お風呂上がり息子が面白いことを言って来た。

   

息子「ママ、僕ね、実は僕になる前は、蝉だったの思い出したの!アブラゼミね。すぐ死んじゃったんだけど、そろそろ僕の子供が生まれてくるよ〜」

  

だそう。

「でも、オスだったから、産んではないけどね。次生まれ変わる時もまた蝉になって人間になろうかな〜」

という付け加えもあった(笑)

  

そんな事きいたら、うるさい蝉の声もうるさく聞こえないね(*^^*)

  

何が真実かなんてことは、よく分からない。

この話が本当かどうかも。

そんな事はどうでもよくて子供が話してくれる事で、私の生活に彩が加えられる感覚が楽しい。

無機質だった灰色の蝉の声が、何色に聞こえるのか?

蝉の声が待ち遠しいなんて思ったの生まれて初めてかもしれないな。

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あれ?梅雨って…?と思うほどの暑さ。

だけど、まだ冷房なしで過ごせてます。

昨年は2回の除湿利用で済みましたが、

今年も食べ物でどこまで身体を涼しくできるかな〜(*^^*) 来客時は付けるのでご心配なく遊びに来てね(笑)

  

外出すると、この暑さなので

「疲れた」と思うことがありますよね。

すぐに「疲れた」って私も言いたくなるんだけれど、子供達と「疲れたのかわりに、どんな風に表現できるか?」をやってます。

  

今日は息子の表現が可愛く

「足が泣きそうになってる」でした。

(バスに乗るのに走ったから(笑)

  

「疲れた」に慣れてしまうと

心がもやもやするときも

どこか体が痛いときも

消化不良のときも、

眠たいときも、

なんなら喉乾いた時ですら

全部「疲れた」になる。

  

「疲れた」にしちゃうと、

見えなくなるものもあって

子供自身が自分で、どこが不調と感じるか

わからなくなって、ケアができなくなる。

  

ちなみに、私はホッとしたときに

「あー疲れた」っていうのが多く

口から「疲れた〜」をリリースしているようにも感じる。子供とはちょっと違って「座れてよかったー」とかになる。

そんな違いも楽しみながら(*^^*)

  

夏休み期間、よかったら試してみてね。

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今日は一学期の終業式。

娘のリクエストに応えて、6時半に家を出て、

久しぶりに娘を学校の最寄駅まで送っていきました。

  

土曜日なので電車はすいていた。

私の隣に、朝のこの静けさを壊すような

大音量ダダ漏れの20代位の男性が座る。

  

あまりの大きさに、周囲の目線が行きつつ

まぁ、誰もなにも言わない。

あまりに音量が大きいから、

「すいません、少しだけ音を小さくしてもらえませんか?」

とお願いしてみた。

  

その瞬間に、チッという舌打ちと鋭い目線で

こちらを、みて直ぐに席を立ちドンドン歩いて遠くの方へ。そして座って、音楽に合わせて

足をどんどんリズムをとっている。

  

娘は「どうしたんだろ?音楽大きな音で聴きたかったのかな?」と。

  

何駅かたって、遠くの方のその人がどんどん歩きながら私の前を通って、こちらをまた鋭い目でみてから、電車のドアへ。ドアが開いてないのに苛立ってるように、ドアを蹴って、外へ出てから、自動販売機をさらに蹴って…

  

見た目は普通の若者。

どちらかといえば大人しそうな真面目そうな方にも見えるんだけれどね。

  

その人がいなくなった後に、

娘とわざわざこっちに来たからびっくりしたねぇ、と話して、その後ふと、「自分の世界が壊された感じがしたんだろうな」と感じた。

  

私は電車のある程度静かな世界が

居心地がよくて、静けさを壊したと思ったけれど

彼にとっては、居心地のよい音の世界の中で、私の声がけが、彼の世界を壊したのかもしれないな。

  

彼がいるときに、心の中で

「居心地良い世界にいたかったのに、できなくて苛立ってるんだね」と伝えられたらよかったな。

そして、それと同時に、自分の心にも「居心地いい世界が壊された怒り」の懐中電灯を自分に当ててみる。

  

あ、あった…

仲の良い友達の言葉に少しイラッとしたのに、私のためにそう言ってくれたんだ、と蓋をした。ここか…(笑)あまりに居心地いい世界に、周りが自分が見えてなくて、ある意味酔ってたのに、それを言われて図星だったんだよね。なんでそんなこと言うのよ!と怒りもだけれど、薄々そこに気付きながら見ないふりしてた自分に対する怒りもある。

  

こうやって見てみると、

彼の怒り自体を私は受け取ってないことに気付く。そして娘もまた気にせず怖がっていないように見えた。こういう風にまた扱えると不用意に怖がらずにいれていいなぁ。

  

そして、相手へのエンパシーって実は

自分の光が当たってない部分へのエンパシーなのかもね。

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食卓と世界はリンクする。

【お皿に残せるということ】

  

私が子供の時代は、出されたものは

残さず食べることが美徳とされた。

  

給食だって食べ終わるまで遊べない。

生のトマトが苦手な私は、オエってなるのを

我慢して丸呑みするように食べていた。

  

自分が嫌いなものでも我慢して

残さずに食べなくてはいけない…

  

この体験は食卓から離れると

どんな風に育つだろう???

  

望診のセッションをしていて

かつての私のように

残せない大人の方がたくさんいる。

そして、大人になっても、忠実に

守っている方の多くに見られるのは

人からのお願いが断れない、だったり

もしくは、お願いされないように

距離を取るだったり。

  

お皿にお願いが乗った瞬間に

食べる以外の選択肢がないと

お腹いっぱいなのに、

苦手な事なのに、食べてしまったり

そもそもお皿に乗らないように立ち振る舞ったり…に繋がるかもしれない。

    

お皿に乗せる事(受け止めること)と

食べること(引き受けること)を

分けて考えられると、

無理に食べることが減ったり

見ないようにしていたお皿の外の世界に

目を向けられるかもしれない。

  

それは、お皿に残す体験を尊重してあげることで

作っていけるのではないかと思っている。

  

うちの子供たちはなんでも食べる。

だけど、時々残すこともある。

その時は少しも箸をつけてないものだと

とりあえず、少しだけ食べて見てもらってる。

(見た目で判断してても一口食べたら美味しいとなることもあらから)

そして残すなら、

どうして残したいのか?

食べたらどんな感じになりそうか?

を聞いている。

  

味がなんか嫌だ、

食感が好きじゃない、

なんとなく苦手だ、

これ以上食べたら苦しくなる、

  

まぁ色んな理由がある。

そんな理由も感じることで、

口ではないものを頂き味っている。

  

ただ、残したという事実だけだと

せっかく作ったのに悲しいという方は

特に試してみてほしい。

お母さんが料理が上手くないからでも

なんでもなくて、ただ、子供が

その時は、それが「いま」必要なかっただけで

そして、それを「未来」まで持っていかなくてもいい。

なんで?って不思議に思うかもしれないけれど、

明日に同じものを出して食べることもある。

子供は思考で食べないから、大人が理解できないことが起こる、それだけ。

  

お皿に残せる子供は

私の料理を受け取ってくれなかった、

のではなく、

自分でその子自身を大切に出来ている

ということ。

  

それは将来的に、食べられないものを

無理に食べて苦しまないということ。

ただ、子供が残して、お母さんが何か思ってしまうなら、それは素直に伝えてみてもいいだろうし、残す時の言い方を一緒に考えてみてもいいよね。

それが、アサーションの練習にもなるね。

(アサーション:自分の意見を相手を尊重しながら伝える表現手法)


 

自身と友人との体験が交わり、自分自身を大切にするとは一体どういうことなのか、を体感しています。

 

どうしても、自分を押さえて人に尽くしたり人のためにしてしまい、自分は後回しになりがち。

そこにあるのは、自分か他人か片方しか大事にできない、という思い込み。

 

他人をケアするように、自分をケアしようとか

自分を大切に扱おうとか、頭ではわかるわけです。

 

だけど、頭での理解では、そこにセットで

「じゃあ、どうするの?」が付きまとう。

 

だけど、それはとってもシンプルで

それでいて、シンプルすぎるがゆえに慣れていない

というものがあった。

 

シンプルに、自分がその時に何を大切に何を欲しているかということに自覚的になり、それをただ正直に受け止めるという事。


休息が必要だと思ってるのに、「でも今は頑張らなきゃ」とか、「だけど夕飯の準備が・・・」とか、観ない振りする。

それが、特に「子ども」が対象になった瞬間に「良い母親像」と結びつき、正当化される感があり、自分は後回しにされる。だって、しんどくたってご飯作ったり家事やってた母親観てるから、それが当然だよね?頑張って当たり前だよね?っていうのが出てくるから。そして仕事においては、「良い父親像」と結びつき、しんどくても家族のために働くんだが出てくる。

 

だけど、休息が必要だと思ったら、それを観ない振りするんではなく、観てあげて、そこからどうするかを決めることが出来るんだという事を知った。

 

自分が徹夜で仕事に向かうとき、複数の友達が疲れたから仕事をお休みするーってFBに投稿していた。(そういう時って、一人の友達ではなく複数が投稿していたりw)

一緒にやろうと企画していたことが、ある友達からは自分の流れが変わったので、やらないことに決めた、と連絡が。

 

一瞬「えっ?」って思うわけです。

特に前者の方は、一瞬イラってした。私は徹夜なのに!ってだけど、その瞬間に、ああ、私も休みたいって思ってるんだな、休息が必要だって思ってて、ここで休む選択もありなんだなって思うと、イライラが消え、2つの選択が現れる。

その瞬間に「仕事をする」って選択を選びたくなった。すると、不思議なことに、徹夜疲れが一瞬でエネルギーに代わる。そして夜には、私に付き合ってくれた体に感謝しながら、早く寝たり糠ピローでケアしたり、などなど出来るわけです。

 

誰かが自分に正直になって伝えると、同時に自分の内側にも光があたるようで、見えてなかった自分の「似た部分」が明らかになる。これはある意味、とても気持ちがいいというか、見つけてあげられた安堵感というか、そんな風に感じた。

 

自分のニーズに繋がり大切に、正直に扱う。

書くととってもシンプルなんだけれど・・・

周囲に起点を置くと、すぐ見えなくなるね。

(見えないふりをしちゃう)

 

だけど、これがやっぱり自分を大切にすることだと思うから、自分の心の動き、そして、アレキサンダーテクニークで教えてもらったのは、体の動きも同じくということ。

 

少しの自分の心や体の変化に気付けるように

観察眼を自分に向けて、感覚を観ながら過ごしてみたいと思います。

 

そして感じたときは、自分に正直になる。

打ち明けるOR打ち明けないも、選択の1つ。

そして、自分を大切にする=相手を大切にしない、のではなく自分を大切にしつつ、相手も大切にできる道は必ずある。

それを考えるのが思考の役割だね(*^^*)

 

ようやく、自分を大切にするってどういうことかが、腹落ち。(ってこんな時間まで書いてることが自分をケアしきれてないじゃないか!って突っ込みも自分に入れつつね(笑)