よもよも

気になった文・言葉/覚書


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爆問 7/28


はあ、

わかったような、わからないような

やっぱりわからん。


経済学においては興味ないけど

社会学や心理学への応用は

ちょっとおもしろそう。


いつか、サルでもわかるゲーム理論でも出れば

読んでみたいもの。



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ダークな現実問題を

薄~いファンタジックな衣で

コーティングしてるような。


あー石田衣ラも

ちょっとそんな感じかなあ。

もっと繊細か。





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伊坂作品はどうも私には少しだけセンチメンタルすぎるようだ。

テーマも興味深く、淡々とした雰囲気もすきなのだけれど

どこか、きれいすぎるというか、何だろう。ちょっとだけ。


期待しすぎたのかも。


加瀬亮、いいなあ。


「おまえがやったことは

おまえが何百回も

考え、(悩んで)きたこと。

それを警察や裁判官に

裁かれることはない。」

というお兄ちゃんの言葉は印象的。


重力。

世の中の規範、法律

世間の目

遺伝子、宿命・・


この家族が背負ってるものは

かなり重い。

だからこそ

絆を強くする必要があり

強くもなるのだろうなあ。









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「精神」に対するいろんな人のコメントを

HP上で発見。


おもしろいなあと思った人のコメントを

いくつか抜粋。



赤裸々」という言葉が色あせるほど、むき出しの人間が描かれている。

想田和弘は、ドキュメンタリーの臨界に近づいている。


平田オリザ



「観察」だけの「精神」が私たちにめまいを惹き起こすのは

監督がそのめまいを生き抜いたからに他ならない。

相手の"カーテン”を揺らすことは、自分の"カーテン”を揺らすことだ。

はいカット!


湯浅誠



この人たちから目をそらすことができないのは、
かれらがあまりにも剥き出しににんげんだからだ。


上野千鶴子



進化するメディアを媒介にして二分化が進む。

そのひとつが精神の正常と異常。

その二分がいかに空しいものであるかを、この作品は教えてくれる。

狭間がいかに豊かであるか、

そしてその狭間こそが僕らが生きている領域であることを、

しっかりと呈示してくれる。


森達也







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「精神」

監督:想田和弘


想田監督の選挙に続く2作目。

精神障害者を追ったドキュメント。

映画の途中で監督自身の声が入るところが

「僕は精神病患者との間にカーテンのようなものを感じるんです」

というようなことを言います。

それを受けて患者が

「患者自身がカーテンをひいてるときもあるね」


精神障害者というだけで

分けわからない、意思疎通のできない人

あるいは、なるべく近寄りたくない

といった感情が湧いてくる人もいるでしょう。

一方で、患者自身も、自信を喪失し

健常者とは違うと感じ、

関わることをためらったり、恐れています。


それは、やはりカーテンがあるからなのでしょうね。

カーテンのこっちとあっち。

そういう線をひいてしまっていること

感じてしまわざるを得ないというのは

社会が、私たちの意識が

そういう人たちを追いやっているのだと思います。


もっと言えば

健常者、障害者という概念の線引きというのも

どこからきてるのでしょうか。

映画の中で患者の一人が、完璧に健常なんて人は

どこにもいない、といっています。

そう考えれば、そこに単純な一本線はないわけですから。


交わらなければ付き合い方がわからない。

もっと当たり前に交流できる雰囲気が

周りに必要なのだと思います。


交流することで、理解する。

理解できれば、雇用も生まれる。

雇用されれば自立もしやすい。

そうなれば、自立支援法も生かされるでしょう。


この映画は一方的にヒューマニズムを押し付けるものではありませんが

患者、ドクター、職員、薬の営業、行政、ホームヘルパー

さまざまな視点を描くことで、ふわりと浮かびあがってくる何かを

受け取るというような映画だと思います。

受け取り方はそれぞれかもしれませんが

監督のメッセージには強いものを感じます。


途中、遊んでいるこどもたち、駅でたむろする若者たち、

交差点の人ごみ、道を行く猫、川辺の鳥たち。

日常の風景をところどころ挿入しているのも印象的です。


患者たちの営みとそうした、一般の日々の何気ない風景が

すぐ近くにあるのに、お互いが混ざり合っていないという

イメージなんでしょうか。


映画の最後に出演後なくなった方が3人紹介されていました。

短期間に3人ということが、どういうことなのか。

この映画のテーマにも通じることなのだと思います。


それにしても、こうしたテーマを映画として

正面から扱う勇気と意気込みがすばらしい。

映画「ミルク」もそうですが、こうした作品が

社会の枠組みを変えていく

一石になることを期待したいと思います。

















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日経ビジネスオンライン

09.7.6.


しばらくすると、マイケルの死は、ひとつの時代の死として扱われはじめる。
もちろん、スーパースターが死んだからといって、時代が死ぬわけではない。


が、比喩の上では、マイケルが体現していた時代は、

突然、光を失うことになったわけで、

ということは、われわれが抱いていた

マイケルにかかわりのある経 験や記憶もまた、

マイケルの死とともに、永遠に失われたことになる。


逆に考えてみると、マイケルの死とともに生じた、

人々の「追憶」の総量は、とてつもな い量になる。


スターの死は、肉親の死と同じ意味を持っている。

実際、行き来の少ない親戚や、それほど親しくなかった同級生の死より、

崇拝しているスターや、若い頃に熱狂した芸能人の死は、

私たちにとって、ずっと辛く、重い。


というのも、スターの死は、親しかった人間の死と同じく、

自分の死でもあるからだ。

誰かが死ぬということは、その人間とともに過ごした自分の時間が意味を失うことで、

それは自分自身の一部分が死ぬことにほかならない。

その意味で、マイケルのようなスーパースターの死がもたらす喪失感の大きさは、

何十万人分の死に相当するのである。


そんなわけで、マイケルの死についてコメントを求められた人々のうちの幾人かは、

マイケルへの思いを語るうちに、いつしか自分語りを始めていた。


私がマイケルをはじめて見たのは……
スリラーが大流行していた頃、僕は小学生で……
と、彼らは、告白を始める。


対象への言葉が、いつしか、自分自身の話に変貌してしまっている。

スーパースターというのはそういう存在だ。

スーパースターの人生は、多くの人々にとって、自分自身の投影でもある。
あるいは、マイケルのような並はずれてポップな存在は、

人々の記憶を糾合するプリズムのような役割を果たしているのかもしれない。

「スリラー」が流行っていた頃、自分は何歳で、

どういう仕事をしていて、何を悩んでいたのか。
「ブラック・オア・ホワイト」が流れていた頃、

私は何をしていて、どんな人々と行き来していたのか。
 ……ビッグヒットは、追憶のトリガーになる。


マイケル以前の時代にも、スーパースターはいた。

が、ビートルズも、エルビス・プレスリーも、

商業的な意味では、マイケルには及ばなかった。
マイケルは、資本の暴力とも言える力で、

ヒット曲をドライブさせた最初のスーパースターだった。

彼の楽曲は、音声としてだけではなく、

映像として全世界に流れた。

それも、フィリピンやアフリカや中南米やアイスランドを含めた

文字通りの全世界に向けて、だ。

その浸透度の強力さは、やはりビートルズやエルビスの比ではない。

ビートルズは、西側先進資本主義国の音楽市場を席巻したが、

当時、それ以外の世界には、

そもそもレコード音楽市場そのものが存在していなかった。


また、彼らは確かにファンの人生を変えたし、

ポピュラーミュージックに新しい方向性を提示したが、

マイケルの場合は、ファンでない人間の感受性にさえ刻印を残している。

そこが、マイケルの特別さで、つまり、マイケル・ジャクソンは、

資本主義娯楽の権化だったのである。


彼は、マスメディアの影響力が世界の隅々まで届くようになり、

映像文化が爛熟した時代に現れた、はじめてのスーパースターだった。


しかも、おそらく、最後のスーパースターになる。

というのも、マイケル以降のスターは、

彼のような巨大な存在にはならなかったからだ。

90年代以降、メディアが成熟するとともに、

聴衆の側もある意味で成熟して、分派してしまった。

つまり、ポップミュージックの世界は、より細分化され、

セグメント化し、メガヒットが生まれにくい状況になっているわけだ。

かくして、21世紀のミュージックシーンは、ひたすらにタコツボ化している。


音楽は、ダンスフロアやライブ会場に集う若者たちに向けてではなく、
耳にイヤフォンを突っ込んだ無口な聴衆に向けて配信されている。
善し悪しはと もかく。
で、われわれは、ターゲットマーケティングを経て
丁寧に作られた中ヒットを、粛々と消費している。
そういう意味で、音楽は、もはや世界共通の言語 ではなくなっている。
一回りして、元の木阿弥の共同体言語に戻った感じ。ヒップホップ方言。
福音主義ポップス方言。色々な新しい言葉が生まれ、
それらは相 互に対話不能になっている。


マイケルが幸福だったかどうかという質問は、愚問だ。

マイケルのようなスーパースターは、幸福とか不幸といった、

俗世間の指標の届かない、はるか彼方に住んでいる。

別の見方もある。
幸福は、多数派の特権だ。多くの人々はそう考えている。

青い鳥の寓話が示唆している通り、幸福というのは、

求めた先に待っているものではない。

出かけていって獲得するものでもない。

幸福は、あらかじめそこに あるものだ。

その意味で、住む場所を離れないこと、遠くに出かけないこと、

すなわち凡庸であることが、

生まれ持った幸福の範囲にとどまるための条件にな る。


その考え方からすると、非凡であることと幸福であることは両立しない。

まして、スーパースターは、非凡の中の非凡だ。

とすれば、少数者のうちのそ のまた異端にある彼らが、

幸福であり得ようはずはないのである。

高い場所に住むことは、落下エネルギーを蓄積していることと同義だからだ。


遠い日本の空の下から見ていると、

アメリカのスーパースターは、うちの国のスーパースターと比べて、

どうにも素っ頓狂であるように見える。


日本のスーパースターは、もっとめでたい。恵比寿様や大黒様みたいな存在だ。


ところが、スーパースターということになると、ちょっと話が違う。
どことなく生け贄じみてくる。
特にアメリカのスーパースターはそうだ。
畳の上では死ねない。


要するに、あのどうしようもなく巨大な国でスーパースターになるためには、
才能が秀でているだけでは足りないのだ。
才能のみならず、人格として、根こそぎに一般人とかけ離れた存在にならないと、
あの国で特別扱いを受けることはできない。そういうことだ。  
だから、アメリカのスーパースターは、最終的に孤独死することになっている。



優秀で、有能で、強く、明るい人間はスターになることができる。
が、度はずれて優秀な場合、その優秀さは、強さには結びつかない。

むしろ、バランスの欠如を生じる。

普通の足回りのクルマに、2000馬力のエンジンが乗ったら、

そのクルマは、無事では済まない。カーブは曲がりきれないし、

うまく止まることもできない。直進安定性さえ怪しくなる。

速いのは速いとして、でも、早晩事故を起こしてぶっ壊れる。遅かれ早かれ。

 スーパースターは、そういうクルマに似ている。
 当たり前な人格に巨大な才能が乗っかった場合。人格の方が潰れる。そうやってスーパースターという異形の存在ができあがる。

 マイケル・ジャクソンは、もちろん、とてつもなく優秀なエンターテイナーだったが、それ以上に、とても脆い人間だった。

 そして、その「脆さ」が人々の心の琴線に触れたのだ。



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爆笑学問。 

後藤昭(刑事訴訟法)

NHK 7/7 11:00-



裁判員制度で一般の人の目が入ることで

専門家同士の馴れ合いが減る。


専門家は

こういう案件はこういうパターン

というようにカテゴライズしてしまいがち。


調書というのは捜査官がつくる。

(まとめられたストーリーに)

それは捜査官のイメージストーリー

それが検察側のストーリーとなり

そのイメージに引っ張られがち。


日本では無罪推定はほとんどなく

起訴されたら99.9%が有罪。


取調べの様子なども可視化されてきていない。

言った、言わないの水掛け論は

裁判員の前では通じず

裁判員(一般の人)から、可視化への要望が出て

そうした道が開けるかも。


過去の統計などからいくと

たとえばアメリカでも

専門家の裁判官などより

陪審員のほうが無罪を出しやすい。


日本の模擬裁判でも同じような傾向が。


法律は私たちのためのルールであるということを

日本人は感覚としてもってこなかったのでは。

そうしたルール(法律)と自分達仲間内のの解決は

別物とし、2重構造になっている。

自分達の生活と法律が乖離している。


===============


裁判員制度

いやだいやだと思っていたけれど

実は必要なことなのかも。

無罪推定の数字は確かに恐ろしいものです。

スムーズにいくことを良しとするなかで

ずいぶん一面的な見方で

進めている部分があるのでは。

いろんな人の目が入ることで

多面的な見方ができるのかもしれません。


私たちの生活と法律が離れているというところも

実感です。

アメリカなどでは、すぐ訴訟、法律で解決します。

まあ、それがよいかどうかわかりませんが

日本は調和を大切にする気持ちが

トラブルを良しとせず(トラブルは恥という認識)

内うちで処理するということが多いからなのでしょう。

法律は私たちの生活、人生のために在るわけです。

そのために、必要あらば、かえていくべきでもあります。

乖離しているので法律が変わらないまま

おざなりにされてるわけですね(血が通ってない)。


裁判員制度がもたらす新しい風は

どういう波及があるのか。

今後数年で裁判にとどまらず

広く意識がかわるのかもしれません。












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ゲイの公民権を訴え、当時の社会(1970年代のアメリカ)と闘った

ハーヴィーミルクを描いています。


世の中は、その時代時代のマジョリティーが形成していて、

マイノリティーの存在は隅に追いやられたり

異物として迫害されたりもします。


認められたい、認めさせたいというエネルギーは

求心力を得たときに、大きなムーブメントへと

変化していくのですね。

(キング牧師しかり)


ミルクも、発言すること、行動すること

希望につなげること、(ゲイの)存在感を示すことで

人々を巻き込み、風をおこしていきます。


志半ばで銃弾に倒れたミルクですが

彼の貫いた意思は

一人ひとりに、社会に様々に反映し、

引き継がれていきます。


最後の3万ものキャンドルマーチは

泣けます・・・。

彼の人生をかけた闘いが

世の中に新たな共感をうみだした、

報われた思いのするシーンでした。


Loud Minorty


マイノリティの希求する強い気持ちと行動こそが、

次の新しい時代をつくっていけるのでは。


この人物、ムーブメントを映画化したこと自体が

価値あり。だと思います。








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