よもよも

気になった文・言葉/覚書


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芸術脳

著者:茂木健一郎


対談式の本。

面々がおもしろそうだったので読んでみた。



w/佐藤雅彦


いまの子どもたちって、おもちゃ離れが激しい。とくに女の子。

おもちゃより携帯電話やメール、ファッション

人からどう見られてるか、誰それの知り合いだとか

人と人との関係性だけで

自分の存在を確かめはじめている気がする。

ブランド持ってるとかのモノとの関係性が付加されて。

20歳代後半くらいになって

「あれ?自分って本当はなにが好きで、なにをやればいいんだろう?」

自分が空っぽなことに気づく。

自分の内側からおこる”これが好き!””これが楽しい!”

っていう充実した状態である「ステュディオス」状態を

経験せずに生きてきている。

それを埋めようと、新興宗教や自己啓発セミナーで

急場しのぎで埋めようともする。


養老さんのいい言葉に、気づくというのは自分が変わること。

気づくたびに自分が一段階段を登れた気になります。



w/内藤礼


私は作品をつくるときに、

見ている時間、認知されるまでの時間、っていうのを

すごく大切なことだと思って作っています。

私自身が小さなことをずっといつまでも考え続けるたちなので

なんだろうと、自分なりに考えたり感じる時間という自由を

今多くの人が忘れてるのかなって気がしてるんです。


”地上はどんなところだったか”という言葉を思いついたとき、

最初はよいことや美しいものだけがイメージされて

その後は”なんでもあった””全部あった”

という気持ちになっていきました。

私の作品ははっきりした色彩や強い素材をつかってないけど

そのことで”いま一瞬、そこに見えたような気がする”

”気のせいかもしれないけど存在するような気がする”

っていうものが作品に宿るような気がするんです。


内藤さんの作品に表れている、なんというか幽けきものって

世の中にはどこびでも存在しているんだけど

こういう粗い時代には目に付きにくい。

われわれ現代人って大きいもの、強いものに目を奪われがちで

そうでないと生きていけないんだけど

本当は同時に小さくてかよわいものがそこに存在しているんですよ。

世界のそうしたあり方に気づけるかどうかっていうのは

人生を豊かにできるかどうかの境目なのかもしれない。



w/松任谷由実


私はきっと、歌でストーリーとか感情を伝えたいんじゃないんですね。

それよりも温度とかにおいを伝えたい。

そのことによって、たとえシチュエーションはちがっても、

リスナーの人たちのそれぞれの記憶や思い出が

鮮明によみがえってくるんじゃないかって。


「思い出せない記憶」に関する膨大な痕跡が

自分の中にあるから、なにが起こるかわからない未来にも

向き合えるんだっていう部分を読んで、

本当にそうだなあって。


たとえば親と過ごした時間なんて、

ほとんど忘れちゃってるじゃないですか。

会話もないし、一緒にいてもしょうがないじゃないかと

思ったりする。

実はたとえなにも話してなくても

ただ一緒にいる時間があったっていうことのほうが

ずっと大事なんですよね。


よく、英語で詞を書いて、海外にでれば?

といわれるけど、ちがうなと思うんです。


そう簡単にほかの言葉に置き換えて作れるものじゃないですよね。

さっきの「悲しい」でいうと

平安時代ごろには「愛しい」っていう意味も入ってる。

そういう成り立ちをしている日本語で詞をつくり

曲を書いているっていう立場からは逃げられない。


心の中で自傷行為をして(たとえば失恋)

それが癒えていく過程で作品が生まれるんですね。

でも、それってすごく強靭な心を持っていないと

耐えられないですよね。


曲もそうですよ。

作るというよりも「発明」「発見」するという感じ。

どこにでもあるようでいて、誰かが発明するまではどこにもない。

一度発明されると

最初からずっとそこにあったような気になるもの。


確かに耳に残る曲って、初めて聴いたのに

すごくなじんでる感じがする。デジャヴみたいな感覚。



w/天野祐吉


新聞など既存のメディアに書くのとブログで書くことに違いはあるか?


ぼくの場合はまったく変わりますね。

「きちんとした文章を書かなければならない」という思い込みに

とらわれている。そういういやらしい自意識を消そう消そうと

努力はしているんですけどね。

1行目にはなるべくバカなことを書く。

そうはしてきたつもりなんですけど

でもどこか古い作法に縛られている。

ところがブログだと、そういうものから解放されてる自分を感じすね。

文章を書くというより、しゃべっているのに近い。

文章に「音」が戻ってきているなって思う。


最後はリリーフランキーとの対談。

どの言葉が残る、

というわけではなかったのだけれど

リリーフランキーという人柄が素直にでていて

ほかのインタビューとは違う感触で

とても印象に残りました。



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空中庭園

著者:角田光代


郊外のショッピングセンター・チェーン店というのは

定規の中に規定されたイメージがあります。

効率化を優先させてきたものの象徴として

そこにあるような気がします。


定規の中で作られた空間では

人の気持ちもじわじわと定規の中に

おさめられていくような気もします。


しかし、人の心は

多面体、という以上に

なんともぐにゃぐにゃした、あるいはふわふわした

でこぼこだらけの測定不可能なものです。


無理に規定値(定規の空間)におさめようとするなら

大きくひずみもでるはずです。


空中庭園では

郊外のショッピングセンターができて

退屈から開放された、というセリフと

実はここに閉じ込められてしまったのかもしれない

というセリフとでてきます。


表面的に繕われた明るさを持つ家族と

郊外のショッピングセンター。

パラレルワールドなのかもしれません。









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毎日新聞 08.9.28

-興す 地域の明日-のなかで

田辺聖子のことばに対する感覚が綴られていました。



大阪弁は

肌にぬくもりを感じさせるというか

人の気持ちのひだに沿うようなニュアンスがあります。

それだけに、発音どおりに活字にしようと思うとダメで

ひらがな、カタカナを上手に使いながら文章にしないと

読んでいられないものになってしまう。

目で見ておいしい、耳で聞いて美味しい文章を書くには

よほどのセンスが必要です。


言葉に関する感度といいますか、

大阪弁を用いて心に染み入るような文章を書くには

先ほどのように、目が達者、耳が達者で

しかも目に(言葉に対する)好みがないといけません。

そのためには自分の住んでいる地域

言葉に愛着を持たなければいけないと思います。


私にように、大阪弁で、あるいはその地域の言葉でものを書こうとすれば

住んでいるところを離れるのは、糸の切れたたこになってしまいます。


私は関西にこだわりたい。

関西の空気で肌を洗い、

関西弁で耳を洗うことで、

読んでも、見ても、

読者に受け入れられる作品を

ものにすることができると思っています。

これからも関西弁はもとより

言葉の深みをのぞき続けるつもりです。




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朝日新聞 9.26.


「在日」という未来の中で

ヤン・ソンギルがこう言ってる


「在日って、北朝鮮、韓国、日本の境界線上に立ってるのよ。

だからこそ自由で、いろんなものが見えてくる」


ゲンゲツも言ってる


「日本人でも韓国人でもない、”第3の立ち位置”から、現代の屈折を見つめている。」


これって男でも女でもないという性的に間にいるひとたちも同じだろうな。


規定値に属さない不安定感はあるだろうけれど

新しい立ち位置でいろんなものを見ることができるともいえる。

(それと引換えにさまざまな苦労もあるわけだが)


こういうところから新しいモノや価値観はうまれてきたりも

するんだろうなあ。



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王監督の引退。


私の記憶には

ワンちゃんと呼ばれた選手時代より

監督の印象が強い。


生真面目さは画面を通してでも伝わってくる。

本当にみんなに信頼されてたんだろうな。


王監督引退の報を受けて

印象に残ったのは

イチローの言葉。


偉大な記録を持つ人はたくさんいるが

偉大な人はそういない。


最高の褒め言葉だ。


あと、ノムさんのボヤキも。


王さん(ワンちゃん?)がやめるのに

ぼく、やってていいのかな・・


ハハハ



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まぬけです。


それにしてもクマの木彫り。

なんで流行ったんでしょうね。

古い家によく置いてます。

うちにもあるやんか。

誰が買ったんやろ。

飾っているというより放置。

目の前にあるわりに、

目に入ってなかったのだけど

パソコンのコードが鼻にひっかかり

急に存在感を増しました。

しばらくこのままに・・


うーん、まぬけでかわいい。



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年老いた母と父、こどもたち夫婦とそのこどもたち。

実家に里帰りした1日を描いています。


昭和40年代に建てられたという設定の家が

この映画のほとんどのシーンです。


医者としてプライドを持って活躍していた父

家を切り盛りしていた母

40代になった娘、息子がこどもだった日々


快活な時代の面影を残しながら

今は住人同様、古い陰影を帯びた静かな家。

実家にみなが帰ってくることで明るさを取り戻します。


正味1日少しですが

父と息子、母と娘、父と母、母と嫁、

家族の中で交わされるほんの一言、二言に

それぞれの関係性や

積み重ねてきた思いや痛みを感じ

見ている自分自分に

重ね合わせるところも多いのではないでしょうか。


家族というのは

ほかのつきあいと比べ、

適度な距離がとりにくいものです。

反目したり、傷つけたりすることもあれば

気にかけたり、思いやったり。
面倒だなあと思うことも多いのですが

切り離せない情も持ち合わせています。


家族3代が描かれてますが

それぞれが年を重ね

父や母が老い、この世を去る。

こどもが父になり母になる。

孫だったこどもがまた父や母になる。

それを繰り返していく。

あたりまえのことだけれど

そんなことも思いました。


何かのときにふと、思い出すような

ずっと心に残っているような映画だと思います。


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窓の格子組

古いガラスの玄関

家の中から縁側にぬける様子

庭のさるすべり

レコード盤

母がつくる料理

それぞれを

ていねいに撮っている様子もよかったです。


監督が階段が好きらしく

階段のシーンもたくさん出てきます。

こどもが駆けおりる。

年老いた父がよっこらしょと1段ずつおりる。

そんな父を携帯がかかったふりをして

待つ息子。


歩道橋の階段を超えたところに

老夫婦が、ある理由から

どうしても足を踏み入れらなかった

海があります。

その海の色が浅いブルーなのが

一段と郷愁を誘い

私の好きなシーンでもありました。


あと私が印象に残ったのは

大根を煮炊きし、寿司をつくる

世話好きであたたかな印象の母親の

一瞬の残酷な表情。

樹木希林の演技はすばらしい。

(かくして、女の方がこわいのだ。)















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「直島 瀬戸内アートの楽園」

著者:秋元雄史 安藤忠雄ほか


いよいよ中毒症状か。

最近本ばかり読んでいるゾ。


直島は行ったことがあるので

どういうコトでこういうコトになったのか。

そうした話や、それぞれの作品の解説や

作者の思いが綴られており、

楽しく読めました。


まずはベネッセの福武總一郎さんの話。

アツイ思いは説得力ありました。


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東京で働いていたのだけれど、父親の急逝により

福武書店本社の岡山へ。

あまりの環境の違いに戸惑うけれど

数ヶ月たって、東京にいないことの幸せを

心の底から感じるようになったと言います。

歴史や自然が存在しなければ、

そこには「人間」というキーワードも存在しない。


日本人はあるものを壊し

ないものをつくる。

資源のない国で、

なぜつくっては壊し、という作業を繰り返すのか。

その象徴が東京です。

長い歴史があるはずなのに

この国には歴史の痕跡がない。

経済が目的化しているからです。


文化は経済に従属するのではなく、

その逆でなければならない。


-アートについて-


見ている人にすべてを委ねたい。

アートを大衆に引き戻す。

アートが主張するのではなく

アートが自然や歴史の持っているよさを引き出す。

そしてそれが人間を動かす。

感動させたり、ある種の感情を引き出す。

単なる娯楽ではありません。

もしかすると見ている人の生き方を変えてしまう

可能性だってあるかもしれない。

それが現代美術のすばらしさだと思います。


じつは私がもっともうれしく感じているのは

おじいさんおばあさんたちが元気になってくれたことです。

歴史を持った人たちのやってきたことを

きちんと評価し、顕在化させること。

現代美術は、人間を元気にするアートでもあるのです。



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安藤忠雄


アートと自然と人間が

直接ぶつかり合い

刺激しあえるような

より高い次元の「可能性の場」の創出を目指した。

建築が人々の想像力を喚起する。

そしてアートや自然との対話を喚起するための

装置としたい。



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秋元雄史


-家プロジェクトについて-


町並み保存・・それではあまり可能性がないように思います。


現代アートのおもしろさは、

何が起きるかわからないというところにあります。

これから来る未来について、

いろいろなことを考えることもできる。

現代アートを絡めることで

いったい何がどうなるのかわからないけれども

ああでもないこうでもないと言いながらみるほうが

廃屋の可能性を生かせるのではないかと思いました。


果たして町の人はどう受け止めるのか

そして町の中でどう機能していくのか・・・

進めながら考えていこうと思ったんです。


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秋元雄史


- ウォルター・デ・マリアの作品について -


人間が作り上げたものは

自然の中では存在しえないと、

デ・マリアは考えている。

彼の(カレだったのか!)作品は

息苦しいほどに幾何学的ですが

それが自然の持っている豊かさをより強調している。

ロマンチックに自然について話したりかかわったりするのではなく

徹底的に人工的であることで

自然の豊かさや有機的な広がりをあらためて

見せてくれていると言っても

いいのかもしれません。



- 内藤礼の作品について -


美術を見るという行為は

本当はすごくデリケートな体験だと思います。

現在、それは美術館を通して

社会科されていますが

本来はたくさんのプライバシーがあるところに

触れる体験です。

そんな美術体験の本質を思い起こさせてくれますね。



- アートと風景 -


瀬戸内海の島々が作り出している風景は

日本の一種の気候風土を象徴していると

いえるかもしれません。

なんてことない小さな島が連続していて

そこに静かな海があるという風景も

日本固有のものです。

そんな風景は、

ともすれば「図」にならずに「地」になってしまうことが多い。

背景として引き立て役になってしまいがちなのです。

脇役に追いやられていた風景をあらためて見せていくには

現代アートを組み合わせることは

とてもいい、とぼくは思います。



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立派過ぎる絵だったり、

ピカソだ何だと有名作家すぎると

ハハァーっ、何も言うことはありません、

と思わず拝んで終わり、だけれど

現代アートのようなワケワカラナイものは

組み合わせ次第で

土地や風景、人と

どういう化学反応を起こすのか

わからないという面白さがあるのかもしれない。

というか、そういう方向に持っていくのがいいのだろうな。

作品が単独で成立しない感じ。


何はともあれ

直島、また行きたい。













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「なんにもない

ところから

芸術がはじまる」


著者:椹木野衣


大竹伸朗ともがっつり向き合ってます。

大竹伸朗という人の作品や評価の位置づけが

よくわからなかったのですが

彼の作品のおもしろさ、

少し見えた気がします。


「僕は絵を描いたり立体をつくることと、

音楽を創作することの境界を昔から意識したことがない」

「それは、僕にとっては堂考えても同じところから

やってくるとしか思えない。」

(大竹)


つまり大竹は、美術と音楽が

あらかじめジャンルとして固有の歴史を持って未来に向けてあり、

ときに両者を橋渡しするような方法として

絵をかいたり音をだしたりするわけではない。

両者は根本的に同じ感覚的源泉の2様の表れにすぎず

そこに共通しているのは、まぎれもなくある「響き」なのである。

(椹木)


大竹伸朗がピカピカの新品を好きになれないのは

そこに、こうした「響き」や「うた」がないからだろう。

(椹木)


<大竹伸朗「全景」>

ここには、20世紀を彩ったありとあらゆる美術の表現様式が見出せる。

そうなのだ、私は大竹伸朗のこの巨大な個展に、

20世紀の美術の「全景」を見ているようなのだ。

実際これは、途方もないスケールでジャンク化した

20世紀美術総体の廃墟といってよい代物なのである。

(椹木)


以下、大竹のコメント 抜粋


「僕は当時から、駅で電車を待ちボーっとベンチに座っているときなど

時折目にする書きかけの看板、特に古い図柄をまず白ペンキで

雑に塗りつぶし、かすかに下の絵が見えているものなどにでくわすと

心底感激し、いつか僕もこういう絵画を描けるようになりたいと

本気で思っていたし、その感覚は今でもまったく変わっていない」


「僕は”廃物を使う”ことに論理性を持たせ、

その上で作品をつくっていくといったことには

全く興味が湧かない。本能的、直感的に、

一切の論理性を排除したところでつくられた結果が

たとえばどこにでもある描きかけの看板の趣きを

帯びなければいやなのだ。そうでなければ嘘なのだ」


「たとえば粗大ゴミ収集日、

微妙な距離をおいて自分の作品を置き、

収集にきた係員が迷うことなく

僕の作品をトラックに積み込むような

そんな作品をつくれるようになりたっかたし

それから20年たった今、

やはりその思いは変わっていない」


「僕が通う造船所の裏手には専用の作品パーツ置き場があり

そこにはそんな類のゴミが積んである。

長い間潮風にさらされ、流れ着いたものの中には

手を加えなくともすでに出来上がっているものが多い。

そんなゴミに出会うと思わず、”師匠!”と叫びたくなる。

人々に必要とされなくなった後も、そうして海をゆっくりと

漂流し、もうひとつの形に行き着くゴミは、

僕にとってすごく幸せに見える」


「無意識のうちに理屈で物を見たり考えたりしてしまう状態とは

感知しないうちに人の内部に入り込んだ

質(たち)の悪いウイルスの仕業に似ている。

そのウイルスは人を繰り返すことの正当化と

自己満足へと導く。

新しい価値観を作り出そうとする

あらゆる分野において、このウイルスは非常に危険だ」



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大竹は駅で見た「描きかけの看板」を

むしろ、自分が作品として意図的に描いてきた絵画が

「帰っていく場所」として見出している。

つまり、優れた絵の手本となるような

かたちなき生産性を孕んだものとしてではなく

そのような生産性が完全にしんでしまったとき

いったい絵はどのように見えるのか

枠に収められた一塊のゴミに見えるにちがいない

ということを、描きかけの看板は

ふと思い起こさせてくれたのである。

だからこそ彼は、絵が絵としてではなく

描きかけの看板のように送り手なき「もの」の

趣きを帯びることに強く憧れるのではないか。

(椹木)












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「なんにもない

ところから

芸術がはじまる」


著者:椹木野衣


ジャンルやそれが持つ固有の感覚

スケール感

さらには

歴史の記述や

技術の限定を揺さぶり

ついには入れ替えれしまうこと

そして

その度合い

それが

文化における「震度という概念」の意味するものだ。

価値ある作り手である以前に

価値の尺度そのものの変換者(トランサー)であること

それが「文化の震度」にとって

最重要な立ち居地であり姿なのである



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