約一週間前にはじめたTimelogですが、メモがかなりたまって来たので、一週間毎ぐらいにまとめていきたいと思います。まあ、ブログに書くネタが不足気味っていうのもあるんですけどね(笑)
 書評はちょっと気合い入れて書かないと書けませんし……
 今回は公文書管理法案について。
(以下、緑と赤部分引用)
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社説:公文書管理法案 改革のまだ入り口だ

 改革のほんの入り口である。政府が作成する公文書の管理を強化する法案の制定をめぐる修正協議で自民、民主両党が大筋で合意した。保存期限を過ぎた公文書の廃棄に首相の同意を必要とする条項などが盛り込まれ、今国会での成立が見込まれている。

 各省が作る公文書の管理行政はこれまで無いに等しい惨状であり、年金記録の紛失などずさんな文書管理や、官僚の情報隠しの温床となってきた。政府 案の不備をある程度是正しルール化に踏み出すことは前進だが、後回しとなった国立公文書館の拡充も含め、残された課題は多い。息の長い取り組みが必要であ る。

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 最近では年金記録の消失問題が知られてますが、地方自治体レベルでは市町村合併に伴って合併町村の公文書が廃棄されたりする問題もありますね。古くは終戦直後の証拠隠滅のための公文書廃棄・焼却が有名ですが……

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 公文書管理の強化は、福田康夫前首相が消費者庁設置と並ぶ肝いりのテーマとして取り組んできた。主に福田前政権下で議論を進めた有識者会議 の報告を受け、政府は公文書の範囲や管理基準など統一ルールを定める法案を今国会に提出した。

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 福田元首相の数少ない功績の一つになるかもしれません。とはいえ問題も残されているんですけど。

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 政府案は文書管理で各省の裁量の余地をかなり残した不十分な内容だった。各省が作成、保存すべき公文書の定義があいまいで、いわゆる「決裁文書」 に限定されるおそれがあった。しかも、公文書を廃棄するか、国立公文書館に移管するかの判断は行政機関の長に委ねられた。このため、保管どころか各省によ る廃棄を後押しするおそれすらあった。

 修正協議の結果、作成、保存すべき公文書には行政の意思決定過程を示す文書なども含むことにした。施行5年後に法を見直し、焦点の文書廃棄につい ては、首相の同意を義務づけることにした。首相の同意がどこまで機能するかの問題は残るとはいえ、各省の裁量による文書管理に歯止めをかける意味で、当然 の措置と言えるだろう。

 一方で、法案で手つかずに終わりそうな課題が多いのも事実だ。国立公文書館について有識者会議は「特別な法人」に改組し、強い権限を持つ公文書管 理の司令塔とするよう求めている。現在の定員42人は米国の2500人、英国580人に比べ突出して少ない。民主党は公文書管理施策を統括する管理庁の設 置を主張している。文書管理の実務を統率する専門家の育成も含め、態勢強化を急がねばならない。財政難から難色を示す向きもあるが、必要なコストと割り切 るべきだろう。(毎日新聞 2009年6月8日 東京朝刊)

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ここが実質的には最大の問題なのではないかなと思います。国立公文書館に限らず文書管理を専門とする「アーキビスト」が圧倒的に不足している、という以前にその必要性がイマイチ理解されてない、というか「アーキビスト」って何 ?というのが一般的な認識と思われます。

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The Politics of Europe. On the Weblog. さまより。

日本の公文書制度は、過去の報道の多くを読む限り極めて貧困で、とても及第点はつけられ ないような気もする。情報公開制度で、各省庁の公文書廃棄が進んでしまった、というのは有名な話だ。移管文書の量は施行以前の四分の一程度にまで減ってし まったという。外交文書は「外務省が独自に行ってきた制度」で多かれ少なかれ検証できるのだとしても、例えば旧大蔵省が関わったルーブル合意や旧通産省が 関わった日米構造協議にまつわる一次資料がどれほど遺されているかも心もとない。結局、今回の法案も民主党が主張したほどには厳格なものにはならなかっ た。
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公開すべき情報そのものを廃棄してしまえ、というすさまじい発想……
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国にどの程度の歴史資料がきちんと保存されているかは、端的にいってその国のソフトパワーの度合いを決めることになるのではないか。 米国では、日本の約60倍、ヨーロッパ各国でも約10倍の公文書館職員がいる。ギリシア神殿のごとく聳え立つワシントンの公文書館と、近代美術館の横にあ る日本の国立公文書館の、ワンフロアに押し込められた閲覧室の落差と意識の違いは歴然としている。その米公文書館が掲げる標語は「デモクラシーはここから 始まる」である。
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 こういうところこそ、アメリカを見習ってほしいところです。以下は、何故文書館からデモクラシーが始まるのかを語るドイツの逸話。
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旧 東ドイツには、1700万人の市民を監視するために、9万人もの職員を抱えた国家保安省なるものがあった。89年、ドイツ統一が現実味を帯びた時、東独市 民は、悪名高いシュタージ=秘密警察が記録した文書の破棄を恐れて保安省に駆けつけ、占拠した。自分たちに掛けられた嫌疑を晴らし、自分たちを監視してい た隣人が誰かを知るためである。
保管されていた「シュタージ文書」は600万点にも上ったという。初めて自由選挙で選出された東独議会 は、西独の反対を押し切って、市民が自分についての情報を知る権利を保証することを決定し、結果、数百万の市民が閲覧のために文書館を訪れることになっ た。その後の東独憲法には「情報に関する自己決定」を定める基本権が導入された。
公文書館という制度がフランス革命によって生まれたとい う事実から解るように、歴史なきデモクラシーはその名に値しない。


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簡単な感想程度。とりあえずメモとして。

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)/加藤 陽子
¥819
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▲昨日読み終えました。この本は私の知り合いの中でも評価が分かれるんですが、「分かりにくい」という声をちらほら聞きます。私はというと割と(というかかなり)面白く読めました。
 本書は岩波新書の「シリーズ日本近現代史」の五巻として出ているのですが、同シリーズの他の巻と比べるとやや異色な感じがします。
 どういった点が異色なのかというと、他の巻は社会・文化・政治・経済とかなり広い分野を扱って通史的な叙述をしている感じですが、本書は基本的には加藤氏の専門の外交・政治・軍事の範囲で叙述されています。もちろん、他の巻も各著者の関心が強く反映されてはいるんですが。
 このことは加藤氏自身も自覚しているようで、あとがきで同シリーズのポイントである「家族、軍隊、植民地」のうちで軍隊しかまともに書けなかった、と反省の弁を述べています(ちなみに八巻「高度成長」のあとがきでで著者の武田晴人が「経済史っぽい案を出したらボツにされた(大意)」みたいなことを言っているが、加藤氏の方は大丈夫だったようだ)。その点からいえば、確かに通史シリーズの一冊としては問題があるのかも知れません。
 しかし、本書をシリーズから離して一冊の本としてみれば、満州事変から日中戦争へ至る1930年代の東アジアをめぐる国際政治の動向を、各国の動きや日本の政治家・軍部・政党などの動きを踏まえて立体的に描き出すのに成功しているのではないかと感じました。
 「分かりにくい」という意見については、おそらく本書がこの時期の東アジアをめぐる国際政治を描き出すために、国際法に関する議論をかなり詳しく取り上げているので、加藤氏の著作を始めて読む人には筋が見えづらいのかもしれないなあ、とは感じました。その意味では『戦争の日本近現代史』 を読んでいたので私には論の進め方が多少なりとも先読みできたのでよかったのかも知れません。
 まとまった書評はまた今度書きたいと思います。

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)/吉田 裕
¥819
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▲同シリーズの中でも本巻はわりと評判がいいようです。私は読み始めたばかりなのでまだ何とも言えません。こちらも読み次第感想を書きたいと思います。

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写真帖更新など

テーマ:
 「写真帖」を更新しました。
前回に続いて、屋久島の縄文杉を見に行くルートの写真です。
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 ドラゴンズ、昨日は完敗でしたね(>_<)
 山本昌は一年おきにしか活躍できないのでしょうか……
 相手がダルビッシュだったので、まあどっちにしろ勝ち目薄だったと考えるしかないですね。
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 草ソフトは今日はわがチームのメンバーが集まらず練習試合になってしまいました。
 私は3打数2安打でしたが、2アウト2・3塁の場面でセカンドフライを打ち上げてしまい残念。
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 きのう「復刊ドットコム」 というサイトを発見しました。
 絶版になっている本の復刊を要望できるサイトで、どの程度の効果があるのか分からないけど、早速登録しました。
 私はとりあえず、以下の二冊の復刊を要望しました。投票だけでなくコメントで自分の思いを伝えられるところが良いですね。

『博物館体験―学芸員のための視点』
▲本ブログで書評した本。詳細は前記事前々記事 を参照ください。

『20世紀の日本 4 植民地』マーク・ピーティー著、浅野豊美訳(読売新聞社、1996年)
加藤陽子『戦争の日本近現代史』 で何度か言及されてた本です。内容は読んでないのでわかりませんが、気になったので復刊を要望しておきました。

戦争の日本近現代史―東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで (講談社現代新書)/加藤 陽子
¥798
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 前回書評を書いた『博物館体験』 ですが、本書の本領は既に述べたように豊富な研究蓄積にもとづく具体的な指摘であると思います。前回の書評ではその辺りを飛ばして描いたので、今回は個人的なメモを兼ねて気になった個所を適当に引用しておきます。

 児童中心的なオリエンテーションのグループは、他のどのグループよりも有意に高い学習を示した。バスはどこに止まり、売店では何を売っているかを教えられた児童たちは、ただ知識(事実と概念)だけを教えられた児童たちよりも動物園の動物に関する知識を試すテストにおいて良い成績をあげたのである。同じ児童たちは観察技能を強調したオリエンテーションを与えられた児童たちよりも、有意に優れた観察技能を示したのである。
 この常識に反するような結果に対して研究者たちが与える説明は、見学旅行に行く児童にとって、それぞれ何を見て何をしたいかという個人的なアジェンダが最も重要である、ということである。(中略)児童中心のオリエンテーションを与えられなかった子供たちは、恐らく、表面的には見学をしていても、心の中ではずっと「パンダを見られるだろうかとか「売店には何があるのだろうか」、「自分が持ってきたお金で何かを買う時間があるだろうか」等と、考え続けていたのだろう。p43~44

 児童の集団での見学旅行について述べた部分で、この指摘は意外だったけれど、言われてみれば確かにそうだろうなあ、と思い当たるところがあります。こういうことって意外と気づかないところかも知れません。 
 続いてハンズオン展示(手で触れることのできる展示)がうまくいかない場合に関する考察。

 来館者が展示に手を触れるのを妨げる要因はたくさんある。第一に、その展示はガラスがはめられていないという以外は他の展示とよく似ているので、彼らには意図的にガラスがはめられていないのかどうか分からなかった。実際多くの観覧者が本当にガラスがないのか確かめるような行動を示していたのが観察されている。ガラスがないということが分かると、彼らは少し後ずさりして、手を触れてはいけない他の展示と同じようにそれを扱った。この展示のところにやって来た多くの子供は、無邪気に岩を触った。すると親は急いで子供に注意をし、博物館は「見る所であって触るところではない」と言ったのである。(中略)
 来館者の行動を良い方に変えるひとつの仕掛けとしてモデリングが利用できるかどうかを見るため、さらなる研究が行われた。研究は、二人の研究者が組になって行われた。一人は観察者となり、もう一人は役割モデルとなるのである。観覧者が多くなった時に、役割モデルとなる人が展示に近づき、その前で立ち止まる。そして、当然のごとくに展示物を触り始める。役割モデルがその場から去った後は、親は子供に注意をすることをやめ、大人も岩に触るようになることを、観察者は記録している。p66

 これもよくありそうなシチュエーションだなあ、と思う。展示物に手を触れていいのかどうかわからなかったり、分かっていても他に触っている人がいないと不安になってためらってしまう心情はよくわかります。ここでは、その打開策として「モデリング」の有効性が示されているわけです。「モデリング」に関しては本書でたびたび触れられていて、簡単に言えば、何かするときにやり方が分からないと周りの人のまねをして安心しようとする行動パターンのことを指してます。したがってモデリング的な行動パターンは博物館にあまり来たことがないひとに特によく見られるようです。

手洗い所 博物館スタッフが最もひんぱんに受ける質問が「お手洗いはどこですか?」というものである。スタッフにとっては面白くないかもしれないが、来館者にとっては決してくだらない質問ではない。手洗い所が一ヵ所だけで、それも出入口の近くに位置している博物館は来館者に早く帰れと言っているようなものである。手洗い所の利用は、博物館では最も予測しやすい行動のひとつなのである。(中略)
 ほとんどすべての来館者が手洗い所を使うのであるから、博物館はそれを自らの思想や主題を展示する機会として利用することができる。例えば、国立アメリカ史博物館の洗面所はトイレの歴史に関する情報を提供している。その展示はたいへん興味深いものなので、著者の一人はついうっかりと異性用のトイレに入ってしまったほどである。p106

 これぞ逆転の発想(?)。しかしながらトイレが重要だというのは事実ですよね。博物館のトイレが汚かったらそのことばかりが印象に残ってしまう、という指摘もされてます。
 トイレに限らず、駐車場や売店、レストランなど物理的空間全体が来館者にとっての博物館体験に影響を与える、というのが著者の主張です。当たり前といえば当たり前ですが、この点に気付いていない、あるいは配慮していない専門家が多い、という危惧が著者にはあるようです。
 他にもいろいろ面白い指摘があって挙げればきりがないのですが、それはまた実際に読んで確認していただきたいです……と言いたいのですが、すでに前回書いたように本書は絶賛絶版中(!)なので図書館で借りるしかないのです。ぜひ復刊してほしいとろです。

水洗トイレの産業史 -20世紀日本の見えざるイノベーション-/前田裕子
¥4,830
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▲あまり関係ないですが、トイレつながりで。水洗トイレが産業としていかに発展してきたか、それが暮らしをどう変えたか、といったことを論じています。

『博物館体験』ジョン・H・フォーク、リン・D・ディアーキング共著、高橋順一訳(雄山閣、1997年)

 だれでも一度は博物館・美術館と名のつく場所に行ったことがあると思う。しかしそれがどのような体験だったのかをトータルに捉えるのは、あらゆる体験がそうであるように、極めて難しいことだろう。なにかを学んだのだろうか?修学旅行で仕方なく行ったのだろうか?はたまた恋人とのデートのネタにしたのだろうか?これは実は博物館の専門家である学芸員にとっても、よく分かっていないことなのかもしれない。
 本書は、よくある博物館論の大学教科書のように無味乾燥な本でも、「博物館はどうあるべきか」について大上段から論じた本でもない。本書は「現実にある博物館は、利用者にとってどのように体験されているのか」という問いから出発する。すなわち、利用者にとっての博物館体験のトータルな把握を、まず第一の目的とするのである。

 この本は、人々がいかに博物館を利用するかを検証し、来館者の立場から博物館を理解しようと試みる本である。毎年何百万人という人々が、ある者は単独でまたある者は集団で、博物館体験をしているが、これはその体験に関する本である。それは、ある人に「博物館に行こう」という考えが浮かんだその瞬間から、何日も何ヶ月もまた何年も経った後に思い出す時までの、トータルな体験に関する本である。

 とはいえ博物館体験のトータルな把握のためには、一定の方法が必要である。その方法として、本書は「ふれあい体験モデル(Interactive Experience Model)」というフレームを提示する。

 博物館とその来館者の多様性を考えれば、人々はなぜ博物館に行くのか、そこで何をするのか、そして何を記憶するかを理解しようと試みることは大きな挑戦である。我々は、それに来館者の視点から接近しようと試みた。そして博物館を体験するということは、次の三つのコンテキストにおけるふれあい(相互作用)を含むと考えた。
 1)個人的コンテキスト
 2)社会的コンテキスト
 3)物理的コンテキスト

 個人的コンテキストとは、その人が博物館によく行くのか、知識は豊富なのか、何を求めているのか、といったことを指す。社会的コンテキストとは、一緒に来館した者同士のやり取りや博物館スタッフとの接触といったことをさす。また、物理的コンテキストとは博物館の建築や立地、館内の環境の問題を指す。
 本書はこうした視点から、博物館体験をトータルに把握しようと試みるのだが、面白いのはそれがアメリカにおける豊富な研究事例に基づいており、それゆえに極めて具体的かつ体系的である点である。この点は、私のことばで説明するよりも日本の博物館論の教科書における、本書に対する率直な驚きと讃辞を引用した方がわかりやすいだろう。

 フォークとディアーキングの目的は、インタラクティブな経験という枠組みの提示にあるのだが、驚くべきは彼らがそのためのベースとして用いた既存の調査研究の膨大さにある。なぜ博物館に行くのか、誰が行くのか(行かないのか)、何を期待して行くのか、誰と行くのか、館内ではどこをどう歩くのか、展示はどのように見るか、ラベルは読むのか、などについて理論化を試みるに足る十分な量の調査がすでにいくつも実施され報告されているのである。『博物館展示・教育論』小原巖・編(樹村房、2000年)p129

 このような指摘が博物館論の教科書でなされているということは、日本ではこうしたまとまった調査がほとんど為されていないことをも示唆していて興味深い。ある意味これはゆゆしき問題であるが、こうした調査を行えるだけの財源と人材と余裕を備える博物館が極めて少ない、というのが実態かもしれない。
 本書の日本語副題は「学芸員のための視点」となっているのだが、原書タイトルには副題は付いていないようである。そもそも「学芸員」ということば自体、日本独特のものではないだろうか?実際本書中でも「学芸員」ということばが使用された個所はなかったように思う。
 英語には「キュレーター」という概念があって、これは本書では「キュレーター(研究専門家)」としている。また、それとは別に「レジストラー(収集専門家)」という概念もあるようだ。さらには「展示デザイナー」ということばも出てくる。日本ではこれらを「学芸員」がすべて担うか、または外部の業者に委託することが多いのではないだろうか。この辺りにも、日本とアメリカの事情の違いが反映しているようである。とすれば、日本で「学芸員」という概念が成立してきた事情から明らかにする必要がありそうだが、そのような研究はあるのだろうか?これは今後の課題である。
 いずれにしても、本書が博物館論の名著であることは間違いないし、専門家やそれを目指す学生には必読であるだろう。
 同時に、博物館利用者にとっても本書は有用であると思う。それは本書が博物館を評価する際の一つの指標としても使えるからである。博物館を訪れた時、個人的・社会的・物理的コンテキストへの配慮を感じ取れるかどうか、という観点から見れば、専門家以上に私たち素人の方がその評価下すのに適任であるだろうから。とくに、博物館にあまり行かない人ほど適任であろう。実際、本書も次のように指摘している。

 フッドは、博物館の専門家の価値観はひんぱんに博物館に行く人々のものに近いと指摘している。そのため博物館は、一般に、あまり博物館に来ない人にとっては魅力のないものを重視する傾向にあるという。例えば、博物館を学校の延長として「売る」こと(すなわち学習を強調すること)は、よく来る人を引きつけるかもしれないが、あまり来ない人たちを怖がらせ遠ざける結果になってしまうだろう。

 私個人にとっても、博物館を訪れる際に展示を楽しむ以外に博物館自体を評価するという楽しみができそうで、非常に有益な読書となった。

 最後に、本書が絶版となっているのは非常に残念です。本書の性質上あまり需要がなかったのでしょうが、雄山閣さんにはぜひ再版をお願いしたいところです。