるヒトも世の中にはいたかもしれない。
鉄で包まれた中身を見たくて勝手にこじあけてみたり
充電式でないモノを無理やり充電器へ入れて破裂させたり
古くなった乾電池から液モレしていても、放置して他のモノまで破損させたり‥
人間が造ったどんなモノでも
その構造や仕組や使われ方や、
その者の産れ有った能力の限界には関係なく
誤った使い方をしてしまうと、
その結果に至るまでの過程や破壊状況がどうあれ、
場合によっては二度と取り返しのつかない事態を招くことにもなりかねない。
そのいい例が、みなさんご存知の通り、
西暦で2011年の3月11日の震災と同時に起きた、原子力発電所の人災。
とても便利で遣い慣れた乾電池は壊れたり古くなったなら
それぞれが正しく捨てる知識もあるし簡単に処分することができる。
ところが原子力‥となるとそうはいかない。

今ここで自分自身をひとつの乾電池へ置き換えてみてほしい。
人間は決して世間の教育や社会の常識で
まったく同じ規格に量産された物でもないのに
今の時代の文明人は誰もが
同じような時間に起きて
同じような時間に御飯を食べて食べさせられ
同じような街並に生きている。
自分という人間が何の目的で、どのように創られた存在なのか?
もしもそれが今も自分たちの生活の中で遣う乾電池のように判りやすいモノなら
自分が産れたあと勝手に詰め混んだ邪魔な知識が
やがて毒となって外部へ液モレしても修復や処分もできるかもしれない。

人間は大量生産された乾電池ではない。
肉体から酸が漏れて
エイリアンのように周囲を溶かしたり破損させることもない。
その肉体と心が
産れる以前から在った同時進行のバランスを崩すことによって
病気になったり
誰も信じられなくなったり‥故障したとしても。
ただ‥人間が生きるために必要な道具として造られた乾電池と
人間そのものにはよく似た共通点がある。
たとえば単3なら単三の1.5ボルトと決められた電池の規格には
決められた電力や電圧があり
何か別の装置や特殊な扱いをしない限り寿命も決められている。
世の中で最初に乾電池を造ったヒトは
人間ばかりか、どんなモノにも寿命があることをどこで理解したのか?
おそらく想像から創造に至る‥無から有に変わる段階で
決して人間中心には考えず、
自然の摂理やアタリマエの掟、叛けない道理が基準だったにちがいない。
そして今こうして息をする
---- クチで吐いて鼻で吸う肺呼吸に伴う皮膚呼吸をする----
肉体を有って生きる人間も
それぞれ構造や創られ方に見合った能力も
その者の寿命も
この世に生産される以前から完全に決められている。
産れたあとで取り決めに叛くことが、どこでどんなに繰り返されても
その取り決めがないと誰も産れてはこない。
その取り決め‥人間が産れる以前の創られる時の規格とは
どのようになっているのか?
本来は、地球へ有益に創られた人類種族。
その心、精神、魂、人間が生きる意識の構成とはどうなっているのか。

現世にカタチ創られ実在する物すべて、
その者が今生において生きるために必要な知識も、
その職責・職能も、既に人間としてカタチ創られる前に、
男女両性の結合の瞬間。精子と卵子がぶつかった瞬間。その、
受胎の瞬間に完全に決められている。

誰もが決して、独り勝手に産れて勝手に生きて
勝手に死んで逝くような存在ではなく、
この世にヒトの姿カタチをしている限り、
その存在には必ず父親がいて母親がいて先祖が在る。
おそらくは、人間が便利に快適に暮し営むことを
望み願って造られた乾電池と同様、
この地球上へ必要とされ、
生息を許される人間が創られるときの規格は、まず、
その者が存在する以前の両親の家系を遡り、ヒトとして正常に生きて死んだ順で
決められた数の先祖(の魂)が、無から有に変わる時、受胎の瞬間に入る。

人間いつかは必ず死ぬ(臨死は含まない)。
他の動植物が産れ替るなどという嘘いつわりに関係なく
ヒトとして正常に生きて死んだ者は
ヒトとしての肉体を捨てたあと、肉体を離れたあと、
己の命の役割をまっとうした順に必ず分解され、浄化され、
次にまた受胎の瞬間に再生される一部になるから
ひとつひとつに前世、生前の記憶はない。
そして(本来は放射能汚染の妨害などなく)
ひとり人間の受胎の瞬間から始まる、
規則ただしい(はずの)細胞分裂と同時進行にある心‥精神、
そこ(常に同時進行にある心身の成長)へ定められる、
その者がこの世で生きるために必要な能力、知識、規格容量は
何万年と遡る時代から今日まで
人間の正しい営みが世界中で繁栄される目的を前提に
父親と母親の系統、両親のそれぞれの先祖霊から2500体ずつ‥
かつて役割を果たし、分解、浄化された順に再生。
その数は合計5000体でひとつに構成され、
かつて生きた人間の経験者が備えられる。
それが自由意志として
決められた寿命まで肉体を有って生かされる期間に潜在し、
その自由意志の暴走や叛乱を抑え、司るために感情が備えられている。

たとえ今生でマルからハミ出たような心でも
父親と母親からの先祖霊5000体という自由意志を
神につながる一点が束ねる感情で成り立つヒトの精神構造。
ユングの集合無意識や彼らの考察の断片は、この答えを導き出す途中経過であり、
それ以前から、人間に目が二つ、手足の指が五本ずつと決められた道理であり、
かつて生きて死んだ者の分解と浄化と再生の道理に基づいて
父親と母親の先祖霊5000種が自由意志として潜在し
人格が形成され、本来、喜怒哀楽の暴走を制御できるよう
創造主の分身としての感情が備えられ、
その神魂により抑え、束ねられた魂(心)が
生涯に亘り肉体を動かす精神として
産れる前、精子と卵子の結合、正常に細胞分裂が始まると同時の、
受胎の瞬間に入る。

そのように父親と母親がいて、受胎の瞬間に魂が物質化して、
押し出され、誰かにひっぱりあげられ、産れたとき、吐き出してから
初めて自分の肺で空気を吸って驚いて泣いて、
清らかな魂が物質化した尊い姿としての肉体を有つ霊長類である人間は、
既に覚醒している。
そして地を這う姿から二本の脚で歩いて、
他の生命体より頭の位置が天にちかく
尊い姿かたちに創られている。
手足を交互に動かす二足歩行をすることで内臓の位置、バランスを整え、
その頭部を支える下半身、脚の筋肉の血液循環が脳細胞とも密接に創られ、
その140億の脳細胞は、銀河系の星の数と同じであり、また、地球上、
自然界にある生命の数、その種類は60兆であり、人間の細胞も60兆ある。
本来あらゆる生命種を代表して地球そのものを大切に守る役割にある‥

そのように人間の肉体は魂が物質化した尊い姿であり、
人類の地球上での役割というのは、
すべての動植物の営みをバランスよく循環させることにあり、
自分たちが生息を許された場所での社会を形成する5分野
(医療:教育・政治・経済・宗教)は
肉体の臓器(五臓)の活動と同じように動いている。
光も水も空気も地へ生かされる命も
すべて用意され最期に創られた人間の肉体。
その肉体をもって生かされる場所も、五臓を対称に創られ、
太陽も、水も、空気も、食べ物も、血液循環も。
医療、教育、経済、政治、宗教‥そのヒトの営み、社会を構成する人間の、
心臓も。肺も。肝臓も。腎臓も。すべての臓腑の運行を司る脾臓も。
いつ、どこで産れて、何の役割があるのかも‥整然とした流れのなかにある。

我々が生かされるこの自然界では、
一人一人の人間が、その生きる目的も、役割も、
既に母親の胎内にいたときから決められている。
それは、何をするために生まれるのかも、
その人生をまっとうして生きるための能力も
産れる日も、死ぬ期日も
すべてが、受胎の瞬間に完全に決められている。

人間の男と女では絶対に創られ方が違う。
そして、人間の女性は誰もが、決して、
「生理がはじまったから女性になった」ということではない。
既に母親の胎内にいた時から両方の卵巣の中に卵子を持って産れてくる。
そして一定の年齢に達した時、
子宮壁が充血して基礎体温をあげ、排卵があり、受胎態勢を整える。
受胎がなければ子宮壁に充血した血液は汚血となり生理として下る。
受胎があった場合は子宮壁に充血した血液は羊水に変わる。
また胎内で脊椎~腰椎と形成される骨を司り、五味では塩分を欲する。
海水と母胎の羊水の塩分比率ほぼ同一にあり骨密度にも比例する。
また、腎は精を司り(女性の子宮とは別に)子供をつくる臓器。
人間の腎臓と膀胱は表裏を成し、膀胱の延長が尿道筋肉であり、
男女両性の生殖器につながる。
そして人は本来、誰もが、この自然界において完全に決められたことを
何の努力も苦労もなしに、自分の人生を堂々と生きて、
その生きたことに満足して死ぬことができるように創られている。
そして、この地球上に、大いなる自然界に、
人間が創られ、産れ、育ち、死ぬ逝くという道理、事実。
この事実からは、誰ひとりとして逃れることはできない。
だから、生きることは限りなく義務の遂行でしかない。
親も子も、永遠に代々、その繰り返しに基づいて、
この地球上を人間が人間として正しく使うように
今日この瞬間も、ある一定の期間において
そこに肉体を有って生息することが許されている。
そして死んでからも、人間として生きることが正しかった者は
人間として地球の使い方が正しかった者は
やがていつの日か必ず、自分自身が残した子孫の中に
その肉体を動かす生命の一部として構成され、蘇ることができる。
それは、春に芽を出し、緑の力を息吹かせる草や木の如く
夏の海洋海域に鮮やかに繁栄する多くの命の如く
紅葉の静けさに息を潜める様々な虫や獣の連鎖の如く
そこで人間は、あらゆる恵みを受けて
大地に生きることも、大地に死ぬことも許されている。おそらくは…今も。

唯一、自分の肉体だけは、今生において、
自由に、堂々と使いこなしていいはずの、“自分の物”だ。
但し、生きていられる間だけという、ほんの短い期間限定で。
(‥だから本来は、肉体ですら、自分の物ではない。決して。)
しかも、その間に、確かな“言葉”というものを自由に遣うことが許された期間。
そこには、“魂の自由”はあっても、
本来は、なんの制約も修行も必要ないはずだ。
既に素晴しく磨かれた魂。その魂の修行なんてのは死んでからやるもんであって、
この世…今生で肉体を有っていられるうちは、自由奔放でいい。
でも、勝手きままではない。
そこんとこを勘違いしちまってる人が多すぎるんだよな。今の時代は。
自然界へ生息する他の生物にはない役割、使命を与えられ、授かり、
何らかの目的をもって創られた候補者でありながら Candidate‥
今はその潜在能力を発揮できないようにされている者が多い。
そして人間は
肉体が病むと心が悩み、また同時進行で精神が狂っても肉体は病んでしまう。
その掟、取り決め、規格を、本来は何千‥何億年と
変わらないように在った事実を
大きく破壊しつづける、人間の創られ方を解ろうとしない医学、教育‥
脆くも、それを礎とした自由と正義を武装する政治や
必要以上の便利さ快適さを人間中心に追求させる経済や
宗教や特定の思想による侵略や殺戮が繰り返される文明のなかで今、
果してどれだけの数が
十月十日(とつきとおか)という母親の胎内で育つ期間を正常に過し、
誕生する日も本来の寿命も、受胎の瞬間に定められた通り、
3000ℊという規格で正常に分娩され、
本来のヒトとして正常に生かされているのか?
それぞれに遣う用途を定められ、規格・設計され量産される乾電池ならまだしも
出来あがった後、
わざわざ自らの規格から外れる人間を
増殖させる医療も教育も経済も政治も宗教も
今後はヒトがヒトとして創られる初期段階まで
大きく破壊する世界へ変貌させつつある。
今そこに生息していられる場所に果して、他の動植物も昆虫類も
その姿かたちに相応しく生かされるエネルギーがどれくらいあるのか?
海や大気から循環される空気や水、血の巡り、
ヒトの細胞に流れる血管の隅々までも‥
また、ヒトが生きる場所の、その入江や岸辺が澱んでいたり、
異臭ただよう大地であっても住めば都‥もう穢さないよう心がけるしかない。
ところが放射能汚染は、ヒトを不自然に殺す方向にある。
いつ、どこで、誰が、どんなに頑張ろうとも。
たとえ乾電池のように
ひとつひとつの少ない電力(生きるエネルギー)をつなぎあわせてみても
ヒトがヒトとして生きる力より遥かに大きな力がヒトの世を潰しにかかる。
人間は人間として生きるために必要な人間の規格で創られ、
他の動物は動物として。虫は虫。樹木は樹木。
男は男として創られ、オンナは女として創られ、産れ、育ち、死に逝く‥
その創られ方も生きる能力も寿命も
すべて完全に決められている事実からハズレ過ぎて
今日まで生きてきてしまった我々文明人は、
今後これからどうなってしまうのか?
ヒトが産れる前も、産れたあとも、育つ場所がちがうほど、
空も、海も、地も、悉く汚染され、
今まで通りの常識の範囲内の方法や策では
もう決して誰も生きられる者はいなくなる世の中で
我々を生かす自然界は、ゆっくりと壊れるほど修復はむずかしくなってゆく。

ひとつ、たしかなことは、
乾電池は外部から強い衝撃を受けると発熱したり破裂したり‥
そのように破損したあとは決して元の状態へ戻せない。棄てるしかない。
ところが我々人間は乾電池のような物質とは別に
いま生きている世界での役割を果たせるように
壊れた部分や故障した箇所を自らの力で治すことができるようにも創られている。
そしておそらくは、今まだ生かされているこの地球上を
本来、借りた通りに管理・保管し、どこか壊してしまっても
また壊れていることに気づいたなら、それを改善できるようにも‥。
 
                みなみ まさあき