爆笑学問。 

後藤昭(刑事訴訟法)

NHK 7/7 11:00-



裁判員制度で一般の人の目が入ることで

専門家同士の馴れ合いが減る。


専門家は

こういう案件はこういうパターン

というようにカテゴライズしてしまいがち。


調書というのは捜査官がつくる。

(まとめられたストーリーに)

それは捜査官のイメージストーリー

それが検察側のストーリーとなり

そのイメージに引っ張られがち。


日本では無罪推定はほとんどなく

起訴されたら99.9%が有罪。


取調べの様子なども可視化されてきていない。

言った、言わないの水掛け論は

裁判員の前では通じず

裁判員(一般の人)から、可視化への要望が出て

そうした道が開けるかも。


過去の統計などからいくと

たとえばアメリカでも

専門家の裁判官などより

陪審員のほうが無罪を出しやすい。


日本の模擬裁判でも同じような傾向が。


法律は私たちのためのルールであるということを

日本人は感覚としてもってこなかったのでは。

そうしたルール(法律)と自分達仲間内のの解決は

別物とし、2重構造になっている。

自分達の生活と法律が乖離している。


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裁判員制度

いやだいやだと思っていたけれど

実は必要なことなのかも。

無罪推定の数字は確かに恐ろしいものです。

スムーズにいくことを良しとするなかで

ずいぶん一面的な見方で

進めている部分があるのでは。

いろんな人の目が入ることで

多面的な見方ができるのかもしれません。


私たちの生活と法律が離れているというところも

実感です。

アメリカなどでは、すぐ訴訟、法律で解決します。

まあ、それがよいかどうかわかりませんが

日本は調和を大切にする気持ちが

トラブルを良しとせず(トラブルは恥という認識)

内うちで処理するということが多いからなのでしょう。

法律は私たちの生活、人生のために在るわけです。

そのために、必要あらば、かえていくべきでもあります。

乖離しているので法律が変わらないまま

おざなりにされてるわけですね(血が通ってない)。


裁判員制度がもたらす新しい風は

どういう波及があるのか。

今後数年で裁判にとどまらず

広く意識がかわるのかもしれません。